エコール [DVD]
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フォーマット | ドルビー, 色, ワイドスクリーン |
コントリビュータ | マリオン・コティヤール, ゾエ・オークレール, ベランジュール・オーブルージュ, アナ・パロモ, ルシール・アザリロヴィック, オルガ・ペイタヴィ=ミュレー, エレーヌ・ドゥ・フジュロール |
言語 | フランス語 |
稼働時間 | 2 時間 1 分 |
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メーカーによる説明
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カスタマーレビュー |
5つ星のうち3.7
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価格 | — | — | ¥2,246¥2,246 |
製品仕様 | DVD | DVD | DVD |
発売日 | 2007/4/4 | 2007/4/4 | 2016/1/6 |
商品の説明
そこは完璧なユートピア。少女たちはどこから来て、どこへ行くのか?
鬼才:ギャスパー・ノエ(『カルネ』『アレックス』)のパートナーであり、数々の作品を共同で制作してきたルシール・アザリロヴィック初の長編監督作品。
19世紀の作家フランク・ヴェデキントの小説『ミネハハ』を基に、無垢な少女たちに宿る美しさとエロティシズムを女性監督ならではの繊細な映像表現で描き出した衝撃作。
オーディションで集められた個性豊かな少女たちと、日本でも人気の高いマリオン・コティヤール(『エディット・ピアフ』『ダークナイトライジング』)とエレーヌ・ドゥ・フジュロール(『ザ・ビーチ』)の存在感が本作のミステリアスな世界観をより強固なものに描き出す。
劇中に登場する印象的な純白の衣装は人気ブランド「アニエス・ベー」が担当。
【ストーリー】
高い塀で下界を遮断された森の中の学校、エコール。6歳から12歳までの少女たちが自然の生態やダンスを学んでいる。
髪には学年を区別する7色のリボン。かわいらしい制服は清楚な白。深い森と青い空を映す湖の前で、妖精のように戯れる少女たち。
男性のいない完璧な世界にまた一人、6歳の少女イリスがやってきた…。彼女たちは卒業まで外と接することなく、7年間学校の中で過ごす。
卒業のとき、彼女たちの胸に去来するのは、開放の喜びなのか、新しい世界への恐怖なのか?少女たちは一体どこへ行くのだろうか…。
2004年 ベルギー/フランス/イギリス合作
【キャスト】
エヴァ : マリオン・コティヤール(『世界でいちばん不運で幸せな私』)
エディット : エレーヌ・ドゥ・フジュロール(『青い夢の女』)
イリス : ゾエ・オークレール
ローラ : オルガ・ペイタヴィ=ミュレー
ナディア : アナ・パロモ
ビアンカ : ベランジュール・オーブルージュ
【スタッフ】
監督/脚本:ルシール・アザリロヴィック
【仕様】
カラー / 約121分 / 片面2層 / 1枚組 / (16:9 LB)シネスコサイズ
【音声】
1.5.1chサラウンド オリジナル(フランス語)
2.2.0chステレオ オリジナル(フランス語)
【字幕】
1.日本語字幕
【特典】
・映像特典7分(劇場予告編、プロモ・リール)
登録情報
- アスペクト比 : 2.35:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : フランス語
- 製品サイズ : 25 x 2.2 x 18 cm; 80 g
- EAN : 4907953067080
- 監督 : ルシール・アザリロヴィック
- メディア形式 : ドルビー, 色, ワイドスクリーン
- 時間 : 2 時間 1 分
- 発売日 : 2016/1/6
- 出演 : マリオン・コティヤール, エレーヌ・ドゥ・フジュロール, ゾエ・オークレール, オルガ・ペイタヴィ=ミュレー, アナ・パロモ
- 字幕: : 日本語
- 言語 : フランス語 (Dolby Digital 2.0 Stereo), フランス語 (Dolby Digital 5.1)
- 販売元 : Happinet(SB)(D)
- ASIN : B015DJB7RC
- 原産国 : 日本
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,439位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 15位外国のファンタジー映画
