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騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編 単行本 – 2017/2/24
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待ちかねた書き下ろし本格長編
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。
- 本の長さ512ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2017/2/24
- 寸法21.7 x 3.2 x 29.7 cm
- ISBN-10410353432X
- ISBN-13978-4103534327
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商品の説明
メディア掲載レビューほか
ハルキ世界の満漢全席『騎士団長殺し』を全世界が待ちわびた
村上春樹、4年ぶりの書き下ろし長篇
村上春樹4年ぶりの書下ろし長編『騎士団長殺し』全2巻が、去る2月24日に全国同時発売。室蘭線列車事故の影響で北海道のみ発売が1日遅れたのがニュースになるほどの同時ぶりで、出版界のボジョレー・ヌーボーとも言われる恒例のカウントダウン販売にも各地で深夜の行列ができた。
東京・神保町の三省堂書店では、購入者が店内の特設スペースで始発まで本を読めるイベントを実施。私は物見高くこれに参加したんですが、取材のTVカメラに囲まれる中、10人ほどの客が会議机に向かって黙々と村上春樹を読む光景はなかなかシュールでした。
まあしかし、みんながヨーイドンで同じ本を読みはじめるなんて滅多にない経験だし、全世界が待ちわびるハルキの新刊をいちはやく読めるのは日本の読者だけの特権だと思えば、飛びつく人が多いのも当然か。
小説の中身も、高まる期待に十二分に応えて、ハルキ世界の満漢全席かと思うくらいサービス満点。ひさしぶりの一人称(“私")で、おなじみのハルキ的モチーフ(妻との別れ、謎めいた穴、いわくありげな美少女、夢精、失踪、メタファー……)を大量にちりばめながら、象徴的なファンタジーの世界に読者を誘う。作中で言及される上田秋成の怪談風でもあり、謡曲風とも、RPG風とも、ジブリ風とも見える。絵画や文学はもちろん、クルマ、音楽、料理から南京大虐殺まで、とにかくネタが盛り沢山なので、合計千ページを超える物量にもかかわらず、ダレ場はほとんどない。
今回の特徴は、“私"が妻と別居してから元の鞘に戻るまでの9カ月間の物語であることが、冒頭で宣言されること。2006年(推定)の出来事を、2011年現在から振り返る回想形式になっている。乱暴に要約すれば、36歳(当時)の画家である“私"が、ある大きな試練を経て再生し、家庭をとりもどす話だと言ってもいい。
主な舞台は、小田原市郊外の山中に建つ一軒家。高名な日本画家である雨田具彦(あまだともひこ)のアトリエ兼住居だったその家に越してきた“私"は、そこでさまざまな不思議と出会う。その出発点が、屋根裏で見つけた雨田具彦の未発表作「騎士団長殺し」と、谷をはさんで向かいの山に建つ白い邸宅に住む白髪の中年男、免色渉(めんしきわたる/ギャツビー風の大富豪)。話の展開は例によって自由奔放だが、前作前々作とくらべて投げっ放し感は比較的少なく、きっちり幕が引かれる。作中では“買い手責任"という言葉が強調されるが、大丈夫、(ある登場人物の口調を借りれば)心配は「あらない」。
評者:大森 望
(週刊文春 2017.3.16号掲載)登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2017/2/24)
- 発売日 : 2017/2/24
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 512ページ
- ISBN-10 : 410353432X
- ISBN-13 : 978-4103534327
- 寸法 : 21.7 x 3.2 x 29.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 168,586位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 28,182位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について

1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。
1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。
イメージ付きのレビュー

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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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全国の村上主義者のみなさん、こんにちは。
「騎士団長殺し」が2017年2月24日に発売されてから、ハルキストがどうのこうの、って話題になってますが、地下に潜る村上主義者は意に介しませんよね。実は今回長年謎のまま回収されていなかった個人的な疑問が、「騎士団長殺し」を読んでいる途中で一つ解けましたので、もしくは、解けたような気がしましたので記事にしてみました。早速行きます。
この名言を覚えていますか「時間をかけることを・・・」
「ねじまき鳥」で頼りになる叔父さんのセリフがありましたよね。
「時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」
私は本日「騎士団長殺し」を読むまで、このセリフの言いたいこと、意味合いが分かりませんでした。もちろん、これはあくまで私個人の疑問であり、とっくに得心のいっている方もいるでしょう。ただ、少なくとも私の中ではうまく回収できずにいたので、今回の「騎士団長殺し」にはひそかに期待していました。
流れとして「ねじまき鳥」系の井戸を掘っていく話なのか、それとも「カフカ」的なカラフルでファンタジックな話なのか。私は前者を希望していたのです。2月24日書籍が届き、第1章を読み始めたところ希望は叶えられた、と確信しました。
The best revenge is to live well.
