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覚醒の炎: プンジャジの教え 単行本 – 2007/10/1

4.7 5つ星のうち4.7 72個の評価

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商品の説明

出版社からのコメント

ラマナ・マハルシの直弟子で、世界中の数知れない探求者たちを
真我に目覚めさせたプンジャジ。

お読みいただければわかると思いますが、マハルシに比べて現代感覚で語られていて、より真我(本当の自己)の把握に近づきやすいです。
ある面で親しみやすいです。

真我の本質や真我へ至る方法がわかりやすく書かれています。

「ひとたびこの空の一瞥を得れば、あなたはサンサーラ、つまり世界の現れがあなた自身の投影でしかないことを知って、いつも幸せに生きることだろう。」

著者について

●シュリー・H・W・L・プンジャ
1913年10月13日、現在はパキスタンとなっているパンジャブ地方の小さな村で生まれた。6歳のときに3日間、真我の直接体験に没入。1944年、31歳のとき、ラマナ・マハルシと出会い、その臨在のもとで覚醒を得る。1966年に引退するまでさまざまな仕事に就き、家族を養い、一家の長としての務めを果たした。
やがて、インド北部の町ラクナウに腰を落ち着け、毎日サットサンをおこない、世界中から訪れてくる探究者たちに"尊敬するお父さん"という意味の「パパジ」の名で呼ばれるようになる。1997年9月6日、逝去。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ ナチュラルスピリット (2007/10/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2007/10/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 379ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4903821129
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4903821122
  • カスタマーレビュー:
    4.7 5つ星のうち4.7 72個の評価

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プンジャジ
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上位レビュー、対象国: 日本

2023年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本に出合えたのは、数年前のことでした。この本を読んだ時、少し衝撃を受けました。自分の考えているここと、ほとんど同じだったからです。この人の本が多くの人に読まれ、その教えが広まれば、この上ないことだと思いました。その時に、レビューも書いたのですが、今は覚えてはいません。この本の教えが広まるだろうと安心していました。でも最近、ニューエイジ系の教えが広まってきて、本来の教えが受け入れられなくなって来ているように感じて、再度レビューを書くことにしました。
仏教系、キリスト教系、ヒンドゥー教系、ヨーガ系(グル)などの昔からの素晴らしい教えが沢山あるのに、あまり関心を向けてくれません。この本(『不滅の意識』も)のことを、多くの人に知ってもらおうと、あちこちの本や月刊誌のレビューで宣伝してきました。本の内容の抜粋・要約を『マインドフルネス×禅』の私のレビューの中に書いていますので、本の購入を考えている人は、読みに行ってください。抜粋なので少し分かりずらいかも知れませんが、内容は深い意味を持っています。

この本を読んでから数年が経ちましたが、どうすれば、覚醒や解脱や悟りに達するのか分からない状態が続いています。この間に内容が素晴らしいと思われる本も、多く読み、ワークやセッションにも参加しましたが、知識や体験は、その人(講師)が自分の力で獲得したもので、私達が教えを聞いたから、その教えを体得できる訳ではなく、また、技法を聞き真似をしたからと言って、同じような体験をすることはないと思います。自分が経験から体得したものしか、人に教えることも伝えることも出来ないと思います。

プンジャジがどのようにして、覚醒したのか知りたくて、もう一度本を読んで確認しようとしたところ、「はじめに」の中に書いてありましたので、それらを抜き書きしてみます。

もし、「神を見たがっているこの「私」とは一体誰なのか、それを見出しなさい」とシュリー・ラマナが言った直後に、彼の眼が私の眼を貫いた瞬間、私の全身は震えはじめ、神経が慄くほどのエネルギーが身体中を駆け抜けた。神経組織の先端は舞い踊り、髪の毛は逆立った。その時、私は内なる霊的ハートの存在に気付いた。そのハートの中に、私は何か閉じた蕾のようなものを見た。それは淡く青い光を放って輝いていた。マハルシが私を見つめた時、内なる沈黙の状態の中でその蕾は開き、花を咲かせた。このハート、私のハートのハートは、身体の内側にも外側にもない。マハルシの臨在のもとで、彼は眼差しによってハートが開花いた。
彼は、自分の呼吸と同調させてクリシュナ神の名を一日5万回唱えるまでに至った。そうしたある日、驚くべきことに、ラーマ、シータ、ラクシュマン、ハヌマーンの神々が彼の家に現れ、彼と共に一晩を過ごした。神々が消え去った後、彼はもはや称名の練習をすることが出来なくなっている自分自身を見出した。シュリー・ラマナはそれについて、列車が彼の目的地に運んだように、彼の修練も彼を目的地に導いたと答えた。
あなたのジャパ(神の御名を唱えること)、聖典を読むこと、そして瞑想があなたを霊的目的地に運んだのだ。もはやそれらの必要はない。修練がひとりでにあなたから離れて行ったのだ。なぜなら、それはその目的を果たしたからだ。あなたは到達したのだ。彼は私を強烈に見つめた。すると私の心と身体が浄化の波に洗い流されて行くのが感じられた。私の心身は彼の沈黙の眼差しによって清められていった。私は彼の目が私のハートの中を強烈に見つめているのを感じていた。その魔法のような眼差しの中で、私の身体の中のすべての原子が浄化されて行った。原子の一つ一つを通して古い身体が死んでいき、その代わりに新しい身体が創り出されて行くという変容の過程が続いて行った。私が真我に目覚めた瞬間、そこには突然の認識の衝動があった。外側に神を求めようとする衝動は、マラルシが私に明かした真我の直接の体験と知識によって消滅した。そして私は私の霊的探求が終焉したことを知った。
ババジがもっていたのは、彼のもとを訪れる人々に真我の直接体験を与えるという驚嘆すべき能力である。彼は、真我の純粋で無垢な状態は常にここにあり、あなたに認識させるのを持っている。そしてその為には、ただ自分自身の内側を見なければならないだけだということを指し示して来た。何か偉大な霊的体験を得る為に長い時間を瞑想や修練に費やすのではなく、今、この瞬間に、個人のアイデンティティである心や感覚が湧き起こる源を探求することで、自己覚醒は可能となることを人々に説いた。
ババジは常に、覚醒を得た人の言葉には力が存在し、その力はその言葉を聞いた人に真我の直接体験を与えることが出来ると主張し続けて来た。もしあなたが完全に静かな、受容的な心で、彼が言うべきことを正しく聞くなら、そして彼の「教え」が指し示す方向を見ることが出来るなら、その言葉を生み出した真我の力が、それ自体をあなたに顕すだろう。

