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物と心 ペーパーバック – 1976/1/1
大森 荘蔵
(著)
- 本の長さ328ページ
- 言語日本語
- 出版社東京大学出版会
- 発売日1976/1/1
- ISBN-104130100327
- ISBN-13978-4130100328
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登録情報
- 出版社 : 東京大学出版会 (1976/1/1)
- 発売日 : 1976/1/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 328ページ
- ISBN-10 : 4130100327
- ISBN-13 : 978-4130100328
- Amazon 売れ筋ランキング: - 745,755位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,680位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 94,322位ノンフィクション (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年2月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今、目の前にある物、ものごとは、じかに立ち現れ、実は一つのものにほかならないという「立ち現れ一元論」が示される。全体としての立ち現れがじかに在り、幾何学の表現を用いて抜き書きしたものが、自然科学での物質描写であるという。一元論は、古くからシャンカラ の不ニ一元論などがあるが、「私」が世界であるとすると、分離は無く無我につながる。また、哲学の思考により導かれた一元論は、バークリーがいるが、物理学を極めた著者の議論は最新物理まで対象であり、時間論も含めて興味が尽きず、哲学の醍醐味といえる。立ち現れ一元論は、観念論ではないと解説にはあるが、世界が立ち現れているとすると、気づき・体験による一元論といってもよいと思う。
2015年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最近の評価が高いのでしょうね。表現・文体が衒学的なところがあって、哲学を難解で冗長なものに貶めている。筆者にはこの著書は、マス目を埋めて原稿料稼ぎをするにしか見えず残念でした。
唯物論者に挙げられていないが、従来ラテン語で書かれてきた哲学論文をフランス語で出版した
デカルトの志の高さに比肩してしまうのだ。西欧近代を甘く見てはいけない。
大森氏はアメリカ帰国組で、経歴からも窺われる志操の貧しさは明治維新組の流れを受け継ぎ、この国の悪しき傾向を示すものだろう。
唯物論者に挙げられていないが、従来ラテン語で書かれてきた哲学論文をフランス語で出版した
デカルトの志の高さに比肩してしまうのだ。西欧近代を甘く見てはいけない。
大森氏はアメリカ帰国組で、経歴からも窺われる志操の貧しさは明治維新組の流れを受け継ぎ、この国の悪しき傾向を示すものだろう。
2016年6月29日に日本でレビュー済み
たとえば「テレビが見えている。だからそこに見てる私が存在する」とデカルトが言ったとすれば、経験論者ヒュームは、「テレビ画面が私であっていいはずだ」と言ったと私には思える。
たとえば、鏡の前にりんごがあるとします。
質問 鏡の前のりんごと鏡の中のりんごのどちらが本等のりんごの視覚に近いでしょうか。
答え 鏡の中のりんご。
理由 鏡の前のりんごには存在感がある。
でも、りんごの視覚そのものには、存在感はないので、存在感のない鏡の中のりんごが本等の視覚に近いと言えます。
存在感を確認する実験
1、あなたは、たまごを用意して、パックから1つ取り出して割って見せます。
2、「それじゃあ、もうひとつ割ります」と言って、パックからたまごを出す。
でも、たまごを手からすべり落とします。
たまごは、テーブルの上でバンウンドして、地面に落ちて、高くバウンドして、転がりました。