- - 61位外国のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
一言でストーリーをまとめると少女達が酷い目にあっているがそれを自覚していないって感じで全体的重く、スケベ心で視聴したら気分が滅入るかもしれません
この映画続編あってもいいかなとおもいます
数々の「謎」が出てきますが、それに対する回答は映画の中で語られていません。
冒頭からして「主人公の幼い少女が裸で眠らされて棺桶の中に入れられ、秘密の地下鉄?で森の奥の謎の施設に運ばれてくる。目が覚めた彼女に対して他の少女達は『あなたは選ばれた』と語る」というもの。
この施設も「誰が何のために作り、どうやって少女達を集めているのか?」といった謎だらけですが、答えは最後まで語られません。
こういう物語の鑑賞方法は二通りでしょう。
1)劇中の「謎」を自分なりに解釈して解こうとし、理論的に納得する。
2)謎の回答が劇中で示されないのは、本作の主題と関係ないからである。なら謎解きをしようなどと考えずに、謎以外の場面に注目すべきである。
しかしこの映画の場合は、どちらの鑑賞態度も、鑑賞者本人の「解釈力」とでもいう物が必要です。
10人が見たら10人全員が全く異なった感想を持つでしょう(そういう作りにしている映画です)。
ならば感想が賛否両論になるのも当然です。
「謎が劇中で明確にされない」物語は結構あります。スターウォーズだって エピソード4 で「クローン戦争」という単語がルークとベンの会話で出てきます。
2010年の今ならいざ知らず、最初の公開当時は「クローン戦争って何だ?」と疑問に思った人もいたでしょう。
でもエピソード4の主題はクローン戦争では無い。ルークの新たなる旅立ちを描くこと。
クローン戦争は「前にそういう戦争があったんだな」位に思って、後は忘れても構わない。
でも、エコールはほぼ全編が謎だらけと私には思えます。
他のレビューにもありましたが、このタイプの映画は鑑賞者の鏡として機能する一面があります。
見て面白いと思うかどうかは・・・あなた次第です。
謎めいた夢のように暗喩的な美しい映像で少女たちの成長を描いたフランスの映画。ここで描かれている映像は暗喩(メタファー)だと思います。ですから、冒頭、棺桶が運ばれてきますが、あれは本当に棺桶が運ばれて来たのではなく、何か別のことを象徴している、と考えて差し支えないと思います(その他の地下鉄や噴水も同様)。
フランク・ヴェデキント(1864年生-1918年没)の原作小説「 ミネハハ 」から不思議な解釈をされる方々も大勢いらっしゃるようで、イギリスでは「 ミネハハ 秘密の森の少女たち [DVD ]」という、なんだかすさまじい映画も作られたようです。いやはや、ああいう解釈をなさる方々もいらっしゃるのだなあ、と。
私自身の解釈としては、映画「エコール」は、少女たちと言う、か弱い存在に人間社会で生きて行くための強さを身につけさせる「学校」というものを、当時の時代のヴェデキント特有の視点から暗喩的な映像で描いた作品であると考えます。
学校の外の世界(大人の世界)がどうであるかと言うことについては、この際、関係ない・・・と言おうか、わからないんです。年齢と言う「壁」の中に閉じ込められた子供たちには(この映画の場合、年齢に加えて性別という「壁」もありますが)―――それはヴェデキントの時代に限った話ではなく、ほとんど全ての人間社会について言えることだと思います。
もう一つ、誤解してはならないのは、少女たちのパートナーとなる男子たちも少女たちと対等にINNOCENSEであるという点です。この点はフランス版映画「エコール」ではラストの噴水のシーンできちんとおさえてあります(少女はまっすぐに相手を見つめ返している)。
映画冒頭に大勢の少女たちが川で泳いだ後に服を着るシーンがあり、あれをもって「イヤらしい映画だ」と断じてしまう人も多いようですが、あのシーンを見て面食らうのはむしろ正常な反応で、ヴェデキントの原作小説でも主人公の少女が初めてあの川に連れられて行き、そこで見た光景に「わたしは息をのんだ」(市川実和子訳)とあります(※なお、ヴェデキントが提示していることは、ありのままの少女たちをみて面食らうのは、人間として本当に正常な反応なのだろうか、むしろ大人たちが人間社会というものを取り繕うために規定した不自然な反応ではないか、ということになると思うのですが)。
原作小説「ミネハハ」(翻訳:市川実和子)を私も読んでみました。やはり謎めいた夢のように暗喩的な美しい文章表現により少女たちの成長を描いたものになっていて、現実には一体何がどうなっているのかわかりにくいのですが、映画「エコール」よりはヒントとなる要素が多々あるように思いました。そこに、こんな文章を見つけました。
