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魔女 (1) (IKKI COMICS) コミック – 2004/4/30
五十嵐 大介
(著)
▼第1話/SPINDLE(前・後編)▼第2話/KUARUPU▼騎鳥魔女●主な登場人物/シラル(遊牧民族の少女。織り上げた「伝言」を伝えるため首都に赴く)、ニコラ(欲しいものを手に入れるには手段を選ばない女性。首都のバザールを潰そうと企む)、クマリ(深遠なる森を守る少女。開発者に滅ぼされた部族の弔い[クアルプ]のため闘う)●あらすじ/30年前・アジア西端の小国。その首都に滞在する英国人の少女ニコラは、バザールで働く青年ミマールに恋するが、結局は彼に振り向かれることなく帰国した。だが、自尊心の高いニコラは屈辱をずっと忘れず、富と名声、そして“世界の秘密”を手に入れた後、“力”を使いバザールの相談役たちを怪死させる事件を引き起こす。ニコラの復讐の魔の手は、次いでミマールの愛する孫娘・ハセキへと…(第1話・前編)。●本巻の特徴/スピンドル(紡ぎ器)で織られた布に「伝言」を託す。それを読み解けるのは“古く大きな知恵”を授かり、伝言を織り成した少女・シラルただ一人のみ……。シラルとニコラの不可思議な物語「SPINDLE」ほかを収録した連作魔女奇譚・第1集。
- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社小学館
- 発売日2004/4/30
- ISBN-10409188461X
- ISBN-13978-4091884619
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商品の説明
出版社からのコメント
強く、儚く、螺旋を描く満たされぬ想い。そして人々は未知なるものを求め、魂の世界へと誘われゆく…。幻想と恐怖が、大いなるイマジネーションによって解き放たれる連作短編。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年8月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
そう簡単には噛み砕くことができない珠玉の作品集。
2019年5月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
細かく書き込まれたページは、ときに読み難い。目が疲れるが、全てのコマが1枚の絵のよう。
カサブランカあたりのお話しSPINDLE上下
アメリカあたりの大国がジャングルに送り込んだ軍のお話し。
年老いた司祭のお話し。
の3話で、最後のお話しが一番好き。
カサブランカあたりのお話しSPINDLE上下
アメリカあたりの大国がジャングルに送り込んだ軍のお話し。
年老いた司祭のお話し。
の3話で、最後のお話しが一番好き。
2020年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
クセになる画風とお話、子どもの頃考えたようなファンタジー要素と大人にしか書けない心の描写が絶妙です
2017年8月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
あまり理解できないけれど、独特の世界観に毎回ドキドキさせらます
2016年9月2日に日本でレビュー済み
五十嵐大介は、難解でとっつきにくい漫画を描く作家だと思われる傾向が強い。自分の周囲にいる「自称マンガ好き」人間も、例えばこの連作作品『魔女』を貸すと、十中八九「面白いんだけど、難しいですね」という言葉が返ってくる。
それは、実は読者自身が勝手に「難しいもの」にしてしまっているだけなのだ。そもそも五十嵐さんの漫画は、難解な文学作品のような、読解力を必要とするような作風ではない。哲学的で思索的な作品でもない。読み解くために特別な知識を必要とするものでもない。
五十嵐さんほど純粋で判りやすく、感覚的で本能的で、「考えずにただ感じればよい」作品を描いている漫画家はほかにいない。人は風を感じる時、風を理解するための知識など必要としない。ただ純粋に「ああ、この風気持ちいいな」と感じる。それと全く同じなのだ。
