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保守とは何だろうか (NHK出版新書) 新書 – 2013/10/8
中野 剛志
(著)
「自称保守」にダマされるな!
安全保障問題から憲法改正問題まで、現政権の方向性は、はたして保守本流と言えるのか? 真の保守精神は危機の時代にどう対峙するべきか?異能の官僚が本家イギリスの近代保守思想の該博な知識をふまえ、経済、金融から財政、教育にいたる「改革」の考え方を明快に説く。ステレオタイプな保守像を覆す待望の著
安全保障問題から憲法改正問題まで、現政権の方向性は、はたして保守本流と言えるのか? 真の保守精神は危機の時代にどう対峙するべきか?異能の官僚が本家イギリスの近代保守思想の該博な知識をふまえ、経済、金融から財政、教育にいたる「改革」の考え方を明快に説く。ステレオタイプな保守像を覆す待望の著
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社NHK出版
- 発売日2013/10/8
- 寸法11.3 x 1.4 x 17.2 cm
- ISBN-104140884185
- ISBN-13978-4140884188
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登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2013/10/8)
- 発売日 : 2013/10/8
- 言語 : 日本語
- 新書 : 256ページ
- ISBN-10 : 4140884185
- ISBN-13 : 978-4140884188
- 寸法 : 11.3 x 1.4 x 17.2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 166,798位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年11月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
保守をわかりやすく定義していてありがたい。この定義で報道してくれるマスコミがあるといいのですがね。
2020年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年に出版された書籍ではあるが、内容は全く色褪せていない。
今こそ、改めて保守とは何かを考えるべき時に来ており、そのきっかけとして必読の本ではないか。
今こそ、改めて保守とは何かを考えるべき時に来ており、そのきっかけとして必読の本ではないか。
2014年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
休日に職場(病院)に行きます。
ほとんどの場合、制服を着た医事係の職員がいます。
多くの病院で医事業務を外部委託しているのではないでしょうか。
アウトソーシングと言ったりするそうです。
自分が勤務する病院にはその他の公立病院がそうであるように上記外部委託の医事係職員以外にも事務職員がいます。事務長を初めとして。
同じ事務職員で正規職員と非正規職員がいるわけです。
同じ事務職員の間で労働時間に大きな差があります。
収入に関しては私は知りません。
しかし、一般論として非正規職員のそれが正規職員のものを上回ることは考えにくいのではないでしょうか。
外部委託の目的から考えても。
同じ事務職員の間で格差があることに疑問を持っています。
また、多くの自治体病院において、その「黒字だ赤字だ」が問題となっている中でその肝である医事業務を外部委託するというスタイルそのものに違和感を感じずにはいられません。
肝心なところを人に任すのか?ということです。
特に格差に関して、とある職員に以前から話をしていました。
この「とある職員」は民医連系の医療機関での勤務経験があります。
本人は特定の政治団体に所属していませんが。
彼に言われました。 「お前の言っていることは共産党と一緒だぞ。」
自分自身は保守を自認していただけにここで疑問が湧きました。
この数年、疑問でしたが、上記書籍に答えを求めることができました。
新自由主義が保守と結びついたのは歴史的には比較的新しいことで1980年代からなのだそうです。
