本書の中核をなすのは「『魏志倭人伝』後世改竄説」です。
改竄には悪いイメージを抱きがちですが、この改竄は、ある思い込みで修正してしまったということです。
本書での「邪馬台国位置研究」のアプローチは、以下の3点です。
1、「魏志倭人伝」の記述を正しいと考え、安易な読み換えをしない
2、「魏志倭人伝」の記述の中にしか推論の根拠を求めない
3、考古学的成果を予断をもって関連付けない
そのため、「魏志倭人伝」の記述が間違いならば、本書の仮説は成立しません。
内容は、まず「魏志倭人伝」とは何かを解説し、邪馬台国論争の原因を紹介します。
次に、「三国志」の撰者・陳寿の経歴から「魏志倭人伝」の日数表記の不自然さを提言し、
日程表記をはじめとした文脈上の問題点を挙げます。
以下は、論拠をあげて丁寧に邪馬台国の位置を特定しています。
特に印象深かったのは、「中国には紀元前270年には地図が有り、邪馬台国に行った使節は
地図を書きながら行ったはず」でした。
真摯な研究態度が窺え、現時点で最も説得力のある仮説です。
是非ご一読を。

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邪馬台国は熊本にあった! ~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社新書) 新書 – 2016/9/2
伊藤 雅文
(著)
産経WEB「IRONNA」で紹介されました。
いつまでも邪馬台国の場所が特定されないのは〝羅針盤〟に問題があるからでは?
繊細にして大胆な「『魏志倭人伝』後世改ざん説」で羅針盤を修正し、
道程を筋道立てて検証していくと、邪馬台国は………
いつまでたっても邪馬台国の位置が定まらないのは、「魏志倭人伝」の行程記述の後半が極めて曖昧だからだ。魏志倭人伝を丁寧に読み解き、この曖昧な記述の原因を追究していくと、ある興味深い仮説が浮上してくる……それが「後世改ざん説」で ある。
「『魏志倭人伝』後世改ざん説」という仮説の根拠と読み解き方の詳細は本文に譲るとして、改ざんを復元し、魏志倭人伝に記された「道里(道程)」を、一つひとつ踏みしめるように辿っていくと、邪馬台国があったのは……現在の熊本平野という結 論に至る。
熊本に至るまでの緻密且つ大胆な検証は読む者の知的好奇心を大いに刺激し、五里霧中だった邪馬台国への道が驚くほどきれいに晴れてくる。
そして、最終章で立証される「畿内説」が成り立たない決定的な理由は、現代の畿内説過熱報道にも一石を投じるはずである。
さぁ、古代史最大のミステリーへようこそ。
内容
第一章 「魏志倭人伝」後世改ざん説
第二章 帯方郡から九州上陸までの道のり
第三章 梯儁の報告書と伊都国
第四章 奴国と不彌国
第五章 陳寿の記した道里と邪馬台国の位置
第六章 旁国 狗奴国 その他の国々
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
伊藤 雅文(いとう・まさふみ)
昭和34(1959)年、兵庫県揖保郡(現たつの市)
生まれ。広島大学文学部史学科西洋史学専攻卒業。歴史研究家。全国邪馬台国連絡協議会 事務局員。全国歴史研究会 本部会員。平成26年8月、「陳寿の記した道里~ 邪馬台国への方程式を解く~」(ブックウェイより電子書籍&オンデマンド本)を出版。 平成27年8月、全国邪馬台国連絡協議会の会員発表会で「魏志倭人伝の『道里』に関する新考察」を発表。歴史研究第634号(2015年9月号)に「魏志倭人伝の『道里』に思う」掲載。平成27年11月、季刊邪馬台国の論文募集に応募し「伊都国記述に関する 新解釈」で、敢闘賞を受賞。
内容(「BOOK」データベースより)
古代史最大のミステリーへようこそ。1716年、新井白石の『古史通或問』に始まった邪馬台国論争300年目の新説登場!
いつまでも邪馬台国の場所が特定されないのは〝羅針盤〟に問題があるからでは?
