
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
反官反民 中野剛志評論集 単行本(ソフトカバー) – 2012/8/31
中野剛志
(著)
- 本の長さ429ページ
- 言語日本語
- 出版社幻戯書房
- 発売日2012/8/31
- ISBN-104864880018
- ISBN-13978-4864880015
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 幻戯書房 (2012/8/31)
- 発売日 : 2012/8/31
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 429ページ
- ISBN-10 : 4864880018
- ISBN-13 : 978-4864880015
- Amazon 売れ筋ランキング: - 595,865位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 80,865位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2021年3月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これほどの逸材がが官僚にいたとは。
2012年9月15日に日本でレビュー済み
「TPP亡国論」、「売国奴に告ぐ」などで有名な中野剛志氏の評論集です。
2002年〜2012年までの評論をまとめています。
「表現者」や「発言者」での評論が多く見受けられますが、
後半から新聞記事などの評論もあります。
経済やそれに関する話だけかと思いきや
帯に書いてあるだけでも
構造改革、イラク攻撃、自己責任論、裁判員制度、天皇制
マスメディア、大衆、官僚、円高不況、TPP、復興、原発、大阪維新
など多岐に渡り、それ以外の事についても記述があります。
評論ひとつひとつは6ページ前後ですが、文字が新書程度の大きさであり、
ページ数も400を超えボリュームが半端ない本です。
例を挙げます。
愛国心教育は不要
という評論のタイトルを見ただけなら
保守の人からは何を言っているんだろうかと
思われると思います。
実際そう思いました。
しかし、その章を読んでみるとなるほどと腑に落ちます。
中野氏によれば愛国心ではなく忠国心こそ必要であるとしており、
教育基本法の存在そのものが国家への忠誠を前提としているのである。
皮肉にも左派の人間が理想とする改正前の教育基本法は
忠国心が前提の上で成り立っているのだという。
左派や左翼の人間にとってはとんだ皮肉ではないでしょうか。
また、最近マスコミで注目される大阪維新および橋下氏については
いくつか評論で出てきますが、そのうちのひとつに
ヒットラーと比較した評論が載っています。
独裁的なところが似ているとは思いましたが中野氏によると、
政治家というのは権力欲、名誉欲の最高峰と強調し、
ウソをつけない奴は政治家と弁護士になれないという
橋下氏を
死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し
人性は獣的であり、人生は争いであると確信した
ヒットラーに似ていると分析している。
またプロパガンダについてもヒットラーに似ているとしており、
橋下氏をヒットラーほど恐れる必要は無いが
それでも甘く見るのは危険だという。
また、政治を勝ち負けの世界というなら、政治に言論も批判も
いらなくなり、多数決という意思決定さえあればよいということになり、
「しゃべるとき」はプロパガンダで必要なときのみ使うことになる。
と批評している。
最後の評論には今こそ旧い自民党の政治を!とあります。
自民党の方々に特に読んで貰いたいページです。
政策の見直しをお願いしたいところです。
この中野氏の評論は自分がこうだと思っている
といったものに新たな思考や着眼点を取り入れてくれること請け合いです。
2002年〜2012年までの評論をまとめています。
「表現者」や「発言者」での評論が多く見受けられますが、
後半から新聞記事などの評論もあります。
経済やそれに関する話だけかと思いきや
帯に書いてあるだけでも
構造改革、イラク攻撃、自己責任論、裁判員制度、天皇制
マスメディア、大衆、官僚、円高不況、TPP、復興、原発、大阪維新
など多岐に渡り、それ以外の事についても記述があります。
評論ひとつひとつは6ページ前後ですが、文字が新書程度の大きさであり、