本来、保守は新自由主義と戦ってきたのだと。
ここで自分の新自由主義に対する疑問・違和感、そして自分の職場における同一職種内での格差に対する疑問・違和感、がなぜ共産党の主張と類似するのかがわかりました。
本来の保守は新自由主義に対する態度において共産党と類似する、そういうことなのだろうと思います。
ほとんどの場合、制服を着た医事係の職員がいます。
多くの病院で医事業務を外部委託しているのではないでしょうか。
アウトソーシングと言ったりするそうです。
自分が勤務する病院にはその他の公立病院がそうであるように上記外部委託の医事係職員以外にも事務職員がいます。事務長を初めとして。
同じ事務職員で正規職員と非正規職員がいるわけです。
同じ事務職員の間で労働時間に大きな差があります。
収入に関しては私は知りません。
しかし、一般論として非正規職員のそれが正規職員のものを上回ることは考えにくいのではないでしょうか。
外部委託の目的から考えても。
同じ事務職員の間で格差があることに疑問を持っています。
また、多くの自治体病院において、その「黒字だ赤字だ」が問題となっている中でその肝である医事業務を外部委託するというスタイルそのものに違和感を感じずにはいられません。
肝心なところを人に任すのか?ということです。
特に格差に関して、とある職員に以前から話をしていました。
この「とある職員」は民医連系の医療機関での勤務経験があります。
本人は特定の政治団体に所属していませんが。
彼に言われました。 「お前の言っていることは共産党と一緒だぞ。」
自分自身は保守を自認していただけにここで疑問が湧きました。
この数年、疑問でしたが、上記書籍に答えを求めることができました。
新自由主義が保守と結びついたのは歴史的には比較的新しいことで1980年代からなのだそうです。
本来、保守は新自由主義と戦ってきたのだと。
ここで自分の新自由主義に対する疑問・違和感、そして自分の職場における同一職種内での格差に対する疑問・違和感、がなぜ共産党の主張と類似するのかがわかりました。
本来の保守は新自由主義に対する態度において共産党と類似する、そういうことなのだろうと思います。
2013年10月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
新自由主義は、「保守」の中に侵入しその存在意義を消滅させている。そして、資本主義をも不安定化させ破壊している。
このことは、ブラックマンディ・S&L危機・日本のバブル崩壊・東アジア通貨危機・サブプライム危機・リーマンショック・現在進行中のユーロ危機を見ればわかる。
それは、低成長・異常な格差拡大・資本主義の不安定化である。
新自由主義とは、個人の私的自由ばかりを尊重する思想である。
19世紀、イギリスの「保守」は自由主義と対立し敗北した。そして、イギリスは21世紀新自由主義と対決しつつある。
2012年、労働党大会においてミリバンド党首が新自由主義と訣別出来ないキャメロン政権を痛烈に批判したのである。
「保守」とは、「理論」でなく、態度や生き方である」(福田恆存)
にも拘らず、現在、「保守」と自称する政治勢力は新自由主義(革新)を保守し続けている。
また、不況であっても財政収支が均衡する健全財政を原則とすべしと禁欲的に歳出を抑制し財政規律を守ることが「保守」であるかのように振る舞っている。
だが、「保守」の統治とは原則によるものではなく政治家の実践的判断による「便宜」によるものでなければならない。
これでは、「保守」が態度によって人々を納得させることは不可能である。
憲法についても、革新側が国民の保守感覚を狡猾に利用している自己矛盾をただ傍観している。
著者は、天才と言っていいイギリスの保守主義者コールリッジに注目する。
それは、新自由主義とは全く異なった保守主義の経済理論でありデフレと政府の累積債務についての対策であった。
それは、ケインズの先駆者であり金融市場の不安定化による景気循環(金融循環)の存在を示唆していた。
それは、「健全財政論」でなく、「機能的財政論」であった。
国債は悪ではなく、ましてや自国民が保有する「内国債」は破綻することはないというのである。当然である。因みに、日本の場合95%がそれである。
健全化すべきは、「財政」でなく「経済」」である。本末転倒してはいけない。