繊細にして大胆な「『魏志倭人伝』後世改ざん説」で羅針盤を修正し、
道程を筋道立てて検証していくと、邪馬台国は………
いつまでたっても邪馬台国の位置が定まらないのは、「魏志倭人伝」の行程記述の後半が極めて曖昧だからだ。魏志倭人伝を丁寧に読み解き、この曖昧な記述の原因を追究していくと、ある興味深い仮説が浮上してくる……それが「後世改ざん説」で ある。
「『魏志倭人伝』後世改ざん説」という仮説の根拠と読み解き方の詳細は本文に譲るとして、改ざんを復元し、魏志倭人伝に記された「道里(道程)」を、一つひとつ踏みしめるように辿っていくと、邪馬台国があったのは……現在の熊本平野という結 論に至る。
熊本に至るまでの緻密且つ大胆な検証は読む者の知的好奇心を大いに刺激し、五里霧中だった邪馬台国への道が驚くほどきれいに晴れてくる。
そして、最終章で立証される「畿内説」が成り立たない決定的な理由は、現代の畿内説過熱報道にも一石を投じるはずである。
さぁ、古代史最大のミステリーへようこそ。
内容
第一章 「魏志倭人伝」後世改ざん説
第二章 帯方郡から九州上陸までの道のり
第三章 梯儁の報告書と伊都国
第四章 奴国と不彌国
第五章 陳寿の記した道里と邪馬台国の位置
第六章 旁国 狗奴国 その他の国々
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
伊藤 雅文(いとう・まさふみ)
昭和34(1959)年、兵庫県揖保郡(現たつの市)
生まれ。広島大学文学部史学科西洋史学専攻卒業。歴史研究家。全国邪馬台国連絡協議会 事務局員。全国歴史研究会 本部会員。平成26年8月、「陳寿の記した道里~ 邪馬台国への方程式を解く~」(ブックウェイより電子書籍&オンデマンド本)を出版。 平成27年8月、全国邪馬台国連絡協議会の会員発表会で「魏志倭人伝の『道里』に関する新考察」を発表。歴史研究第634号(2015年9月号)に「魏志倭人伝の『道里』に思う」掲載。平成27年11月、季刊邪馬台国の論文募集に応募し「伊都国記述に関する 新解釈」で、敢闘賞を受賞。
内容(「BOOK」データベースより)
古代史最大のミステリーへようこそ。1716年、新井白石の『古史通或問』に始まった邪馬台国論争300年目の新説登場!
- 本の長さ309ページ
- 言語日本語
- 出版社扶桑社
- 発売日2016/9/2
- ISBN-104594075436
- ISBN-13978-4594075439
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商品の説明
著者について
伊藤 雅文(いとう・まさふみ) 昭和34(1959)年、兵庫県揖保郡(現たつの市)生まれ。広島大学文学部史学科西洋史学専攻卒業。歴史研究家。全国邪馬台国連絡協議会 事務局員。全国歴史研究会 本部会員。平成26年8月、「陳寿の記した道里~ 邪馬台国への方程式を解く~」(ブックウェイより電子書籍&オンデマンド本)を出版。平成27年8月、全国邪馬台国連絡協議会の会員発表会で「魏志倭人伝の『道里』に関する新考察」を発表。歴史研究第634号(2015年9月号)に「魏志倭人伝の『道里』に思う」掲載。平成27年11月、季刊邪馬台国の論文募集に応募し「伊都国記述に関する新解釈」で、敢闘賞を受賞。
登録情報
- 出版社 : 扶桑社 (2016/9/2)
- 発売日 : 2016/9/2
- 言語 : 日本語
- 新書 : 309ページ
- ISBN-10 : 4594075436
- ISBN-13 : 978-4594075439
- Amazon 売れ筋ランキング: - 279,215位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年3月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2016年11月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
職場の上司のすすめで購入しました。
邪馬台国については日本史の授業で習った程度で、「北九州説と畿内説がある」くらいの認識でしたが、最後まで興味深く読めました。
本書は、著者の新説とされる「魏志倭人伝後世改ざん説」の詳細が語られたあと、帯方郡から邪馬台国までの行程を順を追って検証されます。
魏志倭人伝の記述の中から丁寧に検証・考察されていて、無理やり著者の邪馬台国比定地へつなげる形ではありませんでした。
どうしても仮説に基づいていますが、かなり綿密に裏付けされているので、邪馬台国は本当に熊本にあったのでは?と思えてくるほどです。古代史ファンにオススメの本です。
邪馬台国については日本史の授業で習った程度で、「北九州説と畿内説がある」くらいの認識でしたが、最後まで興味深く読めました。
本書は、著者の新説とされる「魏志倭人伝後世改ざん説」の詳細が語られたあと、帯方郡から邪馬台国までの行程を順を追って検証されます。
