①著者の文学論・言語論が堪能出来る理論編が本書である。言語論は吉本隆明の言語論とソシュールの構造主義言語学を対比して論ずる。新カント派のカッシーラーは『シンボル(象徴)的形式の哲学』を著して、言語の発話主体にとって、「指示対象=象徴(シンボル)」であると主張した。発話主体にとって「赤信号」は、「止まれ」(進行禁止)をシンボル(象徴=シンボル=記号)として捉えられる記号(象徴的体系)を意味する。
②吉本隆明は『言語にとって美とは何か』において、言語を発話主体との関係において捉え、言語が「指示表出/自己表出」を意味すると主張する。例えば、発話主体が「赤信号」と言えば、その言語を使用した「発話主体」を自己表出し、同時に「止まれ」という指示表出するという言語の二重性格を主張する。
③ソシュールは『一般言語学講義』において、言語の特質を「意味するもの=意味作用」(シニフィアン)と「意味されるもの(意味)」(シニフィエ)の関係性(構造)にあると主張した。例えば、発話主体が「赤信号」を指示対象として述べたとすれば、それが「記号」として機能し、「赤」→「止まれ」の指示関係(構造)として捉えられるという。
④三者に共通する論点は、言語が「記号」としての機能を果たしていると考えることにある。しかし、言語が記号としての機能を果たすためには、意味の取り決めが必要ではないだろうか?
⑤信号機の「赤(信号)」が「止まれ」という指示関係とさを有するためには、信号機の「赤」は「止まれ」という指示関係を示すという国内外(国際的)の取り決め(交通ルール)がなければならない。したがって、著者が「信号機」を例示したのは不適切ではないか?
⑥むしろ、「赤」という色が言語(例えば英語、フランス語、日本語)間で指し示す範囲が異なることを文化的な言語コード(ランガージュ)の差異として分析した方が有益ではないか?
現代思想の宝庫として本書は面白い。
お勧めの一冊だ。
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テクストから遠く離れて 単行本 – 2004/1/17
加藤 典洋
(著)
テクスト論の功罪を超えた根源的批評の誕生小説の「読み」の現場からバルト、デリダ、フーコーらポストモダン理論の限界を明らかにし、文学と思想の停滞を破る新たな批評原理を提示する待望の本格文芸評論
- 本の長さ328ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/1/17
- ISBN-104062122073
- ISBN-13978-4062122078
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
いま求められる批評の原理とは? 小説の核心的「読み」を通して、テクスト論・ポストモダン理論の限界と文学思想における批評の停滞を超え、新たな普遍性の原理を提示する本格文芸評論。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/1/17)
- 発売日 : 2004/1/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 328ページ
- ISBN-10 : 4062122073
- ISBN-13 : 978-4062122078
- Amazon 売れ筋ランキング: - 484,630位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
加藤典洋の『テクストから遠く離れて』を友人にすすめられ、読んだ。
佐藤信夫は、「現在の意味論が、意味が通じているかという観点からずれてきてしまっているように思う。」ということを意味の弾性の巻頭言の中で言っている。加藤は、前述書の中で、テクストと作者を切り離すことつまり「作者の死」がテクスト論の核だが、そこを再考する必要をうったえる。作者がいないテクストは、トルソのようなものだ。このたとえでは、頭部が「作者」、頭部から上半身が「作品」トルソが「テクスト」となる。
われわれは、文を読むときそこに頭部を想起する。その像は、実際の作者ではないが、読み取った上でわかる「作者の像」ではないか、と加藤は言う。
私も思う、たとえコンピュータープログラミングによってできた俳句があったとしても、その俳句を読む私は「作者の像」を考えつつ、読んでいる。であるとするならば、佐藤が悩んでいたことに対する答えはおのずとわかる。頭部、主体が消えたとき、意味伝達はできない。すくなくともわれわれ人間は、受信者となったとき、たとえ架空であったとしても、発信者の像を浮かべなければ、意味了解ができないということなのだ。
これは、屈折したラディカルだ。新ニュークリティシズム。
