本書は「責任」とはどのようなものか、また我々は「責任」にどのように向き合っていけばいいのかを論じた良書である。
ただし軽いノリの新書ではないので腰をすえて読む必要があるだろう。
まず知人に預けた子供が池に落ちて死亡した事故とJR福知山線脱線事故における責任追及の行われ方を取り上げ、問題を提起している。
前者においては子供を預けた側と預かった側がお互いを非難し、また一般市民から両者に対する抗議や嫌がらせが行われた。
後者はJR西日本が開いた謝罪会見の場で、一部の記者が「謝ればすむと思っているのか」と激しく責任追及をしたことを取り上げている。
これらの事例を受けて筆者は、「責任」とはそもそも不確実なもので誰にどの程度の「責任」があるのかを決める絶対的な基準はないと指摘し、
感情的な非難合戦に終始するのではなく、我々の「よき慣習」に支えられた「人倫性」に従って「責任」の質や範囲を確定していくべきだと主張している。
カントをはじめとする哲学者は、「自由な意思」を持った主体が理性的に行動するために行動の結果に対して責任が生じると責任概念を構築しているが、
筆者は完全なる自由意志は存在せず、そのため行為の結果生じる責任は不確実性を帯びると述べている。
さらに、我々は起きてしまった事態に対する怒りや悲しみ、また共同体の秩序が崩れかねない危機感に見舞われ、
この感情を収拾する必要性から事態の原因者を突き止め非難したいという欲求に駆られる。この欲求が「責任」概念を生み出していると指摘している。
だからこそこの責任概念を生み出す我々の感情を踏まえたうえで、「人倫性」に基づき責任問題に対処するべきだと主張している。
一部難解な議論が展開され、また責任概念の構築が数箇所にわたって行われ理論展開を把握しづらいが、筆者の提唱は心に刺さるもので必読の書である。
個人的に他の著書にも共通してみられる筆者の共同体を重んじる価値観や民衆に蔓延している安易な思想に警告を発しよき社会を作ろうという姿勢に
共感を覚えるためでもあるが、自信を持って推薦できる書である。

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「責任」はだれにあるのか (PHP新書) 新書 – 2005/10/15
小浜 逸郎
(著)
最近わが国では、企業の社会的責任、政治家の責任、事故を起こした者の責任など、責任を追及する声がひときわ高まっている。だが、いったい「責任」という概念はいかなる根拠に基づいて建てられているのか。正しい責任のとり方とは。人は責任をどこまで負えるのか。
JR脱線事故やイラク人質の「自己責任」論争、戦後世代の「戦争責任」など公共的な問題から、男女、親子における個別の責任問題までを人間論的に考察。被害者─加害者というこじれた感情をどう克服するか。
さらに、哲学は責任をどう捉えていたのかについても論考する。丸山真男の「無責任体系」、ヤスパースの「罪」の概念、カントの『道徳形而上学原論』における定義、等々。
著者は、法や倫理では割り切れない「責任」の不条理性を自覚しながら、共同社会が共有する「人倫感覚」がどのようなものかを推し量ることが大切であると説く。「求められる責任」と「感じる責任」を真摯に追及した書である。
JR脱線事故やイラク人質の「自己責任」論争、戦後世代の「戦争責任」など公共的な問題から、男女、親子における個別の責任問題までを人間論的に考察。被害者─加害者というこじれた感情をどう克服するか。
さらに、哲学は責任をどう捉えていたのかについても論考する。丸山真男の「無責任体系」、ヤスパースの「罪」の概念、カントの『道徳形而上学原論』における定義、等々。
著者は、法や倫理では割り切れない「責任」の不条理性を自覚しながら、共同社会が共有する「人倫感覚」がどのようなものかを推し量ることが大切であると説く。「求められる責任」と「感じる責任」を真摯に追及した書である。
- 本の長さ232ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2005/10/15
- ISBN-104569646271
- ISBN-13978-4569646275
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2024年1月21日に日本でレビュー済み
アプリ上ではオンデマンド版の出品ページしか表示されないが、ブラウザを通せば、旧本を安価で購入できる。
2006年2月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「責任」という非常に重い意味を持つ言葉、しかしその意味は広範囲で
、かつファジーでもあります。
太平洋戦争の「責任」を、戦勝国側から東京裁判で押し付けられ、日本
人自身が考えることを止め、そのことを受入れてしまっている・・・。
しっかりと総括をし、次世代に繋げなければならないと、痛感しまし