ページ数も400を超えボリュームが半端ない本です。
例を挙げます。
愛国心教育は不要
という評論のタイトルを見ただけなら
保守の人からは何を言っているんだろうかと
思われると思います。
実際そう思いました。
しかし、その章を読んでみるとなるほどと腑に落ちます。
中野氏によれば愛国心ではなく忠国心こそ必要であるとしており、
教育基本法の存在そのものが国家への忠誠を前提としているのである。
皮肉にも左派の人間が理想とする改正前の教育基本法は
忠国心が前提の上で成り立っているのだという。
左派や左翼の人間にとってはとんだ皮肉ではないでしょうか。
また、最近マスコミで注目される大阪維新および橋下氏については
いくつか評論で出てきますが、そのうちのひとつに
ヒットラーと比較した評論が載っています。
独裁的なところが似ているとは思いましたが中野氏によると、
政治家というのは権力欲、名誉欲の最高峰と強調し、
ウソをつけない奴は政治家と弁護士になれないという
橋下氏を
死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し
人性は獣的であり、人生は争いであると確信した
ヒットラーに似ていると分析している。
またプロパガンダについてもヒットラーに似ているとしており、
橋下氏をヒットラーほど恐れる必要は無いが
それでも甘く見るのは危険だという。
また、政治を勝ち負けの世界というなら、政治に言論も批判も
いらなくなり、多数決という意思決定さえあればよいということになり、
「しゃべるとき」はプロパガンダで必要なときのみ使うことになる。
と批評している。
最後の評論には今こそ旧い自民党の政治を!とあります。
自民党の方々に特に読んで貰いたいページです。
政策の見直しをお願いしたいところです。
この中野氏の評論は自分がこうだと思っている
といったものに新たな思考や着眼点を取り入れてくれること請け合いです。
2012年9月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
良書です。
サラサラ読み進め、偏ったみかたのみを主張する新書が多い中、
数少ない読み手に思索を要求する本だと思います。
「思想の確かさは、抽象的な理論的言語の交換よりも、
具体的な事象や課題をめぐっての解釈や判断によって試される。」
キツイ一言です。
本書は2000年以降の著者の評論を纏めたものですが、その時々の出来事を
ジャンルを問わず評論しています。
当時自分がとった「解釈や判断」について、本書は容赦なく糾弾します。
自分の”認知的複雑性”の低さを思い知らされます。
まったくもって、実に疲れる良書です。
サラサラ読み進め、偏ったみかたのみを主張する新書が多い中、
数少ない読み手に思索を要求する本だと思います。
「思想の確かさは、抽象的な理論的言語の交換よりも、
具体的な事象や課題をめぐっての解釈や判断によって試される。」
キツイ一言です。
本書は2000年以降の著者の評論を纏めたものですが、その時々の出来事を
ジャンルを問わず評論しています。
当時自分がとった「解釈や判断」について、本書は容赦なく糾弾します。
自分の”認知的複雑性”の低さを思い知らされます。
まったくもって、実に疲れる良書です。
2013年7月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
テーマ切り込みの角度が半端無く、バッサリ気持ち良い切り口。ここまでバッサリ言い切っていると本当に清々しさを感じる。
中野氏の普段の動画で見る存在感の大きさが文章にも現れており、伝わってくる。
個人的には青山繁晴信者であり、三橋貴明信者でも有るのだが、この本は
針の穴に糸を通すような繊細さを感じながら、正しい道へ導いてくれるような力強さも感じる。
まだ全部読んでいないが、文字ばっかりで、糞面白くもない本にこれだけ惹きつけられたことは無い。
文字が多くて読むのは大変だなぁと思うが、あっという間に読んでしまいそうな内容だ。
中野氏の普段の動画で見る存在感の大きさが文章にも現れており、伝わってくる。
個人的には青山繁晴信者であり、三橋貴明信者でも有るのだが、この本は
針の穴に糸を通すような繊細さを感じながら、正しい道へ導いてくれるような力強さも感じる。
まだ全部読んでいないが、文字ばっかりで、糞面白くもない本にこれだけ惹きつけられたことは無い。
文字が多くて読むのは大変だなぁと思うが、あっという間に読んでしまいそうな内容だ。
2013年1月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