洗練された形の復讐、と聞いて私が思い浮かべるのは英語の慣用句。
The best revenge is to live well.
です。このフレーズには合点がいっていました。誰か復讐したい人がいたとしても、それを直接遂げることは社会的に問題が発生します。例えば、端的な話その相手を物理的に消し去ってしまうと、こちらの心の中に懺悔が残ります。おまけにこちら側には社会的な地位が損なわれてしまいかねないリスクがあります。復讐するつもりで、自分が不幸になってしまっては相手の思うつぼですよね。物理的に殺傷ではなく、何がしかの影響力を行使して社会的な抹殺を試みたとしても同じこと。自分の中にしこりが残ってしまって、復讐を遂げた相手のことが自分の心から離れないとすれば、それは相手にまだ拘りがあり翻ってこちらの心的負担が増えていることになります。
だから、よく生きることが、最高の復讐になる。
つまり、自分が充分満足するような形で生きていて、その復讐したい相手さえも綺麗さっぱり忘れることができれば、全く意に介さないことができれば、それが最高の復讐になります。復讐という気持ちが消えてしまうこと、そして他人も羨むくらいの生活が送れれば、復讐の相手も「くやしい」と思うかも知れない。思わないかも知れない。どちらでもかまわない。そう、それこそが
ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐
となるのです。洗練というのは、自分が不幸になってしまうようなリスクがない、ということですね。社会的な地位を脅かされることがない洗練された方法。それがto live wellなのだ。そこまでは理解できていました。ただ、その前の部分、
「たっぷりと何かに時間をかけること」
との結びつきがよく分からなかったのです。
【騎士団長殺し】p71に出てくるフレーズ
私はまだ「騎士団長殺し」を全部読んでいません。1Q84以来長編は7年も待たされていたのです。じっくり読み進めたいです。しかし、第1部「顕れるイデア編」を読み始めて「ねじまき鳥」系の流れを確認できたところで、心おどってドキドキが止まりません。そこでp71まで貪るように読んだところ、こんなフレーズがありました。
とにかく、どこかで流れが間違った方向に進んでしまったのだ。時間をかける必要がある、と私は思った。ここはひとつ我慢強くならなくてはならない。時間を私の側につけなくてはならない。そうすればきっとまた、正しい流れをつかむことができるはずだ。その水路は必ず私のもとに戻ってくるはずだ。
ここまで読んだとき、長年の疑問が解消されました(少なくとも私の中では・・・ですが)。
to live well(よく生きること)の中身の話
時間をかける、とはto live well(よく生きること)の中身の話なのです。時間の流れを自分の側につけること。ただ生活のために流されていく人生を送るのはなく、内的な充足を得つつ、自分に納得しながら生きるためには時間が必要です。どれだけの時間が必要なのかは本人にしか分かりません。ただ、時間の流れが自分の味方についてくれたとき、つまり自分が内的に求めていることを得られる感触があるとき、そこで初めて、
I’m living well.