「彼の眼が私の眼を貫いた瞬間、私の全身は震えはじめ、神経が慄くほどのエネルギーが身体中を駆け抜けた」「マハルシの臨在のもとで、彼は眼差しによってハートが開花いた」ということは、ハートを開かせるには、ある種のエネルギーが必要だということを意味していると思われる。また、このエネルギーを送る、与えることの出来る者もいなければ、この現象は起こり得ないということになる。もしも、エネルギーを送ることが出来る者がいなくて、自力で自分のハートを開かせるのには、どうすればいいのだろうか。多くの探求者が苦悩しているのは、どうやってハートを開かせることが出来るか、試行錯誤して長い時間をそれに費やしていることだと思います。しかも、それを頑張ってやったからといって、成功する保証はない。相手の眼を見ることによって、ハートを開かせる者に会えることは、この上ないことだと思います。ただし、受ける者もそれなりに修練を積んで来た者にしか、そのような現象は起きないように思われる。

「彼は、自分の呼吸と同調させてクリシュナ神の名を一日5万回唱えるまでに至った。そうしたある日」「神々が彼の家に現れ、彼と共に一晩を過ごした」ということは、神の名を一日に5万回唱えるまでに至ると、それを実行する求道者(人々)の家にも、神々は現れるのだろうか、それとも彼は特別だったのだろうか。もしそうであれば、もっと多くの人が、自分の家に神々が現れたと言うはずですが、そういう話は、ほとんど聞いた覚えはありません。彼のように真似をしても無駄なようですね。

「彼はもはや称名の練習をすることが出来なくなっている自分自身を見出した」「シュリー・ラマナは、‥‥彼の修練も彼を目的地に導いたと答えた」「あなたのジャパ、聖典を読むこと、そして瞑想があなたを霊的目的地に運んだのだ。もはやそれらの必要はない」「なぜなら、それはその目的を果たしたからだ。あなたは到達したのだ」ということは、目的地に到達するには、ジャパや聖典や瞑想は、必要だということを表していると思われる。つまり、これら3つは必要不可欠であり、霊的目的地に達すると、もはや必要とされないものとなるようです。

「彼は私を強烈に見つめた。すると私の心と身体が浄化の波に洗い流されて行くのが感じられた。私の心身は彼の沈黙の眼差しによって清められていった」「私の身体の中のすべての原子が浄化されて行った。原子の一つ一つを通して古い身体が死んでいき、その代わりに新しい身体が創り出されて行くという変容の過程が続いて行った」ということは、身心が清められるには、彼の沈黙の眼差しがなければ、出来ない事、起こり得ないことになり、そのような霊的な力を持った人を探さなくては、会えなければ、このようなことは起きないことになります。また、その浄化も一つ一つの原子が浄化されるもので、そのようなことが出来る人が、今のこの世界に、何人いるのだろうかと考えてしまう。それに、変容の過程が続いていったということは、並大抵のことではなく、普通のグルには出来ないことだと思います。このようなグルのいない探求者は、一体どうすれば、そのような心身か浄化され、その結果変容が起こせるのでしょうか。ここまで見て来ると、このようなグルに会えなければ、身心の浄化も変容も起こり得ないことになってしまいます。自力での浄化や変容は不可能であり、努力の無駄、時間の無駄になるのでしょうか。

「私が真我に目覚めた瞬間、そこには突然の認識の衝動があった。外側に神を求めようとする衝動は、マラルシが私に明かした真我の直接の体験と知識によって消滅した」の中の「真我に目覚めた」といのは、どういうこと、どういう状態のことを言っているのでしょうか。「突然の認識」があったから、真我の目覚めに気が付いたのでしょうが、その認識とはどういうものだったのでしょうか。まずもって、真我というものがどういうものか、その実態・実相が分かりません。多くのグルや探求者が、真我・真我の目覚め・真我実現と言っていますが、どれだけの人が理解しているのでしょうか。それらは言葉では表現できないと言われれば、それまでです。人によって、その体験・認識は異なるのでしょう。答え合わせが出来るようなものではなのでしょう。真我とは何か、いまだに私にとっては謎です。自分の知らない、全く別人の自分が出現してくるのでしょうか。そして、自分の知らないことを話し出すのでしょうか。
「真我の直接の体験」があったということは、真我を体験したと認識した自己意識があった、存在していたことを意味していると思います。体験する主体と体験される客体があったということです。いわゆる、二元論の中で、この経験は行われたことになります。いまだもって、何をもって真我体験をしたと言えるのか、不明ですが。

「真我の直接体験を与える」とありますが、普通グルは、弟子を真我実現に向けて導くことは出来ますが、最後は自分の力で、真我実現を成し遂げるのが普通ではないでしょうか。真我を直接体験できた人は、その後どのように変わったのでしょうか。グルは、指し示すだけで、ほとんどの人は自力だと思います。

「真我の純粋で無垢な状態」とありますので、真我は純粋で無垢なものなのでしょう。言葉だけなので、実際はどのようなものなのかは実感できませんが。体験した人にだけは分かるのでしょうね。

「認識させるのを持っている」「ただ自分自身の内側を見なければならないだけだということを指し示して来た」とありますが、ほとんどの求道者は、真我は自分の内にあると知っていると思います。問題なのは、どのようにして自分の内側を見て行けばいいかです。ただ座って瞑想をしているだけでは、真我を認識出来ないと思います。心の最も奥深くにあると言われても、どのようにして奥深くに入って行けるかです。瞑想が深まり、静寂が訪れ「空」のような状態になったというのは、よく聞きますが、真我を体験したというのは、ほとんど聞いたことがありません。大体、真我がどういうものか、真我体験がどういうものか、分からないのですから。

「今、この瞬間に、個人のアイデンティティである心や感覚が湧き起こる源を探求することで、自己覚醒は可能となる」とありますが、「心や感覚が湧き起こる源を探すこと」が一番大変なことなのです。これが簡単に出来れば、多くの人が今までに、自己覚醒に至っていると思います。一番難しい所は、やはり霊的能力に優れたグルの力が必要だということだと思います。プンジャジもグルの力を借りて、覚醒に至ったのだから。

「覚醒を得た人の言葉には力が存在し、その力はその言葉を聞いた人に真我の直接体験を与えることが出来る」というが、本当に何人の人が覚醒を得たのか、疑問に思います。覚醒をした人の中でも、本当に優れた人しか、人を直接体験を与えられないと思います。今までの話の流れからいうと。