毎日多くの出来事が起こり、しかもそれらの事象が複雑に絡み合う世の中。しかも情報量はネットの普及の中膨大である。日本人は労働時間も海外に比べると長く、そういった日々の事象について考察する時間的余裕もなくなっているのではないだろうか?マスメディアの流すうわべだけの解説、自称コメンテーターの稚拙な評論に違和感も持つ方々もたくさんいるはず。また、学校では教えてくれない社会事情があり、社会に出た若者たちは何を指標に生きていけばいいのかわからないことも多いはず。
そういった方々にぜひ読んでもらいたい。人間の持つ思考能力とはかくあるものだと気が付くはず。最初は難解に思う方もいるかもしれない。しかし、繰り返し反復することで氏の言いたいことが徐々にわかるだろう。
到底同じ年とは思えないほど知性を感じさせる内容の深さには脱帽するが、今の日本にまだこんな人がいたんだ!と感動し、勇気づけられる。間違いなく次世代の日本をになう思想家である。
危機になると天才が現れるのが日本であるが間違いなく氏はその一人である。
ちなみに「日本刀のような論客」と呼ぶ人もいる。
そういった方々にぜひ読んでもらいたい。人間の持つ思考能力とはかくあるものだと気が付くはず。最初は難解に思う方もいるかもしれない。しかし、繰り返し反復することで氏の言いたいことが徐々にわかるだろう。
到底同じ年とは思えないほど知性を感じさせる内容の深さには脱帽するが、今の日本にまだこんな人がいたんだ!と感動し、勇気づけられる。間違いなく次世代の日本をになう思想家である。
危機になると天才が現れるのが日本であるが間違いなく氏はその一人である。
ちなみに「日本刀のような論客」と呼ぶ人もいる。
2012年11月3日に日本でレビュー済み
膨大な知識と理路整然とした文章で、とにかく自分自身の不勉強さに嫌でも気づかされてしまいました。
それ故、サラサラと読むことが出来ず、講義を聴く前の緊張感にも似た心構えで読ませていただきました。
決して読みにくいわけでは無く、むしろ読み易いが一言一句理解しながら読み砕きたいと思わせる本です。
中野剛志氏が時折見せる(魅せる)、不遜とも言えるような振る舞いは
「不勉強な人における矛盾が嫌いで、そんな奴とは話す価値も無い」と理解できます。
私のような者が、レビューなどと大それたをしてはいけない本だとは思いますが
大衆迎合が目的になっている知識人と呼ばれている人たちや、
自分は保守だと思い込んでいる人に読んでいただきたいと思いました。
かならずや赤面します。
それ故、サラサラと読むことが出来ず、講義を聴く前の緊張感にも似た心構えで読ませていただきました。
決して読みにくいわけでは無く、むしろ読み易いが一言一句理解しながら読み砕きたいと思わせる本です。
中野剛志氏が時折見せる(魅せる)、不遜とも言えるような振る舞いは
「不勉強な人における矛盾が嫌いで、そんな奴とは話す価値も無い」と理解できます。
私のような者が、レビューなどと大それたをしてはいけない本だとは思いますが
大衆迎合が目的になっている知識人と呼ばれている人たちや、
自分は保守だと思い込んでいる人に読んでいただきたいと思いました。
かならずや赤面します。
2013年10月19日に日本でレビュー済み
中野剛志(1971‾ )は、日本の経産官僚です。研究分野は経済ナショナリズムです。
中野の『反官反民』を基に、保守について考えてみます。
<イラク戦争を巡る言論>
アメリカによるイラク戦争を巡る言論状況において、中野のそれは特筆に値します。
まず、『反レジーム・チェンジ宣言』という論文において、中野はアメリカによるイラク戦争および日本のアメリカ追従を痛烈に批判しています。その上で中野は、〈このような事態に対し、何もできない非力さが無念であるが、呆けて事態を看過していたわけではないことを、後世に証拠として残すために、本小論をしたためるものである〉と述べています。この態度に敬意を表します。こういった言動を行う人物は、尊敬に値します。
『規律と道徳』では、自衛隊のイラク派兵について、〈したがって自衛隊員は、イラク侵略への参加という政府の決定に背いてもよい、いや背くべきであると結論することができる〉と中野は述べています。まったくその通りだと思います。
『現実主義と保守主義』では、〈つまり、フセインは無謀で非理性的ではないかもしれないが、子ブッシュは無謀で非理性的なのだ〉と語られています。見事な皮肉ですし、その通りだと思います。
<言葉の定義の妥当性>
中野は保守に関わる言葉について、『反官反民』内で厳密に定義しています。言葉を厳密に定義して議論を進める姿勢は、非常に素晴らしいです。ここでは、言葉の定義とその妥当性について見ていきます。
