著者はカクレキリシタンを、「禁教令撤廃後もカトリック教会とは一線を画し、潜伏時代から代々受け継いだ信仰形態を今に伝えている人々。組織、運営形態は宮座・頭屋制度に酷似し、儀礼面ではキリシタン的要素を残しているが、370年にわたる指導者不在で教義的側面は忘却され、日本の諸宗教に普遍的な、重層信仰、祖先崇拝、現世利益的性格を強く取り込んだ、キリスト教とは全く異なる日本の民俗信仰である」と定義し、キリスト教伝来(1549)から禁教令(1613)までのキリシタンや、その後、禁教令緩和(1859〜1899)以前の時代の潜伏キリシタンと時代的に区分している。
カクレキリシタンへの聞き取りや詳細な組織、伝承、儀式、言語などの習俗調査、文献的検討、歴史的研究と分析を通じて、宮崎自らライフワークと言う一連のカクレキリシタン研究27年の成果を、極めて貴重で説得力ある論証として提供しており、本書はカクレキリシタン論の集大成と思える。「弾圧に耐えて密かにキリシタン信仰は守り伝えられ、今に至るまでその信仰は受け継がれています」とのカクレキリシタンイメージを、幻想であり客観的事実ではないと、豊富な事実から検証している。同氏が、カクレ信仰を日本の民俗信仰であると結論付ける上で、分析する項目としてキリスト教との対比上採用するのは、次の4項目である。すなわち、A重層信仰:一神教、B祖霊崇拝:唯一絶対神信仰、C現世利益志向:来世指向、D儀礼中心:教義重視、である。本書の多くの紙幅を費やして、宮崎はカクレキリシタンの信仰生活や組織の実態を、多くの写真や信者の証言を用いて実に生きいきと紹介しており、興味は尽きない。
しかし、上記4指標による図式的理解は、カクレ理解に当たって便宜的には有用であるとはいえ、キリスト教内部の歴史的・時代的・地政学的・教派別バリエーションを視野に入れるなら、説得力を大いに失われてしまうと言わざるを得ない。例えば、指標Aについて言えばカトリックは伝統的にプロテスタント諸派と比較して、厳密には神ではないとはいえマリアや諸聖人の聖性を認め重視してきたし、ロシア正教でも歴代皇帝が教会の守護者として聖人に列せられている。指標Bでは、現代韓国のキリスト教諸派には東アジア的伝統である祖霊崇拝と結びついたキリスト教土着化の様式がみられる。指標Cでは、典型的な来世指向であるルター派的「二王国論」からの脱皮を志向する神学や、現世の貧困問題に取り組む中南米のカトリックの「解放の神学」があげられる上に、著者も言及しているようにカトリックの一部では「ルルドの水」による病気治癒祈願や、一種の「お守り」であるメダイの携帯習慣まで見られる。指標Dについては、「聖書のみ、信仰のみ」のプロテスタント諸派と比べ、カトリックは伝統的に典礼(儀式)を重視していることは明らかである。また、フィリピン、太平洋諸島地域、中南米諸国ではキリスト教は各々土着の宗教的伝統を豊富に取り込んでいる。インド・ケララ州の聖トマ教会の儀式は多分にヒンドゥー教の様式に影響を受けている。なお、宮崎がカクレの特徴として論じる呪物崇拝(フェティシズム)について言えば、偶像崇拝の禁止を重視するプロテスタント諸派とくらべ、カトリックでは「ご像」や「聖遺物」「聖具」が単なる道具ではなく、聖なる対象として寛容に受け入れられており、東方教会では聖画イコンが尊ばれており、西欧プロテスタントから見れば相当にフェティシズムと言える。
つまり、宮崎が「キリスト教」の典型として挙げているのは、彼自身が言うところの「ヨーロッパスタイル」の特徴にすぎないのであり、キリスト教の歴史と世界的広がりの視座にたてば、時代的・地理的制約を免れない。したがって、本書の末尾「第九」で、宮崎が人口1%未満にとどまる日本のキリスト教信者数を「不可解な現象」と言い、キリスト教が日本社会に「真に土着化するには、100%そのままの形で受容されることはあり得ず、かならず変容という現象が伴う」と認めた瞬間、本書で一貫して論じてきたはずの「カクレはキリスト教とは全く異なる」という主張と矛盾してしまう。また、宮崎は日本の宗教的メンタリティーの基層を祖霊崇拝であるとし、お盆・お彼岸・墓参りを中心とした「日本仏教」を、「シャカの教義とは別の日本的受容」であると評価している。それなら、“カクレキリシタンは370年余の弾圧の果てに、ヨーロッパスタイルから教義上は大きく変容し、日本的に土着化したキリスト教である”となぜ言えないのか、との疑問が直ちに湧き、論理が破たんしてしまっている。実際、本書冒頭「第一」で、キリスト教徒とよべる条件を宮崎は自問し「とてつもなく難しい問題」であると告白しており、しかも明確な「クリスチャンの定義」を提示していない。残念ながら、カクレ信仰の詳細な研究の説得性に対して、この矛盾点・残された課題は、本書の根本的な欠陥とすら思えるほどのコントラストをなしているように思える。
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カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容 単行本 – 2014/1/21
宮崎 賢太郎
(著)
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隠れてもいなければ、キリスト教徒でもなかった! オラショ(祈り)や諸行事に接し、日本民衆のキリスト教受容の実像に迫る。
