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ナチュラル・ウーマン 単行本 – 1994/10/1
松浦 理英子
(著)
- 本の長さ168ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1994/10/1
- ISBN-104309009328
- ISBN-13978-4309009322
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「私はこの小説を書いたことを誇りに思う」。日本文学という手ばなしの母性礼讃の土壌、さらに小さ神礼讃の土壌に、著者が突き出したナチュラル・ウーマンの意味は大きい。80年代に孤立した輝きを放った畸型的傑作。再刊。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1994/10/1)
- 発売日 : 1994/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 168ページ
- ISBN-10 : 4309009328
- ISBN-13 : 978-4309009322
- Amazon 売れ筋ランキング: - 991,128位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 23,065位日本文学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2002年3月3日に日本でレビュー済み
或る程度の技術を持つ作家であれば(その気になれば)誰でもレズビアンの行動描写を組み立てることはできる(はずだ)と思うのですが、心理描写となると話は全く別なのです。本書におけるレズビアンの心理描写が含んでいる誤解の規模の大きさは、例えば、K.V.Forrestのような作家の著作と比較してみると明らかになると思います。結局、本作を書くに当たって松浦さんが犯した最大のミスはいたずらにレズビアン存在の<内面>を繰り回したことなのではないでしょうか。
2013年5月10日に日本でレビュー済み
これまでボーイズ・ラブ的な小説は何冊か読んで来た。映画(イギリス映画)においても、フォースター原作の『モーリス』など、それはもう耽美的で、うっとりしてしまったものだ。
だが年齢とともに、そういう同性愛のお話には限界を感じて来た。自分なりにあれこれ考えてみたのだが、やはり友情としての域を超えてしまった時点で、それは異空間のお話になるのだ。
人は、作中の登場人物に何らかのシンパシーを感じないと、なかなかその作品に入って行くことができない。つまり、私に同性愛嗜好がない限り、その小説は私にとっての恋愛小説とはなり得ず、ファンタジーかオカルト的な作品に思えてしまうわけだ。
なぜそれが若いうちには受け入れられたのかは、今ならなんとなく分かる。おそらく女性としての性からの逃避ではなかっただろうか?
もちろん、興味本位もあったことは確かだが。
そんな中、『ナチュラル・ウーマン』を読んでみた。
これはボーイズ・ラブとは対極にある、女性の同性愛を扱った小説である。いや、これには驚いた。
自分がいかにその方面(?)に疎いか、思い知らされた。
女性が女性のまま女性を愛するプロセスを小説にしたものだが、友情とはベクトルの向きが全く違うのだ。つまり、正真正銘の恋愛なのだ。
だが私は、つまらない疑問を抱いてしまった。そもそも女性同士が愛し合う(?)ことって、あり得るのだろうかと。
心配無用。その疑問は、読了後にすっかり払拭された(笑)
話はこうだ。
22歳の容子は、サークルで知り合った花世に夢中だ。
ある時、容子は花世のアパートに一緒に帰ることになった。そしてそこで、二人は官能的な愉しみを覚えることになった。
花世はクールで知的で誰にもたやすく心を明け渡すことのない、誇り高い女性だ。そんな花世を好きになる男は多く、何人か交際したが、長続きしなかった。
一方、容子もそれなりに男から声をかけられ、一応付き合ってみたものの、余りの退屈さにうんざりしてしまった。
友人たちの恋愛話を聞いても、羨ましさを感じることはなく、おそらく自分は一生恋愛しないに違いないと思い込んでいた。
ところがサークルに入会し、花世と出逢ったことで、恋愛の対象が同性である花世であることに気付いてしまったのだ。
この作品は官能小説ではなく、性愛小説だ。
ものすごく実験的なものを感じるし、男女間では感じにくい、耽美的で、しかし貪欲な性の愉しみを垣間見ることができる。
また作中、男性の登場人物は皆無で、ほとんどが女性だ。
生殖を伴わない、生殖行為からの解放は、女性解放にもつながる。
何やら私は物凄く進化形の恋愛を見たような気がするのだが、みなさんはこの異色の作品をどう捉えるでしょうか?