た。
前半部分では、具体的事象を取り上げて、「責任」について言及してい
るので、とてもわかり易く、また興味も沸いて来ます。
しかし、後半部分になると哲学的観点からの記述になり、私にはちょっ
と難解でした。
もっと、具体的なことについて触れていただければ・・・。
ただ、具体的な事象とは乖離し、机上の空論を繰り返す「責任論」とは
違い、大変勉強になりました。
、かつファジーでもあります。
太平洋戦争の「責任」を、戦勝国側から東京裁判で押し付けられ、日本
人自身が考えることを止め、そのことを受入れてしまっている・・・。
しっかりと総括をし、次世代に繋げなければならないと、痛感しまし
た。
前半部分では、具体的事象を取り上げて、「責任」について言及してい
るので、とてもわかり易く、また興味も沸いて来ます。
しかし、後半部分になると哲学的観点からの記述になり、私にはちょっ
と難解でした。
もっと、具体的なことについて触れていただければ・・・。
ただ、具体的な事象とは乖離し、机上の空論を繰り返す「責任論」とは
違い、大変勉強になりました。
2007年3月7日に日本でレビュー済み
この本は簡単に言って二部構成になっています。
前半は性関係、学校、心神喪失、JR福知山線の事故、イラク人質問題など、具体的な問題を取り上げて、そこで起きた責任論議のおかしさと正しい視座を与えてくれます。
難しい哲学が苦手な人には、前半だけでも十分読む価値はあるでしょう。
後半は責任という概念についての話。
いかにして責任は生じるのか、なぜ責任を考えるのか。哲学者も挙げていろいろと考えていきます。そこでは、責任の反対側にある自由意志とかも取り上げられます。
私自身の感想としては、中島義道の「人は何かあったときに責任を追及せずにはいられない存在だから、自由意志とかの概念を生み出した」という指摘が鋭いと思いました。
昨今のひたすら「責任追及」をしまくるマスメディアへの警鐘にはなるでしょう。
読んで損はない本だと思います。
前半は性関係、学校、心神喪失、JR福知山線の事故、イラク人質問題など、具体的な問題を取り上げて、そこで起きた責任論議のおかしさと正しい視座を与えてくれます。
難しい哲学が苦手な人には、前半だけでも十分読む価値はあるでしょう。
後半は責任という概念についての話。
いかにして責任は生じるのか、なぜ責任を考えるのか。哲学者も挙げていろいろと考えていきます。そこでは、責任の反対側にある自由意志とかも取り上げられます。
私自身の感想としては、中島義道の「人は何かあったときに責任を追及せずにはいられない存在だから、自由意志とかの概念を生み出した」という指摘が鋭いと思いました。
昨今のひたすら「責任追及」をしまくるマスメディアへの警鐘にはなるでしょう。
読んで損はない本だと思います。
2011年11月28日に日本でレビュー済み
著者は第1章と第2章で法的責任について言及していますが、著者の法の理解は、およそ類を見ない独特の解釈です。『人権は国家によって保障されるものですが、それは、国民であることの責任を果たすこととひきかえに保障されるのです。ですから、国民であることの責任を果たす能力を持っていないかぎり、人権をもつこともできないわけです。』(p.70)という、法学既習者どころか、中学の公民の知識がある者ですら、ぶっ飛ぶような理解のしかたです。このような人権の解釈は、もはや少数説という次元ではなく、人権という言葉を知ってから初めてお目にかかりました。
そもそも、「責任」という言葉が示すところは、多義に渡るわけですから、その範囲を提示することなく思いついたままに述べるから、全体として統一されず、纏まりのない書籍となってしまっています。
自らの知らないことまで無理に論じる必要はなかったでしょう。少しの知識があれば一冊の本をまとめることも出来ましょうが、自分の知らないことについては触れないでおくことも、ひとつの「責任」ある態度だと思うのですが、いかがなものでしょうか。
そもそも、「責任」という言葉が示すところは、多義に渡るわけですから、その範囲を提示することなく思いついたままに述べるから、全体として統一されず、纏まりのない書籍となってしまっています。
自らの知らないことまで無理に論じる必要はなかったでしょう。少しの知識があれば一冊の本をまとめることも出来ましょうが、自分の知らないことについては触れないでおくことも、ひとつの「責任」ある態度だと思うのですが、いかがなものでしょうか。
2015年9月10日に日本でレビュー済み
男女、法律、国、政治と言った
身近な責任から広範囲にある責任まで誰に対してあるか
どうして行くのが望ましいかといったことが書かれています。
小浜さんの本は二冊目です。
前回読んだ本(大人の条件)でもありましたが
規定している範囲が広範囲なので頭の切り替えが難しいのと
哲学をもとに書かれているのか書かれている文体が堅く