- 本の長さ226ページ
- 言語日本語
- 出版社吉川弘文館
- 発売日2014/1/21
- ISBN-104642081003
- ISBN-13978-4642081009
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登録情報
- 出版社 : 吉川弘文館 (2014/1/21)
- 発売日 : 2014/1/21
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 226ページ
- ISBN-10 : 4642081003
- ISBN-13 : 978-4642081009
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2016年9月23日に日本でレビュー済み
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2014年3月15日に日本でレビュー済み
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読む前に2点ほど注意がいる。
一つ目は、この本の研究対象は江戸時代の隠れ切支丹ではなく、その信仰を現在に受け継いでいる人々だという事。江戸時代の隠れ切支丹の生活や実像について何かを知りたいと思って手に取ると、恐らくは期待はずれになる。
一応、織豊時代から江戸の全面禁教までの歴史の簡単な概観が最初の方にあるが、禁教に至った理由を経済的なものだけに矮小化する狙いがありありと見え、あまり褒められたまとめとは言い難い。
二つ目は、文章の多くが、クリスチャンを想定読者として意識しながら書かれているという事。
そこを抑えておかないと、本書で再三再四語られる「カクレキリシタンの信仰はキリスト教信仰ではない」という主張の意図するところを読み違えてしまうだろうと思う。
著者がそう主張する事で狙っているのは、クリスチャンたちからの「間違った信仰から正しいキリスト教の信仰に戻る手伝いをしてやろう」などという余計なお世話を思いとどまらせ、現在にカクレキリシタンの信仰を受け継いでいる人達と継承された信仰を、それ自体が独自の信仰として尊重するよう訴える事である。現在のカクレキリシタンにはクリスチャンという自覚はなく、信仰者や継承者が途絶えてカクレキリシタンをやめた場合には、教会ではなく寺の檀家や神社の氏子に戻っていくのが現実であって、そこに「部外者」であるクリスチャンが「善意」からくちばしを突っ込んで彼らの生活を乱すような事がないように、との思いから「カクレキリシタンは日本の独自な信仰だ」と主張しているのは明らかなのだが、誰に向けて書いているのかが明示されていないため、ともすると「こんなものはキリスト教ではない」という異端排斥思想からそんなことを書いているかのように誤読されかねないようなところがある。
では、本書で展開される「カクレキリシタンはキリスト教ではない」という主張の論証そのものはどの程度妥当なのかというと、残念ながらこれは上手い出来とは言い難い。著者の基準を当て嵌めると、ヨーロッパの農村でイエスやマリアに豊作を祈願する人々もキリスト教徒ではないという事になってしまうような、かなりずさんなものである。「土着の信仰と融合し重層化したキリスト教」と「土着の信仰と融合した結果、独自のものに変化した信仰」とを区別する指標が示されなければならなかったはずだが、残念ながらそれは提示されない。カクレキリシタンを独自の信仰だと主張したいという気持ちばかりが逸って、拙速な論法になってしまったのだろう。これは非常に残念な点であり、本書に満点を付けられない大きな理由である。
しかし、その欠点を補って余りあるのが、本書の中に収められたカクレキリシタン信仰の具体的な事例収集の数々である。
本書で最も分量を割いているのが、この儀式やオラショ等の記録であり、部外者には見せることもタブーであるような洗礼、葬送儀礼などまでが、非常に詳しく載っている。
先行のキリシタン研究には載っていないような秘儀の多くが記録されており、それだけでも資料的な意義は計りがたい。カクレキリシタンをやめる人々が増え、伝承が途絶えていく中、失われる前に多くの記録を残すことに成功した著者の功績は素晴らしいものであり、この点に限れば星5つでも足りないほどである。
現在のキリシタン信仰の具体的な姿に関心のある人にとっては、間違いなく興味深い一冊だろうと思う。
一つ目は、この本の研究対象は江戸時代の隠れ切支丹ではなく、その信仰を現在に受け継いでいる人々だという事。江戸時代の隠れ切支丹の生活や実像について何かを知りたいと思って手に取ると、恐らくは期待はずれになる。
一応、織豊時代から江戸の全面禁教までの歴史の簡単な概観が最初の方にあるが、禁教に至った理由を経済的なものだけに矮小化する狙いがありありと見え、あまり褒められたまとめとは言い難い。
二つ目は、文章の多くが、クリスチャンを想定読者として意識しながら書かれているという事。
そこを抑えておかないと、本書で再三再四語られる「カクレキリシタンの信仰はキリスト教信仰ではない」という主張の意図するところを読み違えてしまうだろうと思う。