「もしあなたが完全に静かな、受容的な心で、彼が言うべきことを正しく聞くなら、そして彼の「教え」が指し示す方向を見ることが出来るなら、その言葉を生み出した真我の力が、それ自体をあなたに顕すだろう」というのは、聞く側が正しく聞く準備が出来ていて、しかも伝える側も正しく導くだけの力を持っていなければ、成立しないように感じられます。言葉(教え)を生み出す真我の力がどのようなものか分かりませんが、「それ自体をあなたに顕すだろう」というのはあるかもしれません。波動(波長)が合えば、同調が起こり得ますから。心の中で。

以上が、私の個人的な感想でした。覚醒は、探求者にとっては、憧れであり、目標でもあります。覚醒には、身心の浄化が必要であり、ジャパや聖典や瞑想も重要であり、最後には変容が起こる可能性があるということだと思います。ただ、ここではグルの霊的な力(エネルギー)が、覚醒には不可欠であったことです。優れたグルに会えるかどうかが、大きな分岐点になるのではないでしょうか。(追記 1月11日)

現在、相手の目を見ることによって、真我体験を与えられる人はいるのでしょうか。そうであるならば、素晴らしいことだと思います。真我体験がどういうものであるか分かったら、真理探究への励みになると思います。

以下は、本文の内容についての感想です。

「無欲を通して真我に至る時、あなたは全てがあなた自身の真我であることを見出す。その境地では、「これが欲しい」や「あれが欲しい」といった想いはもはや起こらず、しかもそれを求める「私」も存在しない」とは、素晴らしいと同時にその状態が想像できません。まず「無欲」になることが、非常に難しいというよりか、ほとんど不可能に見えます。「その境地」に達すれば、「欲しい」という気持ちは、起こらなくなるのは分かります、でも、「それを求める「私」も存在しない」というのは、想像が付きません。その境地になって初めて、それが分かるのでしょう。私がいなかれば、当然何も望まない、欲しないでしょうから。

真我へと至る道には、「私は自分が誰なのかを見出す」という決断をし、真我探求の努力をすることと、「すべてはあなたの恩寵でしかりません。あなたの手の内にすべてをゆだねます」という恩寵の道、明け渡すということです。どちらも非常に難しいことです。「自分が誰なのかを見出す」といっても、どうすれば、それが出来るのか。その為には、真理探究の努力をするとありますが、どんな努力をすればいいのでしょうか。毎日長時間瞑想をする、沢山の聖典を読む、ジャパを毎日繰り返すこと?グルのいない人にとっては、どうすればいいのでしょうか。「あなたの手の内にすべてをゆだねます」といっても、どのようにゆだねればいいのか分かりません。そう言いつつ、思いつつ、何もしないのではないでしょうか。何か問題が起こった時に、思い出したこのように、「すべてをゆだねます」と言って、現実逃避に利用するのではないでしょうか。何の対処、手立ても、努力も、リスク回避もせず、目の前の現実が悪化していくのを、ただ何もしないで見ているだけになるのではないでしょうか。自分なりの努力をして、これ以上は出来ない時に、すべてをゆだねます、どんな結果も受け入れますというのは分かりますが。どちらにしても、この現実の世界、色々な物が溢れ、多くの人との関係がある時代に、この2つの方法で、真我に向かって行くのは、至難の業だと思います。この本を読んで、学ばれている人は、どうされているのでしょうか。どちらかの道を選び、毎日修練されているのでしょうか。

「私は自分自身で自由を勝ち取る」「すべてを神聖な真我の力に明け渡そう」といのは、素晴らしいことですが、これが実行できなければ、宝の持ち腐れになってしまいます。どんな素晴らしい言葉、教えでも、それが実践できなければ、自分のものにできなければ、聞かなかった、知らなかったのと同じことになります。これらを実現・実行しようとして、決意をしてもそう簡単には出来る話ではありません。これらを成すには、並大抵のことではないと思います。どうしても、自分達を導いてくれるグルが必要になると思います。まず、これらを成し遂げている、実践している、自分のものにしているグルを探すことだと思います。これらに到達していないグルのもとで学んでも、グル自身がこの境地に達していなければ、他の人を導いて、これらを達成することは不可能だと思います。この道が、人を真我に導いてくれるのなら、これも素晴らしいことです。真我に導いてくれるのは、この2つの道であることは分かりました。真我に到達するには、どちらかの道を乗り越えなければならない。私達にとっては、この壁が何と大きいことか。

「欲望が完全に消え去った時、あなたはいつも幸福だ。これが解脱だ。解脱は瞑想や聖地を巡礼した結果ではない」とあり、解脱について書いてありますが、「欲望が完全に消え去った時」となりますと、普通の人には、もはや不可能だと思います。どうやって自分の欲望を消し去るか、しかも完全に。それが問題です。理屈は分かっても、それをどう実践して行くかです。何をどこから手を付けたらいいのか、普通の人には分からないと思います。まずは、その境地(解脱)に達したグルに会って、話を聞くしか方法はないと思います。そのグルが成功した方法をまず、実践することから始める以外にはないと思います。
この本には、英知に富んだ素晴らしい教えが沢山載っています。それをどう自分なりに生かして行くか、身に付けて行くか。そこの所を深く考えないと、素晴らしい本に出合えた、素晴らしい教えだったで終わってしまいます。この本は、それを望んではいないと思います。少しでも、私達が、真我実現・解脱に近づけるように、その方法(方向性)を説いていると思います。
解脱は、瞑想した結果ではないとあります。つまり、多くの求道者が間違った方法で、解脱を目指していることになります。瞑想をしなくても解脱が出来る。これは、求道者にとって嬉しい知らせです。しかし、すべての欲望を消し去ることとなると、これを成し遂げることがいかに難しいか、直ぐに理解すると思います。すべての欲望を消し去るには、どうすればいいのか。ここで大きな問題にぶち当たります。
また、ここでも、それを成し遂げているグルを見つけるしか方法はないのでしょうか。自力では、どう考えても不可能だと思います。無欲、それはもはや仏の境地では。欲望が全くない。この世に、生きているようで、生きていない。ただ、この世界に、存在しているだけの存在になるのではないでしょうか。外界から入って来る刺激に対して、何の反応もしない、ただ静寂の自分の世界に入っている。そのようなことが、果たした私達にできるでしょうか。プンジャジの教えには、深い意味があります。それを読み取ることです。それが出来て、真我や解脱について考えることが出来るようになるのではないでしょうか。