エドマンド・バークは言った。「私は、変化を排除するものでもない。しかし、変えるときですら維持するために行うのだ」
新自由主義を支持する自称保守は、「保守」ではないのである。
このことは、ブラックマンディ・S&L危機・日本のバブル崩壊・東アジア通貨危機・サブプライム危機・リーマンショック・現在進行中のユーロ危機を見ればわかる。
それは、低成長・異常な格差拡大・資本主義の不安定化である。
新自由主義とは、個人の私的自由ばかりを尊重する思想である。
19世紀、イギリスの「保守」は自由主義と対立し敗北した。そして、イギリスは21世紀新自由主義と対決しつつある。
2012年、労働党大会においてミリバンド党首が新自由主義と訣別出来ないキャメロン政権を痛烈に批判したのである。
「保守」とは、「理論」でなく、態度や生き方である」(福田恆存)
にも拘らず、現在、「保守」と自称する政治勢力は新自由主義(革新)を保守し続けている。
また、不況であっても財政収支が均衡する健全財政を原則とすべしと禁欲的に歳出を抑制し財政規律を守ることが「保守」であるかのように振る舞っている。
だが、「保守」の統治とは原則によるものではなく政治家の実践的判断による「便宜」によるものでなければならない。
これでは、「保守」が態度によって人々を納得させることは不可能である。
憲法についても、革新側が国民の保守感覚を狡猾に利用している自己矛盾をただ傍観している。
著者は、天才と言っていいイギリスの保守主義者コールリッジに注目する。
それは、新自由主義とは全く異なった保守主義の経済理論でありデフレと政府の累積債務についての対策であった。
それは、ケインズの先駆者であり金融市場の不安定化による景気循環(金融循環)の存在を示唆していた。
それは、「健全財政論」でなく、「機能的財政論」であった。
国債は悪ではなく、ましてや自国民が保有する「内国債」は破綻することはないというのである。当然である。因みに、日本の場合95%がそれである。
健全化すべきは、「財政」でなく「経済」」である。本末転倒してはいけない。
エドマンド・バークは言った。「私は、変化を排除するものでもない。しかし、変えるときですら維持するために行うのだ」
新自由主義を支持する自称保守は、「保守」ではないのである。
2014年1月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近代国家は保守を、または保守的常識を自覚的に育成しなければならない。
かつては共同体の中で自生的に育まれてきた保守的精神は、自由主義、資本主義の革新的性格により必ず破壊へ向かう。当然ながら社会はその危機に対抗するが、それが先鋭化すればファシズムに向かうとポランニーは言う。
資本主義を続ける以上、我々はこれらを「常識」として認識し続け、平衡を維持しようとしなければならない。
保守は常に少数派。しかしそろそろ我々大衆も彼らを見分け、選び続ける目を養う常識、あるいは空気のようなものを身につけたい。
「社会主義国家」が誕生したのは20世紀に特有な事件だったが、その崩壊と、その後の世界の混乱を経験した今、国家の重い舵を100年前より早く切れるはずだ。
しかし、本書の主人公コールリッジ、さらにケインズは恐るべき予言を残している。
…英国の保守党、労働党の現党首は共に40歳代。彼らは賢人に学ぼうとしているように見える。
我が国における2020五輪は果たして無事に迎えられるのか?
再び日本橋の上に高架橋梁をかけるような事を繰り返してはならない。
かつては共同体の中で自生的に育まれてきた保守的精神は、自由主義、資本主義の革新的性格により必ず破壊へ向かう。当然ながら社会はその危機に対抗するが、それが先鋭化すればファシズムに向かうとポランニーは言う。
資本主義を続ける以上、我々はこれらを「常識」として認識し続け、平衡を維持しようとしなければならない。
保守は常に少数派。しかしそろそろ我々大衆も彼らを見分け、選び続ける目を養う常識、あるいは空気のようなものを身につけたい。
「社会主義国家」が誕生したのは20世紀に特有な事件だったが、その崩壊と、その後の世界の混乱を経験した今、国家の重い舵を100年前より早く切れるはずだ。
しかし、本書の主人公コールリッジ、さらにケインズは恐るべき予言を残している。
…英国の保守党、労働党の現党首は共に40歳代。彼らは賢人に学ぼうとしているように見える。
我が国における2020五輪は果たして無事に迎えられるのか?
