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少女フィクション (通常盤)
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曲目リスト
1 | あたしフィクション |
2 | あくまで悪魔 |
3 | ふぁむふぁたファンタジー |
4 | トーキョー・キッド |
5 | ビデオのように |
6 | 大人病 |
7 | インターネット葬 |
8 | 鉄屑鉄男 |
9 | キスについて |
10 | 少女にしやがれ |
11 | 大破壊交響楽 |
商品の説明
内容紹介
2018年でCDデビュー10周年を迎えるアーバンギャルドの記念アルバムにして、2年4ヶ月振り8枚目のオリジナルアルバム!
【収録内容】
CD
・あたしフィクション
・ふぁむふぁたファンタジー ( 非流通『昭和九十一年』収録曲)
・大破壊交響楽 ( 非流通『昭和九十一年』収録曲)
・ビデオのように
・トーキョー・キッド
・鉄屑鉄男
・インターネット葬
・大人病
・キスについて
・あくまで悪魔 ( 先行シングルCD『あくまで悪魔』収録曲)
・少女にしやがれ
※収録楽曲全11曲
ブックレット:12P
メディア掲載レビューほか
2018年でCDデビュー10周年を迎えるアーバンギャルドの10周年記念アルバムにして、2年4ヶ月振り8 枚目のオリジナルアルバム! (C)RS
登録情報
- 梱包サイズ : 14.2 x 12.4 x 1 cm; 60 g
- メーカー : 前衛都市
- EAN : 4580341195871
- 時間 : 46 分
- レーベル : 前衛都市
- ASIN : B079F9R7XF
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 277,665位ミュージック (ミュージックの売れ筋ランキングを見る)
- - 80,029位J-POP (ミュージック)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
星5つ中4.8つ
5つのうち4.8つ
16グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年4月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
母娘でハマって6年かなー。頭ん中グルグル、毎日楽しんでます。
2018年4月10日に日本でレビュー済み
子どもの頃、無為な生活を送りながら
死にたいと思いながら
なんとなく大人になって
なんとなく社会にもまれて
そんなかつて「少女」だった人たちに是非聞いていただきたいです
心に沁みる曲がたくさん
かつてアーバンギャルドを聴いていたけど気づいたら聞かなくなってた
そういう人もぜひお聞きください
泣きます
あの頃のアーバンギャルドが、今の私たちを肯定するために
帰ってきました
「あたしフィクション」「トーキョーキッド」「大人病」
「少女にしやがれ」「大破壊交響楽」
名曲が詰まってます
おススメします。是非。
死にたいと思いながら
なんとなく大人になって
なんとなく社会にもまれて
そんなかつて「少女」だった人たちに是非聞いていただきたいです
心に沁みる曲がたくさん
かつてアーバンギャルドを聴いていたけど気づいたら聞かなくなってた
そういう人もぜひお聞きください
泣きます
あの頃のアーバンギャルドが、今の私たちを肯定するために
帰ってきました
「あたしフィクション」「トーキョーキッド」「大人病」
「少女にしやがれ」「大破壊交響楽」
名曲が詰まってます
おススメします。是非。
2018年4月10日に日本でレビュー済み
2008年の「少女は二度死ぬ」の発表後、10周年を迎えたアーバンギャルドの通算8作目のオリジナル・アルバム。
前作「昭和九十年」は平成の現在から見た昭和という時代についてをテーマにした明確なコンセプトアルバムだったが、今作は前作ほどはっきりとしたテーマがあるようには一見見えにくいかもしれない。
しかしアルバム全体を通して聴くと、おそらくこの10年間で発表されてきたどの作品よりも最もアーバンギャルドというアーティストの本質について核心的な部分を表現しているように感じる。
