太陽の季節 [DVD]
フォーマット | ドルビー, ブラック&ホワイト |
コントリビュータ | 古川卓巳, 岡田真澄, 南田洋子, 石原裕次郎, 長門裕之, 石原慎太郎 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 29 分 |
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商品の説明
Amazonより
様々なエピソードを生んだ映画である。ちょい役で出演した石原裕次郎が、製作の水ノ江滝子の目にとまっていちやくスターに。また太陽族の恋人同士に扮した長門裕之と南田洋子は後に結婚。現在では芸能界有数のおしどり夫婦として知られている。原作者の石原慎太郎が現東京都知事であることは言うまでもないだろう。
もとはといえば日活お得意の、湘南青春映画の1本として製作された作品である。従来のモラル観を打破する「太陽族」の生き様を描くというその衝撃性が原作同様に注目を浴びたが、今日の視点で見た場合、そうした衝撃性は時代によって大幅に薄められてしまった。むしろ主役の竜哉(長門裕之)、英子(南田洋子)ら太陽族のやりとりやファッションを楽しむ映画として捉えるのもまた新しい発見があるかもしれない。
そんな“時代に追い越されてしまった”作品だが、ラストにおける英子の葬式のくだりは確かな衝撃を残す。(斉藤守彦)
レビュー
どこにでもありそうでもどこにでもない場所で、どこかにいそうでどこにもいない人々が妙なことをやる。妙なんだけど別に突拍子もないわけではない。淡々と行為は成され事件も起こるがそれもまた仕方がないといえば仕方がないのかなあ、などと観る者を丸め込む力がたいそう強い。丸め込むための演出には細やかな配慮よりも強引な展開が大いに作用している。所々ではなく全体がいびつだからそこに入り込むとなかなか抜けたくなくなる世界が、ダイナミックに存在していたことを我々は思い知るのであった。昭和30年代の日活作品、とりわけアクション映画と青春映画の魔力は、リアリティなどというものをどうでもよいものにしてしまう。これらの作品が大量に作られていた時代の精力を考えるとそれはそれは恐ろしい。それぞれに速度は異なるがどの監督、役者も疾走していた。せざるをえなかった事情もあるだろうが、この生き急ぎ感は同時代の他社作品からは得られぬものだ。日活だけが、日活だからこそ。なにしろ裕次郎がいる旭さんがいるトニーがいるジョーさんがいるし、長門も二谷もいる和田もいる高橋英樹も杉良もいる浜田もいる。女優ときたらルリ子、小百合、洋子にいづみ、礼子に雅子に智恵子に幸代、嘉代に陽子に由美子になんたって北原三枝がいる。中原早苗に白木マリ、清水まゆみもいる。脇がまた濃い。金子信雄に殿山泰司、小沢照一に野呂圭介、高品格、西村晃、郷えい治、藤竜也、二本柳寛、藤村有弘、内田良平、岡田真澄、主役も張る川地民夫、津川雅彦もいる。しかもこうしたとんでもない人たちの演じるキャラクターがいちいち、ただではすまない。監督も監督だ。斉藤武市だ鈴木清順だ中平康だ、野口博志だ山崎徳次郎だ舛田利雄だ西河克己だ。川島雄三がいた。市川崑もいた。今村昌平、浦山桐郎、熊井啓、江崎実生、井田探、長谷部安春も。映画界全体が活況を呈していたからということもあるが、それにしてもどうして日活ばかりが、と後追いで観る者はふと考えてしまう。スマートなようでいびつ、清純なテーマでも濁りがにじみ、呆然とさせられることしばしば、陰気と陽気がマーブル模様になっている。何か深い考えあっての珍奇な演出か、と思うと「ただの思いつきです」などと鈴木清順監督はお答えになる(『関東無宿』特典映像のインタビュー参照のこと)。『太陽の季節』にしてからが、風俗映画という触れ込みの暴走する青春像を描いていると思われているが、実は音響を意図的にデフォルメした実験映画である。虚無感漂う若者の恐ろしさを描くふりをして人間のやるせない本質に至ろうとするがゆえにまぬけさを決して避けて通らぬ古川卓巳の演出は特殊だ。『シェーン』の日本版を意識した“渡り鳥”シリーズにしても『関東無宿』にしても、『狂った果実』は多少の洗練が加えられているが、後味は決していいわけではない。