では、なぜ人は五十嵐漫画を「むずかしい」と思い込んでしまうのだろうか。それを語ろうと思う。
「面白いんだけど、難しいですね」という言葉には、「すごいものを読んだ気がするのだけど、素直に好きとは言えない」というニュアンスがある。実はこの言葉を発した時点で、その人の中に相反する二つの感情がぶつかりあっている事が判る。本能は、この漫画を「好き」と言っているのだ。しかしもう一つの思いが、手離しで好きと言う事にためらいを感じさせているのだ。
実はマンガやアニメ好きの人間には、保守的な人間が多い。記号化され、パターン化された、自分が見慣れたものを読む、あるいは観る事で、安心したいという無意識の思考に凝り固まっている傾向が圧倒的に多い。ゆえに、見慣れないものに対する拒絶反応が強い。未知のものに出会うと、面白がるよりも先に警戒し、恐れるのである。「好奇心」よりも「排他的感情」が先に来るのである。そして、知識がなければ物事は理解できない、と思い込んでしまっている。
つまり、五十嵐大介の漫画は「普通の人が知らないようなマニアックな知識が詰まった作品」だと思っているのだ。それは大きな勘違いですよ、と言いたい。
誤解を恐れずに言ってしまおう。
五十嵐大介の漫画は、大いなるホラ話である、と。
これは、五十嵐さんの漫画を貶めるために言っている訳ではない。物語というのはそもそも創作されたもので、はなから「法螺」性を内包しているものである。言ってみれば、物語というのは、それ自体がホラなのである。
『魔女』という漫画は、世界の様々な辺境を舞台に、近代文明と一線を隔した価値観や文化の中で生きるシャーマニックな女性の姿を、奔放な想像力で紡いだ作品である。そこは、中近東のエキゾチックなバザールだったり、南米の密林の奥地だったり、北欧の寒村、あるいは南方の孤島だったりする。NHKの知識・教養系のドキュメンタリーと幻想物語が融合したような作品である。日本人には馴染みのない風習や祭り、文化などが描かれていて、予備知識がないと理解できないような錯覚を多くの読者が受けるらしい。
しかし、実はそうしたものは、五十嵐さんによる虚実ないまぜになった巧みな「創作」であり「遊び」なのだ。
例えば、『魔女』第1集に収録されている「KUARUPU」は、南米のジャングルに暮らす先住民族の呪術師と、そこに侵攻しようとするアメリカ帝国主義との闘いを描いた物語である。ここに登場する原住民は、かつてNHKスペシャル『ヤノマミ』や、ノンフィクションノベル『ピダハン-「言語本能」を超える文化と世界観』などで紹介された人々にそっくりで、まるで五十嵐氏本人が取材した事があるような、ものすごい存在感を持って描かれている。しかし五十嵐氏は、台湾などの近隣の東南アジア(と、フランスのアングレーム)以外はほとんど海外に足を運んだ事のない方で、想像力で描かれたものなのだ。
それを読み解くキーワードは、女呪術師「クマリ」の名前である。実はこの「クマリ」って、ネパールの生き神の少女神から採った名前なのである。南米の密林の呪術師なのに、名前は東南アジアの生き神さま・・・なのだ(笑)。
特にね、この「KUARUPU」は、「いや、ボク、南米の先住民とかよく知らないんで・・・」みたいな及び腰の意見をよく聞くのだが、何を恐れるのか?完全な創作なのですよ。
他にも『魔女』第2集の「PETRA GENITALIX」の冒頭、北欧の山中の村で行われる十二夜の行事がある。ヨーロッパ各地に残るこうした祭りは、悪霊の仮装をして霊力を授かり、旧年の災厄を追い払う事が目的だが、実はここに出て来る「クランプス」は、オーストリアの山間地帯の村祭りに登場する鬼なのである。さらに、漫画の中でクランプスの身体から下がっている巨大な鈴は、スイスの村に伝わる別の祭りの「クロイセ」という来訪神から採られている。クロイセもまたクランプスと同じように、大晦日に災厄を祓い福を招く神なのだが、ここでも、舞台は北欧なのに、オーストリアとスイスの祭りが混在しているのが分かる。