まず、『社交論』において、〈伝統とは規範的行動様式の蓄積であり、それが「公平な観察者」であり、良心である〉とあり、〈反省とは、伝統と照らして自分自身を見つめることであると言うこともできる〉と語られています。この伝統と反省についての定義は、保守という思想からは妥当だと思われます。
さらに中野は、〈良心が判断する「罪」とは、「一般化された他者」から見られて「恥」と感ずるもののことであろう。したがって罪と恥とは、ほとんど同じ精神現象なのである〉と述べています。恥と罪をほとんど同一視していることが分かりますが、これは完全に間違っています。恥と罪は異なる概念です。
簡単に述べておくと、恥は何々すべしに関わり、罪は何々することなかれに関わります。特に日本人は、あるべき様から外れたと思うとき恥を感じ、禁じられたことを犯してしまったと思うとき罪の意識が芽生えるのです。
また、『「自由」と「民主」合併の条件』では、〈一般的に「自分の意志以外のものに束縛されない状態」のことが「自由」と理解され、「ある集団の構成員の平等な政治参加による多数決の意思決定」のことが「民主」と呼ばれる〉と定義されています。その上で中野は、〈自由民主主義は本質的にナショナルなものである。日本の自由民主主義であれば、日本的なものでなければならない〉と述べています。
ここにも、見過ごせない過誤があるように思えるのです。まず、自由民主主義は本質的にナショナルなものではありません。自由民主主義は、ナショナルなものである場合も、ナショナルなものでない場合もあるのです。ある国家の制度が自由民主主義であるとき、ナショナルな観点から言えば、その自由民主主義はナショナルなものであるべきなのです。
さらに、ナショナルな概念として日本を想定するなら、ナショナルな制度として自由民主主義を選ぶ必然性すらなくなるのです。
<日本と保守>
『反官反民』の議論の中で、日本と保守に関わるところには重大な問題が隠されていると思われます。まずは、日本と保守についての中野の意見を追っていきます。
まず、『日本において保守は可能か』において中野は、〈マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先する精神は、確かに、西洋人により顕著であり、日本的ではない。その意味で、保守思想それ自体は、日本的ではなく、西洋のものである〉と述べています。そこでは、〈要するに、日本の保守が擁護すべきは、「日本的なるもの」の積極面であって消極面ではないということだ〉と考えられているのです。
このような考え方は、〈不完全な社会の中で、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指すのが「保守」の定義だからだ〉という前提から来ているのです。
さらに『大衆の好物』においては、〈マイナスのない状態を理想視するという日本の伝統的な「和」の精神〉などと語られています。その上で中野は、〈大衆社会を拒否する保守がやらねばならぬことは、単に日本の伝統を守るというだけではなく、まずは日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否し、大衆的ではない伝統を本質として保守することではないか〉と述べているのです。
ここには極めて重大な問題が、あからさまに示されています。
<『反官反民』の保守について>
中野が『反官反民』において展開している日本と保守の関わりについては、極めて重大な問題が存在します。大きく分けて、三つの問題があります。
まず、一つ目。中野は、マイナスのない状態を理想とするのが日本人であり、マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先するのが西洋人だと述べています。この安易な場合分けは、さすがに頷けません。確かに日本はマイナスのない状態を理想としますが、プラスの理想にも十分に積極的です。そうでないのなら、日本思想史において、(もちろん反対派も数多くいましたが)日本が仏教や儒教を積極的に受け入れてきた事実、それどころかキリスト教やイスラム教からも参考にすべき点を学んでいる事実をどう考えれば良いのでしょうか? 日本は雑種文化だと言われることがありますが、これはある意味で真理です。日本ほどプラスの価値を吸収してきた文化形態に対し、いったいどこを見て何を言っているのかと思わずにはいられません。
