"90年代から2000年代にかけて、おたく/オタクと呼ばれる現象をひとつの軸として、この国の文化には大きな屈折が生じた"2008年発刊の本書は、とりあえず先送りの『予定調和』が横行する中で、それぞれの世代を代表する知識人による安易に『わかりあう気がさらさらない』緊張感が素晴らしい。
個人的には、東浩紀の本は熱心な読者とは言い難いもののよく手にすることから、本書に関しても"何となく"手にとったのですが。結論から先にかくと【空気を読みあった】ー弛緩した対談集が数多い中、本書は主に大塚英志の仕掛けにより、大変【緊張感のある展開】をしていて刺激的でした。
さて、そんな本書は2001年から2008年までの約7年間の時間をかけた対談集として、団塊世代のちょっと下の大塚英志、そして団塊ジュニア世代を代表する東浩紀という『特定の人には』多くの支持を集める2人が表題の【おたく/オタク文化について、あるいはそこから広がる社会について】幅広く語っているのですが。1、2章までは東浩紀の『動物化するポストモダン』あるいは『ゲーム的リアリズム』について、大塚英志が先輩的に指摘する。比較的穏やかな展開をしていくのですが。ちょっと時間を置いて"色々あった"後の3章において、東浩紀曰く"人格攻撃"のように【激しい苛立ち】を大塚英志が見せるのには、意表をつかれて、ちょっと驚きました。(4章は比較的穏やかですが)
また、個人的には世代的に東浩紀よりなので、東浩紀が繰り返す【社会に対して絶望感を感じながらも郵便の誤配に希望を託す】姿勢に、まさに同様の気持ちで読書会を主宰しているので共感するわけですが。一方で大塚英志の指摘するところのそんなネット社会のメタ的、結果ガラパゴスになりがちな危険性も含む『ポジショントーク』ではなく、どんなに【めんどくさくても対話を広く続けていくべき】という意見にも、社会に対する見方に断絶は感じつつも、とはいえ、これは『単語』として捉えている東浩紀と『状況』として捉えている大塚英志の必然としてのすれ違いなので不快に思うことなく。"ああ、これは大塚英志の東浩紀への(屈折した)エールかも"と感じたり。
世代を代表する知識人同士の対談に刺激を受けたい誰か、あるいは2000年〜2010年を振り返りたい誰かにオススメ。

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リアルのゆくえ──おたく/オタクはどう生きるか (講談社現代新書) 新書 – 2008/8/19
知識人は、怒れる若者に希望を語れるか。サブカルチャーは人を救えるか。言葉は無力か。
僕らはどんな時代を生きているのか。
「わかりあう」つもりのない二人が、国家論、表現論まで、徹底的に論じあう。
【目次】
第1章──消費の変容
第2章──言論の変容
第3章──おたく/オタクは公的になれるか
終章──秋葉原事件のあとで
僕らはどんな時代を生きているのか。
「わかりあう」つもりのない二人が、国家論、表現論まで、徹底的に論じあう。
【目次】
第1章──消費の変容
第2章──言論の変容
第3章──おたく/オタクは公的になれるか
終章──秋葉原事件のあとで
- 本の長さ336ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2008/8/19
- 寸法10.6 x 1.6 x 17.4 cm
- ISBN-104062879573
- ISBN-13978-4062879576
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2008/8/19)
- 発売日 : 2008/8/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 336ページ
- ISBN-10 : 4062879573
- ISBN-13 : 978-4062879576
- 寸法 : 10.6 x 1.6 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 309,081位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,167位講談社現代新書
- - 2,951位社会一般関連書籍
- - 49,033位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。
1958年生まれ。まんが原作者、批評家。『「捨て子」たちの民俗学』(第五回角川財団学芸賞受賞)などがある。神戸芸術工科大学教授、東京藝術大学大学院兼任講師。芸術工学博士(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 映画式まんが家入門 (ISBN-13: 978-4048685627 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2019年8月26日に日本でレビュー済み
2016年5月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
折々何度か読み直しています。
これ、何で噛み合わないんでしょうね?
大塚氏が絡むのも分かるが、東氏が交わし続けるのも分かる。
うーん。
いや、面白いんですよ?