すなわち、「アーバンギャルドが10年間かけて表現してきた「少女」という存在は、アーティストによる作品でありフィクションである。それは架空の存在であり、実在の人物とは一切関係ない」という事実である。
アルバム発表前、松永天馬はこの10年のアーバンギャルドの活動についてインタビューにこう答えている。
「自分はやりたいことをやっていただけで、メンバーにもそれに付き合ってもらっていただけ。そうしたら何故かある特定の層のファンがついてきてくれるようになったが、最初からその層へターゲットをしぼったつもりはなかった」
M1「あたしフィクション」における「あたし」という少女は、他でもないアーバンギャルドの作品自身であるように思う。
その少女は女の子を演じていてもあくまで悪魔であり、いつかほんとの恋をして結婚し、享年三十で平成と共に死に、音源を入れればいつでもビデオのように再生される。
それは振り返ってみれば青春と呼ばれる病。
M6「大人病」はダブルミーニングであり、「大人になろうと背伸びする病」と「大人ぶって純真で自由な気持ちを忘れる病」のどちらとも取れる。
そういった意味ではアーバンギャルドという少女は紛れもなく病気であり、またその病める偶像(アイドル)に惹かれるギャルやギャルソン=きみの病気は治らないのは、つまり青春は終わらないということである。
そして、病気が治ったら。
アーバンに夢中になった青春のあの日に、「さよなら、サブカルチャー」と別れを告げたら。
クローゼットの扉の奥で眠りについた少女が、いつか折りに触れて「今夜は少女にしやがれ」と目覚めるまで、あの日のわたしにさようなら。
春風が吹いた夜、フィクションだった君は死んで、無人の街から音楽が聴こえる。
フィクションではない新しい音楽が。
これまでの10年間の集大成ともいえる、記念碑的な作品である。特にアーバンギャルドと共に青春を生きた世代にとっては、かけがえのない作品になるだろう。かく言う自分もその一人である。
先日中野サンプラザホールで行われたアーバンギャルド10周年記念ライブにて、最後に松永天馬が言った言葉に一ギャルソンとしてこう返すことでレビューの締めくくりとしたい。
「アーバンギャルドという青春を生み出してくれて、ありがとう」
前作「昭和九十年」は平成の現在から見た昭和という時代についてをテーマにした明確なコンセプトアルバムだったが、今作は前作ほどはっきりとしたテーマがあるようには一見見えにくいかもしれない。
しかしアルバム全体を通して聴くと、おそらくこの10年間で発表されてきたどの作品よりも最もアーバンギャルドというアーティストの本質について核心的な部分を表現しているように感じる。
すなわち、「アーバンギャルドが10年間かけて表現してきた「少女」という存在は、アーティストによる作品でありフィクションである。それは架空の存在であり、実在の人物とは一切関係ない」という事実である。
アルバム発表前、松永天馬はこの10年のアーバンギャルドの活動についてインタビューにこう答えている。
「自分はやりたいことをやっていただけで、メンバーにもそれに付き合ってもらっていただけ。そうしたら何故かある特定の層のファンがついてきてくれるようになったが、最初からその層へターゲットをしぼったつもりはなかった」
M1「あたしフィクション」における「あたし」という少女は、他でもないアーバンギャルドの作品自身であるように思う。
その少女は女の子を演じていてもあくまで悪魔であり、いつかほんとの恋をして結婚し、享年三十で平成と共に死に、音源を入れればいつでもビデオのように再生される。
それは振り返ってみれば青春と呼ばれる病。
M6「大人病」はダブルミーニングであり、「大人になろうと背伸びする病」と「大人ぶって純真で自由な気持ちを忘れる病」のどちらとも取れる。
そういった意味ではアーバンギャルドという少女は紛れもなく病気であり、またその病める偶像(アイドル)に惹かれるギャルやギャルソン=きみの病気は治らないのは、つまり青春は終わらないということである。
そして、病気が治ったら。
アーバンに夢中になった青春のあの日に、「さよなら、サブカルチャー」と別れを告げたら。
クローゼットの扉の奥で眠りについた少女が、いつか折りに触れて「今夜は少女にしやがれ」と目覚めるまで、あの日のわたしにさようなら。
春風が吹いた夜、フィクションだった君は死んで、無人の街から音楽が聴こえる。
