「亡命」と「唯物論」を切り口に、ハシディズム、スピノザ、そしてフロムという3つの歴史的エポックの内に、
ある注目すべき反復を解釈していくという本書の展開には、感服する。
また本書では、エーリッヒ・フロムを「著者自身に憑依させながら」フロムを記述するという一種独特の「方法論」が採用されている。
この方法論においては、奨励「される」身振りを奨励「する」身振りに適応するという解釈と実践の完備性が見られる。
本書はとにかく、この完備性への「自覚」が素晴らしいのだ。
ただし。本書がその自覚の上で宣言する「方法論」の「特殊性=特殊フロム性」が、
本当に特殊フロム的なのかという点に関して、以下のような疑問がわき起こる。
第一に、反歴史的な構造を解釈するという本書の「方法論」は特殊フロム的なのかという点。
ここで解釈される「構造」とは諸学に同じく、ある筆量に収まる「理念型の反復」のことだ。
そして本書における解釈は「歴史の縦の反復」に焦点があてられている。
さて、この構造解釈の視座は「現代に生きる観察者」にあるわけだが、この視座の局在は、
認識利得と引換に承認されることになる。つまりこの作業は、我々の言語系において
「意味の通じる」言葉で記述される何らかの形式を、認識利得と引換にやむなく認められた
解釈者の独断に沿って、他の時空へとあてはめていく作業である。
いっぽうで、構造解釈とは逆向きの歴史記述・異境記述の手法が、社会学や批評の分野には存在する。
それは一般にフーコーの言説分析に代表される手法だ。その手法とは、現代語/母国語の臨界的使用
を以て過去/異境の言説を寓意的に指示し、そこから現代/母国の偶有性を反照するという方法である。
この手法においては、現代/母国語の臨界的使用がなされるから、その解釈が我々の言語系において
「意味の通じる」言葉でなされているとは限らない。端的に述べれば、文学や芸術との境界があってない
ような記述手法であるということだ。
ちなみに、本書はそのような後者の手法を採用してはいない。つまり前者の手法だ。しかし、
そうであるならば、結局本書における方法論は良くある比較社会論のソレなのではないのか。
第二に、本書の方法論における<力>なる概念枠組は、はたして特殊フロム的なのかという点。
この<力>は体験外在的な変項(相互行為を俯瞰するような視座)でなく、体験内在的な変項への言及だ。
すなわち<力>とは<体験される力>、つまり「権力体験=受動と、
それを覆い返す力の体験=能動」という既知の枠組である。
フロムもスピノザも、この「受動/能動」の折衝の中にいる点で相違ない。
その折衝の反復形式に特殊性が見られたとしても、その特殊性の抽出は本書の方法論の特殊性に
依るものではない。そうではなく、彼らが啓蒙の弁証法という「受動/能動」の折衝がもたらす常態的
帰結(「権力のアポリア」と本書が呼ぶもの)を自覚し、かつ啓蒙の弁証法に回収されない折衝のため
の技術を得た、という点に依っている。つまり、ある種当たり前のことだが、スピノザやフロムのテクスト
の持つ引力なくてして、本書の着想は導かれていないということだ。
以上から端的に述べれば、本書における「方法論」自体は、著者の宣言とは裏腹に特殊フロム的
ではなく「凡庸」とすら言える (これは本書の「内容」が凡庸だという意味では断じてない!)。
以上2点の疑問を踏まえたうえで、本書でクローズアップされる「臨床の知」という概念の取り扱い
を見ることで、本書の「方法論」と特殊フロム性との関連の在り方を問いたい。とりわけ筆者がもちいる
「臨床の知としての社会学の可能性」という話法に、特段の注意を払う。
本書の論旨を追うなら、「臨床の知」とは何らかの理論体系・知識体系のことではない。
自我と他我による<共通概念>の獲得という微分態の技術、すなわち「能動」のモードに至れば、
あらゆる現前が、自我にとって<共通概念>の素材となる。従って「臨床の知」とは、そのような
微分態の技術を告げ知らせる「指導原理」としての知だ。実践知と言っても良い。
社会学は、この指導原理を文脈に即して換言し「教唆」する営為に関与し得る。確かにこのような
「教唆」の営みを、一部社会学者が担うことは重要だ。しかしその意味における「臨床の知としての社会学」は、
反歴史的反復を解釈するという本書の「凡庸な方法論」と混同されてはならない。だが本書はその混同を匂わせる。
本書の反歴史的方法論は、確かに<共通概念>の獲得という微分態の技術に含まれ得る。
しかも本方法論はフロム的指導原理によって「意義付け」られることにより、共時的他我との
相互行為に限定されがちな<共通概念>の屹立を、「非共時的な」他我との<共通概念>
の屹立へとおしひろげる。これは価値ある教唆だ。しかし、裏を返せば指導原理による
「意義付け」がなければ、本書の方法論は先述したように「凡庸」に留まる。
すなわち、それが比較社会論であれ言説分析であれ、重要なのはその方法論ではなく、
それに臨む微分態の技術=「能動」なのだ。
ゆえに社会学が<共通概念>の獲得として臨まれても、それは各<自我-他我>間の無数の
<共通概念>の内に埋没するに過ぎない。ならば翻って、その埋没する局所に過ぎぬ社会学方法論を、
微分態の技術と「特権的に」結びつけてしまうことは、社会学の権威化を必ず招く。結局、本書の
「方法論」は特殊フロム的でもなければ、フロム的指導原理と有縁化されるべきでもない。
これが本書への主要な疑問点である。
本書の議論は、権力論的な社会理論にも示唆を与えるだろうが、これも「臨床の知としての社会学」
にとってでなく権力論にとっての示唆だ。何より重要なことは、権力論の洗練や「臨床の知としての社会学」
を待つ迄もなく、我々は「臨床の知」を既に体現している者と接近することにより、それを模倣的に体得し得るということである。

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エーリッヒ・フロム―希望なき時代の希望 単行本 – 2002/11/1
出口 剛司
(著)
◆『自由からの逃走』の真の評価は本書から◆超ロングセラー『自由からの逃走』の思想史的射程は驚くほど広く、かつ深い--その平明な文体、自由で柔軟な発想、節度あるヒューマニズムがかえって専門研究を遠ざけてきたフロムの初めての本格的研究書です。理性による人間の危機というフランクフルト学派の思想から出発して、独自の知的遍歴を重ねたフロム。マルクスとフロイトに学んで冷厳な批判精神を鍛えつつ、スピノザとの出会いをへて、理性的認識そのものがその認識力によって治療効果をもたらすという「臨床の知」としての社会学に到達したフロム。その軌跡を深い共感をもって描き出した気鋭の力作です。
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社新曜社
- 発売日2002/11/1
- ISBN-104788508249
- ISBN-13978-4788508248
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「自由からの逃走」の真の評価はここから始まる! 穏やかなヒューマニストという通念の影に覆われたフロムの厳しい思索の全道程をはじめて思想史の深みにとらえ、従来のフロム像を一新する。
登録情報
- 出版社 : 新曜社 (2002/11/1)
- 発売日 : 2002/11/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 320ページ
- ISBN-10 : 4788508249
- ISBN-13 : 978-4788508248
- Amazon 売れ筋ランキング: - 715,507位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,053位臨床心理学・精神分析
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- - 13,040位社会学概論
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