だが年齢とともに、そういう同性愛のお話には限界を感じて来た。自分なりにあれこれ考えてみたのだが、やはり友情としての域を超えてしまった時点で、それは異空間のお話になるのだ。
人は、作中の登場人物に何らかのシンパシーを感じないと、なかなかその作品に入って行くことができない。つまり、私に同性愛嗜好がない限り、その小説は私にとっての恋愛小説とはなり得ず、ファンタジーかオカルト的な作品に思えてしまうわけだ。
なぜそれが若いうちには受け入れられたのかは、今ならなんとなく分かる。おそらく女性としての性からの逃避ではなかっただろうか?
もちろん、興味本位もあったことは確かだが。
そんな中、『ナチュラル・ウーマン』を読んでみた。
これはボーイズ・ラブとは対極にある、女性の同性愛を扱った小説である。いや、これには驚いた。
自分がいかにその方面(?)に疎いか、思い知らされた。
女性が女性のまま女性を愛するプロセスを小説にしたものだが、友情とはベクトルの向きが全く違うのだ。つまり、正真正銘の恋愛なのだ。
だが私は、つまらない疑問を抱いてしまった。そもそも女性同士が愛し合う(?)ことって、あり得るのだろうかと。
心配無用。その疑問は、読了後にすっかり払拭された(笑)
話はこうだ。
22歳の容子は、サークルで知り合った花世に夢中だ。
ある時、容子は花世のアパートに一緒に帰ることになった。そしてそこで、二人は官能的な愉しみを覚えることになった。
花世はクールで知的で誰にもたやすく心を明け渡すことのない、誇り高い女性だ。そんな花世を好きになる男は多く、何人か交際したが、長続きしなかった。
一方、容子もそれなりに男から声をかけられ、一応付き合ってみたものの、余りの退屈さにうんざりしてしまった。
友人たちの恋愛話を聞いても、羨ましさを感じることはなく、おそらく自分は一生恋愛しないに違いないと思い込んでいた。
ところがサークルに入会し、花世と出逢ったことで、恋愛の対象が同性である花世であることに気付いてしまったのだ。
この作品は官能小説ではなく、性愛小説だ。
ものすごく実験的なものを感じるし、男女間では感じにくい、耽美的で、しかし貪欲な性の愉しみを垣間見ることができる。
また作中、男性の登場人物は皆無で、ほとんどが女性だ。
生殖を伴わない、生殖行為からの解放は、女性解放にもつながる。
何やら私は物凄く進化形の恋愛を見たような気がするのだが、みなさんはこの異色の作品をどう捉えるでしょうか?
2003年6月27日に日本でレビュー済み
この本を読むときっと誰でも自分の恋愛を振り返らずにいられないでしょう。利害関係が一致しただけの交際。好きになり過ぎて届かなかった恋。そして二度と繰り返せないほどのエネルギーを必要とした恋。そういった関係が女性同士であるからこそ、より激しく感情的に描写されている。男女の関係にも当てはまることだけど、でも置き換えて読むのはルール違反かもしれませんね。
甘いだけのラブストーリーなんてウソ、と思う方にオススメ。
甘いだけのラブストーリーなんてウソ、と思う方にオススメ。
2007年7月15日に日本でレビュー済み
松浦理英子は寡作である。出された本は 数えるほどしかない。しかし その存在感は相当なものである。
本書は 女性作家が描く 女性の同性愛の話である。男性の僕としては ある意味で そうしようもなく分からない状況であるとしか言いようがない。
基本的には 人間には男性と女性しかいないと思う。例えば 男性でありながら心は女性であるという方もいらっしゃるわけだが その方を「女性」とジャンルしてしまえば 引き続きその2種類しかない。
男性に属する僕にして 本書を読んでいると 「女性」というものは分からないものであると つくづく思った。「女性」の考え方、生理、本能といったものが なまなましく描かれているのが 本書なのだろうと かろうじて思っているが そのなまなましさ自体が 本当なのかどうかもわからない。