フィクションではない新しい音楽が。
これまでの10年間の集大成ともいえる、記念碑的な作品である。特にアーバンギャルドと共に青春を生きた世代にとっては、かけがえのない作品になるだろう。かく言う自分もその一人である。
先日中野サンプラザホールで行われたアーバンギャルド10周年記念ライブにて、最後に松永天馬が言った言葉に一ギャルソンとしてこう返すことでレビューの締めくくりとしたい。
「アーバンギャルドという青春を生み出してくれて、ありがとう」
2018年4月12日に日本でレビュー済み
アーバンギャルドは2018年、結成10年目を迎えた。10年という区切りの年に、アーバンギャルドが出して来たのは、初期の「少女三部作」を彷彿させる<少女>を冠した新作である。テーマ的には原点回帰だが、内容的深化と音楽的進化を両立させた永遠の新しさを感じさせる作品となっている。
アーバンギャルドの第一の特徴、一度聴いたら、耳に残るメロディーは、本作においても健在であり、今やメンバーの各人が個人での活動も併存させているだけあって、作品によって作曲者を変えていくことで、先鋭的テクノ「ふぁむふぁたファンタジー」、「みんなの歌」調の「インターネット葬」、デス・メタル調の「鉄屑鉄男」、大人向けのお洒落なポップス「キスについて」……と変幻自在である。音楽データが大量消費されていく時代にあって、本作はロングスパンで記憶に残る作品として最終的に勝利する作品群なのではないか。
アーバンギャルドの第二の特徴は「一度聴いたら、耳に残るメロディー」から入って、最終的にリスナーが自分を見つめる<鏡>として機能するようになり、最終的に爆発的な解放感となってリアルな世界に連れ出すことにある。単に、心地よいだけの音楽に終わらないのである。なぜ、そのような事が可能になるのか。それは歌詞に秘密がある。
『少女フィクション』は、リード曲「あたしフィクション」から始まっている。「あたし」は、CDであり、音楽であり、歌であり、虚構である。それは、少女として、ドール・シンデレラ(灰かぶり姫)・人魚姫として表象される。この虚構の世界は、黒沢清監督作品・洞口依子主演『ドレミファ娘の血は騒ぐ』等の先行する前衛的作品と接続され、この歌が、音楽に留まらず、映画・文学・美術等の虚構と人間の関係性を問うものだと分かる。<鏡>の「あたし」は、私が私になるためのもうひとつの自分なのである。
「あくまで悪魔」は、先行してシングルとして発売された楽曲だが、韻を踏みながら、天使と悪魔の二つの相貌を持つ女性の謎に迫っていく。そこで明らかになるのは、禁忌を侵犯していく恋愛の性質である。現代の女の子の化粧が、悪魔のコスチュームに近いという指摘は、眼から鱗であった。しかし、それが如何にデモーニッシュであっても、止めることはできない。私たちは、その渦に巻き込まれるようにセットされており、予め天使と悪魔、禁制と侵犯の二律背反というバタイユ的苦悩が必然的に運命づけられているのである。
「ふぁむふぁたファンタジー」は、ライブ会場限定CD『昭和九十一年』[サル版][ヒト版]に先行収録された作品である。Femme fataleは「運命の女」の意味であり、この歌にはG・オーウェルの『1984』で説かれたビッグ・ブラザーの支配する全体主義社会に変えて、現代ではビッグ・データの支配する情報管理社会になっているという認識がある。ビッグ・データから導き出された最大幸福の生き方を強いられる現代は、一見合理的だが、そこには<自由>がない。<自由>を確保するためには、<切断>が必要だという事が説かれている。これは決断主義である。白馬の王子を待つのではなく、白馬の王子に生成変化するというのは、運命への宣戦布告と言ってよい。この歌から、東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』での情報管理社会の問題系を意識しつつ、<切断>を説く千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』にジャンプするような思想の冒険を連想してもよい。