魏志倭人伝の記述の中から丁寧に検証・考察されていて、無理やり著者の邪馬台国比定地へつなげる形ではありませんでした。
どうしても仮説に基づいていますが、かなり綿密に裏付けされているので、邪馬台国は本当に熊本にあったのでは?と思えてくるほどです。古代史ファンにオススメの本です。
2019年10月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
はい、ありがとう! これから、バトンタッチして、私が使わせてもらいます。
2017年3月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
副題が ~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ と、あまり穏やかではない。もちろん、著者自身がその点はよく理解しているようなので、ひとつの仮説を検証する楽しみのようなものを感じて読めば良いのだろう。
では、いわゆる魏志倭人伝のどこをどう改ざんしたのか? 詳しくは本書に委ねるが、連続説にしろ放射説にしろ「水行二十日」そして「水行十日、陸行一月」と記述されている部分が、かつては距離で示されていたのではないか、という見方である。氏は、矛盾が多いという放射説を避け連続説でもって説明してゆくが、その日数を都合1300里の距離に置き換えようとする試みである。水行は「船」での道行と考えており、当然歩く速度より早い。そして氏が導き出したのが「水行二十日=600里」「水行十日=300里」そして「陸行一月=400里」である。そしてそこから最終的に導き出したのが表題となる訳だが、一種の推理小説を読むかのようだ。
ただ、ご本人も迷っているように、北九州への上陸地点である松盧国から次の伊都国が、倭人伝では「東南」方向であるはずなのに、実際の比定地を「糸島市」にした場合その方角がかなり狂ってしまう。(p119)その場合は、松盧国から次の目的地に「東南に向けて発つ」としなければならないだろう。ただこれは、「句邪韓国」から真南ではない方角にある対馬にしても同様で、海流の関係から南に向けて船出することによりちゃんと対馬に渡れる、ということにもなり齟齬はきたさないと思われるので、他の道筋を含めた検証を期待したいところだ。そして、私が先に読了した多禰隼人氏の、「ほんとうにあった邪馬臺国」では、その水行も「徒歩」としているので、そうなれば当時の川筋の検証もまた必要となるだろう。はたしてその場合は一体どうなるのだろう。
氏は、「道理」という言葉や、「地図の存在」などを利用しながら様々な比較検証を試みており、かなりその「解」に近づいたような気がするのだが、これまで話題になってきた「壹」と「臺」の使い分け(誤記)には言及がなかったようなので、その辺も教えて頂きたいものだ。
いずれにせよ、氏も九州説であり、「邪馬台国」を畿内に持ち込もうとする主流学説は無理というものだ。
では、いわゆる魏志倭人伝のどこをどう改ざんしたのか? 詳しくは本書に委ねるが、連続説にしろ放射説にしろ「水行二十日」そして「水行十日、陸行一月」と記述されている部分が、かつては距離で示されていたのではないか、という見方である。氏は、矛盾が多いという放射説を避け連続説でもって説明してゆくが、その日数を都合1300里の距離に置き換えようとする試みである。水行は「船」での道行と考えており、当然歩く速度より早い。そして氏が導き出したのが「水行二十日=600里」「水行十日=300里」そして「陸行一月=400里」である。そしてそこから最終的に導き出したのが表題となる訳だが、一種の推理小説を読むかのようだ。
ただ、ご本人も迷っているように、北九州への上陸地点である松盧国から次の伊都国が、倭人伝では「東南」方向であるはずなのに、実際の比定地を「糸島市」にした場合その方角がかなり狂ってしまう。(p119)その場合は、松盧国から次の目的地に「東南に向けて発つ」としなければならないだろう。ただこれは、「句邪韓国」から真南ではない方角にある対馬にしても同様で、海流の関係から南に向けて船出することによりちゃんと対馬に渡れる、ということにもなり齟齬はきたさないと思われるので、他の道筋を含めた検証を期待したいところだ。そして、私が先に読了した多禰隼人氏の、「ほんとうにあった邪馬臺国」では、その水行も「徒歩」としているので、そうなれば当時の川筋の検証もまた必要となるだろう。はたしてその場合は一体どうなるのだろう。
氏は、「道理」という言葉や、「地図の存在」などを利用しながら様々な比較検証を試みており、かなりその「解」に近づいたような気がするのだが、これまで話題になってきた「壹」と「臺」の使い分け(誤記)には言及がなかったようなので、その辺も教えて頂きたいものだ。
いずれにせよ、氏も九州説であり、「邪馬台国」を畿内に持ち込もうとする主流学説は無理というものだ。
2019年4月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一.