さらに、ミラの家の建築様式に注目すると・・・ご存じの方なら判ると思うが、これは北欧の建築様式ではない。北欧の家屋のデザインはもっとシンプルである。ではこの様式はどこの国かというと、スイス中部の家屋に非常に似たものがある。また内装や調度品の一部(椅子やベッドのデザインに特長が顕著)は、ドイツ南西部の農家を参考にしていると思われるが、これは「ペザント・アート」と言って、農民の手作りによる家財道具の様式で、ヨーロッパに広く分布するものだ。有名なウィンザー・チェアもペザント・アートの一種である。
と、ちょっと脱線してしまったが、祭りと建築様式だけ見ても、スイスとオーストリアとドイツの文化が混ぜ合わさっているのだ。
このように、五十嵐さんの漫画は、様々な地域の文化や風習、宗教などがリアルに描かれているように見えて、実は色々なものをミックスして遊んでいるのである。
もっと判りやすい例を挙げよう。同「PETRA GENITALIX」で、見習い魔女のアリシアが都会へ出る時に履いているのはルーズソックスである。もはや死語だが(笑)この漫画が描かれた当時、女の子の間で流行っていたものだ。もちろんこれは日本で流行したもので、北欧の山奥の村に住む少女がルーズソックスを所有している訳がない。これは、「大いなる魔女」ミラと「見習い魔女」アリシアの、ふたつの世代の差を表現するための記号・・・つまり、ルーズソックスを履かせる事で、読者はアリシアが「今どきの若い女の子」だという事を無意識に理解するのである。これは読者が日本人である、という事を踏まえての確信犯的な表現であり、五十嵐さんはリアリズムに凝り固まるタイプではなく、巧みに「それらしい嘘」を作品の中に忍ばせる漫画家だという事が判ると思う。
だから『魔女』という作品は、設定なども敢えてあいまいにしているのである。「SPINDLE」の舞台となる街は、明らかにトルコのイスタンブールで、アヤ・ソフィア寺院としか思えないモスクが登場する。キリスト教(及びそれ以前の原始宗教)とイスラムの様式が融合した建造物だと説明される事からも、それは間違いない。しかし作品の中では地名も寺院の名前も明示していない。
「PETRA GENITALIX」の中でも、バチカンとしか思えない巨大宗教組織が登場する。しかしどこにも「キリスト教」や「バチカン」といった名称は出てこない。
実はこの作品の中に登場するのは、あくまで「アヤ・ソフィア寺院を思わせる」「バチカンらしき」ものであり、そのものではない、と考えた方が自然なのである。つまり『魔女』という作品は、我々が生きるこの世界の寓話であり、実在のものを描いている訳ではない、いわば「もう一つのあり得るかもしれない世界」を描いた物語なのである。
例えば、ヒロイック・ファンタジーというのは全てが創作された世界である。それは我々の日常世界とはかけ離れている。では人はファンタジーに接する時、その見慣れないものを拒絶するだろうか。答えは否、である。どんなに非日常的なものでも、ファンタジーと判っていれば人は「そういうもの」だと割り切って受け入れる事ができるのである。五十嵐さんの漫画もまた、ファンタジーなのだ。ただ、それは100%創作されたものではなく、我々が暮らす世界に存在する様々なものを足掛かりにして、想像力を羽ばたかせているだけ、なのである。
だから、ちっとも難しくないのだ。大事なのは、物語を通して五十嵐さんが何を読者に伝えようとしているかを感じる事であり、そこに描かれている細部のギミックを理解するための知識があるか、ないか、という事ではないのである。
かつて、ネットで五十嵐漫画の評判がどんなものか調べた事があって、あるミリタリーおたくらしき人が、「PETRA GENITALIX」に関して、作品そのものは称賛しつつも「バチカンから最も近いICBMの発射施設までは◆もの距離があるから、移動に少なくとも◆日かかって・・・だからここで描かれている事はいいかげんで、そういうところはきちんと調べて描いてほしかった」といった事を書いていたと記憶している。しかしそれは的外れな意見なのだ。『魔女』がリアルなこの世界を舞台にしています、とはどこにも書いていないのである。
実はおたくという人種は、意外に理屈っぽくて知識に捉われる人・・・つまり左脳型の人間が多い。しかし五十嵐大介の漫画は右脳の漫画である。自分自身を左脳から解き放て、右脳を遊ばせよ!と言っている漫画なのである。