佐藤信夫は、「現在の意味論が、意味が通じているかという観点からずれてきてしまっているように思う。」ということを意味の弾性の巻頭言の中で言っている。加藤は、前述書の中で、テクストと作者を切り離すことつまり「作者の死」がテクスト論の核だが、そこを再考する必要をうったえる。作者がいないテクストは、トルソのようなものだ。このたとえでは、頭部が「作者」、頭部から上半身が「作品」トルソが「テクスト」となる。
われわれは、文を読むときそこに頭部を想起する。その像は、実際の作者ではないが、読み取った上でわかる「作者の像」ではないか、と加藤は言う。
私も思う、たとえコンピュータープログラミングによってできた俳句があったとしても、その俳句を読む私は「作者の像」を考えつつ、読んでいる。であるとするならば、佐藤が悩んでいたことに対する答えはおのずとわかる。頭部、主体が消えたとき、意味伝達はできない。すくなくともわれわれ人間は、受信者となったとき、たとえ架空であったとしても、発信者の像を浮かべなければ、意味了解ができないということなのだ。
これは、屈折したラディカルだ。新ニュークリティシズム。
2004年12月19日に日本でレビュー済み
テクスト論批評には積極的に価値判断について語ることができないという弱みがある。大江『取り替え子』をめぐる批評をいくつか傍証に挙げたのち、加藤は「読みの場の実感」を足場にテクスト論批評の「作者の死」概念をめぐってR.バルト、デリダ、ラカン、フーコーを検討・批判し、自論を対置・展開する。各々の思想について、論点を絞った非常に読みやすい要約をほどこしている(特に、加藤理論の説明に援用される形ではあるが、ラカンを解説した部分は既存のラカン紹介にはないスッキリ感を持っている。)。
加藤によれば、「作者」概念は実体的な面と実定的な面を持ち、従来の「作者の死」論は「盥の水を捨てようとして赤児を捨て去」るように双方とも切り捨てたが、発話-受話行為の信憑を成り立たせ、積極的に何かが語られるためには、基盤として、あたかも幻肢のような形で「実定的な作者」が必要であるのだ(というより、文学テクストを読む時に我々は実感として「仮構の発話者」というものを想定しているではないか)という。この実例としての『海辺のカフカ』の読解は納得できる爽快なものだ。
ただ、末尾で少々筆が滑ったのか、フーコーの主体化論をやや単純・矮小化して(それでもかなりきちんと)提示したあとで、いま・ここでの「ただの蛆虫としての生」というものに批判力の源泉としての可能性を託しているかに読めるところがある。この無定型の「生」称揚で論が終わるので一読後、やや拍子抜けな感じが残った。
とはいえ、本書における加藤のスタンスは終始誠実でまっとうなもので、韜晦の姿勢はいささかもなく(R.バルトの概念の不徹底をR.バルトの徹底的な読みによって示す「脱構築的アプローチ」だって当然、ありうるのだが、そうはしない)この本から読者が受け取る加藤像は、清々しい姿だろう。
加藤によれば、「作者」概念は実体的な面と実定的な面を持ち、従来の「作者の死」論は「盥の水を捨てようとして赤児を捨て去」るように双方とも切り捨てたが、発話-受話行為の信憑を成り立たせ、積極的に何かが語られるためには、基盤として、あたかも幻肢のような形で「実定的な作者」が必要であるのだ(というより、文学テクストを読む時に我々は実感として「仮構の発話者」というものを想定しているではないか)という。この実例としての『海辺のカフカ』の読解は納得できる爽快なものだ。
ただ、末尾で少々筆が滑ったのか、フーコーの主体化論をやや単純・矮小化して(それでもかなりきちんと)提示したあとで、いま・ここでの「ただの蛆虫としての生」というものに批判力の源泉としての可能性を託しているかに読めるところがある。この無定型の「生」称揚で論が終わるので一読後、やや拍子抜けな感じが残った。
とはいえ、本書における加藤のスタンスは終始誠実でまっとうなもので、韜晦の姿勢はいささかもなく(R.バルトの概念の不徹底をR.バルトの徹底的な読みによって示す「脱構築的アプローチ」だって当然、ありうるのだが、そうはしない)この本から読者が受け取る加藤像は、清々しい姿だろう。
2007年10月13日に日本でレビュー済み
この本の業績は端的に言って、「作者の死」を乗り越えて、批評において作者に言及でいる理論を構築したことであろう。
現代批評では、テクストと作者を完全に切り離し、あくまでも「読者=読み手→テクスト→書き手(≠作者)」のレベルでしか言及できなかった。
そのため、例えば「作者の意図」に言及することが、現代批評では行えなくなってしまった。
ところが、近年になって、作家が、作者の意図に触れざるを得ないような作品を多数作るようになった。
こうした作品について、現代批評は極めて困難な状況に陥る。