再び日本橋の上に高架橋梁をかけるような事を繰り返してはならない。
2013年11月16日に日本でレビュー済み
本書の構成は今現在保守と自称する勢力の保守の現状をつまびらかに記し
真正の保守、つまり元来の保守とはそもそもどういう思想の形であり思考の変遷を辿るのかを著者がイギリスの詩人にして思想家の
サミュエル・テイラー・コールリッジの思想から紐解こうという論考的一冊である
序章は迷走する保守の退廃的な状況を断罪し新自由主義に毒され死に至ってしまった原因をまとめている。
真の保守とは何かを定義して各々、財政、金融、社会、科学、国家について著者が論考を交え保守がとる立場を説いている
まず、一章の財政にいての考察はケインズ的な政策がデフレ状況下での適切な処方箋であり
税制について保守のとる立場は減税と財政規律ではなく、消費税という逆進的な税を増税するのではなく怠惰な資本家や富裕層に対して
税負担を大きくする累進制の税制が適切な選択であると説く。
この論に関しては反対の余地はない。
二章は金融に関してで市場経済は自己調整機能は無く神の見えざる手は机上の空論であり、国家や文化を破壊してしまう自由主義経済の
暴走をコントロールするのは国家と人間の持つ道徳心、モラルであると説く。
そして経済的自由主義は営利の過剰をもたらし、市場経済の不安定化と破壊をもたらすのでありこの営利の過剰をいかにコントロールしていくかについて書かれている
三章は金融からさらに大きな社会に目を向け、道徳のありよう、形成の仕方、社会形成における漸進的な改革について述べ、さらに深く四章の科学に繋がり
五章については国家の問題を前章の科学で解き明かしたコールリッジの生の哲学論を踏まえての国家論、国体の本質、政治的理性の限界についてなどを述べている
問題は第四章の科学についての考察で、著者と私は意見が異なる面がある。
著者はコールリッジの理論を用いて、科学とは信仰であり、機械的哲学論、啓蒙主義的な悟性を主とした合理主義や実証主義について批判している。
客観とはそもそもありえないもので、人間の悟性とはそもそも不確実なもので出発点は感性、感覚などの直観的なものから始まるものであると説き機械的哲学論は死の哲学であり
それに代わる生の哲学論が重要だと提唱している。
そこには自分の感じた直観を信じる、つまり信仰から科学が始まるのであり、科学は宗教と同じ信仰が出発点であるとしている。
この論について大筋で自分は認めるが、自分がこの論を採用、信じられない疑問に思う理由が三つある。
1、著者は四章科学において、合理主義を批判し、三章においてプラグマティズムを重要視しているが
そもそもプラグマティズムは道具主義であり、状況対応主義であって、その思想はある意味非常に合理主義的な側面をはらんでいるのではないか?
2、科学は直観から始まるものであり、信仰は主観的で感覚、感性、予感、預言的なもの、つまり直観的なものであり、それを信じるところから出発する。
科学と宗教は実は同じ形態のものであり、キリスト教における聖書の教義は知の指針となる得るという考えは
余りにも人間の理性や直観に傾きすぎた考えで性善説すぎるのではなかろうか?
3、福田恆存は保守を思想として捉え、保守思想であり保守主義にはなり得ないと考えた。保守が柔軟な思考を捨て、硬直化した固定観念や理念に陥る主義化した保守は
はたして保守なのだろうか?
私は個人的には無神論者であるので哲学と宗教の信仰心を同一でとらえる時点で違和感があるのだが、やはりコールリッジはロマン主義派の詩人としての要素が強いと私は感じる。
人間の精神性や感性が万能と思わせるような論には違和感があり、その理屈でいけば機械的な哲学論を振りかざす実証主義者と変わりなく、
単なるアンチテーゼであって本書を読んでいて思ったが、暗黙知や聖書の言葉を引用し、「信じなければ、理解することは無い」と言っているがはたして
盲目的に信じることが理性なのだろうか?
信じると同時に懐疑し批判することもまた感性から出発する人間の理性の出発点だと思うのだが。
カール・ポパーは論文集『推測と反駁 科学的知識の発展』において
「科学は神話とともに、そして神話に対する批判とともに始まる。
たくさんの観測結果でも、実験方法の発明でもなく、
神話や魔術的技術・営為に対する批判的討論とともに。科学的流儀は前科学的流儀とは二つの層で異なる。
前科学的流儀では、それはそれ自身の理論を通過する。しかしそれはそれらに対する批判的態度をも通過する。
理論は独断的教義としてではなく、理論について議論したり理論を改良したりすることで通過する」と書いている
信じることと同時に、懐疑し批判することも理性であると自分は考える。
また人間の感じる予感や感覚というものは実はあてにならないという、実存主義者のジャン・ポール・サルトルが唱えた錯覚の理論に対して、どう著者は答えるのだろうか?
