著者の安本氏は「邪馬台国九州説」の重鎮であるが、本書の前半では先般、国立歴史民族博物館(以下、歴博)が新聞発表した「箸墓の建造年代=卑弥呼の時代」説を科学者の立場から論破し、後半、自論の「邪馬台国東遷説」を簡潔に解説したもの。前半で注意したいのは、安本氏が「畿内説」ではなく、歴博の学術的姿勢を批判している点である。
歴博の「箸墓」の年代測定は、炭素の同位体(C14)の半減期を利用した手法による。著者の論点の要約は以下。
(1) 本測定法は測定対象によって、結果の推定年代にズレが生じる。
(2) 歴博は対象として土器付着物を用いたが、例えば胡桃を用いるとそれより約100年新しい結果が出る。
(3) 他の、例えば「ホケノ山古墳」を例に採ると、胡桃を用いた結果が実年代に近い。
(4) 歴博は土器付着物に拘って、他の測定対象を無視し、自身に都合の良い結果を導いた。しかも、学会発表(他者の吟味を受ける)前に新聞発表した。
(5) 本問題には、国家予算を使用している歴博の体質だけでなく、マスコミの付和雷同・話題喧伝的体質がある。
上記が図表を駆使した豊富なデータに基づき解説されるので説得力がある。後半は自論の「邪馬台国東遷説」の説明だが、私も「大和朝廷の母体は西から来た」と言う線は動かせないと考えているので、基本的には賛成である。ただし、「天照大御神=卑弥呼の伝承」論は、本書の科学的分析とは一線を画すように直感的考察に思われ、更なる研究が必要と思う。学問のあり方と、公の研究機関・マスコミの体質批判として、傾聴すべき論考。

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「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) 新書 – 2009/9/10
安本 美典
(著)
箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。
- 本の長さ221ページ
- 言語日本語
- 出版社宝島社
- 発売日2009/9/10
- ISBN-104796673482
- ISBN-13978-4796673488
登録情報
- 出版社 : 宝島社 (2009/9/10)
- 発売日 : 2009/9/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 221ページ
- ISBN-10 : 4796673482
- ISBN-13 : 978-4796673488
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,064,905位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 473位宝島社新書
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年1月29日に日本でレビュー済み
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2015年7月29日に日本でレビュー済み
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データ重視、論理的著者の作品、論文はよく拝読しています。同感の支持者の一人
だからか。筋で通すタイプ向きの本です
だからか。筋で通すタイプ向きの本です
2016年7月13日に日本でレビュー済み
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この本は、一度公表したら絶対に訂正せず、嘘に嘘を重ねる悪しき捏造体質をもつ日本の考古学会の一部の勢力やこれまた一部マスコミの低レベルな現状を打破するために「邪馬台国の会」の主催者の安本先生が毎回説明する解説書の1冊です。魏志倭人伝に「和人は鉄の鏃を使う」のくだりがある鉄鏃の都道府県別出土数では、たとえば、福岡県、熊本県、大分県が圧倒的で奈良県はほぼゼロであるという事実だけでも九州説に説得力があり、また、福岡県南部の朝倉市中心の地名と奈良県大和の地名を比較すると現存する地名で30ほど一致することは単なる偶然ではなく、この事実が東遷説が雄弁に語られると思います。これは、天照大御神が最終的に現在の伊勢神宮の地に祀られる前に、伊勢神宮と同じ皇大神社、豊受大神社、猿田彦神社、五十鈴川などがセットでそのまま存在する福知山の元伊勢神宮の周辺のエリアの状況とよく類似していて、元の場所には同じ地名が残るものです。安本先生はもうこれ以上、韓国の慰安婦の捏造問題と同程度の低レベルな捏造が堂々はびこる日本の考古学会などはもうこれ以上相手にしない方がいいと思いました。
2021年1月13日に日本でレビュー済み
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ひたすら、箸墓古墳などの年代測定を否定し、邪馬台国は機内ではないと説く。
北九州での鉄器の出土の多さからこちらだというわけだ。
まあこんことを延々書いてあるがそれだけ。
調べたことを書くのは良いがこれでは全くつまらない。
学術書的ですが、新鮮さがないんだなあ。
北九州での鉄器の出土の多さからこちらだというわけだ。
まあこんことを延々書いてあるがそれだけ。
調べたことを書くのは良いがこれでは全くつまらない。
学術書的ですが、新鮮さがないんだなあ。
2011年1月30日に日本でレビュー済み
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タイトルからわかる通り、著者は「邪馬台国=北九州説」を採る方で、しかもその中でも重鎮にあたる方なのだそうです。
「奈良県桜井市にある箸墓古墳は卑弥呼の墓であって、邪馬台国は畿内に存在した」とする説をよくニュース等で耳にしますが、それは国立歴史民族博物館の研究グループの報告に拠るもので、本書の中で著者はその歴史民族博物館の説をメッタ切りにしています(笑)本当にボロカスです(笑)
著者曰く、歴史民族博物館の説は「よそおいは科学的、内容は支離滅裂」だそう。
歴史民族博物館の研究グループは、正確性に限界のある炭素14年代測定法の調査結果を自分達の都合の良い様に解釈しているといったことがつらつらと書かれています。
著者は本書で畿内説を批判しているというよりも、歴史民族博物館の研究手法を批判しているところがカッコ良いと思います。
近畿に住む者としては、やはり畿内説を唱える研究者の方々には是非頑張って頂きたいのですが、少なくとも歴史民族博物館の研究グループは信頼するに足らないことがわかってしまいます・・・
(笑)
そして歴史民族博物館の研究を除くと、学会では圧倒的に北九州説が有利とされているのだと・・・
もちろん批判だけではなく、巻末には簡単に著者の「邪馬台国=北九州説」「卑弥呼=天照大御神説」にも触れられているので最後まで面白く読めると思います。
北九州説を採る人はもちろん、畿内説を信じる人にもオススメできる良書です(ただし大きなショックを受けても知りませんが笑)。
「奈良県桜井市にある箸墓古墳は卑弥呼の墓であって、邪馬台国は畿内に存在した」とする説をよくニュース等で耳にしますが、それは国立歴史民族博物館の研究グループの報告に拠るもので、本書の中で著者はその歴史民族博物館の説をメッタ切りにしています(笑)本当にボロカスです(笑)
著者曰く、歴史民族博物館の説は「よそおいは科学的、内容は支離滅裂」だそう。
歴史民族博物館の研究グループは、正確性に限界のある炭素14年代測定法の調査結果を自分達の都合の良い様に解釈しているといったことがつらつらと書かれています。
著者は本書で畿内説を批判しているというよりも、歴史民族博物館の研究手法を批判しているところがカッコ良いと思います。
近畿に住む者としては、やはり畿内説を唱える研究者の方々には是非頑張って頂きたいのですが、少なくとも歴史民族博物館の研究グループは信頼するに足らないことがわかってしまいます・・・
(笑)
そして歴史民族博物館の研究を除くと、学会では圧倒的に北九州説が有利とされているのだと・・・
もちろん批判だけではなく、巻末には簡単に著者の「邪馬台国=北九州説」「卑弥呼=天照大御神説」にも触れられているので最後まで面白く読めると思います。
北九州説を採る人はもちろん、畿内説を信じる人にもオススメできる良書です(ただし大きなショックを受けても知りませんが笑)。
2019年3月20日に日本でレビュー済み
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本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作『邪馬台国への道』で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。
しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。
○邪馬台国=畿内説は、成り立たず
邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。
「魏志倭人伝」によると、帯方郡~邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡~狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国~対馬国間・対馬国~壱岐国間・壱岐国~末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国~伊都国間が、500里なので、伊都国~邪馬壱国間が、1500余里以内となります。
1500余里は、対馬国~壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。
ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75~90mで、1500余里=112.5~135kmと算出できます。
邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。
○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず
邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。
特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。
○天皇の平均在位年数
筆者は、21~50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)~793.5(50代の在位が、781~806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。
これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。
ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280~290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。
○邪馬台国東遷説への疑問
この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。
「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。
また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。
ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。
他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。
東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。
私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17~41代の25人は、400~697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。
1~16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。
そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。
なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。
○卑弥呼=アマテラス説への疑問
「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。
そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。
一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。
ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。
よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。
「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。
そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。
筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。
○邪馬台国=畿内説は、成り立たず
邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。
「魏志倭人伝」によると、帯方郡~邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡~狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国~対馬国間・対馬国~壱岐国間・壱岐国~末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国~伊都国間が、500里なので、伊都国~邪馬壱国間が、1500余里以内となります。
1500余里は、対馬国~壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。
ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75~90mで、1500余里=112.5~135kmと算出できます。
邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。
○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず
邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。
特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。
○天皇の平均在位年数
筆者は、21~50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)~793.5(50代の在位が、781~806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。
これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。
ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280~290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。
○邪馬台国東遷説への疑問
この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。
「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。
また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。
ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。
他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。
東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。
私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17~41代の25人は、400~697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。
1~16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。
そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。
なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。
○卑弥呼=アマテラス説への疑問
「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。
そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。
一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。
ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。
よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。
「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。
そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。
筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
2010年4月14日に日本でレビュー済み
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特に内容には触れない。
著者は学問するものの姿勢、科学するものの姿勢を正そうとしているのである。
とかくセンセーショナリズムに引っ張られがちなマスコミへの警鐘でもある。
最終的な情報の受け手である私たちも、しっかりした判断力を持たなければならないということなのだろう。
著者は学問するものの姿勢、科学するものの姿勢を正そうとしているのである。
とかくセンセーショナリズムに引っ張られがちなマスコミへの警鐘でもある。
最終的な情報の受け手である私たちも、しっかりした判断力を持たなければならないということなのだろう。
2009年9月15日に日本でレビュー済み
箸墓は卑弥呼の墓という結論を導くための歴博による捏造まがいの炭素年代測定論に対し、非常に説得力ある論理で反駁する安本氏。数年前に恥ずべき捏造騒動を起こした考古学界と、センセーショナリズム的体質で捏造騒動の片棒を担いだマスコミは、また箸墓問題で同じ愚を犯そうとしているのか。。。
最近の箸墓を巡る報道で邪馬台国は大和説で決着すると思っている方々に、ぜひ読んでもらいたい。
最近の箸墓を巡る報道で邪馬台国は大和説で決着すると思っている方々に、ぜひ読んでもらいたい。