著者は冒頭で独自に国名や人名(官名)の読み方を掲げる。しかし、魏志倭人伝の読み方には、日本の漢和辞典の呉音と漢音を使用すべきである。漢音は、古代中国北方の言語に由来し、呉音は、古代中国南方の言語に由来する。古代の日本においては、七世紀前に中国北方の漢音も伝わっていたが、弥生人が中国南方系だったので、呉音が優勢だった。桓武天皇が延暦十一年(792年)閏十一月二十日に、漢音奨励の勅を出しているのはそのためである。日本語は変化が少なく、呉音と漢音は古代日本の音を保存しており、古代日本の音は、古代中国の音に由来するから、呉音、漢音は魏志倭人伝の解読にも使用できる。
ところで、「奴」の呉音はヌ、漢音はドである。しかし、魏志倭人伝中の奴国はナコク、蘇奴国はソノコクと読めると考える。なぜなら、「奴」が「やっこ」、すなわち召使いという意味を持つので、中国人が倭国を見下して、「奴」(ヌ)と同じナ行の「ナ」や「ノ」の音にまで、好んで「奴」の字を当てたと考えられるからである。
二.
著者は「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という辺境の倭地について意味不明で謎かけのような記述をする必然性はまったくないと思えるという。そして、魏の敵国であった呉を背後から牽制するために倭国を呉の背後にある大国に見せかける必要があったという説について、二八○年に呉が滅んだ後にそのような意図を持った記述をする蓋然性は低いという(30~31頁)。
しかし、魏志倭人伝の邪馬壹国へ至る道程の記述は、二世紀半ば頃の張政の政治的主張を含む報告を元にしていて、陳寿はそれをそのままに著述した。呉が滅ぶ前の報告に歴史的価値を認めて、そのままにした。張政の政治的主張には晋の宗室である司馬氏にとっても都合の良い面もあってそのままにした。
なので、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」というような曖昧な文言が残った。張政がそのような曖昧な文言を用いたのは、邪馬壹国を呉の背後にもってきてもなるべく不自然さを感じさせないため、なるべく虚偽だと気づかれないようにするためだ。
陳寿には資料が不足していたため、卑弥呼の境遇や倭国王と邪馬台国王との関係などの謎が解けなかった。なので、謎となる曖昧な記述を残した。解けなかったのに、解けたとして明瞭な記述に変えてしまうことは著述家として恥ずべきことだ。
三.
著者は里程の最後の二行のみに、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という日数を用いる理由が見いだせないという(32頁)。
理由ならある。先ほど述べたように、張政がそのような曖昧な文言を用いたのは、邪馬壹国を呉の背後にもってきても不自然さを感じさせないため、虚偽だと気づかれないようにするためだ。また、魏の使節が伊都国どまりであったため、不弥国から九州島を出た後の正確な里程が分からなかったためだ。
ところが、著者は伊都国どまりは常識的に見て無いという(57頁)。しかし、私はそんな常識は無いと考える。
著者は、決して、女王の都への途中で、倭の役人に下賜品を渡して任務を完了したことにはならない。少なくとも、女王の目の前で封が解かれるのを確認して、初めて泥封が意味を持つのだという(58頁)。
しかし、泥封は、開封の際に女王が居なくても、倭国の開封の権限を持つ役人が開封すればその意義を果たしたと言える。
また、著者は、多くの品々を賜る側の女王が、それを持参した郡使に会わず、労をねぎらわずに帰すような失礼なことはできない。実際、「魂志倭人伝」後半では梯儁の使節に対して、倭王が感謝の意を表した上表文を渡したという記述が見られるという(58頁)。
しかし、女王が郡使に会わなくても役人を使って労わせることはできるし、倭国は魏を崇拝する属国ではないから、たとえ、それを魏が失礼だと感じるとしても伊都国どまりにできる。また、魏志倭人伝には、倭王が直接、梯儁の使節に対して上表文を渡したことを示す文字は無く、倭国の役人を通じて渡したと読める。
四.