アーバンギャルドの描く21世紀の「東京キッド」は、「トーキョー・キッド」である。表向き平和とされている平成だが、年間自殺者は3万人を超えており、戦争以上の矛盾がこの社会には内在化されているといえる。「没コミュニケーション」「イミテーション」「シミュレーション」「(狂った)クリエーション」「ローテーション」「ローテンション」、松永天馬は弾丸のように、この社会に手厳しい診断を下していく。前衛を標榜するアーバンギャルドは、そこで提唱するのは「de コンストラクション」、すなわち、ジャック・デリダの「ディコンストラクション(脱構築)」の生きられた次元における実践である。デストラクション(破壊)ではなく、内部から生まれ変わる道の模索。
「ビデオのように」は、ブリジット・フォンテーヌの「ラジオのようにComme à la radio」にインスパイアされたアーバンギャルド「スナッフフィルム」(『少女の証明』)の進化形であり、「Comme」が「小室(哲哉)」と誤聴するように仕組まれている。つまり、歌がMVに取り込まれた時代を示唆している。当然、私たちの身体感覚もまたビデオのように、巻き戻しや早送りが可能なように思われるようになる。私たちの無意識の身体感覚は、その時代のテクノロジーによって改変される。
「大人病」は、それまで好きだった音楽や衣裳が急に厭になる、子供っぽいものに見えて厭になるという現象を描いている。テーマ的に「少女にしやがれ」のクローゼットの中の黒歴史と連動しており、10年目のアーバンギャルを連想させる内容となっている。10年の間の成熟を示唆している。
「インターネット葬」は、曲調はNHK「みんなの歌」を思わせる子供の好きなリズミカルな曲だが(実際、途中子供に歌わせている)、内容は「闇落ちしたみんなの歌」であり、最高にシニカルにSNS時代の病理を歌っている。可笑しいといえば可笑しいが、そこで漏れるのは黒い笑いだ。
「鉄屑鉄男」は、ハード・ロック/デス・メタル調である。テーマ的には、塚本晋也監督作品「鉄男」に通じる絶望の中でもタフなエネルギーだが、中上健次『大洪水』の主人公も「鉄男」なので、隠し味程度に、こちらのイメージも入っている可能性がある。おそらくライブの際は「男だけのアーバンギャルド」として、よこたんの衣装変えの際に使われるのではないか。
「キスについて」は、一転、しっとりした大人向けのバラードとなっている。「アカペーソング」(『鬱くしい国』)にも通じる、こんな愛ならば殉じてもいいと思えるような至上の美しい曲である。
「少女にしやがれ」は、クローゼットのなかに隠された少女の時代の衣裳を見て、それを抱きしめる、すなわち、一旦「大人病」で忌避した過去と和解して融和する話である。これにより、過去の私と今の私がひとつになり、精神的な危機が乗り越えられる。ファンであるるアーバンギャルの心境を推し量った歌詞だが、これはアーバンギャルド自身にも起こった事ではないか。「少女三部作」のアーバンギャルドと今が重なり融和する事で、本作が生まれた。ライブ限定CDを除外すると、新作アルバムまでに時間がかかったのは、忌避した過去との和解の作業があったのではないか。
「大破壊交響楽」の解放感は、半端ない。初め、君を失ったことによる清冽なリヒリズムから始まり、すべて破壊されれば良い、と考える。まるで、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフの「すべてよし」のようである。しかし、その破壊の果てに、君の痕跡を探し始め、何もない崩壊した世界のなかで、音楽の残響を聴く。ニューウェイブ系のSF的想像力と一体化したシュルレアリスティツクな表現である。
アーバンギャルドの第一の特徴、一度聴いたら、耳に残るメロディーは、本作においても健在であり、今やメンバーの各人が個人での活動も併存させているだけあって、作品によって作曲者を変えていくことで、先鋭的テクノ「ふぁむふぁたファンタジー」、「みんなの歌」調の「インターネット葬」、デス・メタル調の「鉄屑鉄男」、大人向けのお洒落なポップス「キスについて」……と変幻自在である。音楽データが大量消費されていく時代にあって、本作はロングスパンで記憶に残る作品として最終的に勝利する作品群なのではないか。
アーバンギャルドの第二の特徴は「一度聴いたら、耳に残るメロディー」から入って、最終的にリスナーが自分を見つめる<鏡>として機能するようになり、最終的に爆発的な解放感となってリアルな世界に連れ出すことにある。単に、心地よいだけの音楽に終わらないのである。なぜ、そのような事が可能になるのか。それは歌詞に秘密がある。
