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言霊でしか解けない聖書 ヨハネの黙示録&ハルマゲドンの巻 (超知ライブラリー 21) 単行本 – 2007/1/1
飛鳥 昭雄
(著)
世界を動かす原動力として、聖書は今も昔も欠かせない拠り所。この聖書を扱い、独自の視点から、世界の動きを読み解く意欲作。
- 本の長さ476ページ
- 言語日本語
- 出版社徳間書店
- 発売日2007/1/1
- ISBN-104198622698
- ISBN-13978-4198622695
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年9月30日に日本でレビュー済み
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商品の状態は経年経過を考慮しても良い状態で梱包も丁寧でした。また利用したいと思います。
2010年12月2日に日本でレビュー済み
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新約聖書の黙示録を多角的に読み解き明かしています。飛鳥先生の遺書と言われている作品だけあって、内容はとっても濃いです。黙示録の本当の意味を知りたい人、黙示録だけでなく、世紀末に興味がある人、キリスト教の人、また、キリスト教に興味がある人にお勧め!日本人だからこそできるという、聖書の理解が分かります。
2010年8月29日に日本でレビュー済み
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ヨハネの黙示録は難解な予言書であるが、飛鳥氏はカバラを使い読み解いている。
彼はモルモン教徒であるので、聖書にあかるくその方面からの情報も入っているはずである。
また、シイクレットガバメントの内部リイク情報もはいてくるので、多面的な解釈も可能となっている。
現在、世界的異常気象や経済崩壊が叫ばれているが、影の政府は、聖書の予言を台本にして、末日の
シナリオを書いているそうである。 そうであれば、この本の聖書解釈が重要な意味をもってくるのである。
今後の未来予測をする上で、この本の内容がかなり参考になると思います。
シナリオどうり事が運ぶのか、はたまたドンデンガエシが起こるのか、今後がたのしみである。
彼はモルモン教徒であるので、聖書にあかるくその方面からの情報も入っているはずである。
また、シイクレットガバメントの内部リイク情報もはいてくるので、多面的な解釈も可能となっている。
現在、世界的異常気象や経済崩壊が叫ばれているが、影の政府は、聖書の予言を台本にして、末日の
シナリオを書いているそうである。 そうであれば、この本の聖書解釈が重要な意味をもってくるのである。
今後の未来予測をする上で、この本の内容がかなり参考になると思います。
シナリオどうり事が運ぶのか、はたまたドンデンガエシが起こるのか、今後がたのしみである。
2007年2月19日に日本でレビュー済み
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飛鳥昭雄さんの著作は分かりやすく書かれているためカッバーラについて理解が深まりました。生命の木についてユダヤ人がお書きになった本も何冊か持っていますが、飛鳥さんのお陰で分かりやすくなりました。この本をまだ全部読んでいないので内容に全て同意するかどうかは分かりませんが「ははぁ」と感心しながら読んでいる最中です。解読の仕方に舌を巻きます。調査の下積み、資料の検討の量を思わせられます。三本の木の謎が分かって来て嬉しいです。また日本人として伊勢神宮の有り難味を教えて下さった事に感謝します。喜びを与えてくれて有難う!以前自分をクリスチャンと名乗っていましたが、今ではその枠に留まらずこの世の秘密を探りたく思います。飛鳥さん、日本に生まれてくれて有難う。
2007年4月29日に日本でレビュー済み
自分が本当に考え、それなりに検証していることを主張するのならば、それもいいでしょう。
しかし、自分が書いたことには責任をもってください。いくらエンターテイメント系だからといって、
本が売りさばけさえすれば、何を書いてもいいということはないと思います。
ごく普通の良識に照らして、はずかしくない対応を著者に望みます。
しかし、自分が書いたことには責任をもってください。いくらエンターテイメント系だからといって、
本が売りさばけさえすれば、何を書いてもいいということはないと思います。
ごく普通の良識に照らして、はずかしくない対応を著者に望みます。
2007年2月5日に日本でレビュー済み
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ヨハネの黙示録の飛鳥昭雄さんの解釈を見て、感心したり納得できたりとしたことがあったが
飛鳥さんが信じている宗教の聖典に対する扱いが強引に感じ納得できるものではありませんでした。そのため、こんど似たような本を書くときはなるべく根拠を示してほしいものだと思いました。
飛鳥さんが信じている宗教の聖典に対する扱いが強引に感じ納得できるものではありませんでした。そのため、こんど似たような本を書くときはなるべく根拠を示してほしいものだと思いました。
2008年2月1日に日本でレビュー済み