だから、実は『魔女』を最も端的に象徴している作品は「うたぬすびと」なのかもしれない。これは、一人の少女が自然と正面から向き合う話で、本当に感じたまま受け止めればいい作品だからだ。
もう一度言おう、五十嵐漫画は大いなるホラ話なのである。
奔放な想像力と、独特の自然観と、超絶画力によって感覚に訴えかけてくる唯一無二のファンタジーなのだ。
それは、実は読者自身が勝手に「難しいもの」にしてしまっているだけなのだ。そもそも五十嵐さんの漫画は、難解な文学作品のような、読解力を必要とするような作風ではない。哲学的で思索的な作品でもない。読み解くために特別な知識を必要とするものでもない。
五十嵐さんほど純粋で判りやすく、感覚的で本能的で、「考えずにただ感じればよい」作品を描いている漫画家はほかにいない。人は風を感じる時、風を理解するための知識など必要としない。ただ純粋に「ああ、この風気持ちいいな」と感じる。それと全く同じなのだ。
では、なぜ人は五十嵐漫画を「むずかしい」と思い込んでしまうのだろうか。それを語ろうと思う。
「面白いんだけど、難しいですね」という言葉には、「すごいものを読んだ気がするのだけど、素直に好きとは言えない」というニュアンスがある。実はこの言葉を発した時点で、その人の中に相反する二つの感情がぶつかりあっている事が判る。本能は、この漫画を「好き」と言っているのだ。しかしもう一つの思いが、手離しで好きと言う事にためらいを感じさせているのだ。
実はマンガやアニメ好きの人間には、保守的な人間が多い。記号化され、パターン化された、自分が見慣れたものを読む、あるいは観る事で、安心したいという無意識の思考に凝り固まっている傾向が圧倒的に多い。ゆえに、見慣れないものに対する拒絶反応が強い。未知のものに出会うと、面白がるよりも先に警戒し、恐れるのである。「好奇心」よりも「排他的感情」が先に来るのである。そして、知識がなければ物事は理解できない、と思い込んでしまっている。
つまり、五十嵐大介の漫画は「普通の人が知らないようなマニアックな知識が詰まった作品」だと思っているのだ。それは大きな勘違いですよ、と言いたい。
誤解を恐れずに言ってしまおう。
五十嵐大介の漫画は、大いなるホラ話である、と。
これは、五十嵐さんの漫画を貶めるために言っている訳ではない。物語というのはそもそも創作されたもので、はなから「法螺」性を内包しているものである。言ってみれば、物語というのは、それ自体がホラなのである。
『魔女』という漫画は、世界の様々な辺境を舞台に、近代文明と一線を隔した価値観や文化の中で生きるシャーマニックな女性の姿を、奔放な想像力で紡いだ作品である。そこは、中近東のエキゾチックなバザールだったり、南米の密林の奥地だったり、北欧の寒村、あるいは南方の孤島だったりする。NHKの知識・教養系のドキュメンタリーと幻想物語が融合したような作品である。日本人には馴染みのない風習や祭り、文化などが描かれていて、予備知識がないと理解できないような錯覚を多くの読者が受けるらしい。
しかし、実はそうしたものは、五十嵐さんによる虚実ないまぜになった巧みな「創作」であり「遊び」なのだ。
例えば、『魔女』第1集に収録されている「KUARUPU」は、南米のジャングルに暮らす先住民族の呪術師と、そこに侵攻しようとするアメリカ帝国主義との闘いを描いた物語である。ここに登場する原住民は、かつてNHKスペシャル『ヤノマミ』や、ノンフィクションノベル『ピダハン-「言語本能」を超える文化と世界観』などで紹介された人々にそっくりで、まるで五十嵐氏本人が取材した事があるような、ものすごい存在感を持って描かれている。しかし五十嵐氏は、台湾などの近隣の東南アジア(と、フランスのアングレーム)以外はほとんど海外に足を運んだ事のない方で、想像力で描かれたものなのだ。
それを読み解くキーワードは、女呪術師「クマリ」の名前である。実はこの「クマリ」って、ネパールの生き神の少女神から採った名前なのである。南米の密林の呪術師なのに、名前は東南アジアの生き神さま・・・なのだ(笑)。
特にね、この「KUARUPU」は、「いや、ボク、南米の先住民とかよく知らないんで・・・」みたいな及び腰の意見をよく聞くのだが、何を恐れるのか?完全な創作なのですよ。