著者が、魏志倭人伝の後世改竄を示しているとする魏志倭人伝行程記述の疑問点について見てみよう。
(1)不弥国以降の「道里」を記していないという矛盾
魏志倭人伝の「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」という部分について、女王国から以北は道里が略載できたと書いてあるのに、不弥国以降は道里で書かれず、日数で書かれているのは改竄されたからだと言う(44~47頁)。
しかし、この文に含まれる「可得」は、「得るべきだ」と読むことができる。すると、得る可きだが、得られなかった部分もあったと解することが出来る。
旁國が遠絶な点は、伊都国までしか行っていないので、おかしい所は無い。
(2)帯方郡から女王国まで一万二千余里という記述との齟齬
著者は「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という合計二か月で、わずか千三百余里しか進まないのはおかしいので、この日数で書かれているのは改竄だと言う(47~50頁)。
しかし、歩みが遅いのは中国人の世界観で説明が付く。中国人の世界観では倭国のあるような遠方は荒れた土地なので、歩みが遅くなると考えられていた。
(3)裴松之の注が付されていない不可解さ
著者は、魏志倭人伝の(1)(2)で触れた部分は裴松之が注を付けるのに絶好の題材なのに、裴松之の注が付されていないのは不可解だという(50~55頁)。
魏志倭人伝の(1)(2)で触れた部分に裴松之の注が付されていないのは、裴松之にも謎が解けなかったからであり、不可解な点は無い。
以上の様に、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」が後世に改竄されたことを正当化するような矛盾は無い。
「基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読み換えは行わない。」ならば、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」が後世に改竄されたなどという説は成立しないことになる。
著者の説は、九州説に都合の悪い「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」を安易に削って改竄を行う説に過ぎない。
五.
著者は終わりの部分で「周旋可五千余里」が畿内説を不可能にすると言う。しかし、魏志倭人伝は長里で書かれていると解釈することができ、他の部分とも整合する。そして、周には「めぐる」、旋には「かえる、もどる」という意味が有り、周旋はめぐってもどるということで円形に限られない。周旋すると五千余里は、長里によると2175キロメートルほどとなる。ほぼ倭国連合の領域を矩形で囲める長さである。「五千余里ばかり」だから、ぼぼ囲めるだけで十分である。ただし、倭国連合に属していない狗奴国を除く。著者は狗邪韓国を倭地に含めるが狗邪韓国は明らかに倭地ではなく、韓地である。
以上、著者は畿内説を不可能にしたいがために、著者自らが原典の改竄という許されざる行為を推奨しているだけだということになる。
著者は冒頭で独自に国名や人名(官名)の読み方を掲げる。しかし、魏志倭人伝の読み方には、日本の漢和辞典の呉音と漢音を使用すべきである。漢音は、古代中国北方の言語に由来し、呉音は、古代中国南方の言語に由来する。古代の日本においては、七世紀前に中国北方の漢音も伝わっていたが、弥生人が中国南方系だったので、呉音が優勢だった。桓武天皇が延暦十一年(792年)閏十一月二十日に、漢音奨励の勅を出しているのはそのためである。日本語は変化が少なく、呉音と漢音は古代日本の音を保存しており、古代日本の音は、古代中国の音に由来するから、呉音、漢音は魏志倭人伝の解読にも使用できる。
ところで、「奴」の呉音はヌ、漢音はドである。しかし、魏志倭人伝中の奴国はナコク、蘇奴国はソノコクと読めると考える。なぜなら、「奴」が「やっこ」、すなわち召使いという意味を持つので、中国人が倭国を見下して、「奴」(ヌ)と同じナ行の「ナ」や「ノ」の音にまで、好んで「奴」の字を当てたと考えられるからである。
二.
著者は「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という辺境の倭地について意味不明で謎かけのような記述をする必然性はまったくないと思えるという。そして、魏の敵国であった呉を背後から牽制するために倭国を呉の背後にある大国に見せかける必要があったという説について、二八○年に呉が滅んだ後にそのような意図を持った記述をする蓋然性は低いという(30~31頁)。
しかし、魏志倭人伝の邪馬壹国へ至る道程の記述は、二世紀半ば頃の張政の政治的主張を含む報告を元にしていて、陳寿はそれをそのままに著述した。呉が滅ぶ前の報告に歴史的価値を認めて、そのままにした。張政の政治的主張には晋の宗室である司馬氏にとっても都合の良い面もあってそのままにした。
なので、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」というような曖昧な文言が残った。張政がそのような曖昧な文言を用いたのは、邪馬壹国を呉の背後にもってきてもなるべく不自然さを感じさせないため、なるべく虚偽だと気づかれないようにするためだ。
陳寿には資料が不足していたため、卑弥呼の境遇や倭国王と邪馬台国王との関係などの謎が解けなかった。なので、謎となる曖昧な記述を残した。解けなかったのに、解けたとして明瞭な記述に変えてしまうことは著述家として恥ずべきことだ。
三.
