〇 この作品のほんとうの主人公は「解離性同一性障害」(俗にいう多重人格症)という病気だ。あきらかに作者は、この病気の原因、症状、治療法を読者にわかってもらいたいと考えて書いている。登場人物(患者である若い女性、その家族、治療にあたる医師たち)や状況設定(ハワイ旅行、女性の過去)も、どうすればこの病気の特徴がいちばんよく浮かび上がるかという観点から選ばれているように見える。
〇 著者の意図はとても成功している。読み進むにつれて、この驚くべき病気とひとりの人間がもつ人格というものについて理解が深まって行く。それでは文学作品としての魅力に欠けるのかというと、そんなことはない。おそらくは読者の注意をそらすことのないようにという配慮なのだろう、凝った文体、微妙な伏線、思いがけない比喩などの文学的表現はほとんど見られない。そのかわり、テンポの良いストーリー展開と多彩な心理描写がぐいぐいと読者を惹き付ける。物語に惹き込まれてページを繰っているうちにあれよあれよと一冊が終わった。
〇 もうひとつの行き方として、多重人格症をそれとわからなくなるくらいうんと背景に引っ込めて、人間関係のもつれや苦悩に焦点を当てた小説に仕上げる途もあったはずである。その方が文学作品としては評価されたかもしれない。作者はそんなこともわかったうえでこの作品の行き方を採ったのであろう。どうしても多重人格症を書きたかったのだ。
〇 特記しておきたいのは作者の誠実さだ。わたしは素人だからもちろん断言はできないのだが、作者はよく勉強していて、興味本位でこの病気の姿をゆがめたりはしていないと感じた。この作者には他にもそういう作品を書いている。認知症高齢者の介護を扱った『龍の棲む家』や、臨死体験に関する『アミターバ』た。これらも面白くてためになる作品だった。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
阿修羅 (講談社文庫) 文庫 – 2012/12/14
玄侑 宗久
(著)
妻は三つの「わたし」を生きていた。
交叉する三つの人格に対峙する、夫と医師。
それぞれの「わたし」という物語はいかに紡がれ、いかに統合されていくのか?
幾つもの人格が解離し、しかも同居する精神―日本でも増えつつある「解離性同一性障害」という心の病いをテーマに挑んだ、僧侶にして芥川賞作家の最高傑作小説。
記憶と意識、情念と無意識の狭間を行き交う人間の心の不思議に、文学は救いの手を差し伸べられるのか?
「この病気の方に実際にお会いした印象は今でも忘れられない。そして、知れば知るほど、あまりに文学的な病いであることに驚嘆した。無意識に『わたし』の都合でまとめられる人格と、そこからはみだし解離していく『わたし』たちの物語を、私は何年かかっても書きたいと思った。現代は解離の時代である」 ―玄侑宗久
「阿修羅像を多重人格として読み替える美しくも大胆な試み。小説家の想像力がまたひとつ『解離』の扉を開けた」 ―斎藤環(精神科医)
交叉する三つの人格に対峙する、夫と医師。
それぞれの「わたし」という物語はいかに紡がれ、いかに統合されていくのか?
幾つもの人格が解離し、しかも同居する精神―日本でも増えつつある「解離性同一性障害」という心の病いをテーマに挑んだ、僧侶にして芥川賞作家の最高傑作小説。
記憶と意識、情念と無意識の狭間を行き交う人間の心の不思議に、文学は救いの手を差し伸べられるのか?
