甲野 善紀さんの考え・思いを連々と書かれています。
甲野先生の考え方を参考にしたい方とか、ファンの方におすすめします。
しかし、少し独特の考え方を持ってられるので、
読んでも共感を得られるかどうかは、ちょっと?です。
こういう考えもあるんだなぁ、と私には参考になりました。

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身体から革命を起こす (新潮文庫) 文庫 – 2007/8/28
「捻らない、タメない、うねらない」これまでの常識を覆すその身体技法は、まさに革命である。武術家・甲野善紀が、武術、スポーツのみならず、音楽演奏や介護にまで変革をもたらしたのは何故か? 古武術の探求をはじめとする甲野の現在とは? 「ナンバ」に代表される日本人古来の身体の使い方など、西洋的身体観では説明できないその術理は、もはや我々の思考方法にまで転換を迫る。
- 本の長さ313ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2007/8/28
- ISBN-104101326517
- ISBN-13978-4101326511
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上位レビュー、対象国: 日本
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2014年5月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著である。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、『笑っていいとも』などのTV番組で2~3回見かけた。古武術の技を介護などに応用しているらしく、彼自身に対する評価は日本の古い技を継承している貴重な存在の人だなあ~、というものだった。
もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平さんの劇画のファンだってこともあり、わたし自身は、昔の武術家の凄技を信じている。甲野さんは、その凄技を体現しようと努力しているようである。どんな、技があるのかなあと軽いノリでこの本を手に取ったのだが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容だった。とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っているのである。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちの彼に対する証言である。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。
感銘を受けたところは多々ある。しかし、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間」は何かいろいろヤバいことになっていると、うすうす感じていたが、実際にどうなのかということが身体について語られていた。わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思った。
近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだ。しかし、こういう構造だから、身体はこのように動いていると概念化されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしい。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っている。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことであると。
いろいろな物が近代化されるまでは、我々人間は、身体を使って仕事をしていた。それが、今考えれば重労働のようであっても、当時の人々は、その仕事に合った身体の使い方をしていたのだ。その頃は、人の身体の動き方で何の仕事をしている人かがわかったくらいに。さらに今の人が考えるほどの重労働ではなかったという事実。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくある。そんな中で、日本人はアフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚いたりする。明治以前の日本においても、そんなことが想像される。
著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊だったらしい。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていたのだ。科学的思考により、身体はこう動くと概念化された。それにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになった。この書ではこのように述べられている。
「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」
冒頭でも紹介した違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接触し、衝撃を受ける。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚がよみがえった」と感激する。自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。
フルート奏者の白川真理女史は言う。
「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人が、そこそこのことができるようにしないといけないから、マニュアル化していった。」
人は自分の能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想を持った。
もうひとつ、自我あるいは個人について。西欧とその他の国での違いはindividuality をどう見るかと言うこと。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いは此処にあると思う。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになること。
う~~~ん、「本来の身体」を手に入れるために自我を捨てること。あるいは、近代以来の理性を捨てる…これは、乗り越え難い相克でしょうね。
もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平さんの劇画のファンだってこともあり、わたし自身は、昔の武術家の凄技を信じている。甲野さんは、その凄技を体現しようと努力しているようである。どんな、技があるのかなあと軽いノリでこの本を手に取ったのだが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容だった。とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っているのである。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちの彼に対する証言である。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。