次に、二つ目。マイナスのない状態を目指す場合と、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合があるとき、中野は後者を「保守」だと定義しています。この定義は妥当なのでしょうか? 例えば、マイケル・オークショットの『保守的であるということ』には、次のような記述があります。
保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。
この保守的であることについての言説を参考にしたとき、マイナスのない状態を目指す場合とマイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合と、一体どちらが保守的だと言えるのでしょうか? 私には、どう考えても前者の方が保守的だとしか思えません。
最後に、三つ目。中野はこう言っているのです。西洋のものである保守思想に基づいて、「日本的なるもの」に対し積極面と消極面を仕分けする、と。このとき、日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否することになりますが、その拒否すべき大衆性の判断は、西洋のものである保守思想によって為されるのです。
すなわち、日本の歴史や伝統を「護持」しようとする者は、「日本的なもの」を「西洋のもの」から護り持すために、「保守」という思想と対峙せざるを得なくなるのです。日本人が「日本的なもの」を護持しようとするとき、「西洋のもの」によって「日本的なもの」を裁く思想とは敵対することになります。日本の心を紡ぐ者は、自由主義や社会主義だけではなく、さらには保守主義とも敵対することになるかもしれないのです。日本人として生きるのなら、その覚悟が必要になるときがあるのです。
これは、端的に残酷な事態です。
中野の『反官反民』を基に、保守について考えてみます。
<イラク戦争を巡る言論>
アメリカによるイラク戦争を巡る言論状況において、中野のそれは特筆に値します。
まず、『反レジーム・チェンジ宣言』という論文において、中野はアメリカによるイラク戦争および日本のアメリカ追従を痛烈に批判しています。その上で中野は、〈このような事態に対し、何もできない非力さが無念であるが、呆けて事態を看過していたわけではないことを、後世に証拠として残すために、本小論をしたためるものである〉と述べています。この態度に敬意を表します。こういった言動を行う人物は、尊敬に値します。
『規律と道徳』では、自衛隊のイラク派兵について、〈したがって自衛隊員は、イラク侵略への参加という政府の決定に背いてもよい、いや背くべきであると結論することができる〉と中野は述べています。まったくその通りだと思います。
『現実主義と保守主義』では、〈つまり、フセインは無謀で非理性的ではないかもしれないが、子ブッシュは無謀で非理性的なのだ〉と語られています。見事な皮肉ですし、その通りだと思います。
<言葉の定義の妥当性>
中野は保守に関わる言葉について、『反官反民』内で厳密に定義しています。言葉を厳密に定義して議論を進める姿勢は、非常に素晴らしいです。ここでは、言葉の定義とその妥当性について見ていきます。
まず、『社交論』において、〈伝統とは規範的行動様式の蓄積であり、それが「公平な観察者」であり、良心である〉とあり、〈反省とは、伝統と照らして自分自身を見つめることであると言うこともできる〉と語られています。この伝統と反省についての定義は、保守という思想からは妥当だと思われます。
さらに中野は、〈良心が判断する「罪」とは、「一般化された他者」から見られて「恥」と感ずるもののことであろう。したがって罪と恥とは、ほとんど同じ精神現象なのである〉と述べています。恥と罪をほとんど同一視していることが分かりますが、これは完全に間違っています。恥と罪は異なる概念です。
簡単に述べておくと、恥は何々すべしに関わり、罪は何々することなかれに関わります。特に日本人は、あるべき様から外れたと思うとき恥を感じ、禁じられたことを犯してしまったと思うとき罪の意識が芽生えるのです。
また、『「自由」と「民主」合併の条件』では、〈一般的に「自分の意志以外のものに束縛されない状態」のことが「自由」と理解され、「ある集団の構成員の平等な政治参加による多数決の意思決定」のことが「民主」と呼ばれる〉と定義されています。その上で中野は、〈自由民主主義は本質的にナショナルなものである。日本の自由民主主義であれば、日本的なものでなければならない〉と述べています。