「一つの想いも抱かない心、‥‥それが解脱なのであり、他に何も必要ない」とあり、何と難しいことを要求して来るのだろうかと思う。外界で何が起ころうとも、心は常に静寂を保っている。多分何も考えない、何も感じない、ただ静寂があるだけ。何も判断しない。よほど修行をした人でないと、ここまでの境地には達することができないと思う。でも、それが解脱なのだとは理解できる。どうして人は解脱を目指すのだろうか。その実現が、どれほど難しいか分かっているにも関わらず、今でも多くの求道者が目指している。簡単に言うと、全てを捨てれば、解脱は可能である。でも、それが出来ないから人は苦しんでいる、悩んでいるのではないでしょうか。死を直前にすれば、持っていけるものは、自分の心・意識しかないと悟るのかもしれない。

「私達の本来の目的は真我実現、解脱、真我として在る自由だ。‥‥最初に「私は束縛されている」という想いを受け入れ、それからあなたは自分自身に押し付けている概念を取り除いてくれる修練法や、本や、師を探しに行くのだ」。これは面白い表現方法だと思います。その通りかもしれません。そして、この概念が取り除かれなければ、修練は永遠に続くのかもしれません。そう言われても、何もしなければ、何も起こらない。真我実現も解脱も起こらない。真我にも到達しないと考えるのが普通ではないでしょうか。自分達の目的を実現するのに、修練も本も師も必要ないといことになると、私達は何に頼ればいいのでしょうか。何を支えにしていけばいいのでしょうか。私達は、実現していないと思うから、実現したいと思うのであり、実現していれば、実現したいと思わないはずである。果たして、私達は、それらを達成しているのでしょうか。そうとは思えないのですが。

「私」という想念から、束縛や無知やサンサーラが始まるという。「この「私」という相念に集中すれば、あなたは想念の源に帰る。そこで想念そのものが消え去るのだ」とあるが、どのようにすれば、私という想念に集中できるのか。そもそも、「私」の想念とは、何なのか。私が「私」の想念に集中するとは、どういうことなのか。私という想念は存在するのか。たとえ、存在していても、集中すること自体が、非常に難しくて、次々に雑念が湧いて来るのが普通である。そんな中で、私の想念に集中するとは。
また、それによって、「想念の源に帰る」とは、どういうことか。想念が湧き起こる中心(源)はあると思うが、果たして、そこに帰ることが可能なのかどうか。帰ってどうなるのか。ここでは、「想念そのものが消え去る」と書かれている。想念そのものが消え去れば、自分という意識がなくなる、自己認識が出来なくなるのではないでしょうか。そこに行くと、もう帰ってこれないのではないでしょうか。私という想念はないのだから。思惟する私はいない。

「あなたではないものすべてを拒絶して行くと、拒絶しきれない知識に直面する。決して‥‥それがあなたの真我なのだ」とありますが、これをやりますと、外界の人や物はすべて否定されることになり、結局、自分という意識が残るのではないでしょうか。それが真我と言われてもピンと来ません。それに「知識」という言葉が出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。意識ではなく、知識?何かもっと深い意味がここにはあるのでしょうか。真我にはそう簡単に到達できる、知ることが出来るとは思えません。真我は自分の本質であるといわれるが、自分の心がそれを知ることが非常に難しいというのは、皮肉なことだと思います。言い換えれば、自我が真我を知ることは、不可能なことであると言っているのと同じことではないでしょうか。自己意識が自我から離れなければ、真我を知ることが出来ない。自己意識が本当の自分を知ることが出来ないというのは、一つの皮肉のように思われる。真我を知ることが何と難しいことか。

「真理は、‥‥そこにあなたは真理を見出すのだ。‥‥名前もなく、形もない。これが究極の真理だ」とありますが、真理とは何でしょうか。真理は、言葉として、概念としてありますが、実在するのでしょうか。真理が観念としてあるだけなら、誰も真理を知ることは出来ません。知らなければ、言葉では表現の仕様がありません。まさに、名もなく、形もありません。この文の中で、「海もなければ波も存在しない」というのは、どういう意味でしょうか。海がなければ、当然波もありません。波がなければ、海もないということになると思います。そこに真理を見出すことが出来るでしょうか。真理は真理として在るだけで、あると言えばある、ないと言えばない。どちらも本当である、事実である。そんなものでしょうか。真理とは、また事実が積み上がった全体の総称をいうのかもしれません。真理には、真理の中には、偽りがない、存在できないところを言うのかも知れません。それ故、真理は説くことができないものであるのでしょう。真理は変わることなく真理として在るのでしょう。

「自由を求めることで真我と一つになれば、欲望はすべて消え去る」とは、どういう意味でしょうか。「自由を求める」とは、この場合、人や物や物事に執着しなと言う事でしょうか。人や物や物事(出来事)を、その瞬間だけ楽しんだら、あとは忘れてしまう、流してしまうことを言うのでしょうか。そうであれば、欲望は消えるでしょう。

「空を生み出したのは心なのだ。空とは心の投影でしかない」と言われれば、多くの仏教徒は困惑するでしょう。多くの修行者は「空」を求めて修行をしています。とりわけ、高僧は空を経験したと確信しているはずです。それが心の投影に過ぎないということになれば、仏教の教えの根幹を揺るがすことになるでしょう。「心が目標を投影し、それから同じ心がその状態に入り、それを味わう」。この文を読んで、一種の通快さをも感じます。そうかもしれない。それなのに多くの仏教関係者が空は存在すると信じ込んで、修行に励んでいるとしたら。これほど滑稽なことはないと思います。仏教で言うところの「空」とは、簡単に言うと器の中には、何もない、何も入っていない。それが器そのものがないとしたら。「空」などは、ないことになります。ただ続きの本文では、「無垢な領域なのだ」と書いてあるところを見ると、本当の「空」というものはありそうです。しかし、そこにたどり着ける人は、ほとんどいないことを意味しているのではないでしょうか。ほとんどの人が、自分が描いた「空」が本物だと思って、満足しているのかもしれません。それほど、「空」は奥深く神秘的なものかもしれません。

「真我は呼吸よりも身近にある。‥‥それは呼吸の中にあるのだ」ということで、呼吸はとても大切であると共に真我は呼吸の中にあるということになる。呼吸をコントロールして、気のエネルギーを高め、身体の波動を上げて行くと、変性意識状態に入ることが出来る。そのカギを握っているのが呼吸である。呼吸の中に真我があるかどうかは分からないが、呼吸によって生命エネルギーを取り入れているのは確かである。