これ、何で噛み合わないんでしょうね?
大塚氏が絡むのも分かるが、東氏が交わし続けるのも分かる。
うーん。
いや、面白いんですよ?
2009年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「おたく/オタク論」をもとに,現代の日本を捉えようとした対談集である.2人の立場は大きく異なる.第3章の激しい議論は読みごたえ十分である.大塚氏は公共性を目指して,コミュニケーションをはかっていく姿勢が重要であることを議論の中心にする一方,東氏はコミュニケーションには限界があり,類似した「個」が集まって独自の集団を築いていくことの仕方なさを前提とした議論を展開する.これは世代間の差なのであろうか? 大塚氏の主張はハーバーマスのコミュニケーション的行為に通じ,東氏の主張は“現代的な”ポストモダンといえるだろう.
個人的には,違った考えを持つ者同士のコミュニケーションは必要であるが,多くの点で絶対的な了解は不可能だと考える.その上で,お互いを受け入れる,言い方を変えれば,ポジティブな意味で無視しあうことを目指すべきではないか.執拗にコミュニケーションをすることは何で,何を無条件に受け入れるか,その境界はどこにあるのかを積極的に探ることが,私たちがとるべき態度ではないのだろうか? アメリカ中心主義が崩壊している現在,文化間の関係を捉える上でも重要なことであろう.
私たちにとって,社会とのつながりとは何なのかを考える上で,とても刺激的な一冊である.
個人的には,違った考えを持つ者同士のコミュニケーションは必要であるが,多くの点で絶対的な了解は不可能だと考える.その上で,お互いを受け入れる,言い方を変えれば,ポジティブな意味で無視しあうことを目指すべきではないか.執拗にコミュニケーションをすることは何で,何を無条件に受け入れるか,その境界はどこにあるのかを積極的に探ることが,私たちがとるべき態度ではないのだろうか? アメリカ中心主義が崩壊している現在,文化間の関係を捉える上でも重要なことであろう.
私たちにとって,社会とのつながりとは何なのかを考える上で,とても刺激的な一冊である.
2008年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「一部の人」には言わずと知れた大塚英志と東浩紀の対談集。
内容は、おたくの消費文化から社会設計まで。
二人のことを知らない人がきくと、「なんじゃそれ」と思うかもしれない。
しかし、二人のことを知ってる人にとって、本書の主眼は、
「大塚英志がひたすら同じところに違和感を示し続けているだけの内容」
であると思う。
(なので、二人の差異をまじめ(暇まじめ?)に考えたい人向けに星五つとする。
ただし、そんな人マイナーなので一つ減点。)
本書の対談は基本的に、大塚英志が質問し、東浩紀が応答する、
というスタンスをとっている。東浩紀はほとんど一貫してロジカルに
大塚英志に答えるが、彼はどうしても納得しない。
「あとがき」にあるように、彼は東に過剰に苛立っているようにみえる。
二人の議論が擦れ違う最大の理由はたぶん、大塚が、
彼自身の考える「公共性」なるものをうまく言葉にしておらず、
東がそれを把握できないせいじゃないかと思う。
たぶん、大塚英志が欲しがっている「公共性」は、
潜在的なものでも(虚構ですら)いいから、
「想像可能かつ全域的な」郵便のネットワークなのだろう。
他者に語りかけることは、「手紙」を送ることだが、
大塚にとっては特に、「存在するネットワークの整備を願う手紙」を
送ることにあたるだろう。
もし人々が、公共性を信じていれば、郵便網は整備されていって、
もしかしたら、それは理想的な状態に近づいていくかもしれないのである。
だが東にとって、手紙は「誤配」されるものである。
ネットワークは整備されるかもしれないし、されないかもしれない。
あるいは、理想とは違うネットワークが整備されるかもしれない。
結局のところ、大塚英志は東浩紀よりも、ことばと人を信じている。
その信念が、東浩紀への苛立ちの原因となっているのだろう……
……と思っていたら、
