副題に「韓国の研究者による決定版」とありますが、同感したのでレビューを書きます。
先ず、1971年に発掘された武寧王(斯麻王)の誌石がスタートです。誌石によると、武寧王の死を大王にだけ許される「崩」という字を使っていること、一方日本書紀では武寧王の死に対して大王には使わない「薨」を使っているとして、日本書紀の「捏造」を論証しています。(P.63)
武寧王陵について疑っている人や誌石に問題提起をした論文を読んだことがありません(勉強不足か?)。とすると、この事実から解き明かすのが歴史の王道ではないかと思いますが、如何でしょう?
著者はまた、例の宋書にある倭の五王の武を、日本での通説にあるような「雄略」ではなく武寧王に充てています。(P.104)朝鮮古代史の大家である井上秀雄(東北大学名誉教授)さんによれば、倭の五王を雄略などに比定する根拠は無いと公言していますし、古田武彦さんの九州王朝説では、九州の王が倭の五王だと述べていたと記憶しています。著者の問題提起も同様に検討すべきものだと思います。
本コラムを読む方は、1)日本書紀を信じる、2)信じない、に分かれるでしょう。そして、信じない方(というか疑問を持っている方。私もそうです)は様々な角度から歴史を勉強していることと思います。そのような方に是非ご一読をお勧めします。

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百済武寧王の世界海洋大国・大百済 単行本 – 2007/4/1
蘇 鎮轍
(著)
- 本の長さ282ページ
- 言語日本語
- 出版社彩流社
- 発売日2007/4/1
- ISBN-104779112370
- ISBN-13978-4779112379
登録情報
- 出版社 : 彩流社 (2007/4/1)
- 発売日 : 2007/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 282ページ
- ISBN-10 : 4779112370
- ISBN-13 : 978-4779112379
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,460,844位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 821位韓国・朝鮮史
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2022年2月18日に日本でレビュー済み
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百済(くだら)という国号は日本人にとってなぜか郷愁を感じる。日本列島に仏教を招来した仏教王国であったし、暦や天文学など諸文化をもたらした文化国家でもあった。しかし、わが国で教えられる百済像は大和朝廷に隷属し朝貢する「臣属国」扱いされてきた。そのイメージを創り出したのは他でもない『日本書紀』である。
著者は、『書紀』をはじめ中国の『三国志魏志』や自国の『三国史記』までもが百済の国家像を矮小化してきていると反論する。著者は、これまでほとんど学会では無視されてきた『梁職貢図』や『宋書』など中国南朝系の史料をも解読したり、日中韓を股にかけた現地調査を行っている。
その研究成果によれば、500年代前半の百済は朝鮮半島南部だけでなく、当時「倭」と呼ばれた今の日本列島西日本地域や中国の遼河流域に進出し、今のベトナム北部など東南アジアまで影響を及ぼしたという。中国南部の広西壮族自治区には「百済」を起源とする人々が少数民族として生きる。「黒歯国」と中国の歴史書に記録される国は、百済王族の「黒歯常之」なる人物が派遣され治めた海外拠点の一つだった。最盛期の百済はそのような海外拠点を持つ「海上国家」だった。それを可能にしたのが高い天文知識と造船能力及び航海術だった、と著者は指摘する。
百済という国家は600年代に新羅と唐の連合軍に攻められ滅亡した。しかし「百済」という名称は地名や寺院の名前として海外に受け継がれている。日本の滋賀県にも「百済寺」という名刹がある。
思えば、百済滅亡後も大和朝廷はその遺臣や亡命者たちを多数迎え入れている。彼らの多くは朝廷で要職に就いている。しかも大和朝廷は王朝復興運動を進めようとした。なぜ大和朝廷は無理をしてまで「白村江の合戦」に大軍を派遣したり、百済復興に加勢しなければならなかったのだろうか?