「空であるそれ自体の源を忘れてしまう。対象物が取り除かれた時、心は空の状態に戻る」とあるので、「空」はあるようである。そして、それが源とされている。対象物がなければ、心は空の状態に戻るという。対象物への執着心が、それを妨げているようである。対象物があっても、思考が止まって、意識の中を時間だけが通り過ぎて行くならば、空の状態に戻れたと言えるのではないでしょうか。

「出来事についての考えや批判を抱いた為、‥‥足跡が記憶に残り、判断を下し、未来への欲望を作り出す。そして、最終的には、それがあなたに転生をもたらすのだ。‥‥この足跡があなたを何百年も輪廻転生の輪の中に留める」とあり、輪廻転生が起こる理由が書かれている。どうすれば、足跡が記憶に残らないようにすることが出来るのか。また、判断を下さないように出来るのか。そして、未来への欲望を作り出さないようにすることが出来るのか。これらを解決できれば、輪廻転生はなくなるということになる。
その答えが後に出て来る「すべてを忘れなさい」ということのようです。「記憶を空っぽにしておきなさい。過去の関しては目を閉じておくことだ」で表されている。そうすることによって、輪廻転生を避けられるならば、そうするように気を付ける、努力する他仕方がない、道はないようです。この世を去る時に、少なくとも一切執着も残さないということが大事なようです。別な世界へ旅立っていくのだと、覚悟を決めて頭の中を真っ白にしておくこと。それにしても、余りにも多くの人が、何百年にもわたって輪廻転生の輪から逃れられないのは、驚異である。

「真我の覚醒へと目覚める時、あなたは自分が名前も形もない場所にいることを見出す」ということは、何を意味しているのだろうか。「名前も形もない場所」とは。この時には、自分が誰かは分からなくなていて、自己意識があるだけらしい。ただ私は意識として存在している。そして形の無い場所、つまり、何もない、何も存在していない場所にいることに気付くようです。ここは、臨死体験などの話を知っている人には違和感を感じるかもしれませんね。とにかく自分は誰か分からないが、意識だけは存在しているようです。その後、「名前や形が来ては去って行く不動の基盤であることを理解」し、「すべての名前や形が投影されるスクリーンであることを理解する」ということで、ここの説明は、よく聞くことです。本当に私達がスクリーンである訳ではなく、比喩と使われているのです。それから、「あなたは現れては消え去る束の間のはかないイメージにではなく、根底にあるスクリーンと自己同一化しなければならないのだ」とあります。「スクリーンと自己同一化」しなければ、また輪廻転生が始まることを意味しているものだと思います。

「行為は起こり続ける。だが、あなた自身は無為のまま留まる」とは、どういうことか。「これが「空なるもの」と呼ばれているものだ。これが無為だ。すべての活動がその上で起こる土台、基盤が無為と呼ばれる」では、言葉では理解できるが、本当に無為が存在するのか、実在するのか分からない。その後、「あなたはすでにその状態の中に、その場所にいる」という。そう言われれば、そうなのかもしれないというしかない。

「この「私」という想念がどこから現れるか見出しなさい」。これは、どこの段階から来ているかによって変わって来ると思う。「私」というのは一般的に自我から来ていると思われている。肉体があって、その中に意識が在り、心があることから、「私」という想念が生まれてきていると思う。ただし、肉体がなくなっても、自己意識・自己認識は残ると思われる。これの「私」、自分という認識はあると思う。意識は無限に存在していると思う。その中で、一つの意識のみが、この私を認識できる。他の私は認識できない。他の私が、この私であっても良かったのだが、この私が私なのだ。この私と言う意識が消えれば、全ては無、消えてしまうことになるだろう。なぜなら、他の私は、私ではないから。

「最終的に真我に帰り着いた時」とあるように、「最終的に」の言葉の中には、そう簡単には真我には辿り着けないことを暗示していると思います。あとどのくらい輪廻転生をすれば、真我に辿り着けるのでしょうか。真理探究者によっては、直ぐに真我達成をする人もいるようですが、こうすれば真我に到達しますと言われても、それが簡単には出来ないから、みんな困っているのではないでしょうか。言葉で説明するのは簡単かもしれませんが、この物質世界で、それを成し遂げるのは、至難の業に入るのです。真我に帰り着くと、「あなたは自分が誰なのか、自分が何ものかを知る」というのは嬉しいことです。でも、真我に辿り着くまで、お和付けになるのでしょうね。そして「幻想である世界の現われの真の本性を知る」、これは今まで多くの聖人や偉人が覚者が言ってきたことで、理解は出来ます。しかし、この物質世界は非常に強力で、肉体を持った人間には、頭で分かっていても、幻想ではなく、リアルに見えてしまうのです。特に人間関係や事件や病気になると、現実のものとして捉えてしまうのです。幻想であるとして無視できなくなるのです。色々な感情や思いが出て来るのです。幻想の世界の出来事として、冷静に心穏やかに暮らすことが非常に難しのです。「それを超越した時、真の自由とは何かを知る」というのは、本当だと思います。超越出来るものなら、したいものです。この世を去り、肉体の制限がなくなれば、ある程度理解できるようになるかもしれませんね。

「以前の想念は去った。それがどこへ行ったのかを見なさい。その消滅を見極めなさい。‥‥そうすれば次の想念は現れないだろう」。これも成し遂げるには、至難の業です。想念は次から次へと湧いてきて、一つの想念がどこへ行ったのかを見る余裕はありません。たとえ、一つの想念が湧いた後、それがどこへ行ったのかは、皆目分かりません。それをどのように追っていくのか、方法も分かりません。想念は、自分の意志ではコントロール出来ません。それがどこから生まれて来るのか。自分が考えてもみなかった、思ってもみなかった、ものが突然出て来ることがあります。なぜ、そのような想念が湧いて来たのか、全く理由が分かりません。自分が考えていることなら、納得がいきますが、何の脈略もなく出てきます。「そうすれば次の想念は現れないだろう」というのは、本当でしょうか。何かに集中している時には、そのようなことはあるようですが。とても難しい課題です。

「想念と想念の間」には、「無想状態」があると言い、それを見出すように言っている。確かに想念と想念の間には、想念の無い状態がある。そしてここでは、「それが真のあなたなのだ」と言われている。そう言われても、ピンとこないが、その静寂が重要なのは分かる。この方法は、抑圧ではないので、「それがあなた自身の真我に帰りつくことなのだ」とあるが、この状態を長い時間保つのは大変である。一般的に言われているのは、30秒くらいが限界だとされている。想念を抑圧することなく、無想状態をいかに長く保てるか、瞑想を繰り返し続けることによって、鍛錬していく以外には方法はないと思われる。

