データサイエンティストの矢野和男氏の愛読書が易経というのを読んで易経に興味を持ちました。
が、言葉は聞いたことがあっても実態はさっぱり判らない。
おそらくこの世の事象をパターン化したものであろうと予想していくつかの入門書を紐解きましたが、
なんだか昔の中国人がどうのとか、吉凶がどうのとか占いよりの内容のものが多く今一つぴんと来ないものばかりでした。
-ある状況下の六人の主要人物の特性(爻)がそれぞれ陰か陽かを検討し
その六つの組み合わせ(卦)によって状況の特性を判断する仕組み
-象徴的な表現で思想を包括的に表し
六十四の卦であらゆる事象をカバーできるようにした。
本書でこの説明に出会って、もう超すっきりしました。
予想通りの内容。そしてその仕組みまではっきり。
卦によって状況をモデル化し、各人物(爻)それぞれの取るべき行動が示されているのが易経。
その仕組みが判っただけでも読んだ価値がありましたが、本書はさらに美味しい。
なんとソポクレスが書いた七篇のギリシャ悲劇を易経にあて嵌めて、同様の結果となるかを検証するのです。
ビッグデータもスーパーコンピューターもない時代、東洋と西洋の賢人たちがコンピューターとはまるで違う発想で生み出したマクロ行動心理学。
新たな視点を手に入れられる本です。

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孔子がギリシア悲劇を読んだら 易経入門 (文春新書 820) 新書 – 2011/8/19
氷見野 良三
(著)
易によってギリシア悲劇を読み解くことは可能なのか。東西二大古典との対話を通じて、知らぬ間に易経の世界に親しめる最良の入門書
- 本の長さ239ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2011/8/19
- ISBN-104166608207
- ISBN-13978-4166608201
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登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2011/8/19)
- 発売日 : 2011/8/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 239ページ
- ISBN-10 : 4166608207
- ISBN-13 : 978-4166608201
- Amazon 売れ筋ランキング: - 301,303位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 601位文春新書
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年8月22日に日本でレビュー済み
易は儒学において森羅万象の解釈に最も用いられながら、極めて難解である。
本書を読んで、ソポクレス作品の登場人物の運命との符号への著者の驚きを追体験することにより、初めて易の一端が理解できたように思う。
全く符合しない最後の『エレクトラ』の賢者との対話に見る王女の崇高さ、そこから巻末の孔子とソポクレスの対比列伝への展開も見事。
因みに、独文学者にして作家の古井由吉氏の『漱石の漢詩を読む』(2008年 岩波書店)125、126頁に次の記述がある。
「『易経』とは、陰と陽という二つの要素の組み合わせから、天地人のことわりを説き、それから人の出処進退を教える、あるいは戒める、そういうものです。占いというと、何かしら迷信がかって聞こえますけれど、これは実に見事なといってよい自然哲学、その実践篇です。たしかに東洋の知恵に違いありません。
陰陽とは、陽が良くて陰が悪いとは限りません。陽は積極、陰は消極と考えておけばよいと思います。陽も危ない面をはらみますし、陰にも慎めば先行き望みがあるという含みのあることです。陰陽、二つの要素からもろもろのことを解き明かすというのは、いってみればコンピュータに似ています。コンピュータも二進法です。しかし、コンピュータの方は多分に、経緯、経過といったものを記すのは苦しい。これまでと今とを表すことはできても、これからを表すのはなかなか難しい。
『易経』では、良いが悪いに、悪いが良いに転じることもあるという事実を明確に示します。むしろ、現在よりも未来を判断しようとする哲学です。(後略)」
学東西を兼ねる人物は同じ印象を持つのだろうか。ヤスパースの言うAchsenzeitの明証なのだろうか。
本書を読んで、ソポクレス作品の登場人物の運命との符号への著者の驚きを追体験することにより、初めて易の一端が理解できたように思う。
全く符合しない最後の『エレクトラ』の賢者との対話に見る王女の崇高さ、そこから巻末の孔子とソポクレスの対比列伝への展開も見事。
因みに、独文学者にして作家の古井由吉氏の『漱石の漢詩を読む』(2008年 岩波書店)125、126頁に次の記述がある。
「『易経』とは、陰と陽という二つの要素の組み合わせから、天地人のことわりを説き、それから人の出処進退を教える、あるいは戒める、そういうものです。占いというと、何かしら迷信がかって聞こえますけれど、これは実に見事なといってよい自然哲学、その実践篇です。たしかに東洋の知恵に違いありません。
陰陽とは、陽が良くて陰が悪いとは限りません。陽は積極、陰は消極と考えておけばよいと思います。陽も危ない面をはらみますし、陰にも慎めば先行き望みがあるという含みのあることです。陰陽、二つの要素からもろもろのことを解き明かすというのは、いってみればコンピュータに似ています。コンピュータも二進法です。しかし、コンピュータの方は多分に、経緯、経過といったものを記すのは苦しい。これまでと今とを表すことはできても、これからを表すのはなかなか難しい。
『易経』では、良いが悪いに、悪いが良いに転じることもあるという事実を明確に示します。むしろ、現在よりも未来を判断しようとする哲学です。(後略)」
学東西を兼ねる人物は同じ印象を持つのだろうか。ヤスパースの言うAchsenzeitの明証なのだろうか。
2013年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
マネックス社長 松本大さんのつぶやき を拝見し購入しましたが…
知人という点を考慮されたのではないでしょうか?