そこで筆者は、作者とは別に「作者の像」を導入し、それへの言及を認めることで、「作者の意図」などについても批評が行えるようになった。
もう一つ、重要だと思ったのは、批評において普遍性を語ってよいとした点である。
これまでの現代批評では、絶対的な価値観は存在しないため、普遍性の標榜は行えなかった。
しかし、「自分の読みが普遍的だと思う(こうとしか読めない、ということ)」こと自体は、極めて自然なことであり、それは批評活動においても擁護されるべきだとする。
テクスト論に興味があるなら欠かせない本である。
現代批評では、テクストと作者を完全に切り離し、あくまでも「読者=読み手→テクスト→書き手(≠作者)」のレベルでしか言及できなかった。
そのため、例えば「作者の意図」に言及することが、現代批評では行えなくなってしまった。
ところが、近年になって、作家が、作者の意図に触れざるを得ないような作品を多数作るようになった。
こうした作品について、現代批評は極めて困難な状況に陥る。
そこで筆者は、作者とは別に「作者の像」を導入し、それへの言及を認めることで、「作者の意図」などについても批評が行えるようになった。
もう一つ、重要だと思ったのは、批評において普遍性を語ってよいとした点である。
これまでの現代批評では、絶対的な価値観は存在しないため、普遍性の標榜は行えなかった。
しかし、「自分の読みが普遍的だと思う(こうとしか読めない、ということ)」こと自体は、極めて自然なことであり、それは批評活動においても擁護されるべきだとする。
テクスト論に興味があるなら欠かせない本である。
2004年2月29日に日本でレビュー済み
大変刺激的な本である。文学批評に置けるテクスト論の限界を最近の文学作品によって検証し、「作者の像」「虚構言語」「換喩的読解」といった概念の導入により、文学批評の新たなパースペクティブを提示している。ポストモダニズムの形式化された言語観に疑問を投げかけ、ラカン、フーコー、デリダのテクスト論解釈をあらためて読み直していく。その着想は大胆で検証作業は至って慎重だ。久しぶりに面白い本を読んだ気がする。
講談社から刊行された本書は理論編であり、臨床編となる「小説の未来」は朝日新聞社から刊行されている。装丁は共に南伸坊が手掛けていて統一感がある。こうした試みも面白い。
講談社から刊行された本書は理論編であり、臨床編となる「小説の未来」は朝日新聞社から刊行されている。装丁は共に南伸坊が手掛けていて統一感がある。こうした試みも面白い。
2007年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ソシュールの記号論批判を含む、シンボリズムに対する疑問が論の基盤になっているが、
ソシュールが発明した「シニフィアン」、「シニフィエ」という二つの概念について決定的な誤解をしている。
あまりの誤解ぶりにびっくりしてしまった。
この本を読まれる方は、事前に「記号論ハンドブック」あたりでソシュールについての解説を読まれることをおすすめする。
私には、作者の加藤氏が、ウィトゲンシュタインの苦しんだ「語りえぬもの」について、クリティカルな苦しみを感じていないように思える。
ソシュールが発明した「シニフィアン」、「シニフィエ」という二つの概念について決定的な誤解をしている。
あまりの誤解ぶりにびっくりしてしまった。
この本を読まれる方は、事前に「記号論ハンドブック」あたりでソシュールについての解説を読まれることをおすすめする。
私には、作者の加藤氏が、ウィトゲンシュタインの苦しんだ「語りえぬもの」について、クリティカルな苦しみを感じていないように思える。
2016年10月31日に日本でレビュー済み
■加藤典洋『テクストから遠く離れて』2004年1月15日・講談社。
■長篇評論(現代思想・現代日本文学)。
■2016年8月11日読了。
■採点★☆☆☆☆。
本書は同時期に構想、執筆され、そして刊行元こそ違え、同時に出版された『小説の未来』*という双子の優秀な弟を持つ、いささか残念な兄である。本書が理論篇で、もう一方が実践篇ということらしい。
*加藤典洋『小説の未来』2004年・朝日新聞社。ちなみにこの題名はいささか頂けない。連載時のタイトルである『現代小説論講義』の方が内容を的確に伝えている。ついでに云うと本書の題名もいかがなもか。蓮實重彦の『小説から遠く離れて』(1989年・日本文芸社)を批判しているのだろうが、より明確に『テクスト論批評批判』とすべきではなかったか。これに「序説」を付けるとやはり蓮實さんの『物語批判序説』(1985年・中央公論社)のパクリ(映画の世界ではこれを「オマージュ」というな)になってしまうか。
テーマは「文学作品とその作者を切り離して考えるべきだ」というテクスト論批評の批判であり、そのために「虚構言語」や「作者の像」なる概念を提出する理論書である。