著者がそう主張する事で狙っているのは、クリスチャンたちからの「間違った信仰から正しいキリスト教の信仰に戻る手伝いをしてやろう」などという余計なお世話を思いとどまらせ、現在にカクレキリシタンの信仰を受け継いでいる人達と継承された信仰を、それ自体が独自の信仰として尊重するよう訴える事である。現在のカクレキリシタンにはクリスチャンという自覚はなく、信仰者や継承者が途絶えてカクレキリシタンをやめた場合には、教会ではなく寺の檀家や神社の氏子に戻っていくのが現実であって、そこに「部外者」であるクリスチャンが「善意」からくちばしを突っ込んで彼らの生活を乱すような事がないように、との思いから「カクレキリシタンは日本の独自な信仰だ」と主張しているのは明らかなのだが、誰に向けて書いているのかが明示されていないため、ともすると「こんなものはキリスト教ではない」という異端排斥思想からそんなことを書いているかのように誤読されかねないようなところがある。
では、本書で展開される「カクレキリシタンはキリスト教ではない」という主張の論証そのものはどの程度妥当なのかというと、残念ながらこれは上手い出来とは言い難い。著者の基準を当て嵌めると、ヨーロッパの農村でイエスやマリアに豊作を祈願する人々もキリスト教徒ではないという事になってしまうような、かなりずさんなものである。「土着の信仰と融合し重層化したキリスト教」と「土着の信仰と融合した結果、独自のものに変化した信仰」とを区別する指標が示されなければならなかったはずだが、残念ながらそれは提示されない。カクレキリシタンを独自の信仰だと主張したいという気持ちばかりが逸って、拙速な論法になってしまったのだろう。これは非常に残念な点であり、本書に満点を付けられない大きな理由である。
しかし、その欠点を補って余りあるのが、本書の中に収められたカクレキリシタン信仰の具体的な事例収集の数々である。
本書で最も分量を割いているのが、この儀式やオラショ等の記録であり、部外者には見せることもタブーであるような洗礼、葬送儀礼などまでが、非常に詳しく載っている。
先行のキリシタン研究には載っていないような秘儀の多くが記録されており、それだけでも資料的な意義は計りがたい。カクレキリシタンをやめる人々が増え、伝承が途絶えていく中、失われる前に多くの記録を残すことに成功した著者の功績は素晴らしいものであり、この点に限れば星5つでも足りないほどである。
現在のキリシタン信仰の具体的な姿に関心のある人にとっては、間違いなく興味深い一冊だろうと思う。
2014年3月5日に日本でレビュー済み
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幾多の迫害を耐え抜きキリスト教への純粋な信仰を守り続けてきた「隠れキリシタン」、というのはおおよそ嘘である。「カクレキリシタン」として特異な宗教文化を数百年間に渡りこの国で維持してきた人々の信心のかたちは、日本の民俗的な神仏信仰の風習にキリスト教的な装いを若干付け加えただけであり、その本質は先祖崇拝(供養)と現世利益である。各種の歴史資料の読み込みに加え現代の「カクレキリシタン」に対する実態調査を40年近く継続してきた著者が、きわめて明快な語り口によってその真相に迫る。
一部の熱烈な殉教者たちを生んだキリスト教到来の初期の頃は、確かに唯一絶対の神への信仰があったかもしれない。だが、その後の潜伏時代の信徒たちが教義を正確に理解することはできず、キリスト教に由来する儀礼や慣習は先祖伝来のありがたく(呪術的効力を有する)もないがしろにするとおそろしい(タタリをもたらす)文化へと姿を変えた。明治からのキリスト教解禁後も、カトリックに「戻る」人々はあまりおらず、「カクレキリシタン」として先祖が伝えてきた行事を粛々とこなす者が大多数であった。いまやその文化も存続の危機を迎えているが、その理由としてあるのは、「信仰」の弱体化ではなく、過疎化や職務形態の変化、女性の地位向上など、社会的な要因が大きい。
こうした民俗宗教としてのカクレキリシタンの文化について詳しく記した本書は、日本におけるキリスト教というよりも、日本における土着的な信仰システムの根強さ、あるいはこういってよければ日本の宗教伝統の普遍性について考えるのに、著しく大きな示唆を与えてくれるだろう。
一部の熱烈な殉教者たちを生んだキリスト教到来の初期の頃は、確かに唯一絶対の神への信仰があったかもしれない。だが、その後の潜伏時代の信徒たちが教義を正確に理解することはできず、キリスト教に由来する儀礼や慣習は先祖伝来のありがたく(呪術的効力を有する)もないがしろにするとおそろしい(タタリをもたらす)文化へと姿を変えた。明治からのキリスト教解禁後も、カトリックに「戻る」人々はあまりおらず、「カクレキリシタン」として先祖が伝えてきた行事を粛々とこなす者が大多数であった。いまやその文化も存続の危機を迎えているが、その理由としてあるのは、「信仰」の弱体化ではなく、過疎化や職務形態の変化、女性の地位向上など、社会的な要因が大きい。
こうした民俗宗教としてのカクレキリシタンの文化について詳しく記した本書は、日本におけるキリスト教というよりも、日本における土着的な信仰システムの根強さ、あるいはこういってよければ日本の宗教伝統の普遍性について考えるのに、著しく大きな示唆を与えてくれるだろう。