知人という点を考慮されたのではないでしょうか?
2016年1月17日に日本でレビュー済み
【内容(ネタバレ禁止!)】
易経ファンのエリート官僚がギリシア悲劇になぞらえてその学びを語る
【ささった言葉】
・易経は無限に多様な現実を一旦抽象的な陰と陽の関係に整理し、その抽象的な関係に共通な特性を象徴的に表現することにより、再び無限に多様な現実への適用を可能にする。
・「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば即ち聖人の意はそれ見るべからざるか。聖人、象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くす」孔子『易経』
・「ギリシア悲劇は、人間がどんなに努力しようとも自分の運命をほんの少しも変えることができないという恐ろしい真実を、『神の意志』という形で私達に示します。そしてそれと同時に、まったく自分の責任ではないのに、思いもかけない不幸せな運命に襲われたとき、偉大な人間はそれに対してそのような態度をもって臨むかを、単純明瞭な形で描きます。オイディプスは自分の運命を変えることこそできませんでしたが、しかし運命を誤魔化してすり抜けようとはしませんでした。人間は運命に絶対的に支配されているにもかかわらず、人間としての誇りと行動の自由を守り通すことができるのです」新田義之
・具体的な状況に当てはめて使ってみると、予想もしなかったような仕方で生きてくる。使ってみてこそ分かるのが、易という経典の性質であろうか。
【感想と教訓】
易経をギリシャ悲劇に当てはめたらどうなるか?
見事な試みだ。実際、オイディプス王の物語など、ピタリとハマるものがあり、驚いた。
やはり易経は使ってナンボ、現実に当てはめどう解釈し、何を学び、どんな心構えで次に臨むかだ。それも自分自身で。
その点、悲惨な宿命の中にあっても誇り高く、立派な決断を見せるギリシャ悲劇の主人公たちの姿勢には、驚きとともに、学ぶべきものが限りない。どちらも読みたくなった。
易経ファンのエリート官僚がギリシア悲劇になぞらえてその学びを語る
【ささった言葉】
・易経は無限に多様な現実を一旦抽象的な陰と陽の関係に整理し、その抽象的な関係に共通な特性を象徴的に表現することにより、再び無限に多様な現実への適用を可能にする。
・「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば即ち聖人の意はそれ見るべからざるか。聖人、象を立てて以て意を尽くし、卦を設けて以て情偽を尽くす」孔子『易経』
・「ギリシア悲劇は、人間がどんなに努力しようとも自分の運命をほんの少しも変えることができないという恐ろしい真実を、『神の意志』という形で私達に示します。そしてそれと同時に、まったく自分の責任ではないのに、思いもかけない不幸せな運命に襲われたとき、偉大な人間はそれに対してそのような態度をもって臨むかを、単純明瞭な形で描きます。オイディプスは自分の運命を変えることこそできませんでしたが、しかし運命を誤魔化してすり抜けようとはしませんでした。人間は運命に絶対的に支配されているにもかかわらず、人間としての誇りと行動の自由を守り通すことができるのです」新田義之
・具体的な状況に当てはめて使ってみると、予想もしなかったような仕方で生きてくる。使ってみてこそ分かるのが、易という経典の性質であろうか。
【感想と教訓】
易経をギリシャ悲劇に当てはめたらどうなるか?
見事な試みだ。実際、オイディプス王の物語など、ピタリとハマるものがあり、驚いた。
やはり易経は使ってナンボ、現実に当てはめどう解釈し、何を学び、どんな心構えで次に臨むかだ。それも自分自身で。
その点、悲惨な宿命の中にあっても誇り高く、立派な決断を見せるギリシャ悲劇の主人公たちの姿勢には、驚きとともに、学ぶべきものが限りない。どちらも読みたくなった。
2012年6月7日に日本でレビュー済み
この本の特徴は、易の卦をギリシャ悲劇に喩えるという発想のよさに尽きるのではないかと思います.