「この病気の方に実際にお会いした印象は今でも忘れられない。そして、知れば知るほど、あまりに文学的な病いであることに驚嘆した。無意識に『わたし』の都合でまとめられる人格と、そこからはみだし解離していく『わたし』たちの物語を、私は何年かかっても書きたいと思った。現代は解離の時代である」 ―玄侑宗久
「阿修羅像を多重人格として読み替える美しくも大胆な試み。小説家の想像力がまたひとつ『解離』の扉を開けた」 ―斎藤環(精神科医)
- 本の長さ352ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2012/12/14
- ISBN-104062774151
- ISBN-13978-4062774154
この著者の人気タイトル
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
玄侑 宗久
(げんゆう・そうきゅう)1956年(昭和31年)、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。京都天龍寺専門道場に入門。現在、三春町・臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。以来、小説、エッセイ、対談集など旺盛な著述活動を行っている。おもな著書に、小説では『リーラ神の庭の遊戯』、『龍の棲む家』、『テルちゃん』など、仏教や禅にまつわる著作に『禅的生活』、『死んだらどうなるの』、『慈悲をめぐる心象スケッチ』、『現代語訳般若心経』など、また『あの世この世』(瀬戸内寂聴と共著)、『脳と魂』(養老孟司と共著)など対談集も多い。京都花園大学国際禅学科客員教授。
(げんゆう・そうきゅう)1956年(昭和31年)、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。京都天龍寺専門道場に入門。現在、三春町・臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。以来、小説、エッセイ、対談集など旺盛な著述活動を行っている。おもな著書に、小説では『リーラ神の庭の遊戯』、『龍の棲む家』、『テルちゃん』など、仏教や禅にまつわる著作に『禅的生活』、『死んだらどうなるの』、『慈悲をめぐる心象スケッチ』、『現代語訳般若心経』など、また『あの世この世』(瀬戸内寂聴と共著)、『脳と魂』(養老孟司と共著)など対談集も多い。京都花園大学国際禅学科客員教授。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2012/12/14)
- 発売日 : 2012/12/14
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 352ページ
- ISBN-10 : 4062774151
- ISBN-13 : 978-4062774154
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,143,220位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 14,005位講談社文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

1956(昭和31)年、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 龍の棲む家 (ISBN-13:978-4167692056 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年10月27日に日本でレビュー済み
解離性同一性障害。何らかの衝撃的な要因があって出てくることもあるし、特に思い当たるような要因がなくても出てくる場合もあると聞くこの症例は、昔から私を惹きつけてやまない。解離性同一性障害についてのいろいろな専門書を読む度にいつも思うのは、それぞれの人格が果たして統合を望んでいるのか?ということだ。もちろん、その同意がなければ治療にも来ないわけだが…。また、統合だけが治療の終結目標なのかという点については、統合だけが目的ではなく、記憶の共有という形で決着をつける場合もあるのだと言う。また、無理に統合してしまった場合、元の人格がすべての現実を受けとめきれずに精神的に破綻しかねないという懸念もあるらしい。
この物語では、患者であるどちらかといえば大人しく従順な実佐子、奔放な友美という2つの人格が最初に登場する。こういった物語を読むときにいつも私が思うのは、「奔放な人格というのはなんと魅力的なのか」ということだ。本人が出すことのできない何らかの抑圧された部分が別な人格として現れる。それは現実社会と折り合いをつけるにはあまりにも危険な人格なのだが、しかし心惹かれてしまう。おそらく自分の中にも、社会規範の縛りから解放されて奔放に生きてみたいと思う部分があるからなのだろう。
さらに現れる第三の人格。とてもバランスの良いその人格は、大体の状況を把握していて、3つの人格の中ではもっとも社会に適応しやすく、また生きやすい人格の持ち主という気がする。