他にも『魔女』第2集の「PETRA GENITALIX」の冒頭、北欧の山中の村で行われる十二夜の行事がある。ヨーロッパ各地に残るこうした祭りは、悪霊の仮装をして霊力を授かり、旧年の災厄を追い払う事が目的だが、実はここに出て来る「クランプス」は、オーストリアの山間地帯の村祭りに登場する鬼なのである。さらに、漫画の中でクランプスの身体から下がっている巨大な鈴は、スイスの村に伝わる別の祭りの「クロイセ」という来訪神から採られている。クロイセもまたクランプスと同じように、大晦日に災厄を祓い福を招く神なのだが、ここでも、舞台は北欧なのに、オーストリアとスイスの祭りが混在しているのが分かる。
さらに、ミラの家の建築様式に注目すると・・・ご存じの方なら判ると思うが、これは北欧の建築様式ではない。北欧の家屋のデザインはもっとシンプルである。ではこの様式はどこの国かというと、スイス中部の家屋に非常に似たものがある。また内装や調度品の一部(椅子やベッドのデザインに特長が顕著)は、ドイツ南西部の農家を参考にしていると思われるが、これは「ペザント・アート」と言って、農民の手作りによる家財道具の様式で、ヨーロッパに広く分布するものだ。有名なウィンザー・チェアもペザント・アートの一種である。
と、ちょっと脱線してしまったが、祭りと建築様式だけ見ても、スイスとオーストリアとドイツの文化が混ぜ合わさっているのだ。
このように、五十嵐さんの漫画は、様々な地域の文化や風習、宗教などがリアルに描かれているように見えて、実は色々なものをミックスして遊んでいるのである。
もっと判りやすい例を挙げよう。同「PETRA GENITALIX」で、見習い魔女のアリシアが都会へ出る時に履いているのはルーズソックスである。もはや死語だが(笑)この漫画が描かれた当時、女の子の間で流行っていたものだ。もちろんこれは日本で流行したもので、北欧の山奥の村に住む少女がルーズソックスを所有している訳がない。これは、「大いなる魔女」ミラと「見習い魔女」アリシアの、ふたつの世代の差を表現するための記号・・・つまり、ルーズソックスを履かせる事で、読者はアリシアが「今どきの若い女の子」だという事を無意識に理解するのである。これは読者が日本人である、という事を踏まえての確信犯的な表現であり、五十嵐さんはリアリズムに凝り固まるタイプではなく、巧みに「それらしい嘘」を作品の中に忍ばせる漫画家だという事が判ると思う。
だから『魔女』という作品は、設定なども敢えてあいまいにしているのである。「SPINDLE」の舞台となる街は、明らかにトルコのイスタンブールで、アヤ・ソフィア寺院としか思えないモスクが登場する。キリスト教(及びそれ以前の原始宗教)とイスラムの様式が融合した建造物だと説明される事からも、それは間違いない。しかし作品の中では地名も寺院の名前も明示していない。
「PETRA GENITALIX」の中でも、バチカンとしか思えない巨大宗教組織が登場する。しかしどこにも「キリスト教」や「バチカン」といった名称は出てこない。
実はこの作品の中に登場するのは、あくまで「アヤ・ソフィア寺院を思わせる」「バチカンらしき」ものであり、そのものではない、と考えた方が自然なのである。つまり『魔女』という作品は、我々が生きるこの世界の寓話であり、実在のものを描いている訳ではない、いわば「もう一つのあり得るかもしれない世界」を描いた物語なのである。
例えば、ヒロイック・ファンタジーというのは全てが創作された世界である。それは我々の日常世界とはかけ離れている。では人はファンタジーに接する時、その見慣れないものを拒絶するだろうか。答えは否、である。どんなに非日常的なものでも、ファンタジーと判っていれば人は「そういうもの」だと割り切って受け入れる事ができるのである。五十嵐さんの漫画もまた、ファンタジーなのだ。ただ、それは100%創作されたものではなく、我々が暮らす世界に存在する様々なものを足掛かりにして、想像力を羽ばたかせているだけ、なのである。
だから、ちっとも難しくないのだ。大事なのは、物語を通して五十嵐さんが何を読者に伝えようとしているかを感じる事であり、そこに描かれている細部のギミックを理解するための知識があるか、ないか、という事ではないのである。