東浩紀がニコニコにあがってる動画で、文芸誌の閉塞性に苛立ち、「文学的想像力の全体性を回復したい」とマジでいっているのを見た。その苛立ちは、大塚の東に対するそれと同種のものなんじゃないだろうか。想像力の全体性は、全域的な郵便のネットワークと同値であると思う。なぜなら結局のところ、文学的想像力も、手紙の交通の産物なのだから。
ただし東は、「文学的想像力の全体性」の社会的意味に言及していないのだけれど……
内容は、おたくの消費文化から社会設計まで。
二人のことを知らない人がきくと、「なんじゃそれ」と思うかもしれない。
しかし、二人のことを知ってる人にとって、本書の主眼は、
「大塚英志がひたすら同じところに違和感を示し続けているだけの内容」
であると思う。
(なので、二人の差異をまじめ(暇まじめ?)に考えたい人向けに星五つとする。
ただし、そんな人マイナーなので一つ減点。)
本書の対談は基本的に、大塚英志が質問し、東浩紀が応答する、
というスタンスをとっている。東浩紀はほとんど一貫してロジカルに
大塚英志に答えるが、彼はどうしても納得しない。
「あとがき」にあるように、彼は東に過剰に苛立っているようにみえる。
二人の議論が擦れ違う最大の理由はたぶん、大塚が、
彼自身の考える「公共性」なるものをうまく言葉にしておらず、
東がそれを把握できないせいじゃないかと思う。
たぶん、大塚英志が欲しがっている「公共性」は、
潜在的なものでも(虚構ですら)いいから、
「想像可能かつ全域的な」郵便のネットワークなのだろう。
他者に語りかけることは、「手紙」を送ることだが、
大塚にとっては特に、「存在するネットワークの整備を願う手紙」を
送ることにあたるだろう。
もし人々が、公共性を信じていれば、郵便網は整備されていって、
もしかしたら、それは理想的な状態に近づいていくかもしれないのである。
だが東にとって、手紙は「誤配」されるものである。
ネットワークは整備されるかもしれないし、されないかもしれない。
あるいは、理想とは違うネットワークが整備されるかもしれない。
結局のところ、大塚英志は東浩紀よりも、ことばと人を信じている。
その信念が、東浩紀への苛立ちの原因となっているのだろう……
……と思っていたら、
東浩紀がニコニコにあがってる動画で、文芸誌の閉塞性に苛立ち、「文学的想像力の全体性を回復したい」とマジでいっているのを見た。その苛立ちは、大塚の東に対するそれと同種のものなんじゃないだろうか。想像力の全体性は、全域的な郵便のネットワークと同値であると思う。なぜなら結局のところ、文学的想像力も、手紙の交通の産物なのだから。
ただし東は、「文学的想像力の全体性」の社会的意味に言及していないのだけれど……
2009年12月13日に日本でレビュー済み
久しぶりに、スリリングな対談というものを読んだと思わさせられました。
何がスリリングかっていうと、二人の視点・論点が、微妙に食い違っている(食い違っていく)ところなんですね。
それがそのまま露呈されている。
本来、会話っていうのは、そういうものですよね。
でも、一つだけ、これを読んで強く感じられたことがあって、それは、二人の食い違いの中には、いろいろな食い違いが含まれているのですが、そこに時折、「単純な言語理解の食い違い(Misreading)」が含まれるところですね。
業界では、非常に一般人にもわかりやすい言語を操っている二人だと思うのですが、それでも、単語認識や言い回しの誤解が生じてくる。
「ならば、もっと、言い回しや単語に操られない語りはできないのか?」と考えてしまうわけです。
僕みたいな馬鹿にしてみれば。
言い回しそのものが哲学であり、現代思想である部分はあると思うのですが、その不毛さが、ここ20年ほどの、良質な言論空間の閉塞の理由ではないのか?とも感じられてくるわけですよ。
まぁ、何はともあれ、面白いし厚みもある対談です。
お勧め。
何がスリリングかっていうと、二人の視点・論点が、微妙に食い違っている(食い違っていく)ところなんですね。
それがそのまま露呈されている。
本来、会話っていうのは、そういうものですよね。
でも、一つだけ、これを読んで強く感じられたことがあって、それは、二人の食い違いの中には、いろいろな食い違いが含まれているのですが、そこに時折、「単純な言語理解の食い違い(Misreading)」が含まれるところですね。