そして、この物語の結末。この結末は私には新しいものだった。予想外だったと言うべきだろうか。この先どうなるのかは読者の想像に任される。そんな余韻を残した決着となった。
物語のもう一つの軸は治療者である精神科医の杉本。彼にもまた、心の中に亡き妻との過去の記憶と葛藤がある。別なレビュアーの方も書かれていたが、最後の方の杉本のエピソードは、解離という現象が(同一性障害にまで至らなくても)それほど特別なものではなく、誰にでも日常生活の中でごく普通に意識できないまま起きている現象なのではないか、ということを読んでいる側に突きつけてきた。
この物語で少し気になったのは、杉本の娘の沙也佳の扱い。臨床心理士志望で大学で学ぶその娘を、自分が診ている解離性同一性障害の患者にいきなり関わらせるとは、甘やかしと非常識にも程があると感じてしまう。難しい症例であればあるほど、父親の杉本には、身内の甘やかしの感情で「まあ、いいか」と娘を関わらせるのではなく、ここは入り込んでくるな、と厳しく線引きして欲しかった。
この物語では、患者であるどちらかといえば大人しく従順な実佐子、奔放な友美という2つの人格が最初に登場する。こういった物語を読むときにいつも私が思うのは、「奔放な人格というのはなんと魅力的なのか」ということだ。本人が出すことのできない何らかの抑圧された部分が別な人格として現れる。それは現実社会と折り合いをつけるにはあまりにも危険な人格なのだが、しかし心惹かれてしまう。おそらく自分の中にも、社会規範の縛りから解放されて奔放に生きてみたいと思う部分があるからなのだろう。
さらに現れる第三の人格。とてもバランスの良いその人格は、大体の状況を把握していて、3つの人格の中ではもっとも社会に適応しやすく、また生きやすい人格の持ち主という気がする。
そして、この物語の結末。この結末は私には新しいものだった。予想外だったと言うべきだろうか。この先どうなるのかは読者の想像に任される。そんな余韻を残した決着となった。
物語のもう一つの軸は治療者である精神科医の杉本。彼にもまた、心の中に亡き妻との過去の記憶と葛藤がある。別なレビュアーの方も書かれていたが、最後の方の杉本のエピソードは、解離という現象が(同一性障害にまで至らなくても)それほど特別なものではなく、誰にでも日常生活の中でごく普通に意識できないまま起きている現象なのではないか、ということを読んでいる側に突きつけてきた。
この物語で少し気になったのは、杉本の娘の沙也佳の扱い。臨床心理士志望で大学で学ぶその娘を、自分が診ている解離性同一性障害の患者にいきなり関わらせるとは、甘やかしと非常識にも程があると感じてしまう。難しい症例であればあるほど、父親の杉本には、身内の甘やかしの感情で「まあ、いいか」と娘を関わらせるのではなく、ここは入り込んでくるな、と厳しく線引きして欲しかった。
2012年10月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何年か前に阿修羅展に行って、そのオーラに感動を憶え、俄仕込みの阿修羅ファンだったのはいつだったか・・・
それから月日が経ち、小説「阿修羅」の広告を多分、新聞かなにかで知り。
阿修羅のタイトルに惹かれ・・・
多重人格を核に、とは読んで思いました。
昔、24人のビリーミリガン、アメリカの実話の多重人格の話をよみました。
改めてこの多重人格の設定に驚く事はなかったです。しかし、小説=虚構、としてみても、私には、今ひとつでした。
阿修羅というタイトルでどこか莫大な個人的期待をしていたのか?エンターテイメントとしても題名先行で内容的にはどうもイマイチ、、、と言うのが私の読書感想です。
最近、「カラマーゾフの妹」と言う作品が出版され、そちらにも多重人格が多面的核として小説に出ますが、、、そちらの多重人格のストーリーの方が怖かったかな???もちろん、両者の作品を安易に比較はできませんが・・・
それから月日が経ち、小説「阿修羅」の広告を多分、新聞かなにかで知り。
阿修羅のタイトルに惹かれ・・・
多重人格を核に、とは読んで思いました。
昔、24人のビリーミリガン、アメリカの実話の多重人格の話をよみました。
改めてこの多重人格の設定に驚く事はなかったです。しかし、小説=虚構、としてみても、私には、今ひとつでした。
阿修羅というタイトルでどこか莫大な個人的期待をしていたのか?エンターテイメントとしても題名先行で内容的にはどうもイマイチ、、、と言うのが私の読書感想です。
最近、「カラマーゾフの妹」と言う作品が出版され、そちらにも多重人格が多面的核として小説に出ますが、、、そちらの多重人格のストーリーの方が怖かったかな???もちろん、両者の作品を安易に比較はできませんが・・・
2009年12月2日に日本でレビュー済み
科学は進歩しても、情緒は進歩しないんだよね、なんでかなー、なんていう日は小説を読みたくなる。
嫁が多重人格=解離性同一性障害になり、うろたえる夫。読者の僕。
精神科医と坊主。
やはり、この作者、玄侑宗久さんの話だけあって、仏教の話はかかせません。
魂にメスはいらないなんて、言葉もありますが、大昔、自分もしくは他人の中に”阿修羅”を見た人は、ノミを使って阿修羅像を彫り上げました。
普通、人は(錯覚を使って)なのか、上手に自我を統一させています。統一してますよね?