がそのことが映画の印象を強め「いったいこれはなんだったのだ」と再び三たび観たくてたまらなくさせるのである。あースッキリした、といいたいところだがエンド・マークを観ると逆に胸騒ぎがして仕方がない、というハメに陥る作品が1954~71年の日活には実に多い。『関東無宿』の旭さんの眉毛はいったいどうしたことか。木村威夫の引き締まった衝撃力強い美術の中で、後の『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』との共通ネタをあれこれ発見する楽しさもあるだろう。すでにDVD化されていた作品もこの“DIG THE NIPPON”シリーズに再編され新装新価格でお目見えしている。まだまだこれはほんの序ノ口。確かに日活作品はただごとではないが、他社とて手を拱いて見ていたわけではもちろんない。シャレているだけが能じゃあるまい。楽天的な不穏や明朗快活な絶望、悲哀な幸福、若々しい甘美、実直な屈折、未知のデジャヴが我らを待っている。頼むぞ邦画大復刻。 (湯浅学) --- 2002年12月号 -- 内容 (「CDジャーナル・レビュー」より)
製作: 水の江滝子 監督・脚本: 古川卓巳 原作: 石原慎太郎 撮影: 伊佐山三郎 録音: 橋本文雄 出演: 長門裕之/南田洋子/石原裕次郎/岡田真澄
-- 内容(「CDジャーナル」データベースより)
登録情報
- アスペクト比 : 1.33:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988103600319
- 監督 : 古川卓巳
- メディア形式 : ドルビー, ブラック&ホワイト
- 時間 : 1 時間 29 分
- 発売日 : 2002/9/27
- 出演 : 長門裕之, 南田洋子, 石原裕次郎, 岡田真澄
- 言語 : 日本語 (Mono)
- 販売元 : 日活
- ASIN : B00006GEEU
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 172,466位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ラスト予測を裏切られたので石原慎太郎氏の大勝利。
弟の裕次郎氏から聞いた話がモデルらしいが。
ひねくれて、ひねくれて、最悪の結果にも開き直る主人公。
爽やかさの欠片も無いまま、だからどうした?での完結は見事!
この主人公の出自は今で言う"上級国民"の子弟。
そう考えると石原慎太郎氏は70年後も世の中は変わらないと当てていたのか。
悪事、ケンカ、セックス自慢はいつの時代の若者達にある価値観。
当時の慎太郎氏もその価値観が大人を挑発して、”今時の”と言われたかったのだろう。
作品で表現したかった小難しい意図はどうせ後付けだと私は思うが。
いつの時代の若者も”今時の”と言われたがる。
自分達が何か特別な存在になった勘違い。
後から気付くと凄く恥ずかしい。
慎太郎氏いわく大人への抵抗らしいが、
その後、挑発や抵抗されると凄く怒る傲慢で不寛容な大人になった事は皮肉か。
しかし約70年前に若者のワル自慢話レベルの話を文学で表現し映像化できた事に、
石原慎太郎氏の実力プラス強運を感じる。
その前の時代は映像制作技術や戦争で不可能。
その後の時代は戦後復興で裕福になり、誰かが似た事を始めたかも知れない。
映画からテレビにスムーズに移った裕次郎氏も時代の流れを読む力に長けていた。
古い映画を観ていると、映画からテレビへの移動に失敗した人は少なくないと見える。
この兄弟は実力に加えて異常に強運だと思う。
オススメに上がってて観ることができました。
岡田真澄さんカッコ良すぎ!
そして、南田洋子さんの美しいこと。
子どもの頃『ラーマ』のCMに長門・南田ご夫婦で出演されていたのを朧気に思い出しました。
原作とちょこちょこ違いがあるようですね。正直、ラストが後味悪かったですが、当時の方達には強いメッセージとなったんでしょうね。
あ!そうそう!