著者は里程の最後の二行のみに、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という日数を用いる理由が見いだせないという(32頁)。
理由ならある。先ほど述べたように、張政がそのような曖昧な文言を用いたのは、邪馬壹国を呉の背後にもってきても不自然さを感じさせないため、虚偽だと気づかれないようにするためだ。また、魏の使節が伊都国どまりであったため、不弥国から九州島を出た後の正確な里程が分からなかったためだ。
ところが、著者は伊都国どまりは常識的に見て無いという(57頁)。しかし、私はそんな常識は無いと考える。
著者は、決して、女王の都への途中で、倭の役人に下賜品を渡して任務を完了したことにはならない。少なくとも、女王の目の前で封が解かれるのを確認して、初めて泥封が意味を持つのだという(58頁)。
しかし、泥封は、開封の際に女王が居なくても、倭国の開封の権限を持つ役人が開封すればその意義を果たしたと言える。
また、著者は、多くの品々を賜る側の女王が、それを持参した郡使に会わず、労をねぎらわずに帰すような失礼なことはできない。実際、「魂志倭人伝」後半では梯儁の使節に対して、倭王が感謝の意を表した上表文を渡したという記述が見られるという(58頁)。
しかし、女王が郡使に会わなくても役人を使って労わせることはできるし、倭国は魏を崇拝する属国ではないから、たとえ、それを魏が失礼だと感じるとしても伊都国どまりにできる。また、魏志倭人伝には、倭王が直接、梯儁の使節に対して上表文を渡したことを示す文字は無く、倭国の役人を通じて渡したと読める。
四.
著者が、魏志倭人伝の後世改竄を示しているとする魏志倭人伝行程記述の疑問点について見てみよう。
(1)不弥国以降の「道里」を記していないという矛盾
魏志倭人伝の「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」という部分について、女王国から以北は道里が略載できたと書いてあるのに、不弥国以降は道里で書かれず、日数で書かれているのは改竄されたからだと言う(44~47頁)。
しかし、この文に含まれる「可得」は、「得るべきだ」と読むことができる。すると、得る可きだが、得られなかった部分もあったと解することが出来る。
旁國が遠絶な点は、伊都国までしか行っていないので、おかしい所は無い。
(2)帯方郡から女王国まで一万二千余里という記述との齟齬
著者は「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」という合計二か月で、わずか千三百余里しか進まないのはおかしいので、この日数で書かれているのは改竄だと言う(47~50頁)。
しかし、歩みが遅いのは中国人の世界観で説明が付く。中国人の世界観では倭国のあるような遠方は荒れた土地なので、歩みが遅くなると考えられていた。
(3)裴松之の注が付されていない不可解さ
著者は、魏志倭人伝の(1)(2)で触れた部分は裴松之が注を付けるのに絶好の題材なのに、裴松之の注が付されていないのは不可解だという(50~55頁)。
魏志倭人伝の(1)(2)で触れた部分に裴松之の注が付されていないのは、裴松之にも謎が解けなかったからであり、不可解な点は無い。
以上の様に、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」が後世に改竄されたことを正当化するような矛盾は無い。
「基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読み換えは行わない。」ならば、「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」が後世に改竄されたなどという説は成立しないことになる。
著者の説は、九州説に都合の悪い「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」を安易に削って改竄を行う説に過ぎない。
五.
著者は終わりの部分で「周旋可五千余里」が畿内説を不可能にすると言う。しかし、魏志倭人伝は長里で書かれていると解釈することができ、他の部分とも整合する。そして、周には「めぐる」、旋には「かえる、もどる」という意味が有り、周旋はめぐってもどるということで円形に限られない。周旋すると五千余里は、長里によると2175キロメートルほどとなる。ほぼ倭国連合の領域を矩形で囲める長さである。「五千余里ばかり」だから、ぼぼ囲めるだけで十分である。ただし、倭国連合に属していない狗奴国を除く。著者は狗邪韓国を倭地に含めるが狗邪韓国は明らかに倭地ではなく、韓地である。
以上、著者は畿内説を不可能にしたいがために、著者自らが原典の改竄という許されざる行為を推奨しているだけだということになる。
2018年4月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
理論的には面白い内容ですが、完全に証明されるにはまだまだ時間がかかる内容です。科学的なアプローチは良いと思いますが、最後は物証が大事ですね。まだ推論の域を脱していないと思われます。
2017年12月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
地元では、このことを以前から言われていたので、大変興味を持って読みました。
考古学は、近畿一辺倒ではなく、九州王朝に対して新たにスイッチを切り替えしてほしい。
考古学は、近畿一辺倒ではなく、九州王朝に対して新たにスイッチを切り替えしてほしい。