3、そこで、見てる人に、そのたまごを渡してこう言います。
「他の人もここに同じたまごがありますので、手にとってごらんください」と言って、用意したたまごを配ります。
「みなさんがお持ちのは、たまご型のゴムボールです。それを自分の前のテーブルに置いてもらえますか」
4、「みなさんは、これを見てたまごの存在感を持ちましたね」
「でも、これが壊れずに、バウンドするのを見て、あれっ、と思ったでしょう」
「その時、たまごの存在感は消えました」
「何だろうと思いましたね」
「一瞬、見えているけど何だかわからない、空白な感じがしたはずです」
「そして、これをしっかり触って確かめたので、みなさんの前のたまごは、ゴムボールの存在感を持っていますね」
以上のことで、われわれが日常見ている事物の存在感について気づくことができると思います。
この実験から、われわれがふだん見ている事物は、視覚映像と存在感の二つによって形成されていることがわかります。
そして、視覚映像は目に映った映像そのままであるのに対して、存在感は脳の中でつくられている。
このため、存在感は時として壊れます。しかし新たな経験によって作り替えられます。
このことは存在感の主要な構成要素は記憶だということがわかると思います。そして存在感の発生の仕方として、視覚映像によって一方的に発生し、視覚と表裏一体となって知覚されてる。
存在感の形成の仕方として経験による直接性と経験のみによる強い一方性をあげることができます。
そして視覚映像によって形成される存在感は、あたかも視覚映像の一部であるような視覚映像との一体性を持って形成されています。
鏡の外の世界(経験の圧倒的な強さ)
鏡の中のりんごに存在感がないのは、それが触れることができないからです。鏡の中のりんごには触れた経験がなく、かじった経験がない。このため、経験に基づいた強い記憶が形成されていない。
鏡の中の物に手を出しても、鏡に触れた経験しかない。そこには鏡の存在感しかない。
鏡の中の物の経験は、それに触れようとした時の鏡にぶつかった経験しかないからだ。
鏡の前のりんごと鏡の中のりんごは光学的に見かけは同じです。しかし鏡の外のあらゆる日常的な物が存在感を持っているのに、鏡の中の物には存在感がない。
りんごを見ながら、それに触れ、かじることで、りんごの見かけにりんごについての経験が記憶として結び付きを形成する。この記憶の結びつきにより、りんごを見た時、りんごの様々な記憶が一度に再生される。この記憶の束が、存在感をつくっている。
目の前のりんごが存在感を持っているのは、その見かけがそのりんごに関するいきいきとした記憶を再生しているということなのです。
鏡の視覚映像について言えることが、そのまま3Dテレビの映像についても言える。
初めて、電気店で3Dメガネを付けたとき、立体映像に迫力を感じた。そして宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」なんて文句を読んで、3D機能付きのテレビを買ってしまった人もいるだろう。
でもやがて、3Dテレビのこの宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」は誇大広告であることに気づいてしまう。3Dテレビの映像には「臨場感」も「リアリティ」もない。日常的な事物にある存在感がそこにはない。
もともと鏡の映像は、3D映像で、裸眼で見れる自然な3D映像です。3Dテレビの映像には鏡の中の映像以上の「臨場感」も「リアリティ」もない。
鏡の中の映像に、人はそれが鏡であると気づくともう見向きもしない。同じように3D映像に慣れてくると初めて電気店で見た迫力は薄れてします。
確かに、3D映像は2D映像に比べてすぐれています。メガネを掛ける等の煩わしさがなければ、だれもが3D映像を見るでしょう。たとえば鏡に写った自分を片目(=2D)で見たいか、両目で見たいか(=3D)と問えば、だれでも両目で見たいのです。
しかし我々が日常的に目にする周囲の事物の存在感は、鏡の映像に無いように、3D映像にもつくれません。鏡の前に立っている時、鏡の中の自分の映像の存在感は、鏡の前にあります。鏡の中には、鏡の存在感以外何もない。その原因は、鏡には鏡に触れた経験しかないことです。
