
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
縄文人追跡 (ちくま文庫 こ 32-1) 文庫 – 2008/10/8
小林 達雄
(著)
- 本の長さ243ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2008/10/8
- ISBN-10448042475X
- ISBN-13978-4480424754
この商品を買った人はこんな商品も買っています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年2月24日に日本でレビュー済み
古い書籍ですが、安価に入手出来て良かったです。資料的価値の高い一冊として書棚に入りました。
2021年10月19日に日本でレビュー済み
※ネタバレ含む
こちら、図書館で借りたのですが、ざぁーと眺めた感じ、現代と縄文時代の社会の比較のエッセイのようなものに感じた。
上山工氏による、おしゃれで現代的なイラストが、正直まったく好みでないので、本書から手を遠ざけてしまいました。
こちら、図書館で借りたのですが、ざぁーと眺めた感じ、現代と縄文時代の社会の比較のエッセイのようなものに感じた。
上山工氏による、おしゃれで現代的なイラストが、正直まったく好みでないので、本書から手を遠ざけてしまいました。
2015年3月5日に日本でレビュー済み
縄文人は好きだが弥生人は嫌いという変なこだわりがあって、弥生的と思われる神社には引き付けられるが素直に好きになれない、というわだかまりがある。縄文ナショナリズムというものだろうか。
ところが、本書を読んでいるうち、神道の基底には縄文の文化があるようだと思われるようになった。
神道というと、百済等の渡来勢力による日本への侵攻とヤマト中央政権の確立、坂上田村麻呂によるエゾ征圧、これらの象徴のように思ってしまう偏見があった。
もちろん、ディープジャパンのネイティブ勢力、その代表がアテルイだが、これら対抗勢力を正面から打ち倒していったり、のどかに生活する村人たちをだまし討ちにしていくということはあったが、土地に根ざす命を虐殺するということへの後ろめたさに、縄文文化を鎮魂させようとして縄文式を取り込んだものが神道であり、神社という形式だったのではないかと思うようになった。そしてその精霊を祀る精神的文化が渡来武力勢力には欠如するものだったのだ。
弥生勢力はホロコースト的な征服はしなかった。融合しながら浸透していったという。最先端の武力を装備しているものの圧倒的少数に限られた勢力が土地を支配するには、そのやり方しかなかった。朝鮮半島での争いに敗北し、一時避難してきた勢力には、縄文人を数で圧倒するほど移民で補充するということができなかったからだ。
縄文文化は極めてスピリチュアルであった。ネイティブアメリカンと同様である。だが、アメリカンと違って、縄文人は定住民として築いていた文化は豊富だった。
竪穴住居の、いわゆる上座には石柱を、まるで現代の神棚のように祀られていたという。現代の社殿では、それは鏡が替わりを務めている。
祭壇の前には、かつての農家の囲炉裏ような炉が置かれてあった。それは、一家団欒して食事をするものではなかった。食事をした形跡はまったく発掘されないという。むしろジャイナ教のように、護摩壇のように、火を絶やさぬことによって一家の歴史を語る聖具であった。炉は現代の社殿でも護摩壇として残っているところもあるが、年中行事としてときどき火を炊くだけに収めて象徴化して残した。
神道は自然崇拝の宗教といわれるが、こうしてみると、自然の権化のような制圧した縄文人たちへの鎮魂として始まったのではないかと思える。こう思うと、わたしは気持ちのまま素直になって神社を参拝できる。
蹲踞は日本だけでなく、アジア的な特徴で、欧米にはないようだが、胴長短足という骨格的な特徴のためにバランスが取りやすいのだろう。欧米人たちは死者に祈るとき、立ちながら地面に頭を垂れるが、われわれはしゃがみ身を低くして、死者や大地に近づいて語りかけ、対話する。立って祈る人たちは独語するだけである。現代の墓参りでも、しゃがんで手を合わせる。