『日本書紀』などの文献に対し、古墳などから出土する遺物は、物自体が後世の作り物でない限り、その当時のありのままを私たちに教えてくれる。本書で取り上げられている韓国・公州(コンジュ)で出土した百済・武寧王(ムニョンワン)の「墓誌石」や和歌山県の隅田(すた)八幡神社に伝わった「銅鏡」、奈良の石上神(いそのかみ)宮の御神体「七支刀」などがそれだ。なぜなら、そこに文字によって記されている内容は、それらが作られた当時の、当事者たちの相互関係を反映したものだからだ。
古代東アジアにあっては、「崩御(ほうぎょ)」の「崩」の字は皇帝や大王の死にしか使われないし、一方、「薨去(こうきょ)」の「薨」の字は本国から派遣された「侯王」たちの死に使われた。
『日本書紀』がやっているのは、この「崩」と「薨」の書き換えによって、百済本国と海外拠点との関係を逆転させようとする史実の改ざんである。
そういった記録の改ざん者たちの政治的な作為に比べ、次のような発言は歴史に向き合う誠実ささえ感じる。あなたはどう思われるだろうか?
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」(2001年12月当時の天皇(現・上皇)の「会見発言」新聞記事より抜粋)
著者は、『書紀』をはじめ中国の『三国志魏志』や自国の『三国史記』までもが百済の国家像を矮小化してきていると反論する。著者は、これまでほとんど学会では無視されてきた『梁職貢図』や『宋書』など中国南朝系の史料をも解読したり、日中韓を股にかけた現地調査を行っている。
その研究成果によれば、500年代前半の百済は朝鮮半島南部だけでなく、当時「倭」と呼ばれた今の日本列島西日本地域や中国の遼河流域に進出し、今のベトナム北部など東南アジアまで影響を及ぼしたという。中国南部の広西壮族自治区には「百済」を起源とする人々が少数民族として生きる。「黒歯国」と中国の歴史書に記録される国は、百済王族の「黒歯常之」なる人物が派遣され治めた海外拠点の一つだった。最盛期の百済はそのような海外拠点を持つ「海上国家」だった。それを可能にしたのが高い天文知識と造船能力及び航海術だった、と著者は指摘する。
百済という国家は600年代に新羅と唐の連合軍に攻められ滅亡した。しかし「百済」という名称は地名や寺院の名前として海外に受け継がれている。日本の滋賀県にも「百済寺」という名刹がある。
思えば、百済滅亡後も大和朝廷はその遺臣や亡命者たちを多数迎え入れている。彼らの多くは朝廷で要職に就いている。しかも大和朝廷は王朝復興運動を進めようとした。なぜ大和朝廷は無理をしてまで「白村江の合戦」に大軍を派遣したり、百済復興に加勢しなければならなかったのだろうか?
『日本書紀』などの文献に対し、古墳などから出土する遺物は、物自体が後世の作り物でない限り、その当時のありのままを私たちに教えてくれる。本書で取り上げられている韓国・公州(コンジュ)で出土した百済・武寧王(ムニョンワン)の「墓誌石」や和歌山県の隅田(すた)八幡神社に伝わった「銅鏡」、奈良の石上神(いそのかみ)宮の御神体「七支刀」などがそれだ。なぜなら、そこに文字によって記されている内容は、それらが作られた当時の、当事者たちの相互関係を反映したものだからだ。
古代東アジアにあっては、「崩御(ほうぎょ)」の「崩」の字は皇帝や大王の死にしか使われないし、一方、「薨去(こうきょ)」の「薨」の字は本国から派遣された「侯王」たちの死に使われた。
『日本書紀』がやっているのは、この「崩」と「薨」の書き換えによって、百済本国と海外拠点との関係を逆転させようとする史実の改ざんである。
そういった記録の改ざん者たちの政治的な作為に比べ、次のような発言は歴史に向き合う誠実ささえ感じる。あなたはどう思われるだろうか?
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」(2001年12月当時の天皇(現・上皇)の「会見発言」新聞記事より抜粋)