でも中には、自我を分裂させたり、自我が複数あったりするわけです。
どうして?と考えがちですが、どうする?と考えた方が健康的(!?)だと思います。←というのは、読後感です。
でも、どうして?と考えて納得のいく答えを足場にし、どうする?と、構築するのが人間ですが。
阿修羅像を実際見た人ならわかるとおり、あの像を見て、険しい気持ちになる人はいません。
この小説にもそれと似て、劇的な展開はないのだけれど、あぁこれでいいんだ的な気持ちになれると思います。
以下余談というか、読みながら考えて、まだまとまらない断片です。示唆を受け浮かび上がってきたので、書いておいてもいいかなと思いました。
解離性同一性障害とか性同一性障害とかに”障害”ってつけるじゃないですか。
治療の必要がある”病気”という意味だろうけど、それってほんと病気なのって気がします。
それは、この障害という単語に、”異常”という意味を嗅いでいるからだと思うけど。
ただ、この小説のように、いままで築いてきた関係が壊れるような、つまりは連続性を壊すたぐいのアウトプットだと、周りはとても悲しい気持ちになりますよ。
要はコミュニケーションと社会性を営むためには、ある程度の連続性が必要で、−あまりに連続しすぎるのはそれはそれで困るのだけれど−、ここで言うある程度は、テクニック的な解決の仕方があるような気がしています。テクニックといってもその技術は、外国語を覚える程度には、難しいと思うのだけれど。
あと、この小説の中の坊さんも”自分らしさはいらない”旨、言っていましたが、自我というか自分らしさというかは、他人の中にいる私によって、担保されています。
「親友がわかっていてくれれば、それでいいんだ」的な。あぁ、これは、RCの『きみがぼくをしってる』だ。
で、その関係は、大切というかそれしかないだろうと考えているのですが、たとえば”依存”という言葉によって、その大切な部分まで壊されてしまう。悪だとされてしまう。
人間は観念の動物でもあり、「おそろしかった野生動物に、ライオンと名をつけたら、その動物の征服に成功した」と、たしか安部公房。
言葉という光でレッテルを貼り、観念の安心を得たはずなのに、その光が新しい陰を産んでしまった感があり。
飯喰ってくそして寝て、人と話す。ただ、これだけのことに人は何故、苦しむのだろう。
それは……
嫁が多重人格=解離性同一性障害になり、うろたえる夫。読者の僕。
精神科医と坊主。
やはり、この作者、玄侑宗久さんの話だけあって、仏教の話はかかせません。
魂にメスはいらないなんて、言葉もありますが、大昔、自分もしくは他人の中に”阿修羅”を見た人は、ノミを使って阿修羅像を彫り上げました。
普通、人は(錯覚を使って)なのか、上手に自我を統一させています。統一してますよね?
でも中には、自我を分裂させたり、自我が複数あったりするわけです。
どうして?と考えがちですが、どうする?と考えた方が健康的(!?)だと思います。←というのは、読後感です。
でも、どうして?と考えて納得のいく答えを足場にし、どうする?と、構築するのが人間ですが。
阿修羅像を実際見た人ならわかるとおり、あの像を見て、険しい気持ちになる人はいません。
この小説にもそれと似て、劇的な展開はないのだけれど、あぁこれでいいんだ的な気持ちになれると思います。
以下余談というか、読みながら考えて、まだまとまらない断片です。示唆を受け浮かび上がってきたので、書いておいてもいいかなと思いました。
解離性同一性障害とか性同一性障害とかに”障害”ってつけるじゃないですか。
治療の必要がある”病気”という意味だろうけど、それってほんと病気なのって気がします。
それは、この障害という単語に、”異常”という意味を嗅いでいるからだと思うけど。
ただ、この小説のように、いままで築いてきた関係が壊れるような、つまりは連続性を壊すたぐいのアウトプットだと、周りはとても悲しい気持ちになりますよ。
要はコミュニケーションと社会性を営むためには、ある程度の連続性が必要で、−あまりに連続しすぎるのはそれはそれで困るのだけれど−、ここで言うある程度は、テクニック的な解決の仕方があるような気がしています。テクニックといってもその技術は、外国語を覚える程度には、難しいと思うのだけれど。