人によっては癖を感じるのだろうなと感じました。
内容は良いと思います。ですから☆4つとします。
身近な責任から広範囲にある責任まで誰に対してあるか
どうして行くのが望ましいかといったことが書かれています。
小浜さんの本は二冊目です。
前回読んだ本(大人の条件)でもありましたが
規定している範囲が広範囲なので頭の切り替えが難しいのと
哲学をもとに書かれているのか書かれている文体が堅く
人によっては癖を感じるのだろうなと感じました。
内容は良いと思います。ですから☆4つとします。
2007年5月11日に日本でレビュー済み
筆者の結論は、結局のところ、責任を追求される当事者のその時の状況を考慮しながら、その時々で引き受ける責任を確定させるというものでした。結論だけ見ると極めて単純で、落ち着くところに落ちついたという感じですが、この結論に至るまでの思考のプロセスには脱帽するしかありません。本書を読んでも、ある人の責任を客観的に確定させる指標や方法などといった答えはだされませんが、結局のところ、責任というものがその時々に応じて判断せざるを得ないものだということを論理的に納得することができます。是非、一読をお勧めしたい良書です。
2009年6月24日に日本でレビュー済み
第一印象:著者は「責任」という語を使いすぎている。
本来、自らの行為が全く予想不可能な結果に結びついてしまったとき、「責任」という言葉を使用してはならない。著者も言うように絶対的責任概念は存在しないのである。予想不可能な結果を惹き起こす行為にまで「責任」という用語を使用してしまうと忽ち議論が混乱する。このことを意識して「擬似責任」との区別を最初から明確にしておけば、時間的・空間的図式を出すまでもなく、「責任」について論じることの難しさは解消されるであろう。
本書ではマスコミ等の言語使用を批判するために「責任」の語を乱用せざる終えなかったのだろうか。しかし、そうした本論前半部の具体例の明示によって議論の核心部分はぼやけてしまっている。粘り強く後半部分まで読んだ人にはそうでもなかったかもしれないが。
人間の行為は意外に非合理性・偶然性は少ない。ぼんやりしていたら子どもがベランダから落ちたり、狭い路地で事故を起こしたり、通勤電車の中で事故に巻き込まれたり(171−175頁)・・・こういったことは予想可能なことであり、私たちは明確に事前に強い意識をもって対処することが可能である。
問題は事後的に責任追及することではなく、絶えず結果を予想して行為すること。結果が十分に予想できない場合でもできるだけ他人(社会)にプラスになって決してマイナスにならないように行為すること、このことが一番大切に思えるのだが、私の考えと著者の主張とはどれだけ重なっているだろうか。
いずれにしても本書は「責任論」の入門書にはなりえない、抽象的で分りにくい内容である。内容的にも問題が多すぎる。どこへ議論が向かっているのかも分りにくい。
なおカントの責任論であるが(145頁)、「責任」はVerbindlichkeitの訳(篠田氏)である。しかし、もともと拘束性といった意味であり、「責任」という訳はいかがなものだろうか?
本来、自らの行為が全く予想不可能な結果に結びついてしまったとき、「責任」という言葉を使用してはならない。著者も言うように絶対的責任概念は存在しないのである。予想不可能な結果を惹き起こす行為にまで「責任」という用語を使用してしまうと忽ち議論が混乱する。このことを意識して「擬似責任」との区別を最初から明確にしておけば、時間的・空間的図式を出すまでもなく、「責任」について論じることの難しさは解消されるであろう。
本書ではマスコミ等の言語使用を批判するために「責任」の語を乱用せざる終えなかったのだろうか。しかし、そうした本論前半部の具体例の明示によって議論の核心部分はぼやけてしまっている。粘り強く後半部分まで読んだ人にはそうでもなかったかもしれないが。
人間の行為は意外に非合理性・偶然性は少ない。ぼんやりしていたら子どもがベランダから落ちたり、狭い路地で事故を起こしたり、通勤電車の中で事故に巻き込まれたり(171−175頁)・・・こういったことは予想可能なことであり、私たちは明確に事前に強い意識をもって対処することが可能である。
問題は事後的に責任追及することではなく、絶えず結果を予想して行為すること。結果が十分に予想できない場合でもできるだけ他人(社会)にプラスになって決してマイナスにならないように行為すること、このことが一番大切に思えるのだが、私の考えと著者の主張とはどれだけ重なっているだろうか。
いずれにしても本書は「責任論」の入門書にはなりえない、抽象的で分りにくい内容である。内容的にも問題が多すぎる。どこへ議論が向かっているのかも分りにくい。
なおカントの責任論であるが(145頁)、「責任」はVerbindlichkeitの訳(篠田氏)である。しかし、もともと拘束性といった意味であり、「責任」という訳はいかがなものだろうか?