業界では、非常に一般人にもわかりやすい言語を操っている二人だと思うのですが、それでも、単語認識や言い回しの誤解が生じてくる。
「ならば、もっと、言い回しや単語に操られない語りはできないのか?」と考えてしまうわけです。
僕みたいな馬鹿にしてみれば。
言い回しそのものが哲学であり、現代思想である部分はあると思うのですが、その不毛さが、ここ20年ほどの、良質な言論空間の閉塞の理由ではないのか?とも感じられてくるわけですよ。
まぁ、何はともあれ、面白いし厚みもある対談です。
お勧め。
2023年1月13日に日本でレビュー済み
対談集なので構造的な話題ではないが、示唆に富んでいた。
対話だからこその、わかりやすさもあった。
情報があふれて、動物化するというイメージがわかりやすい。
また、創作が、他者の知識に依存するというはなし(昔からそうだろうけど)も、面白かった。
物語が無価値化していく、しかし私はそこに抗いたい。
ただ、世代間のラベル付けのような形式になっているところは、あまりに乱暴な気がして感情移入できなかった
対話だからこその、わかりやすさもあった。
情報があふれて、動物化するというイメージがわかりやすい。
また、創作が、他者の知識に依存するというはなし(昔からそうだろうけど)も、面白かった。
物語が無価値化していく、しかし私はそこに抗いたい。
ただ、世代間のラベル付けのような形式になっているところは、あまりに乱暴な気がして感情移入できなかった
2008年10月16日に日本でレビュー済み
驚くべき本である。2001年からの対談が掲載されているのだが、一貫して東氏に対して批評家としての責任を追及していた大塚氏が(東氏の附記を信じるならば)自身のあとがきを削除して、さらに第一章の三割ほどを削除したそうである。それに関しての説明は何もなされていない。これでは何か大塚氏の都合の悪いことでも隠そうとしたのかという疑義を持たれても仕方がないであろう。大塚氏が本書で散々言っていた批評家としての責任とは一体何だったのだろうか? このことに関して大塚氏が何かコメントをしても私は大塚氏の言説をもう信じないし、今後の大塚氏の批評も信じることはない。これほど後味の悪い本もなかなかない。
2010年3月26日に日本でレビュー済み
内容については他のレヴューアーの方の言うとおり、社会を「脱構築」したポストモダンへと急速に旋回すると捕らえ、その前にはほとんど「知識人」はナスすべもなく、ネットワーク上に作られた小さなサークル(典型としてのオタク)への影響することのみを自分の仕事と捕らえる東と、それに対し執拗におそらく現代日本の第一の論客である彼には人々を啓蒙?する義務があるとからむ大塚の、かなり激しいバトルが本書である。また、これも他のレヴューアーの方が述べられている通り、最後の章で、秋葉事件をきっかに、東が自らのnoblesse obligeにかすかに気づくところで終わっている。
二人の意見はそれなり筋は取っているし、どちらの意見も「正しさ」という概念でははかれないと思う。これはシンパシーの問題であろう。シンパシーは世代ではなく、個人の考えに大きく寄っている。これは、世代に的には大塚に近い私が、論旨としては東に共感を覚えるようなものが一例であり、両者があまりに世代間闘争のような議論を進めるのはには違和感を覚えた。世代を意識するのは論壇の皆さんで、「団塊の世代」だのジュニアだのにあまりこだわるのはどうかと思う。
我々はもっと自由であり、それほど馬鹿ではない(と信じたい)
二人の意見はそれなり筋は取っているし、どちらの意見も「正しさ」という概念でははかれないと思う。これはシンパシーの問題であろう。シンパシーは世代ではなく、個人の考えに大きく寄っている。これは、世代に的には大塚に近い私が、論旨としては東に共感を覚えるようなものが一例であり、両者があまりに世代間闘争のような議論を進めるのはには違和感を覚えた。世代を意識するのは論壇の皆さんで、「団塊の世代」だのジュニアだのにあまりこだわるのはどうかと思う。
我々はもっと自由であり、それほど馬鹿ではない(と信じたい)