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今までの聖書解釈では使われたことのなかったカッバーラ(カバラ)という武器を使って新たな聖書解釈に挑んだ書。
前半は前置きのようなものでちょっと退屈だが、盛り上がってくるのはやはり本題であるヨハネの黙示録に入る辺りからだ。
”7つの封印”の”7”という数字を”7000年”を1000年ごとに区切ったときの1000年期の数を指すものと解釈し、紀元前4000年からのそれぞれの時代に起こった、あるいは起きるであろう出来事と対比してゆく。
歴史書の記録から金星が登場したと見られる時期に相当する部分は、金星が引き起こしたであろう大災害の記述として解釈したり、地層は時代とともに徐々に積み重なったとする斉一説ではなくノアの洪水により一気にできたと考えることで既存の歴史解釈から離れて自由奔放に自説を構築してゆくところなどは著者の面目躍如たるところで、それが事実かどうかは別として非常に痛快で楽しませてくれる。
独自の世界観を構築する著者ならではの、スケールの大きな本であり、聖書のひとつの解釈として非常に興味深い。独善的に思えるところも多々あるが、トータルで納得性のあるストーリーであるかという観点で、先入観を持たずに一読されることをお勧めする。
前半は前置きのようなものでちょっと退屈だが、盛り上がってくるのはやはり本題であるヨハネの黙示録に入る辺りからだ。
”7つの封印”の”7”という数字を”7000年”を1000年ごとに区切ったときの1000年期の数を指すものと解釈し、紀元前4000年からのそれぞれの時代に起こった、あるいは起きるであろう出来事と対比してゆく。
歴史書の記録から金星が登場したと見られる時期に相当する部分は、金星が引き起こしたであろう大災害の記述として解釈したり、地層は時代とともに徐々に積み重なったとする斉一説ではなくノアの洪水により一気にできたと考えることで既存の歴史解釈から離れて自由奔放に自説を構築してゆくところなどは著者の面目躍如たるところで、それが事実かどうかは別として非常に痛快で楽しませてくれる。
独自の世界観を構築する著者ならではの、スケールの大きな本であり、聖書のひとつの解釈として非常に興味深い。独善的に思えるところも多々あるが、トータルで納得性のあるストーリーであるかという観点で、先入観を持たずに一読されることをお勧めする。
2014年5月22日に日本でレビュー済み
釈尊の教法と指導によって誕生した聖者や阿羅漢が、釈尊滅後の早い内に次々と没すると、<釈尊の教法の真義>は消滅してしまった。釈尊滅後から数世紀を経て、暗誦で伝えられた釈尊の説法が経典として文章化され始める時、説法そのままに、あるいは凡夫の理解度に合う説法だけを取捨選択したり、あるいは凡夫の理解度に沿って付加増広されたと考える。しかし、経典の大部分は真義から遠ざかってしまった。そのような経緯によって、部派小乗仏教の教義が生まれ、さらに大乗仏教の教義が生まれたのである。従って釈尊以後に生まれた仏教の教義に、<釈尊の教法の真義>の痕跡を見出すのは容易ではない。それらの教義には、聖者になっていない僧が瞑想修行で受信した「霊訓」や「チャネリング」で得た内容を仏教用語で表現したものも多い。飛鳥昭雄氏がしばしば引用する『時輪タントラ』も、インド仏教・後期密教最後の大乗経典であるから<釈尊の教法の真義>が書かれている訳では無い。
***
<釈尊の教法の真義>とは、「自分に正直な凡夫が聖者になり、聖者は釈尊と同等のブッダ(阿羅漢)になる」ことである。釈尊は自分に正直な凡夫を見つけ出し、彼らを聖者に導いたのである。その聖者とは凡夫の心にブッダの心が共存する者である。凡夫の心の無知(すなわち、欲界の「痴」)がブッダの心(すなわち、欲界の「智」)に置き換われば、第一段階の聖者「預流(シュダオン)」に進化する。この「預流」にならなければ<釈尊の教法の真義>は絶対に理解出来ないのである。釈尊が説法を最初は躊躇した理由がここにある。逆に、真の聖者が減少した釈尊滅後の仏教で<釈尊の教法の真義>が徐々に失われたのも、そのためである。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。ブッダの心が凡夫の心に染み込む量子トンネル現象は、欲界の「痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」を取り除く過程で始まる。一度、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、やがて欲界の「貪」と「瞋」が減少して第二段階の聖者「一来(シダゴン)」となる。さらに、欲界の「貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者「不還(アナゴン)」になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
***
パーリ仏典を読むと、釈尊の指導方法が次のように三段階で構成されていることが分かる。
<第1段階:因果業報(善因楽果・悪因苦果)の道理(施論・戒論・生天論)を説く>
第1段階は凡夫が自らの「邪見(=因果の道理を否定すること)」に気づく段階。
<第2段階:因果の道理を正しく信ずる段階(随信行)で始まる「欲の禍患と離欲の功徳」を説く>
第2段階は凡夫が自らの自己中心的な「我見」に気づく段階。
<第3段階:釈尊の教法の真義を説く:ここからが釈尊の直接指導>