サルトルの言っている錯覚論を借りて説明すれば、新自由主義者という狂人もまた己の信じた(信仰ともいうべき感覚や予感にしたがって)直観でその考えを択んでいるのだから
彼らもまた正しいという事になり、相対主義にはまり込んでいくのではなかろうか?
そもそも、新自由主義者という狂人の内なる感覚による未来を信じられるだろうか?
少なくとも反グローバル、新自由主義思想に反対している立場の人間は彼等の主義は信じられないだろう。少なくとも新自由主義に嵌まる人間は経済思想において錯覚を起こしているとしか言いようがないのである
つまり、この本の問題点はその信仰の基準が明確に示されておらず、またその基準など示すことが不可能という点で、無限訴求に陥ったり、堂々巡り相対化に嵌まって行ってしまうという点である。
暗黙知と言われても、人それぞれ経済理論一つとっても新自由主義的な経済論を正しいと思う人間もいれば、ケインズ経済学やマルクス経済学が正しいと思う人間もいて、
これでは結論が出せない。
新自由主義者にしてみれば自分たちの信仰する経済理論が上手くいかないのは完全自由な規制の無い状態が実現されないからだ!というに違いないし、普通に言っている。
完全な自由が確立し達成されれば、トリクルダウン理論などを用いてすべての人間が豊かになると信じている人間に対し
あなたの言っていることは間違いだと説得などできないではなかろうか?
著者の師でもある西部邁氏は要約して言うが「保守とは基準さがしである」とも言っている。
この物事の善悪、正邪、などの基準を求めるとなるとやはり実践知ともいうべき経験主義的な側面も重要であろうと思う。
信仰しようと思うにもそれを信仰するに足りる判断基準や定義が無ければ信仰にはならないのである。
そして、福田恆存が保守を主義としなかったのはやはり思想の硬直化と保守思想の要諦である柔軟なバランス感覚が主義にしてしまう事によって失われ変容してしまい
それは保守であって保守でなくなってしまうという矛盾を孕んでいるからだと自分は考えた。
もし、保守思想を主義にまで発展させ体系化させるのなら少数にしか理解できないような理論であるなら主義化はできないと言った方がよいかもしれない
常に正しい保守というのはいつの時代も少数派なのである。
長くなってしまったが、著者の本は一章二章においては経済的な側面で保守のとる立場を分かりやすく纏められており、参考にもなるだろう。
だが、著者が書いている通り、学術的な面からの考察を避けているため、もっとそちらに重点を置いてほしかった。
科学の章の部分では何とも中途半端な面もあり、ページの関係もあるのだろうが消化不良は否めないと感じてしまったのである。
よって☆は3つとさせていただきます。
真正の保守、つまり元来の保守とはそもそもどういう思想の形であり思考の変遷を辿るのかを著者がイギリスの詩人にして思想家の
サミュエル・テイラー・コールリッジの思想から紐解こうという論考的一冊である
序章は迷走する保守の退廃的な状況を断罪し新自由主義に毒され死に至ってしまった原因をまとめている。
真の保守とは何かを定義して各々、財政、金融、社会、科学、国家について著者が論考を交え保守がとる立場を説いている
まず、一章の財政にいての考察はケインズ的な政策がデフレ状況下での適切な処方箋であり
税制について保守のとる立場は減税と財政規律ではなく、消費税という逆進的な税を増税するのではなく怠惰な資本家や富裕層に対して
税負担を大きくする累進制の税制が適切な選択であると説く。
この論に関しては反対の余地はない。
二章は金融に関してで市場経済は自己調整機能は無く神の見えざる手は机上の空論であり、国家や文化を破壊してしまう自由主義経済の
暴走をコントロールするのは国家と人間の持つ道徳心、モラルであると説く。
そして経済的自由主義は営利の過剰をもたらし、市場経済の不安定化と破壊をもたらすのでありこの営利の過剰をいかにコントロールしていくかについて書かれている