感銘を受けたところは多々ある。しかし、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間」は何かいろいろヤバいことになっていると、うすうす感じていたが、実際にどうなのかということが身体について語られていた。わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思った。
近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだ。しかし、こういう構造だから、身体はこのように動いていると概念化されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしい。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っている。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことであると。
いろいろな物が近代化されるまでは、我々人間は、身体を使って仕事をしていた。それが、今考えれば重労働のようであっても、当時の人々は、その仕事に合った身体の使い方をしていたのだ。その頃は、人の身体の動き方で何の仕事をしている人かがわかったくらいに。さらに今の人が考えるほどの重労働ではなかったという事実。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくある。そんな中で、日本人はアフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚いたりする。明治以前の日本においても、そんなことが想像される。
著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊だったらしい。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていたのだ。科学的思考により、身体はこう動くと概念化された。それにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになった。この書ではこのように述べられている。
「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」
冒頭でも紹介した違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接触し、衝撃を受ける。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚がよみがえった」と感激する。自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。
フルート奏者の白川真理女史は言う。
「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人が、そこそこのことができるようにしないといけないから、マニュアル化していった。」
人は自分の能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想を持った。
もうひとつ、自我あるいは個人について。西欧とその他の国での違いはindividuality をどう見るかと言うこと。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いは此処にあると思う。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになること。
う~~~ん、「本来の身体」を手に入れるために自我を捨てること。あるいは、近代以来の理性を捨てる…これは、乗り越え難い相克でしょうね。
2014年1月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
持っていても良いかな?ぐらいですが、この機会に買えて良かったかな?と。
2015年6月27日に日本でレビュー済み
著者の甲野善紀氏は、武術家、武術を基にした身体技法の実践研究家である。本書は2005年に発刊、2007年に文庫化された。
甲野氏は、「ナンバ」(右手と右脚、左手と左脚を同時に出す、江戸時代の飛脚の走り方)など、日本人古来の身体の使い方に注目し、独自の身体操法を研究してきたが、そこから導き出されたのは、「体幹部をねじらず、足で床を蹴らない、つまり反動を利用することがない」動きであり、本書においても様々な実例が紹介されている。
そして、甲野氏は、「私が研究してきたのは、剣術にも体術にも共通するような動きの原理、身体の使い方の原理ですから、スポーツにも応用できます。ただ、それは今日のスポーツの常識とはまったくちがった動きです。だからこそ現代のスポーツの常識では無理だと思い込まれてきたようなことを可能にするのです」といい、甲野氏から直接教えを受けた桑田真澄や、直接の接触はないというものの、「ナンバ」が一般に注目されるきっかけを作った末續慎吾ほか、多数のアスリートへ影響を与えたことが語られている。
また、甲野氏の理論は今や、武術やスポーツのみならず、楽器の演奏、舞踊、介護医療に応用されており、フルート奏者の白川真理の例も記されている。
様々な分野を支配する西洋的観念・発想を見直す一つのアプローチとして注目に値するものと思う。
(2007年9月了)
甲野氏は、「ナンバ」(右手と右脚、左手と左脚を同時に出す、江戸時代の飛脚の走り方)など、日本人古来の身体の使い方に注目し、独自の身体操法を研究してきたが、そこから導き出されたのは、「体幹部をねじらず、足で床を蹴らない、つまり反動を利用することがない」動きであり、本書においても様々な実例が紹介されている。
そして、甲野氏は、「私が研究してきたのは、剣術にも体術にも共通するような動きの原理、身体の使い方の原理ですから、スポーツにも応用できます。ただ、それは今日のスポーツの常識とはまったくちがった動きです。だからこそ現代のスポーツの常識では無理だと思い込まれてきたようなことを可能にするのです」といい、甲野氏から直接教えを受けた桑田真澄や、直接の接触はないというものの、「ナンバ」が一般に注目されるきっかけを作った末續慎吾ほか、多数のアスリートへ影響を与えたことが語られている。
また、甲野氏の理論は今や、武術やスポーツのみならず、楽器の演奏、舞踊、介護医療に応用されており、フルート奏者の白川真理の例も記されている。
様々な分野を支配する西洋的観念・発想を見直す一つのアプローチとして注目に値するものと思う。
(2007年9月了)
2015年12月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
期待通りの品物で、今後も安心してネットで購入することが出来ます。
2012年1月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
”身体から革命を起こす”というタイトルにつられて読んでみたが,中身がまるでないような感じです.
武道から身体の動きを感得し,その動きが全てのスポーツに応用できるようであるが,具体的な実感がない.
著者の独りよがりを文章にしたようなものであった.
武道から身体の動きを感得し,その動きが全てのスポーツに応用できるようであるが,具体的な実感がない.
著者の独りよがりを文章にしたようなものであった.