“彼女は私の近著『春の目ざめ』について口にし、自身の手記との共通性から、その題材にとても関心を持ったと言った。”(市川実和子訳)
このミネハハと言う作品は、ある女性の手記であるとしてヴェデキントは書いています(その女性がヴェデキントによる虚構の存在か、実在した人物かは、私は浅学にして存じません)。彼女が、ヴェデキントの書いた戯曲「春の目ざめ」の題材に自身の手記との共通性を認め関心を持った、ということは、ヴェデキントの書いた戯曲「春の目ざめ」に映画「エコール」に関するヒントがあるのではないかと、近所の図書館で「世界戯曲全集 第16巻 ウェデキント シュテルンハイム集」(1930年(昭和5年)印刷・発行)を借りて来て「春のめざめ」を読んで見ました。
「春のめざめ」という作品の内容は、ヴェデキントの時代の当時のドイツの性教育がどうであったか私は知りませんが、大人の性の営みと言うのは、実はこうなんだよ、ああなんだよ、と子供たちが大人たちに内緒でごちゃごちゃと色々やらかしまして、子供たちの一人が描いた「こうなんだよ」という内容を示した図解が、大人たちの手に渡ってしまい、これが大人たち・・・というと、主に学校のエラい先生方ですが・・にとって大問題になり、その図解を描いた子供は道徳的に腐敗しておりけしからんと言うことで、放校処分になります。その子をかばう母親の台詞に、こんな文章があるんですね。
“一体あの子はどんなことを書いたと言ふのですか。そんなことを書けると言ふのは、何の下心もない無邪気さの明らかな証拠ぢゃありませんか。あの子の無感覚な子供らしい頑是なさの明らかな証拠ぢゃありませんか―――この場合に道徳的腐敗を嗅ぎ出す人なんぞは、人間と言ふものをこれんばかりも知らぬ人に相違ありません―――すつかり人間味を無くしたお役人か、でなければ、ほんとに気の小さな人間に相違ありませんよ。”(世界戯曲全集 第16巻 ウェデキント シュテルンハイム集(一部旧漢字を現代常用漢字に変更))
はい。出ましたね。この映画の題名にもなっている「無邪気さ」(INNOCENSE)という言葉。
この母親の台詞を借りて、私もこの映画についてこう書きましょう。
“一体あの映画監督がどんなことを描いたと言ふのですか。そんなことを描けると言ふのは、何の下心もない無邪気さの明らかな証拠ぢゃありませんか。あの映画監督の無感覚な子供らしい頑是なさの明らかな証拠ぢゃありませんか―――この場合に道徳的腐敗を嗅ぎ出す人なんぞは、人間と言ふものをこれんばかりも知らぬ人に相違ありません―――すつかり人間味を無くしたお役人か、でなければ、ほんとに気の小さな人間に相違ありませんよ。”
敢えて無邪気で美しい映像(原作小説の場合は文章)を見せ、それを不道徳だと言って騒ぐ人たちの存在を、この映画製作者も、そしてもちろん原作者のヴェデキントも、狙っていたと思うのです(「イヤらしい」と言ってけなしているのは圧倒的に男性が多く、女性からはそういう批判の声が少ないのもこの映画の特色です)。ヴェデキントが「“Mine-Haha”は、褐色の民の言葉で『笑う水』という意味である」(市川実和子訳)と書いていますが、「笑う水」の意味するところは、もしかしたらそう言った無邪気で美しいもののことかも知れない、と私は思います。
最後に、原作小説「ミネハハ」(市川実和子訳)の一節をここに引用します。
“社会が教育を通じ、わたしたちの内に潜む衝動を引き止めているのだとしたら、それは間違っていないのかもしれない。そうでなければ生を授かった者すべてが抱く、脆くて繊細な感情のために、もしかしたら、私は罪を犯していたのかもしれない。
しかし、年を重ね、落ち着いて物ごとを見つめられるようになるほど、世の中で起こっていることよりも、真実は野蛮ではない方へと進んでいるのではないかという思いが強くなる。わたしはここでよりよい社会を提案したいのではない―――わたしのわずかな理解力では、ほとんど事足らず、そしてそれが何の助けになるというのだろう。けれど今も、物事は世代から世代へと変わることなく推移していく。自分自身の人生について、ろくに考えようともしない人々からの罵りと嘲りを、受け入れる覚悟はできている。彼らは、他の女性達とまったくちがう運命を辿ったこの人生を理由にして、理性ある返答をさせないように年老いた私を狂人と呼び、病院へと送り込むかもしれない。