「瞑想はいつもすべきだ。一瞬一瞬、一つ一つの呼吸ごとに瞑想しなさい」。これはとても深いことを言っていると思います。普通の人には、これを行うのはとても難しいことだと思います。修行者であれば、出来るかもしれません。それに、「何が起こっていようと、座っていようと、生きていようと」ととあるように、瞑想している時だけではなく、本当に常に瞑想するように言っている。こうなると、修行者にとっても難しいことになると思う。何をしている時でも、一つ一つの呼吸ごとに瞑想状態にあれば、素晴らしいことである。これを理想としたいものです。

「苦しみをもたらす」のは「自我なのだ」、「真我」ではない。その通りだと思う。「自我が自分は某だと決めた時、苦しみは始まる。あなたがただ「私」だけの時、苦しみはない」。自分を限定しない、つまり、自分が誰であり、どのような人物であるかなど、人格を含めて特定せず、ただ私、私という意識が存在しているだけだと見なすと、苦しみはなくなるのかもしれない。それから、「苦しみは過去と繋がっている」というのも、本当だと思う。常に意識が、今にあれば、過去のことで心配することはない。

「想念の合間に現れるギャップを見てその中に留まれば、どんな苦しみもあり得ない」。想念の合間には、想念がないのだけら、想念がなければ、何の考えていないのと同じなので、苦しみはないはずである。それどころか、感情も思考もない、空白の中にいることになる。つまり、ずっと静寂の中に留まっていることになる。ただ、そこに存在していることになる。言い換えれば、無反応な状態で、そこにある。

「真我」について、このように書かれている。「心の中に何も起こさずにいなさい。それはまったく汚れの無い、清らかなものだ」と、そして「何であれ概念を押し付けることでそれを汚してはならない」と。
真我は、言ってみれば、全くの白紙状態のようなもであり、概念と言う色で汚してはならないということらしい。真我は、純粋な意識だともいえると思います。概念を持たないこと、これも難しい課題である。
それから、「その中に潜り込み、永遠に溶け去るのだ」とも、言っている。

「あなたはただ見るだけだ」「ただ気付くだけなら努力は全く必要ないのだ」とあり、心が瞑想する対象物に焦点を絞らないで済むとしている。集中が反って瞑想を特定の方向に向かわせるとしている。自我意識を入れずに、ただ気付きが起こるのを持つというのは、良いことかもしれない。偏見や偏りや思い込みを排除し、客観的に見ることが出来ると思う。

「すべての活動を行うのは「あなた」ではなく気づきであることを知れば、記憶に足跡は残らず、プラーラグダ・カルマを蓄積することもなくなる」とあるが、この中の「気づき」とは何でしょうか。よく耳にする言葉ですが、漠然と理解、了解しているだiけで、その正体がよく分かりません。「気づき」はどこからやって来るのでしょうか。人のよっては、魂から顕在意識からとも言われていますが、その気づきの内容が正しい場合もあれば、間違っている場合もあります。その人が、真我から来たのか、自我から来たのか、区別が出来なかったと言われれば、それまでですが。カルマを蓄積することがなければ、「次の誕生の生み出すカルマはもはや存在しなくなり、こうしてサンサーラは終焉するのだ」とあります。カルマの蓄積がなくなれば、当然生まれ変わりはなくなるでしょう。しかし、今生きているこの世界で、カルマを作らないというのは、余程の途がない限り、成し遂げられるものではありません。過去世のカルマを清算し、今生のカルマも清算し終えることは、並大抵のことでは出来ることではないと思います。多くの求道者が輪廻転生の輪から解脱しようと修行に励んでいますが、どれだけの人が成し遂げられるか分かりません。

「あなたの集中や瞑想の行為が足跡を残す。あなたはそれらを記憶に留める。そしてその記憶がサンサーラになる。あなたはカルマを蓄積し、このカルマがあなたに再生という結果をもたらす。それは果てしない循環の輪だ。それはすべてあなたの創造なのだ」とある。「集中や瞑想の行為」の記憶がサンサーラになるとすれば、どうすればいいのか。それらを記憶に留めなければ、いいのだろうか。「もしあなたが気づけば、いつであれそれらを止めることが出来る。なぜなら、その気づきの中ですべては火のように燃え尽きるからだ」ということは、足跡を残さなければ、記憶に留めなければ、サンサーラになることはないということだろうか。

この本は、知恵・叡知、そして真我体験によって自己覚醒を目指そうとしているようですが、それ以外にも呼吸・エネルギー・静寂によって、覚醒・解脱・悟りを目指す方法もあるようです。

『バーソロミュー3』の73ページの一部抜粋・要約より
呼吸を観察する。体に意識を向けたら、呼吸を観察する。呼吸をしながら、<いのち>が膨らんだり縮んだりしているのに注意を向ける。そうすると、意識は肉体の奥深くに入って行く。そこは、”神意識”の体験が出来るところで、じっと待って、起こったことを感じ取るのです。

121,122ページの一部抜粋・要約より
呼吸に意識を向け、意識の焦点を呼吸に合わせる。「神意識や神のパワー」のイメージを心に描いてそれを感じて、それを吸う息と共に、ただ感じる。
息を吐く時に、そのパワーを使って自分の肉体の限界を越える。息を吐くと共に、エネルギーが体から出て、外の空間に拡がって行くのを想像し、それを体で感じる。
自分が「神なる自己」だと想像しているものを引き寄せて、それに自分を満たさせ、次に、膨らんだ息と共に、今度はその方向を変えて体から勢いよく外の空間に抜けて行く。これを何度も繰り返す。無理に意志の力でするのではなく、自然にそうなるように、ただし、意図ははっきりさせておく。その広大無辺さを感じる。頭で考えないで、体で感じるようにする。

130~132ページの一部抜粋・要約より
深呼吸を二、三回して、この瞬間、自分の体がどんなふうに感じるかに意識を向ける。否定的な自己像が、意識の底に隠れていて、それが何であるかを見つける。それを言葉で描写するか、イメージとして心に留めておく。絶えず自分に抵抗している自己像が何であるかを発見する。それが何であるか分かったら、「私は‥‥である」と同じ言葉を何度も繰り返す(二分以内)。言葉を口にしている時、体がどのように反応しいているかに注意する。
体に残っている感覚を薄め(感覚を変える為)、消してしまうのはどんなエネルギーだろうかと、想像する。変化を起こすことの出来る別のエネルギーです。この新しいエネルギーで、今まであった感覚を覆う(この作業を繰り返す)。古い気持ちが新しいエネルギーの洪水に押し流されて行くのをじっと眺める。
自分に相応しいを形でエネルギーの渦を想像する。それが体の中を通り過ぎながら、自分の中で新しい形
を彫り上げて行くのを想像する。エネルギーは体の中を通り過ぎながら、新しい形を彫り上げている。出来る限り現実感を持ってこれを想像する。エネルギーと力を合わせて、<新しい自分>を、新しい感覚を、新しい観念を創り上げてください。
覚醒意識は意識的に手に入れるものです。
「大いなるいのち」は、体のあらゆる細胞の中に感じることが出来る脈動のパターンです。この脈動を起こすのは呼吸です。脈動するパターンは、その体験に神秘と感動、そして目的と完全なる喜びを与えてくれます。脈動するパワーの無限の叡智が、人生のあらゆる瞬間を流れております。
この電磁的な脈動にはいのちがあります。あらゆる瞬間に、それが自分の肉体や感情体や精神体を駆け巡るのを感じるようになります。