第3段階は凡夫が聖者(四沙門果)になる段階。
***
飛鳥氏はp.98で重要なことを指摘する。〔 〕は<釈尊の教法の真義>による言葉の等価変換である。
(イ) カッバーラは人〔凡夫〕が神〔阿羅漢の聖者〕になることを示唆している。
(ロ) 人〔欲界の貪・瞋・痴を保有する人間〕が死ねば〔欲界の貪・瞋・痴を消滅すれば〕神〔不還の聖者≠人間〕になる。
次に、p.52の「生命の樹」の真義を<釈尊の教法の真義>で解き明かす。
(A) 至高の三角形は、預流の聖者になる上記第3段階の最初に対応する。
(B) ダアトは、「我見」に気づく上記第2段階に対応する。
(C) 倫理的三角形は、「邪見」を断つ上記第1段階の生天論に対応する。
(D) アストラル三角形は、「邪見」に気づく上記第1段階の施論・戒論に対応する。
p.56で至高の三角形は「十戒」の三項目に関係することが示される。これは、上記「三結」に対応する。
[1] あなたには、私をおいて他に神があってはならない。⇔ 疑惑の断
[2] あなたはいかなる像も造ってはならない。⇔ 身見の断
[3] あなたの神、主の名を妄りに唱えてはならない。⇔ 戒取の断
このように、「カッバーラ」は<釈尊の教法の真義>の導入部に力点を置いたものなのである。
***
最後に、p.211の『絶対神なら時を支配してしかるべきだ。』の意味は、不還の聖者が獲得する「時間軸が過去から未来に向かう4次元時空洞察(これを天眼通)」と阿羅漢の聖者が獲得する「時間軸が未来から過去に向かう4次元反時空洞察(これが宿命通)」を表している。
***
<釈尊の教法の真義>とは、「自分に正直な凡夫が聖者になり、聖者は釈尊と同等のブッダ(阿羅漢)になる」ことである。釈尊は自分に正直な凡夫を見つけ出し、彼らを聖者に導いたのである。その聖者とは凡夫の心にブッダの心が共存する者である。凡夫の心の無知(すなわち、欲界の「痴」)がブッダの心(すなわち、欲界の「智」)に置き換われば、第一段階の聖者「預流(シュダオン)」に進化する。この「預流」にならなければ<釈尊の教法の真義>は絶対に理解出来ないのである。釈尊が説法を最初は躊躇した理由がここにある。逆に、真の聖者が減少した釈尊滅後の仏教で<釈尊の教法の真義>が徐々に失われたのも、そのためである。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。ブッダの心が凡夫の心に染み込む量子トンネル現象は、欲界の「痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」を取り除く過程で始まる。一度、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、やがて欲界の「貪」と「瞋」が減少して第二段階の聖者「一来(シダゴン)」となる。さらに、欲界の「貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者「不還(アナゴン)」になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
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パーリ仏典を読むと、釈尊の指導方法が次のように三段階で構成されていることが分かる。
<第1段階:因果業報(善因楽果・悪因苦果)の道理(施論・戒論・生天論)を説く>
第1段階は凡夫が自らの「邪見(=因果の道理を否定すること)」に気づく段階。
<第2段階:因果の道理を正しく信ずる段階(随信行)で始まる「欲の禍患と離欲の功徳」を説く>
第2段階は凡夫が自らの自己中心的な「我見」に気づく段階。
<第3段階:釈尊の教法の真義を説く:ここからが釈尊の直接指導>
第3段階は凡夫が聖者(四沙門果)になる段階。
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飛鳥氏はp.98で重要なことを指摘する。〔 〕は<釈尊の教法の真義>による言葉の等価変換である。
(イ) カッバーラは人〔凡夫〕が神〔阿羅漢の聖者〕になることを示唆している。
(ロ) 人〔欲界の貪・瞋・痴を保有する人間〕が死ねば〔欲界の貪・瞋・痴を消滅すれば〕神〔不還の聖者≠人間〕になる。
次に、p.52の「生命の樹」の真義を<釈尊の教法の真義>で解き明かす。
(A) 至高の三角形は、預流の聖者になる上記第3段階の最初に対応する。
(B) ダアトは、「我見」に気づく上記第2段階に対応する。
(C) 倫理的三角形は、「邪見」を断つ上記第1段階の生天論に対応する。
(D) アストラル三角形は、「邪見」に気づく上記第1段階の施論・戒論に対応する。
p.56で至高の三角形は「十戒」の三項目に関係することが示される。これは、上記「三結」に対応する。
[1] あなたには、私をおいて他に神があってはならない。⇔ 疑惑の断
[2] あなたはいかなる像も造ってはならない。⇔ 身見の断
[3] あなたの神、主の名を妄りに唱えてはならない。⇔ 戒取の断
このように、「カッバーラ」は<釈尊の教法の真義>の導入部に力点を置いたものなのである。
***
最後に、p.211の『絶対神なら時を支配してしかるべきだ。』の意味は、不還の聖者が獲得する「時間軸が過去から未来に向かう4次元時空洞察(これを天眼通)」と阿羅漢の聖者が獲得する「時間軸が未来から過去に向かう4次元反時空洞察(これが宿命通)」を表している。