2015年1月31日に日本でレビュー済み
2007年初版。これまで著者の本を折りに付け読んで来た。桐朋高校のバスケット部のメンバーの動きを著者が指導された辺りから、私の中では一本歯の下駄を履いた古武術研究家から現代の人間の動きそのものを古武術をベースに変えてしまう達人になった。しかし、本を読むと、理解したつもりになってそれ以上何でもなかった。著者がマスコミに登場する度に、末續選手が話題になる毎に、本を読んだが何も分っていなかった。自分の中に溜め込まれた“近い知識”で、大きなものを垣間見ただけであった。
凄い!、とマスコミが評せば、凄いらしい事は分るが、何が凄いのか正直分らないままであった。言語で表現するには限りがあることを知りつつも、自分の観察を放って置いて、他人の言葉に振り回された。
最近、母が寝たきりに近くなった。今までは動きが遅い位の感覚で見ていたが、手助けを必要とされると、小柄で痩身の体を思う様に扱えない事に気付いた。過去に取り組んで来たカラダの使い方に関しては殆ど役に立たなかった。意識して使った事の無かった肩甲骨の辺りの背骨から左右に延びる神経がピリピリするのを感じた。このまま行くと、介護する側が病院の世話になりそうだった。老老介護の結末は目に見えて明らかだった。
これは己のカラダの使い方の問題だ、と考えていた時にある本を見知らぬ人が地下鉄の中で読んでいた。タイトルが目に入り、直感的に「これは甲野氏の関係の本だ」、と気付き、図書館で探した。著者の弟子の岡田慎一郎氏の本であった。早速、出ていた手の平返しをその日の内に実践してみた。著者が肩甲骨の使い方を昔から取り上げていらしたが、当時身体的に理解出来なかった私は今になって肩甲骨の使い方のホンの一部を覚えたのだ。しかし、その“そのホンの一部”がカラダの使い方をこれまでと全く変えてしまった。とは言え、私は本に掲載されている業を一日に一つ実践している初心者に過ぎない。
現代に生きる人間は労働に勤しむ事がなくなった。偶々見ていた韓国時代劇に水を天秤で担ぐ様子が出てきたが、肩で担ぐのではなく、棒を丈夫な肩甲骨の上に渡し、その左右に水桶を下げ、棒から吊るした縄をバランスを取るべく両手を当てていた。昔の人達はカラダで日常のこんな動きを覚えていたのだ。
その初心者が親指を小指側へ向け、人差し指を親指側へ捻っただけで肩甲骨の動きが変るのが分るのだ。料理然り、編み物然り、仕事然り。どの分野でもそうだが、実践して始めて見えて来るものがある。実践をしないと頭だけの理解になってカラダが着いて行かない。
今なら、甲野氏の著書で分ったつもりになっていた本をもう一度素直に読み直す事が出来る。分らない部分は実践の量が増えた時にもう一度見直せば良い、と考えて読み始めた。古武術でありながら、枠に囚われない。著者の動きは素早く、カラダの使い方の分っていない一般人から見れば、摩訶不思議な処があるが、それを不思議の世界に置いたままにせずに解説をして行く。
フルート演奏家の白川氏の『上手なオペラ歌手の歌はカラダに振動するが下手な…』、と言う旨の言葉があったが、私は音楽的素人だが、ライブを聴くとカラダが音に共鳴するかのように熱くなるのを経験している。着物に関するコメントにも同じ思いを持った。袖を通した時に感じる、あの寛ぎに近い感覚は一体何であろうか。大工は大工の歩き方が、武士には武士の歩き方が嘗てはあった様に、体の動きから遠く離れてしまった現代の人間も自分の分野でカラダの使い方を各自研究すべきなのだ。知識として知る段階に留めずに、日常に体のレベルで、動きとして、生活に生かしてこそ意味があると言うものだ。
著者は『教えて貰った事で見えなくなる事もある』、とまで言う。武道・武術に限らず、教える立場の人達は普通、“正しい遣り方”を教える。でも、それはコロの世界での価値観かも知れない。
読者は何かを求めるから本を読むのだが、過去に読んだ時は求め過ぎて貪欲になり、肝心の処は見過ごしていたのではないか、と言う様な気がした。嘗て泥田で稲を植え、草を取り、駅の階段は一段おきに昇り、とナンバを意識していた頃にもう一度戻ろう。何処前自分の感覚を目覚めさせられるか。
凄い!、とマスコミが評せば、凄いらしい事は分るが、何が凄いのか正直分らないままであった。言語で表現するには限りがあることを知りつつも、自分の観察を放って置いて、他人の言葉に振り回された。