三章は金融からさらに大きな社会に目を向け、道徳のありよう、形成の仕方、社会形成における漸進的な改革について述べ、さらに深く四章の科学に繋がり
五章については国家の問題を前章の科学で解き明かしたコールリッジの生の哲学論を踏まえての国家論、国体の本質、政治的理性の限界についてなどを述べている
問題は第四章の科学についての考察で、著者と私は意見が異なる面がある。
著者はコールリッジの理論を用いて、科学とは信仰であり、機械的哲学論、啓蒙主義的な悟性を主とした合理主義や実証主義について批判している。
客観とはそもそもありえないもので、人間の悟性とはそもそも不確実なもので出発点は感性、感覚などの直観的なものから始まるものであると説き機械的哲学論は死の哲学であり
それに代わる生の哲学論が重要だと提唱している。
そこには自分の感じた直観を信じる、つまり信仰から科学が始まるのであり、科学は宗教と同じ信仰が出発点であるとしている。
この論について大筋で自分は認めるが、自分がこの論を採用、信じられない疑問に思う理由が三つある。
1、著者は四章科学において、合理主義を批判し、三章においてプラグマティズムを重要視しているが
そもそもプラグマティズムは道具主義であり、状況対応主義であって、その思想はある意味非常に合理主義的な側面をはらんでいるのではないか?
2、科学は直観から始まるものであり、信仰は主観的で感覚、感性、予感、預言的なもの、つまり直観的なものであり、それを信じるところから出発する。
科学と宗教は実は同じ形態のものであり、キリスト教における聖書の教義は知の指針となる得るという考えは
余りにも人間の理性や直観に傾きすぎた考えで性善説すぎるのではなかろうか?
3、福田恆存は保守を思想として捉え、保守思想であり保守主義にはなり得ないと考えた。保守が柔軟な思考を捨て、硬直化した固定観念や理念に陥る主義化した保守は
はたして保守なのだろうか?
私は個人的には無神論者であるので哲学と宗教の信仰心を同一でとらえる時点で違和感があるのだが、やはりコールリッジはロマン主義派の詩人としての要素が強いと私は感じる。
人間の精神性や感性が万能と思わせるような論には違和感があり、その理屈でいけば機械的な哲学論を振りかざす実証主義者と変わりなく、
単なるアンチテーゼであって本書を読んでいて思ったが、暗黙知や聖書の言葉を引用し、「信じなければ、理解することは無い」と言っているがはたして
盲目的に信じることが理性なのだろうか?
信じると同時に懐疑し批判することもまた感性から出発する人間の理性の出発点だと思うのだが。
カール・ポパーは論文集『推測と反駁 科学的知識の発展』において
「科学は神話とともに、そして神話に対する批判とともに始まる。
たくさんの観測結果でも、実験方法の発明でもなく、
神話や魔術的技術・営為に対する批判的討論とともに。科学的流儀は前科学的流儀とは二つの層で異なる。
前科学的流儀では、それはそれ自身の理論を通過する。しかしそれはそれらに対する批判的態度をも通過する。
理論は独断的教義としてではなく、理論について議論したり理論を改良したりすることで通過する」と書いている
信じることと同時に、懐疑し批判することも理性であると自分は考える。
また人間の感じる予感や感覚というものは実はあてにならないという、実存主義者のジャン・ポール・サルトルが唱えた錯覚の理論に対して、どう著者は答えるのだろうか?
サルトルの言っている錯覚論を借りて説明すれば、新自由主義者という狂人もまた己の信じた(信仰ともいうべき感覚や予感にしたがって)直観でその考えを択んでいるのだから
彼らもまた正しいという事になり、相対主義にはまり込んでいくのではなかろうか?
そもそも、新自由主義者という狂人の内なる感覚による未来を信じられるだろうか?