『瞑想の実践』より一部抜粋・要約
心(マインド)の導きの下、内分泌腺の中で霊体の清めが起こる。
プラスの感情が、内分泌機能のバランスを最善に保たせるよう脳下垂体に働きかける作用がある。内分泌腺は体の霊的な中心で、そこを通して、体の生命力、霊の力が発揮する。
性腺、ライデン腺、副腎、胸腺、甲状腺及び副甲状腺、松果体、脳下垂体で、そのエネルギーを適切に活用すると、各中心は目覚め、「世の光」へ人を変える。
心が神の霊に調和する時に霊の清めが始まる。
七つの霊の中心は、内在する神との接点になり、人は、それら中心の全域にわたって活動の高まりを経験する。このエネルギーを最高の働きに振りむけると、バイブレーションの上昇が体内で起こり、各中心は、エネルギーとホルモンを全身に供給する。バイブレーションの上昇は不可欠です。
座って瞑想を開始すると、心は確言に縛られ、霊力が性腺から上昇し始めます。通常この時点で脊椎の末端に脈動を感じます。つま先から頭頂へと昇る電気的な振動も現れます。
霊力が松果体と脳下垂体にまで上昇出来れば、全身が光に満ち溢れ、透明になったような白熱感を体験します。松果体において、私達は次第にキリストの臨在へと向けられ、同調の度に応じてキリストの心を受け取ることが可能になる。力は次に脳下垂体へと流れ、そこから、今や純化された形で下降し、身心を清め、強めて行きます。
瞑想が正しくできていれば、これらの中心は自然に開いてゆきます。エネルギーの解放と共に出て来る魂の知、力、光輝は、人々の善いところに引き寄せられるものです。

生殖腺は生命力の貯蔵庫で、体の創造的エネルギーを貯えます。主の祈りで心を覚醒する時に、創造的エネルギーが生殖腺で解放されます。それを解放させた目的と思いが神聖であれば、エネルギーは「神の印」を帯びます。ライデン腺は、魂の活動の制御中枢で、このエネルギーにドアを開き、松果体(キリストの意識の座)へと魂の心が高まるのを可能にする。次に、このエネルギーは、脳下垂体から他の中心へ伝えられ、そこを通過しながら各中心を啓発する。
心は、霊に支配された意志で鍛えられる時、新しい人を造り始める。瞑想において、肉欲を霊化させることで、使命を果たすのに必要な洞察力が得られる。

ライデン腺は、魂がより高い意識領域へ進んでゆく為の扉です。
心は霊に導かれる建設者です。霊は人生を導く力です。瞑想中に解放される力が、人間の真の性質への洞察力を与える霊的中心を開き、よい善い、より清い思考を触発する。瞑想は内分泌腺系全体にバランスの取れたホルモン活動を供給して本人を強めています。
キリストの霊が流れる道になるには、人が純然たる肉欲の克服を遂げなければならない。

副腎は、過去に蓄積された感情的カルマの貯蔵庫である。
瞑想中に生命力が副腎を通過する時に、良き方向への変化が突然始まり、そのエネルギーは、ゆっくりと、心の霊的理想へと導かれ力を与える。建設的なエネルギーを正しく活用し、副腎が浄められると、霊能力が目覚めてきます。

愛は、胸腺において覚醒し、思いやり、無私、誠意、正直な心がそこから生まれて来ます。

どんな極端も避ける中庸の道を選ぶのが人生の課題です。人間の気質と欲望を制することが正しい中庸の道である。魂が成長する為には自我の抑制が必要です。瞑想で、甲状腺を流れているエネルギーが、解放されると、霊の意識世界へのドアが開き、超感覚が発揮される。

松果体は、「キリストの心」の中心と言われ、この中心が覚醒すると、人は神聖な交わりを経験する。この中心が刺激されると、幻や予言が生じ、前世を想起する能力が芽生える。この中心から光が脳下垂体に昇り、体・心・霊を洗い清める。
「聖霊」との出会いは松果体の中心で起こります。人の意志が神の御心と一つになる時に、松果体を通してキリストの霊が臨み、低い中心の波動をみな清め、高めます。松果体へ上昇する創造的な、聖なる力は、主の聖体です。降臨する聖霊は、主の聖霊、主の御血、主の御血という聖霊です。これらが松果体で交わります。人は、より大いなる神の意識へ魂を引き上げる度によって、神の印を帯びるものを認識出来るようになる。松果体に象徴される「御子」を通してのみ、私達は脳下垂体に象徴される「父」に至れるのです。

脳下垂体は、父に触れる座である。究極の覚醒が起こるのは、最高の霊的中心である、脳下垂体を通してです。人が神の臨在に浸れるのは、脳下垂体を通してで、内なる「私は在る」と、大いなる「在りて在るもの」が交わり、神との合一が生まれる。理想の「私」が、「在りて在るもの」と合一すれば、私達は真実、神への道の光になるでしょう。

瞑想とは、あなた方の体が物質、精神、霊で成り立っているように、精神体と肉体を、霊的な本源に合わせることである。魂が、創造主の似姿である。そこで、物質的、精神的な属性を、創造主との関係を知るように調律すること、それが真の瞑想である。あなた方が瞑想し、心と魂を開きさえすれば、その心と意識の中に神を見る。

呼吸法によって精神を覚醒すれば、霊魂が表現し、創造性を出すライディッヒ中枢が拡大し、その力は、受胎時に辿った道沿いに進み、有機体に放射し、働きかける七つの中心を開く。生命力の拡大は、ライディッヒ中枢に始まり、副腎を貫き、上昇流に乗って、松果体から感情の制御中枢へ至り、神経系を通して反射する。肉体の意識は普遍意識に向かって緩められる。