と自分に言い聞かせることができるでしょう。仮に復讐したい相手がいるとすれば、自分自身にたっぷりと時間をかけ、時間の流れを見方につけることが、to live wellにつながり、翻って、洗練された形でthe best revengeとなるのです。
疑問を投げっぱなしにして回収しない、という批判
村上春樹の小説には「疑問が回収されず、読者に投げられっぱなしで小説的責任を回避している」などという批判があるようですが、放置ではないのです。小さな声で語られる、良いニュースをこつこつと拾い上げながら、読書再開です。
井戸掘り、妹、それほどかっこよくないけど、"話をよく聞く"からモテるんだろうな、な受け身男、、などなど、村上さん作品ではお馴染みコンテンツを用いながら、新しい家族、つまり、ひとの新しい繋がりを見せましたね。
親子である理由が、物理的な理由を飛び越えちゃってるあたりが、「それはいいのかよ」ってなったし、怖いけど、近い未来なのかも。人の肉体的結びつきが軽くなり、精神的結びつきが重くなる未来を描いたの?
ただ、
お父さんが、生物学的に自分の本当のお父さんじゃないかもしれないって思い悩む子供には、割り切れない話なんじゃないかな、とも。いや、希望をみせたのかな。そんなの飛び越えていけって。
オーディブルで俳優、高橋一生さんの声で物語を聞いたけど、耳で聴く芝居って感じで、続きが気になるエンタメストーリーでした。
騎士団長の「〜あらない。」と、相手が1人なのに「諸君」と呼ぶあたりとか、高橋一生さんの声色が絶妙に、存在のおかしさを含めていて、騎士団長の登場が楽しみでした。
高橋一生さんには実写化したら、主人公と、免色さん、一人二役演じてほしいと真剣に思うくらい、素晴らしい表現力を持った読み手でした。
なぜ、このようなタイトルにしたか、ずっと気になっていました。
今、千野帽子の『人はなぜ物語を求めるのか』を読んでいて、
ピンと来ました。
その本には、21世紀に入ってから、ジョージ・ブッシュ米大統領は
対テロリズムの戦闘を「十字軍」と呼んだ、と書いてありました。
21世紀に、「なぜ」大昔の、中世の「十字軍」の物語を持ち出すのか。
神も仏もあるものか、の「問答無用」の核爆弾が
天から、自分の頭の上に落ちてくる世界になっているのに、
なぜ「十字軍の騎士団」の剣で刺し殺す物語を書かねばならぬのか、
不思議です。
「なぜ」米国民の多くの人たちは、今の時代になっても
大統領と一緒になって、大昔の「十字軍」の物語を求めたのか。
一方、『臨済録』に「仏に逢ったなら仏を殺せ」というフレーズがある
ことも、千野さんはその本の中に書いています。
「仏に逢ったなら仏を殺せ」の意味を、勝手に解釈すると、
「偉大なる」仏の姿に投影しただけの、まねっこのねこの絵のような
「小さい我」に気付いたら、
その「小さい我」を「殺せ(消し去れ、捨てろ、人目から隠せ)」
という意味ではないでしょうか。
村上さんが描いた「小さい騎士団長」を殺す物語とは、
主人公の「私」の昔の姿をキャンバス上に投影しただけの「小さい我」
の絵を消し去る、捨てる、人目から隠す物語なのでは。
この想像が果たして当たっているかどうか
第2部を読んで、確認したくなりました。
相変わらず主人公は「人生でおそらくいちばん素敵な年齢」であるところの36歳。その他の登場人物は、ギャッツビーみたいなとんでもなく金持ちでハンサムで謎めいた男。そしてちょっとトロくて金持ちで親切な都合のいい「友人」とちょっとエロくて子持ちで聡明で都合のいい「ガールフレンド」。さらに、コミュ障の美少女とセレブな叔母。で、昔ウィーンで体験した「戦争にまつわる何か」がトラウマになっている老齢の画家と彼の絵から出てきた小さいおじさん。いつかどこかで見たような人たちばかり。だったらいっそ同じ登場人物が永久に年をとらずにささやかな日常を演じ続けるサザエさんシリーズのようにしてしまったらどうか。