少なくとも反グローバル、新自由主義思想に反対している立場の人間は彼等の主義は信じられないだろう。少なくとも新自由主義に嵌まる人間は経済思想において錯覚を起こしているとしか言いようがないのである
つまり、この本の問題点はその信仰の基準が明確に示されておらず、またその基準など示すことが不可能という点で、無限訴求に陥ったり、堂々巡り相対化に嵌まって行ってしまうという点である。
暗黙知と言われても、人それぞれ経済理論一つとっても新自由主義的な経済論を正しいと思う人間もいれば、ケインズ経済学やマルクス経済学が正しいと思う人間もいて、
これでは結論が出せない。
新自由主義者にしてみれば自分たちの信仰する経済理論が上手くいかないのは完全自由な規制の無い状態が実現されないからだ!というに違いないし、普通に言っている。
完全な自由が確立し達成されれば、トリクルダウン理論などを用いてすべての人間が豊かになると信じている人間に対し
あなたの言っていることは間違いだと説得などできないではなかろうか?
著者の師でもある西部邁氏は要約して言うが「保守とは基準さがしである」とも言っている。
この物事の善悪、正邪、などの基準を求めるとなるとやはり実践知ともいうべき経験主義的な側面も重要であろうと思う。
信仰しようと思うにもそれを信仰するに足りる判断基準や定義が無ければ信仰にはならないのである。
そして、福田恆存が保守を主義としなかったのはやはり思想の硬直化と保守思想の要諦である柔軟なバランス感覚が主義にしてしまう事によって失われ変容してしまい
それは保守であって保守でなくなってしまうという矛盾を孕んでいるからだと自分は考えた。
もし、保守思想を主義にまで発展させ体系化させるのなら少数にしか理解できないような理論であるなら主義化はできないと言った方がよいかもしれない
常に正しい保守というのはいつの時代も少数派なのである。
長くなってしまったが、著者の本は一章二章においては経済的な側面で保守のとる立場を分かりやすく纏められており、参考にもなるだろう。
だが、著者が書いている通り、学術的な面からの考察を避けているため、もっとそちらに重点を置いてほしかった。
科学の章の部分では何とも中途半端な面もあり、ページの関係もあるのだろうが消化不良は否めないと感じてしまったのである。
よって☆は3つとさせていただきます。
2013年10月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
経済以外の分野では保守的な意見を述べる人も、こと経済に関しては保守とは相対する事の多い(デフレ期の今はほとんど逆)新自由主義に染まっている今の日本の現状はとても嘆かわしいことだと思います。
そうした半分保守派の方たちにぜひこの本をおススメしていただきたいです。
新自由主義でのみ経済を考えるのは、歴史認識で言えば自虐史観だけで歴史を語ろうとしているのと同じくらい愚かなことだよ、と。
ただちょっと経済に弱い人には内容的に難しいところがあるかもしれません。
キチンと内容を理解して読破出来れば保守主義的経済論を深く理解できると思いますが、経済にあまり自信が無い方はこの本の前に三橋貴明さんの本などで予備知識をつけておいた方がいいかも。
それか動画で中野さんと三橋さんがこの本の内容にピッタリの講演をしているものがあるのでそちらをまず見てからの方がいいかも。
中野剛志'三橋貴明『売国奴に告ぐ!』出版記念講演会
[・・・]
そうした半分保守派の方たちにぜひこの本をおススメしていただきたいです。
新自由主義でのみ経済を考えるのは、歴史認識で言えば自虐史観だけで歴史を語ろうとしているのと同じくらい愚かなことだよ、と。
ただちょっと経済に弱い人には内容的に難しいところがあるかもしれません。
キチンと内容を理解して読破出来れば保守主義的経済論を深く理解できると思いますが、経済にあまり自信が無い方はこの本の前に三橋貴明さんの本などで予備知識をつけておいた方がいいかも。
それか動画で中野さんと三橋さんがこの本の内容にピッタリの講演をしているものがあるのでそちらをまず見てからの方がいいかも。
中野剛志'三橋貴明『売国奴に告ぐ!』出版記念講演会
[・・・]