最近、母が寝たきりに近くなった。今までは動きが遅い位の感覚で見ていたが、手助けを必要とされると、小柄で痩身の体を思う様に扱えない事に気付いた。過去に取り組んで来たカラダの使い方に関しては殆ど役に立たなかった。意識して使った事の無かった肩甲骨の辺りの背骨から左右に延びる神経がピリピリするのを感じた。このまま行くと、介護する側が病院の世話になりそうだった。老老介護の結末は目に見えて明らかだった。
これは己のカラダの使い方の問題だ、と考えていた時にある本を見知らぬ人が地下鉄の中で読んでいた。タイトルが目に入り、直感的に「これは甲野氏の関係の本だ」、と気付き、図書館で探した。著者の弟子の岡田慎一郎氏の本であった。早速、出ていた手の平返しをその日の内に実践してみた。著者が肩甲骨の使い方を昔から取り上げていらしたが、当時身体的に理解出来なかった私は今になって肩甲骨の使い方のホンの一部を覚えたのだ。しかし、その“そのホンの一部”がカラダの使い方をこれまでと全く変えてしまった。とは言え、私は本に掲載されている業を一日に一つ実践している初心者に過ぎない。
現代に生きる人間は労働に勤しむ事がなくなった。偶々見ていた韓国時代劇に水を天秤で担ぐ様子が出てきたが、肩で担ぐのではなく、棒を丈夫な肩甲骨の上に渡し、その左右に水桶を下げ、棒から吊るした縄をバランスを取るべく両手を当てていた。昔の人達はカラダで日常のこんな動きを覚えていたのだ。
その初心者が親指を小指側へ向け、人差し指を親指側へ捻っただけで肩甲骨の動きが変るのが分るのだ。料理然り、編み物然り、仕事然り。どの分野でもそうだが、実践して始めて見えて来るものがある。実践をしないと頭だけの理解になってカラダが着いて行かない。
今なら、甲野氏の著書で分ったつもりになっていた本をもう一度素直に読み直す事が出来る。分らない部分は実践の量が増えた時にもう一度見直せば良い、と考えて読み始めた。古武術でありながら、枠に囚われない。著者の動きは素早く、カラダの使い方の分っていない一般人から見れば、摩訶不思議な処があるが、それを不思議の世界に置いたままにせずに解説をして行く。
フルート演奏家の白川氏の『上手なオペラ歌手の歌はカラダに振動するが下手な…』、と言う旨の言葉があったが、私は音楽的素人だが、ライブを聴くとカラダが音に共鳴するかのように熱くなるのを経験している。着物に関するコメントにも同じ思いを持った。袖を通した時に感じる、あの寛ぎに近い感覚は一体何であろうか。大工は大工の歩き方が、武士には武士の歩き方が嘗てはあった様に、体の動きから遠く離れてしまった現代の人間も自分の分野でカラダの使い方を各自研究すべきなのだ。知識として知る段階に留めずに、日常に体のレベルで、動きとして、生活に生かしてこそ意味があると言うものだ。
著者は『教えて貰った事で見えなくなる事もある』、とまで言う。武道・武術に限らず、教える立場の人達は普通、“正しい遣り方”を教える。でも、それはコロの世界での価値観かも知れない。
読者は何かを求めるから本を読むのだが、過去に読んだ時は求め過ぎて貪欲になり、肝心の処は見過ごしていたのではないか、と言う様な気がした。嘗て泥田で稲を植え、草を取り、駅の階段は一段おきに昇り、とナンバを意識していた頃にもう一度戻ろう。何処前自分の感覚を目覚めさせられるか。
2011年8月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルからは、書かれている内容を実践すれば、何かが変わるようなイメージも取れるかもしれません。しかし、実践的な内容はほとんどかかれておりません。したがって、実践したい人はDVD付きの冊子などを購入したほうが良いと思います。
実践編というよりは、思考の過程や歴史などについて考察されております。
動くよりも、まずは知識から。または逆に、十分動き方は身につけた。さらに知識で補強を。という人には向いてると思います。
実践編というよりは、思考の過程や歴史などについて考察されております。
動くよりも、まずは知識から。または逆に、十分動き方は身につけた。さらに知識で補強を。という人には向いてると思います。