同じように、3Dテレビを見ている時、目の前にはテレビの存在感しかなく、その映像に存在感はない。目の前には、テレビに触れる経験しかないからです。
記憶がモラルをつくる
たとえば、目の前で他人が注射をされている。
だれしも「痛そう」と思う。
自分が注射されようとしている時、注射針を見て、やはり「痛そう」と思う。
前者は他人の痛みのことで、後者は自分の痛みのことだが、実は両方とも自分の記憶の痛みだ。
この記憶の働きは、日常的な、りんごを見ると「うまそう」と思うのと同じだ。
りんごを見て、りんごを食べた記憶が働いたのです。
まったく同様に、他人の苦痛の声や表情があなたの記憶の痛みを働かせる時、他人の痛みを感じます。
それが目の前で起こると、生き生きと働くため素直に受け止めれば、黙っていられなくなる。あなたは目の前の人を助けようとする。
これが愛であり、モラルの原因だ。
愛もモラルも記憶の単純な働きがつくる。だから人口知能の記憶が動物の記憶と同じになれば愛もモラルも生まれてくる。
たとえば、鏡の前にりんごがあるとします。
質問 鏡の前のりんごと鏡の中のりんごのどちらが本等のりんごの視覚に近いでしょうか。
答え 鏡の中のりんご。
理由 鏡の前のりんごには存在感がある。
でも、りんごの視覚そのものには、存在感はないので、存在感のない鏡の中のりんごが本等の視覚に近いと言えます。
存在感を確認する実験
1、あなたは、たまごを用意して、パックから1つ取り出して割って見せます。
2、「それじゃあ、もうひとつ割ります」と言って、パックからたまごを出す。
でも、たまごを手からすべり落とします。
たまごは、テーブルの上でバンウンドして、地面に落ちて、高くバウンドして、転がりました。
3、そこで、見てる人に、そのたまごを渡してこう言います。
「他の人もここに同じたまごがありますので、手にとってごらんください」と言って、用意したたまごを配ります。
「みなさんがお持ちのは、たまご型のゴムボールです。それを自分の前のテーブルに置いてもらえますか」
4、「みなさんは、これを見てたまごの存在感を持ちましたね」
「でも、これが壊れずに、バウンドするのを見て、あれっ、と思ったでしょう」
「その時、たまごの存在感は消えました」
「何だろうと思いましたね」
「一瞬、見えているけど何だかわからない、空白な感じがしたはずです」
「そして、これをしっかり触って確かめたので、みなさんの前のたまごは、ゴムボールの存在感を持っていますね」
以上のことで、われわれが日常見ている事物の存在感について気づくことができると思います。
この実験から、われわれがふだん見ている事物は、視覚映像と存在感の二つによって形成されていることがわかります。
そして、視覚映像は目に映った映像そのままであるのに対して、存在感は脳の中でつくられている。
このため、存在感は時として壊れます。しかし新たな経験によって作り替えられます。
このことは存在感の主要な構成要素は記憶だということがわかると思います。そして存在感の発生の仕方として、視覚映像によって一方的に発生し、視覚と表裏一体となって知覚されてる。
存在感の形成の仕方として経験による直接性と経験のみによる強い一方性をあげることができます。
そして視覚映像によって形成される存在感は、あたかも視覚映像の一部であるような視覚映像との一体性を持って形成されています。
鏡の外の世界(経験の圧倒的な強さ)
鏡の中のりんごに存在感がないのは、それが触れることができないからです。鏡の中のりんごには触れた経験がなく、かじった経験がない。このため、経験に基づいた強い記憶が形成されていない。
鏡の中の物に手を出しても、鏡に触れた経験しかない。そこには鏡の存在感しかない。
鏡の中の物の経験は、それに触れようとした時の鏡にぶつかった経験しかないからだ。
鏡の前のりんごと鏡の中のりんごは光学的に見かけは同じです。しかし鏡の外のあらゆる日常的な物が存在感を持っているのに、鏡の中の物には存在感がない。
りんごを見ながら、それに触れ、かじることで、りんごの見かけにりんごについての経験が記憶として結び付きを形成する。この記憶の結びつきにより、りんごを見た時、りんごの様々な記憶が一度に再生される。この記憶の束が、存在感をつくっている。