『魂の進化』より
地水火風の四大元素を越えた第五の構成要素が「霊」である。この要素によって人間は生まれると同時に生命体となる。小宇宙たる人間は、魂を成長させ、自己を変革し超越して、神性に満ちた大宇宙と一体になって、天上の存在になることが出来る。私達が探し求めている神とは、実は私達の内に存在する。

脊椎にそって基部から螺旋状に頭脳中枢まで上昇する道は、七つの腺を持つ全内分泌腺システムに連結され、チャクラと呼ばれる霊的中枢に繋がっている。下部の四つの中枢、生殖腺、ライジッヒ細胞、副腎、胸腺は、低次の自我である。最上部の二つの中枢、松果体と下垂体は、高次の意識であり、私達の内なる「天界」である。その高次中枢に達する喉の位置に、甲状腺が存在する。「天界と俗世」の途中に位置するこの重要な線は、意志の座として位置づけられている。

魂は、意志の助けを借りて、下部の四つの中枢を克服していかなければならない。それが出来て初めて「地上の人間」を再生させ、無限の存在の内にあるハイヤーセルフと調和する用意が出来る。松果体と下垂体に象徴される高次中枢を開けることは、意識波動を霊的次元にまで高めるということである。人間の意志が自発的に高まり、神の意志と完全に調和しない限り、肉体の細胞が自ずと生まれ変わり、復活して、天界に光り輝く原子としての姿をまとうこと、すなわち、原初の状態に戻ることなどあり得ない。

私は、イエスの教えである『心身の神癒』と『光の書』を多くの人に知ってもらいたいと思っていましたが、『覚醒の炎』と『不滅の意識』を読んで、これらも多くの人に読まれて、理解されることを願っています。真理の探究を真剣に考えて、実行している人達がいて嬉しいです。
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2023年1月2日に日本でレビュー済み
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この本がきっかけで認識が変わりました。今まで湧き上がって来る想念と私はガムテープのようにベタベタとくっついてどうしても切り離すことができず苦しんでいました。しかし苦しんでいた私は私ではないと気づくことで現実として苦しみが消えたのです。これは大きな前進です。苦しみを避けることが出来なかった私ですが、ようやく乗り越えることができたのでとても感謝しています。
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2014年7月18日に日本でレビュー済み
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本書が役に立つかは読者の探求の理解度に拠ります。
私はこれを1年前に読んだときにはあまり多くのことを理解できませんでした。
その時の私には内容があまりに感覚的で抽象的だと感じ、
薄い膜が何層にも覆われてるように上手く入り込むことができず、
半分くらい読んで「もう結構」という感覚を感じて本棚に積みました。

その1年前と比べて、今はすんなりと入ってくるのです。
「そうか。やっぱりこうだったんだ」という答え合わせのようにです。

本書に付き合う前後の過程でさまざまな精神本を読み、
それらを熟考、経験して真理を得ようとしてきました。
それらの本を読んできた時間や手間は決して無駄ではなかったのだと今は感じます。
本書が頑丈な岩だとするなら、それを砕くためのさまざまな本(つるはし)が助けになります。
それらのさまざまな言葉がやがてひとつの答えに結びつく瞬間はくるでしょう。
もちろん本書だけでも悟れる人には悟れます。

プンジャジの教えは、読んでいれば気持ちが大変ポジティブになり高揚感が満ちてくるものです。
そして「この本には真理を知るための何かが存在している」と感じるだけのオーラがあります。
ですが、その「何か」を見いだせなければそれでこの書は終わってしまいます。

多かれ少なかれ、どんな高度な精神本にも当てはまることですが、
真理の教えは感覚的な表現で説明されます。(この書には現代的な例えが多少使用されてます)
プンジャジの教えが現時点で理解できないと感じても、無意識には必ず浸透し、それがいつか開花されます。
それゆえ、長く付き合っていく価値が『覚醒の炎』にはあります。

ちなみに『覚醒の炎』を理解する上で最も役立ったのが『ラムサ ホワイトブック』です。
至高の本ですので、ぜひこちらも深くおすすめします。
ラムサ ホワイトブック 改訂版
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2017年5月10日に日本でレビュー済み
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本からブンジャジが側にいるように感じられ、目に観えない世界があると感じる。
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2021年1月19日に日本でレビュー済み
非常に読みやすい内容でした。
知名度の低さと、表紙のデザインが微妙でかなり損をしているなぁ、という印象です。
内容は非常によかったです。
購入しようか迷ってらっしゃる方のために、少し内容に触れます。

徴兵や暴動、貧困、交通事故など、自らの運命に振り回されながらも真剣に神を探し続けたプンシャジ。
その道は決して易しいものではなく、
プンシャジ自身も全身全霊、全財産をも費やして真の師を探し回ります。
そして、最愛の師ラマナ・マハルシとの出会いと別れ。
在りし日のマハルシを思い出し、
恩師への想いを語るプンシャジがとても美しい。
特に、家族を救いに行くよう励ます逸話が素晴らしい。
その後、
貧困に苦しむ大家族を支えるために勤労に励みます。
夜通し運転して荷を運んだときに起こった不思議な体験。
交通事故に遭うも何故か軽傷で済んだ話も。
このように、
そのときに起こった神秘体験がいくつも紹介され、
また整理された教えもしっかりと語られています。
感情と理論、どちらの側面からも彼は語りかけます。
偏りはありません。
豊富な経験と多くの賢者との出会いが、彼を卓越した指導者へと成熟させていきます。
ニサルガダッタ・マハラジやヨガナンダなど、同時代を生きた聖者たちのことも彼はよく知っていたようです。
また、実際に真我実現を果たした弟子との対話がいくつも記録されています。
これは本当に貴重な記録だと思います。
そして迎えるラスト・シーン。
心暖かい終わり方も非常に良かったです。

この本に出会えて、本当に良かった。
ありがとう。
本当にありがとう。

皆様とも、このような気持ちを共有できればと思います。
ありがとうございました。
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2015年4月11日に日本でレビュー済み
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やっぱりパパジ
色々な方向からおしえてくれてます。
さすがです、素晴らしい。
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2014年10月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
率直に素晴らしい内容の本だと思います。
Youtubeにも日本語訳つきの多数の動画があり、パパジのサットサンの様子が克明に記録されています。
この本に感銘をうけた方、またこれからこの本を購入されることを検討している方にも是非おすすめしたいです。
『パパジ』で動画検索できます。
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2024年3月29日に日本でレビュー済み
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傍線やマーカーでの印が多くて、少し残念でした。