主人公は衣食住と女性関係にはまったく不自由しない生活を送りながら思う存分妄想にひたり、不思議体験をしたのちにまたぬるま湯のような現実に戻るという相変わらずの話を1000ページにわたって書いて何を伝えたかったのだろうか。ドン・ジョヴァンニも南京大虐殺の話もとってつけたようなセックスの話も(いまどきの30代が電話って)、車の宣伝のようなくだりもまったく必然性が感じられない。出てくる人物は他の小説の使い回しで、「誰でもいい」といわんばかり。もしかしたらほんとうに誰でもいいのかもしれない。そういう実験なのだろうか? 私たちは試されているのか? 小説というかたちをかりて、別のことをしようとしているのか? 登場人物は「記号」に過ぎないことにいい加減わたしたは気付くべきなのか? こうした謎解きやメタレベルの読書も村上作品の醍醐味でもあるのだろうが、それまでもパターン化してしまっている。
たとえば上橋菜穂子『鹿の王』。上下1000ページ以上でだいたい同じくらいの長さだったが、読み終るのが惜しくて下巻はスローダウンして読んだ。完全なファンタジーの世界なのにものすごいリアリティ。それに比べて『騎士団長…』の1000ページは退屈このうえなく、下巻はすっとばして読んだ。長編小説というからには多少なりとも世界観が変わる読書体験か、サーガ的な構成美のいずれかがなければ、読み通すのはかなりつらい。結局、いまの村上春樹に長編というスタイルは合わないんじゃないかと思う。浅田真央がおそらくは彼女に合っていなかったように思える重厚な曲に挑戦し続けたように、村上春樹もドストエフスキーを目指し続けているのかもしれないが、むしろ短編、中篇、エッセイのほうがよほど「よさ」が出ている気がする。ある人が「仕事は人のため、趣味は自分のため」と言っていたが、村上春樹にとって翻訳はまだ仕事かもしれないが、小説は完全に趣味になってしまっているような…。
『職業としての小説家』で、彼は生涯をかけて書き続けるテーマといったものがないことを認めている。「脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーション」を有効に組み合わせたものが彼にとっての「正しい物語の動力」であり、その記憶を引き出し、小説という「ヴィークル」に乗せて人々に届けるのが自分の仕事であると。自己の出自や戦争といった重たいテーマを宿命ごとく背負っていない作家が小説を書き続けていくためには「自然再生エネルギー」を利用するしかないのだと。そのエネルギー再生が、このところあまりうまくいっていないのではないだろうか。
村上春樹は作家として大成功した結果、嫌な人と付き合わなくてすむ権利、嫌なものを見たり聞いたりしない権利を手に入れた。ようするにセレブな引きこもり。そういう人の書くものが、単純に読者の琴線に振れなくなっているのではないか。「村上さんに聞いてみよう」企画にしても、あれは閉じた村上ワールドの中でのファンとの集いであって、読者と対峙する場ではない。つまり彼は完全にコクーンの中に入っている。彼の小説の主人公たちのように。どう生きようと自由だが、書くものに精彩がなくなってきたことは確か。ブルゾンちえみじゃないけど、「味のしなくなったガムをいつまでもいつまでも噛んでいる」感じ。歳をとっていい具合に力が抜けるとか、逆に凄味を増すとか、新境地を拓くとか、本書にそうしたものは感じない。
この本で気になったところが一カ所だけある。「歳をとっていくのは怖くありませんか? 一人ぼっちで歳をとっていくことが?」という問い。村上春樹は主人公に齢をとらせない。今回も「老い」は友人の父親である雨田具彦が一手に引き受けている。1Q84では主人公の父親だった。何かを引き受けるのはいつも脇役。主人公は貴族的なメランコリに浸ってひたすら自分だけが気持ちよくなっている。あの有名な「35歳問題」から1歳すすんだだけの主人公。成長しないこと、変わらないこと、村上春樹がそれを捨て身で表現しているのだとしたら、この小説はある意味で成功している。