『少女フィクション』は、リード曲「あたしフィクション」から始まっている。「あたし」は、CDであり、音楽であり、歌であり、虚構である。それは、少女として、ドール・シンデレラ(灰かぶり姫)・人魚姫として表象される。この虚構の世界は、黒沢清監督作品・洞口依子主演『ドレミファ娘の血は騒ぐ』等の先行する前衛的作品と接続され、この歌が、音楽に留まらず、映画・文学・美術等の虚構と人間の関係性を問うものだと分かる。<鏡>の「あたし」は、私が私になるためのもうひとつの自分なのである。
「あくまで悪魔」は、先行してシングルとして発売された楽曲だが、韻を踏みながら、天使と悪魔の二つの相貌を持つ女性の謎に迫っていく。そこで明らかになるのは、禁忌を侵犯していく恋愛の性質である。現代の女の子の化粧が、悪魔のコスチュームに近いという指摘は、眼から鱗であった。しかし、それが如何にデモーニッシュであっても、止めることはできない。私たちは、その渦に巻き込まれるようにセットされており、予め天使と悪魔、禁制と侵犯の二律背反というバタイユ的苦悩が必然的に運命づけられているのである。
「ふぁむふぁたファンタジー」は、ライブ会場限定CD『昭和九十一年』[サル版][ヒト版]に先行収録された作品である。Femme fataleは「運命の女」の意味であり、この歌にはG・オーウェルの『1984』で説かれたビッグ・ブラザーの支配する全体主義社会に変えて、現代ではビッグ・データの支配する情報管理社会になっているという認識がある。ビッグ・データから導き出された最大幸福の生き方を強いられる現代は、一見合理的だが、そこには<自由>がない。<自由>を確保するためには、<切断>が必要だという事が説かれている。これは決断主義である。白馬の王子を待つのではなく、白馬の王子に生成変化するというのは、運命への宣戦布告と言ってよい。この歌から、東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』での情報管理社会の問題系を意識しつつ、<切断>を説く千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』にジャンプするような思想の冒険を連想してもよい。
アーバンギャルドの描く21世紀の「東京キッド」は、「トーキョー・キッド」である。表向き平和とされている平成だが、年間自殺者は3万人を超えており、戦争以上の矛盾がこの社会には内在化されているといえる。「没コミュニケーション」「イミテーション」「シミュレーション」「(狂った)クリエーション」「ローテーション」「ローテンション」、松永天馬は弾丸のように、この社会に手厳しい診断を下していく。前衛を標榜するアーバンギャルドは、そこで提唱するのは「de コンストラクション」、すなわち、ジャック・デリダの「ディコンストラクション(脱構築)」の生きられた次元における実践である。デストラクション(破壊)ではなく、内部から生まれ変わる道の模索。
「ビデオのように」は、ブリジット・フォンテーヌの「ラジオのようにComme à la radio」にインスパイアされたアーバンギャルド「スナッフフィルム」(『少女の証明』)の進化形であり、「Comme」が「小室(哲哉)」と誤聴するように仕組まれている。つまり、歌がMVに取り込まれた時代を示唆している。当然、私たちの身体感覚もまたビデオのように、巻き戻しや早送りが可能なように思われるようになる。私たちの無意識の身体感覚は、その時代のテクノロジーによって改変される。
「大人病」は、それまで好きだった音楽や衣裳が急に厭になる、子供っぽいものに見えて厭になるという現象を描いている。テーマ的に「少女にしやがれ」のクローゼットの中の黒歴史と連動しており、10年目のアーバンギャルを連想させる内容となっている。10年の間の成熟を示唆している。
「インターネット葬」は、曲調はNHK「みんなの歌」を思わせる子供の好きなリズミカルな曲だが(実際、途中子供に歌わせている)、内容は「闇落ちしたみんなの歌」であり、最高にシニカルにSNS時代の病理を歌っている。可笑しいといえば可笑しいが、そこで漏れるのは黒い笑いだ。