長門さんがサザンの桑田さんに見えました(笑)
バカたちが、そう状態で騒いでいるだけ。
原作はまだしも文学史上の歴史的な意味はあるだろうが、映画は本当に時間の無駄だった。
あらすじは、ボクシング部の少年たちが、その裕福さによって得た自由で、無軌道に遊び回るというものだが、現代のいわゆる陽キャの無軌道さに比べれば、真面目で武骨で気品があって、だからこそただ女をナンパするシーンなどが、非常に際立ってみえた。しかし現代の陽キャに比べると、腹の底に狂気を潜んでいるようなかんじがして、節々のヒステリックの笑いに鳥肌が立つ。
今の男の悪いところばかりに染まった女優にくらべると、本作の女優たちは全体的におしとやかな美しさがあって、この時代この雰囲気に嫉妬した。しかし主人公が「おれは拳闘部だ」といったときの、あの女性たちのときめく表情が、現代の野球部の原動力なのかなども感じた。
最後に、本作のハイライトはやはり、英子が津川に「サンドバックを殴って」とねだり、サンドバックを夢中で殴る津川を、後ろから抱きしめて、その英子をお姫さま抱っこして、寝室に入るシーンである。暴力から恋を経て、津川の男性的本能を呼び起こす一連の流れが、エロいと同時に美しいなと思った。
あと、ダンスホールでの津川と英子の話は、どこか気障で、聞いてて恥ずかしかった。イケメンの白人を殴り倒すシーンも、こんなものかとスッと入ってこなかった。
男性目線と思いきや、だんだん女性目線になっていくとこや、遺影が睨みつけてるのが、忘れられない映画になりそうです。若気の至りなんでしょうが、好きな人にはちゃんと想いを伝えないと、一生後悔するよって事かな。女性ですが、英子は一生忘れられない女性になりました。
長門裕之、主演映画でチョイ役の裕次郎にボコボコにされるーーこれは比喩ではなく、練習試合で伊豆(裕次郎)に殴られっぱなしデイビッド・リンチ、スタンディング・ダウン状態に追い込まれる。いかにボクシング未経験の役とはいえ、津川竜哉(長門)が幼児の喧嘩のように腕を振り回すだけの演出が余りにも稚拙でわざとらしい。映画の黄金時代には、この程度の演出が許された。
このボクシングシーンだけでも、日活を背負う次代のヒーローが誰であるか、観客には分かってしまった。長門は比喩的にも完全KOされたわけである。
カッコよすぎる裕次郎。長身にみえるが、178センチ、現在の基準ではそれほどではない。周囲の俳優が低いのである。すらりと長い脚が、短足俳優陣のなかで目立った。あの高橋秀樹ですら、短足のため、なかなかカッコイイ役が回ってこなかった。
裕次郎は俳優になりたくて、オーディションをいくつも受けたがに、日活も含めて全部落ちている。映画界は、時代の移り変わりを自覚せず、戦前のノッペリ二枚目タイプの俳優を求めていたのだ。著名な芸能ファミリーの出身で、戦前の映画(「無法松の一生」など)で名子役といわれた長門裕之は、日活のスターになると期待されていた。今日からみれば、ヤワな二枚目半かチンピラ役が似合いそうな長門裕之に、反逆(無軌道)の荒々しい青春像である太陽族の若者役は全くのミスキャストであった。
裕次郎が「太陽の季節」にチョイ役で出られたのは、原作者が兄・慎太郎であったこと、兄弟の親しい知人である水の江瀧子プロデューサーの推薦があったことのおかげである。日活映画人は、おもいかげない形で時代のヒーローを見いだした……わけではない。石原慎太郎はが次回作「狂った果実」の映画化にあたって、裕次郎の主演を条件としなければならなかったほどに、日活サイドは裕次郎の可能性に十分には気がついていなかった。
「狂った果実」の原作では滝島兄弟の弟のほうが主役であり、裕次郎は主役の春治を演じるはずだったが、制作上の都合で兄の夏久役に回された。本来ならば主役でなく準主役扱いであろうが(弟に殺される役柄)、どうなっても、めだってしまうのが裕次郎、結局、裕次郎の本格デビューであり、主演映画第一作といえる作品となった。弟役の津川雅彦(長門裕之の弟)にも、これがデビュー作となる。長門は特別出演(カメオ出演)という名目で、海岸の学生役でチラッと登場するだけ。ということは……弟にもKOされた?
長門裕之が数多の助演、端役と「豚と軍艦」「秋津温泉」などの数少ない主演作で、日本映画に欠かせない名優と評価されるには、まだまだ時間が必要だった。