本書では、このように縄文人の精神性を遺跡発掘したものと世界の辺境に残っている古代文化を照合しながら、元々のあり方を追究していてスリリングである。おかげで読み手も想像を広げられる。
ところが、本書を読んでいるうち、神道の基底には縄文の文化があるようだと思われるようになった。
神道というと、百済等の渡来勢力による日本への侵攻とヤマト中央政権の確立、坂上田村麻呂によるエゾ征圧、これらの象徴のように思ってしまう偏見があった。
もちろん、ディープジャパンのネイティブ勢力、その代表がアテルイだが、これら対抗勢力を正面から打ち倒していったり、のどかに生活する村人たちをだまし討ちにしていくということはあったが、土地に根ざす命を虐殺するということへの後ろめたさに、縄文文化を鎮魂させようとして縄文式を取り込んだものが神道であり、神社という形式だったのではないかと思うようになった。そしてその精霊を祀る精神的文化が渡来武力勢力には欠如するものだったのだ。
弥生勢力はホロコースト的な征服はしなかった。融合しながら浸透していったという。最先端の武力を装備しているものの圧倒的少数に限られた勢力が土地を支配するには、そのやり方しかなかった。朝鮮半島での争いに敗北し、一時避難してきた勢力には、縄文人を数で圧倒するほど移民で補充するということができなかったからだ。
縄文文化は極めてスピリチュアルであった。ネイティブアメリカンと同様である。だが、アメリカンと違って、縄文人は定住民として築いていた文化は豊富だった。
竪穴住居の、いわゆる上座には石柱を、まるで現代の神棚のように祀られていたという。現代の社殿では、それは鏡が替わりを務めている。
祭壇の前には、かつての農家の囲炉裏ような炉が置かれてあった。それは、一家団欒して食事をするものではなかった。食事をした形跡はまったく発掘されないという。むしろジャイナ教のように、護摩壇のように、火を絶やさぬことによって一家の歴史を語る聖具であった。炉は現代の社殿でも護摩壇として残っているところもあるが、年中行事としてときどき火を炊くだけに収めて象徴化して残した。
神道は自然崇拝の宗教といわれるが、こうしてみると、自然の権化のような制圧した縄文人たちへの鎮魂として始まったのではないかと思える。こう思うと、わたしは気持ちのまま素直になって神社を参拝できる。
蹲踞は日本だけでなく、アジア的な特徴で、欧米にはないようだが、胴長短足という骨格的な特徴のためにバランスが取りやすいのだろう。欧米人たちは死者に祈るとき、立ちながら地面に頭を垂れるが、われわれはしゃがみ身を低くして、死者や大地に近づいて語りかけ、対話する。立って祈る人たちは独語するだけである。現代の墓参りでも、しゃがんで手を合わせる。
本書では、このように縄文人の精神性を遺跡発掘したものと世界の辺境に残っている古代文化を照合しながら、元々のあり方を追究していてスリリングである。おかげで読み手も想像を広げられる。
2016年9月10日に日本でレビュー済み
氏は縄文時代の研究界では第一人者だし、発言力は大きい。
他の弟子も彼のいうことを疑うことなく盲信し、既定の事実であるかのように行動している。
これは学問では肝というべき批判精神を忘れた行動である。
こうなると小林氏がいつまでも居座ると研究の動向は停滞したままになってしまってもおかしくないだろう。
氏は今まで何冊も本を出しているが、内容はほとんど同じで新鮮味がない。
若手も頑張っているが長老がずっと業界のトップに居座っていれば、おのずと時代遅れの業界になってしまう。
過去の実績も華々しいものだし、だれもそれを非難しない。
いまからでも遅くはない。早々に引退されよ。
他の弟子も彼のいうことを疑うことなく盲信し、既定の事実であるかのように行動している。
これは学問では肝というべき批判精神を忘れた行動である。
こうなると小林氏がいつまでも居座ると研究の動向は停滞したままになってしまってもおかしくないだろう。
氏は今まで何冊も本を出しているが、内容はほとんど同じで新鮮味がない。
若手も頑張っているが長老がずっと業界のトップに居座っていれば、おのずと時代遅れの業界になってしまう。
過去の実績も華々しいものだし、だれもそれを非難しない。
いまからでも遅くはない。早々に引退されよ。