ここにも、見過ごせない過誤があるように思えるのです。まず、自由民主主義は本質的にナショナルなものではありません。自由民主主義は、ナショナルなものである場合も、ナショナルなものでない場合もあるのです。ある国家の制度が自由民主主義であるとき、ナショナルな観点から言えば、その自由民主主義はナショナルなものであるべきなのです。
さらに、ナショナルな概念として日本を想定するなら、ナショナルな制度として自由民主主義を選ぶ必然性すらなくなるのです。
<日本と保守>
『反官反民』の議論の中で、日本と保守に関わるところには重大な問題が隠されていると思われます。まずは、日本と保守についての中野の意見を追っていきます。
まず、『日本において保守は可能か』において中野は、〈マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先する精神は、確かに、西洋人により顕著であり、日本的ではない。その意味で、保守思想それ自体は、日本的ではなく、西洋のものである〉と述べています。そこでは、〈要するに、日本の保守が擁護すべきは、「日本的なるもの」の積極面であって消極面ではないということだ〉と考えられているのです。
このような考え方は、〈不完全な社会の中で、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指すのが「保守」の定義だからだ〉という前提から来ているのです。
さらに『大衆の好物』においては、〈マイナスのない状態を理想視するという日本の伝統的な「和」の精神〉などと語られています。その上で中野は、〈大衆社会を拒否する保守がやらねばならぬことは、単に日本の伝統を守るというだけではなく、まずは日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否し、大衆的ではない伝統を本質として保守することではないか〉と述べているのです。
ここには極めて重大な問題が、あからさまに示されています。
<『反官反民』の保守について>
中野が『反官反民』において展開している日本と保守の関わりについては、極めて重大な問題が存在します。大きく分けて、三つの問題があります。
まず、一つ目。中野は、マイナスのない状態を理想とするのが日本人であり、マイナスを容認してでもプラスの理想の実現を優先するのが西洋人だと述べています。この安易な場合分けは、さすがに頷けません。確かに日本はマイナスのない状態を理想としますが、プラスの理想にも十分に積極的です。そうでないのなら、日本思想史において、(もちろん反対派も数多くいましたが)日本が仏教や儒教を積極的に受け入れてきた事実、それどころかキリスト教やイスラム教からも参考にすべき点を学んでいる事実をどう考えれば良いのでしょうか? 日本は雑種文化だと言われることがありますが、これはある意味で真理です。日本ほどプラスの価値を吸収してきた文化形態に対し、いったいどこを見て何を言っているのかと思わずにはいられません。
次に、二つ目。マイナスのない状態を目指す場合と、マイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合があるとき、中野は後者を「保守」だと定義しています。この定義は妥当なのでしょうか? 例えば、マイケル・オークショットの『保守的であるということ』には、次のような記述があります。
保守的であるとは、見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。
この保守的であることについての言説を参考にしたとき、マイナスのない状態を目指す場合とマイナスを放置してでもプラスの価値を目指す場合と、一体どちらが保守的だと言えるのでしょうか? 私には、どう考えても前者の方が保守的だとしか思えません。
最後に、三つ目。中野はこう言っているのです。西洋のものである保守思想に基づいて、「日本的なるもの」に対し積極面と消極面を仕分けする、と。このとき、日本人の伝統精神にひそむ大衆性を拒否することになりますが、その拒否すべき大衆性の判断は、西洋のものである保守思想によって為されるのです。
すなわち、日本の歴史や伝統を「護持」しようとする者は、「日本的なもの」を「西洋のもの」から護り持すために、「保守」という思想と対峙せざるを得なくなるのです。日本人が「日本的なもの」を護持しようとするとき、「西洋のもの」によって「日本的なもの」を裁く思想とは敵対することになります。日本の心を紡ぐ者は、自由主義や社会主義だけではなく、さらには保守主義とも敵対することになるかもしれないのです。日本人として生きるのなら、その覚悟が必要になるときがあるのです。
これは、端的に残酷な事態です。