「鉄屑鉄男」は、ハード・ロック/デス・メタル調である。テーマ的には、塚本晋也監督作品「鉄男」に通じる絶望の中でもタフなエネルギーだが、中上健次『大洪水』の主人公も「鉄男」なので、隠し味程度に、こちらのイメージも入っている可能性がある。おそらくライブの際は「男だけのアーバンギャルド」として、よこたんの衣装変えの際に使われるのではないか。
「キスについて」は、一転、しっとりした大人向けのバラードとなっている。「アカペーソング」(『鬱くしい国』)にも通じる、こんな愛ならば殉じてもいいと思えるような至上の美しい曲である。
「少女にしやがれ」は、クローゼットのなかに隠された少女の時代の衣裳を見て、それを抱きしめる、すなわち、一旦「大人病」で忌避した過去と和解して融和する話である。これにより、過去の私と今の私がひとつになり、精神的な危機が乗り越えられる。ファンであるるアーバンギャルの心境を推し量った歌詞だが、これはアーバンギャルド自身にも起こった事ではないか。「少女三部作」のアーバンギャルドと今が重なり融和する事で、本作が生まれた。ライブ限定CDを除外すると、新作アルバムまでに時間がかかったのは、忌避した過去との和解の作業があったのではないか。
「大破壊交響楽」の解放感は、半端ない。初め、君を失ったことによる清冽なリヒリズムから始まり、すべて破壊されれば良い、と考える。まるで、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフの「すべてよし」のようである。しかし、その破壊の果てに、君の痕跡を探し始め、何もない崩壊した世界のなかで、音楽の残響を聴く。ニューウェイブ系のSF的想像力と一体化したシュルレアリスティツクな表現である。
2018年4月10日に日本でレビュー済み
ごりごりのトラウマテクノポップ!
胸がキュッとなる音楽。
アーバンギャルド知ってるけど、なんかつついたことないって人に是非すすめたいアルバム。
ロリィタ、パンクス、少女じゃなくても
聴いてほしい。
自分の生きて来た記憶に、
どこか引っかかるワードが隠されているし
何より音楽が美しい。
こんなにポップなポップス!!
胸がキュッとなる音楽。
アーバンギャルド知ってるけど、なんかつついたことないって人に是非すすめたいアルバム。
ロリィタ、パンクス、少女じゃなくても
聴いてほしい。
自分の生きて来た記憶に、
どこか引っかかるワードが隠されているし
何より音楽が美しい。
こんなにポップなポップス!!
2018年4月9日に日本でレビュー済み
メンバーが自賛するのもよく分かる大作で、アーバンギャルドにとってもファンにとっても大事な作品になったと思います。
曲順や歌詞、メロディ、全てが心に刺さるものばかりで、古くから知っている人も勿論ですが、最近知った人も聞きやすいかな?と思います。
歌詞や曲調から今までの思いもたくさん詰まっていると思いますし、豪華版に入っているDVDもとても素晴らしいものです。アーバンギャルドがさらに大好きになれる1枚になっていると思うので気になった方は購入して見てはいかがでしょうか?
曲順や歌詞、メロディ、全てが心に刺さるものばかりで、古くから知っている人も勿論ですが、最近知った人も聞きやすいかな?と思います。
歌詞や曲調から今までの思いもたくさん詰まっていると思いますし、豪華版に入っているDVDもとても素晴らしいものです。アーバンギャルドがさらに大好きになれる1枚になっていると思うので気になった方は購入して見てはいかがでしょうか?
2018年11月14日に日本でレビュー済み
「少女は二度死ぬ」がぶっちぎりイチバンで、その後の作品もモチロン全部好きなのですが、やっぱり「少女は二度死ぬ」を超えはしなかったのですが、今作はホントに素晴らしかったです。アルバムを聴き終わっての大破壊交響楽の余韻というか聴き終わり感というかがとても心地よく、また、歌詞のせいか曲調のせいなのか、なにか消失感というか、さわさわした感情というかが心に残りループしてまた1曲めから聴いてしまいます。1つのアルバムをこんなに何度もループで聴いたのはホント久々です。10周年にふさわしい素晴らしい作品だと思います。
2018年4月9日に日本でレビュー済み
アーバンギャルド10周年記念アルバム。アーバンギャルドの魅力は、「メンバー全員が作曲をする」というのも1つだと思います。いろいろな世界が広がる世界は遊園地のようですね。いろいろなことを思い出し感じる、そんなアルバムです。このアルバムを聴いて、おおくぼけいさんが加入し本当に良かったと思いました。