そのことにより、易の意図するところはとても腑に落ちた気がします.
ただ、惜しむらくは、易の文言は相変わらずとっつきにくいのにくらべ、
それに喩えらられるギリシャ悲劇はそれゆえかとても輪郭が際立ち迫力さえ感じます.
なので、ギリシャ悲劇を通じて易経を解説というよりは、ギリシャ悲劇を易経で読み解くといったほうが正しく、
題材はシェイクスピア悲劇でも全然面白のではないかという気を抱かせるのが弱点といえば弱点でしょうか.
ともあれ、易に喩えられるギリシア悲劇は迫真の実感をもって読めるので、
手軽にドラマちっくな陶酔を求める向きにお薦めです.
そのことにより、易の意図するところはとても腑に落ちた気がします.
ただ、惜しむらくは、易の文言は相変わらずとっつきにくいのにくらべ、
それに喩えらられるギリシャ悲劇はそれゆえかとても輪郭が際立ち迫力さえ感じます.
なので、ギリシャ悲劇を通じて易経を解説というよりは、ギリシャ悲劇を易経で読み解くといったほうが正しく、
題材はシェイクスピア悲劇でも全然面白のではないかという気を抱かせるのが弱点といえば弱点でしょうか.
ともあれ、易に喩えられるギリシア悲劇は迫真の実感をもって読めるので、
手軽にドラマちっくな陶酔を求める向きにお薦めです.
2012年6月23日に日本でレビュー済み
官僚である著者が公務の合間に二年間をかけて公田蓮太郎「易経
講話を読み、ギリシャ神話とからめて書いた物語。
題名からうかがえるとおり、易経、特にその伝「十翼」が孔子の
著であるという伝説を前提としている。ところが、これは伝説であ
り、現在では否定されている。
ところが、本書では孔子が十翼を書いたというが紹介され、それ
を前提に論述される。これが孔子に単に伝説的に結びつけられてい
るだけにすぎないことは一切述べられない。
「はじめに」の中にはこういう一節がある。
「伏義から二千年を経て、今から三千年ほど前、周の文王とその
子周公旦が六十四通りの卦のそれぞれの意味を説明した経文を作った。
それから更に五百年を経て、今から二千五百年ほど前には、孔子が
経文の注釈である十篇の文書「十翼」を書いた。二千五百年の間に
出現した聖人中の大聖人四人の思索が、こうして時を隔てて呼応し
合い、結晶したのが、現在伝わる『易経』である、という。」
強いて言えば、最後の「という」の三文字がその点をほのめかして
いるといえば、(かなり無理があるが)いえなくはない。
しかしこの書は「易経入門」である。いくらなんでも、こういう
事実を語らないで良いものか?勘違いして購入する者がいるだろう。
「易経の冒険」だとか「易経物語」とでもしていれば良かったと思
う。
この著者の試み自体は壮挙といってもよい。易経に独特の肉付け
をして理解させる試みだ。ただし、読むのはかなり苦痛を伴う。
この新書を手に取るほとんどの人が、易経とギリシャ悲劇の双方が
はじめてだろう。ギリシャ悲劇を知っているならまだ良いが。
講話を読み、ギリシャ神話とからめて書いた物語。
題名からうかがえるとおり、易経、特にその伝「十翼」が孔子の
著であるという伝説を前提としている。ところが、これは伝説であ
り、現在では否定されている。
ところが、本書では孔子が十翼を書いたというが紹介され、それ
を前提に論述される。これが孔子に単に伝説的に結びつけられてい
るだけにすぎないことは一切述べられない。
「はじめに」の中にはこういう一節がある。
「伏義から二千年を経て、今から三千年ほど前、周の文王とその
子周公旦が六十四通りの卦のそれぞれの意味を説明した経文を作った。
それから更に五百年を経て、今から二千五百年ほど前には、孔子が
経文の注釈である十篇の文書「十翼」を書いた。二千五百年の間に
出現した聖人中の大聖人四人の思索が、こうして時を隔てて呼応し
合い、結晶したのが、現在伝わる『易経』である、という。」
強いて言えば、最後の「という」の三文字がその点をほのめかして
いるといえば、(かなり無理があるが)いえなくはない。
しかしこの書は「易経入門」である。いくらなんでも、こういう
事実を語らないで良いものか?勘違いして購入する者がいるだろう。
「易経の冒険」だとか「易経物語」とでもしていれば良かったと思
う。
この著者の試み自体は壮挙といってもよい。易経に独特の肉付け
をして理解させる試みだ。ただし、読むのはかなり苦痛を伴う。
この新書を手に取るほとんどの人が、易経とギリシャ悲劇の双方が
はじめてだろう。ギリシャ悲劇を知っているならまだ良いが。