言うなればこれは、本書の冒頭にも言及されているが、筆者にとっての『言語にとって美とはなにか』*、すなわち加藤にとっての文芸評論の一般理論の定礎の大いなる試みに他ならない。
*吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年・勁草書房。
結論から云えば本書は大変な力作であり、むしろ力が入りすぎて本来の加藤の良さが全く出ておらず、それほどテーマの巨大さを示唆するものとなってはいようが、著しく読み通すのに難渋する。ことの成否は一旦措くとして、要するにつまらない、ということになろうか。
その原因は文芸評論のバランスを失するぐらいに、具体的な作品ヘの論及よりも理論的な講釈が圧倒してしまっていることか。
本書は3部構成になっていてそれぞれ特定の作品名が表題として挙げられている*。
*「Ⅰ「作者の死」と『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』」「Ⅱ『海辺のカフカ』と「換喩的な世界」」「Ⅲ『仮面の告白』と実定性としての作者」」。
しかしながらⅡ章やⅢ章で言及されるカミュの『異邦人』や三島由紀夫の『仮面の告白』と水村美苗の『續明暗』はともかくとして*、Ⅰ章・Ⅱ章で触れられる大江健三郎の『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、村上春樹『海辺のカフカ』については同時期に連載されていた『小説の未来』にも論及されていて、そのせいか、その文学的精髄(エキス)を抜き取られた感が拭えない。もしかすると、これは加藤の文筆家としての職業倫理(つまり同じことを書かない)から来ているのかもしれぬが。
*これら3作品についての分析はとても面白い。
いずれにしても我々読者は加藤に文学の理論家を需めたりはしない。現代日本ではほぼ絶滅し果てた、語の真の意味での文芸評論家をこそ希めているのだ。
■長篇評論(現代思想・現代日本文学)。
■2016年8月11日読了。
■採点★☆☆☆☆。
本書は同時期に構想、執筆され、そして刊行元こそ違え、同時に出版された『小説の未来』*という双子の優秀な弟を持つ、いささか残念な兄である。本書が理論篇で、もう一方が実践篇ということらしい。
*加藤典洋『小説の未来』2004年・朝日新聞社。ちなみにこの題名はいささか頂けない。連載時のタイトルである『現代小説論講義』の方が内容を的確に伝えている。ついでに云うと本書の題名もいかがなもか。蓮實重彦の『小説から遠く離れて』(1989年・日本文芸社)を批判しているのだろうが、より明確に『テクスト論批評批判』とすべきではなかったか。これに「序説」を付けるとやはり蓮實さんの『物語批判序説』(1985年・中央公論社)のパクリ(映画の世界ではこれを「オマージュ」というな)になってしまうか。
テーマは「文学作品とその作者を切り離して考えるべきだ」というテクスト論批評の批判であり、そのために「虚構言語」や「作者の像」なる概念を提出する理論書である。
言うなればこれは、本書の冒頭にも言及されているが、筆者にとっての『言語にとって美とはなにか』*、すなわち加藤にとっての文芸評論の一般理論の定礎の大いなる試みに他ならない。
*吉本隆明『言語にとって美とはなにか』1965年・勁草書房。
結論から云えば本書は大変な力作であり、むしろ力が入りすぎて本来の加藤の良さが全く出ておらず、それほどテーマの巨大さを示唆するものとなってはいようが、著しく読み通すのに難渋する。ことの成否は一旦措くとして、要するにつまらない、ということになろうか。
その原因は文芸評論のバランスを失するぐらいに、具体的な作品ヘの論及よりも理論的な講釈が圧倒してしまっていることか。
本書は3部構成になっていてそれぞれ特定の作品名が表題として挙げられている*。
*「Ⅰ「作者の死」と『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』」「Ⅱ『海辺のカフカ』と「換喩的な世界」」「Ⅲ『仮面の告白』と実定性としての作者」」。
しかしながらⅡ章やⅢ章で言及されるカミュの『異邦人』や三島由紀夫の『仮面の告白』と水村美苗の『續明暗』はともかくとして*、Ⅰ章・Ⅱ章で触れられる大江健三郎の『取り替え子(「チェンジリング」とルビ)』、阿部和重『ニッポニアニッポン』、村上春樹『海辺のカフカ』については同時期に連載されていた『小説の未来』にも論及されていて、そのせいか、その文学的精髄(エキス)を抜き取られた感が拭えない。もしかすると、これは加藤の文筆家としての職業倫理(つまり同じことを書かない)から来ているのかもしれぬが。
*これら3作品についての分析はとても面白い。
いずれにしても我々読者は加藤に文学の理論家を需めたりはしない。現代日本ではほぼ絶滅し果てた、語の真の意味での文芸評論家をこそ希めているのだ。