そんな迷宮に迷い込んだ思いを強く感じさせるのも本書である。
本書は 女性作家が描く 女性の同性愛の話である。男性の僕としては ある意味で そうしようもなく分からない状況であるとしか言いようがない。
基本的には 人間には男性と女性しかいないと思う。例えば 男性でありながら心は女性であるという方もいらっしゃるわけだが その方を「女性」とジャンルしてしまえば 引き続きその2種類しかない。
男性に属する僕にして 本書を読んでいると 「女性」というものは分からないものであると つくづく思った。「女性」の考え方、生理、本能といったものが なまなましく描かれているのが 本書なのだろうと かろうじて思っているが そのなまなましさ自体が 本当なのかどうかもわからない。
そんな迷宮に迷い込んだ思いを強く感じさせるのも本書である。
2006年11月21日に日本でレビュー済み
恋愛(といっても同性愛だけど)の辛さ、喜び、切なさを克明に描いている。それだけでも十分読むに値すると思うが、そのあたりは他のレヴューに譲るとして、自分が特筆したいのは、読んでいて女陰のにおいが生々しく立ちのぼる稀有な作品だという点だ。これは比喩で言っているのではなく、幻臭とでも言うか、本当にそのようなものをはっきりと実感した。あと下着や生理用品の匂いも。こんなにも匂い立つ文章を書ける作家は世界中探してもなかなかいないのではないだろうか。ほかにいたらぜひ教えて下さい。
2006年12月19日に日本でレビュー済み
つくづく、女でないと書けない小説だと感じた。女の同性愛の話だからではなく、行間から立ち上ってくる生々しいまでの生理感覚が、まさに女特有のものだから。愛するということは、自分の身を削って、すり減らしていくことなのだろうか。でもそれこそが青春なのかも知れない。どんなに絶望しても裏切られても、人は愛することをやめられないのだから。
2006年4月16日に日本でレビュー済み
「私」をとりまく、三人の女性との愛の物語。時間がさかのぼってゆく構成になっており、これは面白い手法だ。夕記子、由梨子、花世の中で、結局「私」にとって一番意味があるのは花世との関係だ。「私」にとっての愛は、花世との緊張関係の中に存在する危ういものだ。花世に取り込まれたいという欲求は、花世に拒絶されることによりまた高まり、それゆえ狂おしいほどに花世を求め、また拒絶される。そうした矛盾の中に「私」は自分のあり様を認める。決して成就しない愛。「毛皮を着たビーナス」や「痴人の愛」にも通じる、ひとつの至高の愛の形がここにもある。性器を巡る「私」と「花世」のやりとりは本当に興味深い。
2004年8月21日に日本でレビュー済み
こんなに痛い恋愛はないのかもしれません。好きで好きでたまらないのに、一緒にいるとお互いの身を削っていくような恋愛。身体も心もヒリヒリするような交わり。こ気味よく展開される甘くて痛い会話。
どれも読んでいてきりきりするような痛さを伴うのに、なぜかうっとりとしてしまう。読みながら彼女たちの関係にどこか憧れをもってしまう。それはたぶん彼女たちの関係がとてもピュアだから。日々の生活で忘れてしまいそうなくらい、痛いほどの純粋さ。
おばあちゃんになっても、私は本棚からこの本を取り出して、うっとりと彼女たちの関係の中にヒリヒリとしながら夢を見そうな気がします。
どれも読んでいてきりきりするような痛さを伴うのに、なぜかうっとりとしてしまう。読みながら彼女たちの関係にどこか憧れをもってしまう。それはたぶん彼女たちの関係がとてもピュアだから。日々の生活で忘れてしまいそうなくらい、痛いほどの純粋さ。
おばあちゃんになっても、私は本棚からこの本を取り出して、うっとりと彼女たちの関係の中にヒリヒリとしながら夢を見そうな気がします。