目の前のりんごが存在感を持っているのは、その見かけがそのりんごに関するいきいきとした記憶を再生しているということなのです。
鏡の視覚映像について言えることが、そのまま3Dテレビの映像についても言える。
初めて、電気店で3Dメガネを付けたとき、立体映像に迫力を感じた。そして宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」なんて文句を読んで、3D機能付きのテレビを買ってしまった人もいるだろう。
でもやがて、3Dテレビのこの宣伝文句の「まるでその場に居るかのような臨場感と、手にとれそうなリアリティ」は誇大広告であることに気づいてしまう。3Dテレビの映像には「臨場感」も「リアリティ」もない。日常的な事物にある存在感がそこにはない。
もともと鏡の映像は、3D映像で、裸眼で見れる自然な3D映像です。3Dテレビの映像には鏡の中の映像以上の「臨場感」も「リアリティ」もない。
鏡の中の映像に、人はそれが鏡であると気づくともう見向きもしない。同じように3D映像に慣れてくると初めて電気店で見た迫力は薄れてします。
確かに、3D映像は2D映像に比べてすぐれています。メガネを掛ける等の煩わしさがなければ、だれもが3D映像を見るでしょう。たとえば鏡に写った自分を片目(=2D)で見たいか、両目で見たいか(=3D)と問えば、だれでも両目で見たいのです。
しかし我々が日常的に目にする周囲の事物の存在感は、鏡の映像に無いように、3D映像にもつくれません。鏡の前に立っている時、鏡の中の自分の映像の存在感は、鏡の前にあります。鏡の中には、鏡の存在感以外何もない。その原因は、鏡には鏡に触れた経験しかないことです。
同じように、3Dテレビを見ている時、目の前にはテレビの存在感しかなく、その映像に存在感はない。目の前には、テレビに触れる経験しかないからです。
記憶がモラルをつくる
たとえば、目の前で他人が注射をされている。
だれしも「痛そう」と思う。
自分が注射されようとしている時、注射針を見て、やはり「痛そう」と思う。
前者は他人の痛みのことで、後者は自分の痛みのことだが、実は両方とも自分の記憶の痛みだ。
この記憶の働きは、日常的な、りんごを見ると「うまそう」と思うのと同じだ。
りんごを見て、りんごを食べた記憶が働いたのです。
まったく同様に、他人の苦痛の声や表情があなたの記憶の痛みを働かせる時、他人の痛みを感じます。
それが目の前で起こると、生き生きと働くため素直に受け止めれば、黙っていられなくなる。あなたは目の前の人を助けようとする。
これが愛であり、モラルの原因だ。
愛もモラルも記憶の単純な働きがつくる。だから人口知能の記憶が動物の記憶と同じになれば愛もモラルも生まれてくる。
2005年1月7日に日本でレビュー済み
わたしと世界,物と心,精神と肉体など,二元論的な世界認識による,世界からのわたしの疎外から,「立ち現れ」一元論的な世界認識の提示によって,回復しようという試みである。
目で見たものが,脳のなかではなく,目で見たとおりの場所に在るのはなぜか。想起された知人の顔を,目を使わずに見ることができ,心のなかで流れたメロディーが,耳を使わずに聞こえるのはなぜか。
疑問に思わないことが,じつは大疑問であることを示しながら,すべてが心だ,という見地から疑問を解きほぐしてゆき,ここから先はわからない,という地点を示す。
人気の池田晶子氏は,すべては心だ,というが大森氏は,すべてが心だ,という。「は」と「が」が微妙に違うようだ。
難解な単語を使わずに,大常識的にかつ強靭に思考された好著だと思う。
目で見たものが,脳のなかではなく,目で見たとおりの場所に在るのはなぜか。想起された知人の顔を,目を使わずに見ることができ,心のなかで流れたメロディーが,耳を使わずに聞こえるのはなぜか。
疑問に思わないことが,じつは大疑問であることを示しながら,すべてが心だ,という見地から疑問を解きほぐしてゆき,ここから先はわからない,という地点を示す。
人気の池田晶子氏は,すべては心だ,というが大森氏は,すべてが心だ,という。「は」と「が」が微妙に違うようだ。
難解な単語を使わずに,大常識的にかつ強靭に思考された好著だと思う。