かつて、ネットで五十嵐漫画の評判がどんなものか調べた事があって、あるミリタリーおたくらしき人が、「PETRA GENITALIX」に関して、作品そのものは称賛しつつも「バチカンから最も近いICBMの発射施設までは◆もの距離があるから、移動に少なくとも◆日かかって・・・だからここで描かれている事はいいかげんで、そういうところはきちんと調べて描いてほしかった」といった事を書いていたと記憶している。しかしそれは的外れな意見なのだ。『魔女』がリアルなこの世界を舞台にしています、とはどこにも書いていないのである。
実はおたくという人種は、意外に理屈っぽくて知識に捉われる人・・・つまり左脳型の人間が多い。しかし五十嵐大介の漫画は右脳の漫画である。自分自身を左脳から解き放て、右脳を遊ばせよ!と言っている漫画なのである。
だから、実は『魔女』を最も端的に象徴している作品は「うたぬすびと」なのかもしれない。これは、一人の少女が自然と正面から向き合う話で、本当に感じたまま受け止めればいい作品だからだ。
もう一度言おう、五十嵐漫画は大いなるホラ話なのである。
奔放な想像力と、独特の自然観と、超絶画力によって感覚に訴えかけてくる唯一無二のファンタジーなのだ。
2013年5月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
圧倒的で頭がぐらぐらするような世界。
もっと早く出会いたかった、世界各地の魔女に関する短編集。
第2抄のKUARUPUは、アマゾンの奥地に住む『ヤノマミ』のルポを彷彿とさせた。
私たちの日常が、どれだけの人(生物)たちの思いや歴史の上に成り立っているのか。
今立っている場所の地殻をばりばりと剥がされるような思いがする。
傑作です。もちろん、お勧め。
もっと早く出会いたかった、世界各地の魔女に関する短編集。
第2抄のKUARUPUは、アマゾンの奥地に住む『ヤノマミ』のルポを彷彿とさせた。
私たちの日常が、どれだけの人(生物)たちの思いや歴史の上に成り立っているのか。
今立っている場所の地殻をばりばりと剥がされるような思いがする。
傑作です。もちろん、お勧め。
2019年2月14日に日本でレビュー済み
出版の形式が、作品のレヴェルに見合っていない。
紙質のお粗末な(それにしても、以前に比べ、コミック本の紙質は本当に悪くなった)小さな版で
出版しては、この作家の独創的で卓越した画力の魅力も、半減しようと言うものだ。
海外、例えばフランス等では、漫画もアートとして扱われ、それなりのカタチで
出版されているようだが、いわゆる漫画家と言っても、この作家の作品は、どんどん消費されて
出版社を儲けさせ、読み捨てられて行くようなものとは、次元が少し違うのである。
本書に限らず、五十嵐大介の作品はすべて、その魅力を最大限堪能できるような、新たなカタチで、
出版し直されるべきだと思う。
紙質のお粗末な(それにしても、以前に比べ、コミック本の紙質は本当に悪くなった)小さな版で
出版しては、この作家の独創的で卓越した画力の魅力も、半減しようと言うものだ。
海外、例えばフランス等では、漫画もアートとして扱われ、それなりのカタチで
出版されているようだが、いわゆる漫画家と言っても、この作家の作品は、どんどん消費されて
出版社を儲けさせ、読み捨てられて行くようなものとは、次元が少し違うのである。
本書に限らず、五十嵐大介の作品はすべて、その魅力を最大限堪能できるような、新たなカタチで、
出版し直されるべきだと思う。
2021年2月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
絵が上手くてコマが絵画のようと言う噂を聞いて期待して買いましたが、残念な結果でした。絵は殴り書きのようなごちゃごちゃした物ではっきり言ってそこまで上手くありません。芸術的でもないです。この程度ならclampのcloverやxのような書き込みの方が好みです。それに手塚漫画の方が凝っている背景すらありました。
話は単純で特に得るものはないです。
絵が気に入れば好きになるのかなと思いました。
話は単純で特に得るものはないです。
絵が気に入れば好きになるのかなと思いました。