この社会が女性に強いる規範のもと、自身の人生を振り返った上で、わたしが休むことなく続けている闘いについて読者に理解してもらうのはきっと難しいだろう。けれど私が卓越した世界観を持てるようになったのは、信じられないような人生の事情を経験したからこそであり、そして、その世界観から見ると、わたしには人間の文化が疑わしいものに思えてくるのだ。“
臭いものに蓋をしたり、綺麗事を扱った作品ではないので、そういうものしか見たくない人にとっては気分が悪いでしょうし、嫌な顔をすると思います。
ただ、どんなに顔をそむけても、「そういう事実、世界はある、風潮はある」ということを強烈に目の前に提示されます。
解釈としても、「事実」を扱ったのか、世の中の風潮に対する「風刺」なのか、という見方によっても変わってくると思います。
「人身売買」「性搾取」「児童性愛」「女性蔑視」…それらが美しい描写のなかにちりばめられていて、そこはかとなくおどろおどろしくて、恐ろしくて、やるせなくて、初めて深夜番組に見た時にはぞっと体中の毛が逆立つような気がしました。
ですが、どうしてかいつまでも忘れられなく、心に残って、それこそ琴線とか、心の湖に一石を投じられたような忘れられない作品だったので何回も繰り返し見たくて購入しました。
何度見返しても、その度に色々な発見があります。
それは全て恐ろしく、悲しく、やるせなく、じっと息をひそめるようなそんな発見です。
自分が売られた事実、何のためにここにいるのか、これからどういう世界が待ち受けているのか、世の中とはどういうものなのか、それを知った登場人物の心の機微が、見るたびに違う感情を思いやられ、ハッとします。
それからそういう教育を受けて繊細な時期を過ごしたということが、どこか悲観しか予感させません。
それを大人だから強く感じる、けれど登場人物の子供も、子供ながらに、子供だからこそ純粋に強烈に感じているかもしれないと怖気立つ。
純粋で美しい少女たちの短い幸せな時期を切り取っただけのような風景が、だからこそ余計に美しく悲しく恐ろしく感じるのかもしれません。
そして同時にハッとするのは、それを風刺としてとらえた場合です。
どこか遠くの国の遠くの時代の出来事、と思いたがる気持ちを、強制的に現在、現実、我が身に置き換えさせるのです。
可愛く、美しく、男性には媚び、立て、楽しませる女性らしい存在であれ、とは、どんなに綺麗事を並べ立ててもいつだってどこにだって存在していました。
ファッション、恋愛、職場、結婚…それらの情報にはどこかしら含まれています。
また、学がなく、スキルがなく、資格や年齢のボーダーにより、どんな国もどんな世も時代も、女性は「性的搾取」の職に就く道しか残されていない場合が多くあります。
そういう所まで連想してしまう部分がありました。
そんな作品なので、ポルノと取る人にはそう見えるでしょうし、それ目的の人には汚されたくないような作品だと思います。
ただ、件の「ポルノ」なシーンを、私は主人公が、今まで生きてきた、教えられてきた様々の持つ意味を知った動揺と興味、確かめ…からの、不快や絶望などへ続く次の布石としては無くてはならないものだと思いましたし、心を抉られるような重要なシーンだと思いました。
また、それとは別に、現在の里親制度や児童養護施設のシステムも髣髴とさせてシン…となる作品でもあります。18歳を境に、何の寄る辺もなく社会に放たれてしまう現状があるからです。
綺麗事は言いません。
それは連綿と、この先も続く事実でしかあり得ません。いつかは「知る」事実を丁寧に扱った作品です。
だからこそずっと心に残って忘れられない、大事な作品になりました。
また、この作品は色々な方のレビューや感想を沢山見ることをお勧めします。
個人個人の受け取り方がそれぞれある上に、見るたびに違う発見があるので、作品を観た後にこそ、自分とは違う感想や発見を気付きたいから、またその見方を知ったうえで、観返したいからです。
また、蛇足ではありますが、この作品に描かれていない「家族」の存在や、「未来」のこと、思いやれば思いやるだけ、想像すれば想像するだけ、色々な感情が枚挙するいとまがありません。
観客を楽しませる存在である少女たちは、けれども芸や美と引き換えに生かされ、偏ってはいても学校教育を受け、そして庇護されている。それをきっと家族は望んだからこそ「売られた」のだろう、それは最善の選択肢であり愛情であったのだろうと思う瞬間、ある意味、遊郭の禿を髣髴とさせられましたし、美しいビヨンカを慕うイリスの容姿を思いやるにつけ、この子は後々ここを出た時にどうなるのだろう、などと「美」への価値を否応なく自覚させられる世界だけに何とも言いようがありません。
とにもかくにも、物凄く「考えさせられる」作品であることは間違いがありませんし、女性にこそ一度見てほしい、何かを感じ、考えさせられてほしい、と思える作品です。