あと、この小説の中の坊さんも”自分らしさはいらない”旨、言っていましたが、自我というか自分らしさというかは、他人の中にいる私によって、担保されています。
「親友がわかっていてくれれば、それでいいんだ」的な。あぁ、これは、RCの『きみがぼくをしってる』だ。
で、その関係は、大切というかそれしかないだろうと考えているのですが、たとえば”依存”という言葉によって、その大切な部分まで壊されてしまう。悪だとされてしまう。
人間は観念の動物でもあり、「おそろしかった野生動物に、ライオンと名をつけたら、その動物の征服に成功した」と、たしか安部公房。
言葉という光でレッテルを貼り、観念の安心を得たはずなのに、その光が新しい陰を産んでしまった感があり。
飯喰ってくそして寝て、人と話す。ただ、これだけのことに人は何故、苦しむのだろう。
それは……
2010年2月8日に日本でレビュー済み
「解離性同一性障害」をテーマに書かれていて、
それについては興味深く読めました。
精神医学、仏教や他の宗教、詩、哲学・・・と
様々な知識を横断しながら展開される解釈は
なかなか読み応えがあります。
ただ、ドラマそのものは地味です。
小説という形をとった「解離性同一性障害 解説」
といえなくもないな、と思いました。
最初は上手い女優さんが
「解離性同一性障害」を演じたら面白いだろうな、
とも思ったんですが、上記の理由で映画化とかは難しそう。
まあ、そんな気はさらさら無いんでしょうが。
それについては興味深く読めました。
精神医学、仏教や他の宗教、詩、哲学・・・と
様々な知識を横断しながら展開される解釈は
なかなか読み応えがあります。
ただ、ドラマそのものは地味です。
小説という形をとった「解離性同一性障害 解説」
といえなくもないな、と思いました。
最初は上手い女優さんが
「解離性同一性障害」を演じたら面白いだろうな、
とも思ったんですが、上記の理由で映画化とかは難しそう。
まあ、そんな気はさらさら無いんでしょうが。
2009年12月12日に日本でレビュー済み
話は、多重人格者というか、解離性同一性障害という病気?にかかった新妻とその夫、治療を依頼された精神科医のチームで進んでいく。
新妻の中に3人の人格者がかわるがわる現れてきて、それぞれ違った人格なわけだから、肉体は同じでも表情や会話の内容や行動が全然違うという状況が、本当は幼児のころから続いていたのだが、それを誰も気づかず(本人も)、結婚して妊娠し自らの行動で流産までしてしまう。
おかしいと思った旦那が精神科医に相談し、催眠療法で解離性同一性障害という事に気づき、何とか一つにまとめようとするのだが…。
この話自体はSFだが、実際にこのような解離性同一性障害という病を抱えた人がいて、増える傾向にあるのだという。
そう考えると、普通の私と酔っ払った時の私はもしかすると自分でも気付かないうちに解離性同一性障害が発病しているのではないのだろうか?
そうでも考えないと、まさかあんなことやあんな事はしないだろう…。
この本の面白いところは、例の「阿修羅」との関連。向こうも三人の人格が現れていて、それの解釈などはそれぞれ語られてはいるが、正しいところはわかるまい。この本に書いてある事が本当なのかもしれない。
とにかく、章とかがないし、どこで休んでいいかもわからない感じで話が流れていくので、一度読んだら終わるまで読まないといけない本です。
新妻の中に3人の人格者がかわるがわる現れてきて、それぞれ違った人格なわけだから、肉体は同じでも表情や会話の内容や行動が全然違うという状況が、本当は幼児のころから続いていたのだが、それを誰も気づかず(本人も)、結婚して妊娠し自らの行動で流産までしてしまう。
おかしいと思った旦那が精神科医に相談し、催眠療法で解離性同一性障害という事に気づき、何とか一つにまとめようとするのだが…。
この話自体はSFだが、実際にこのような解離性同一性障害という病を抱えた人がいて、増える傾向にあるのだという。
そう考えると、普通の私と酔っ払った時の私はもしかすると自分でも気付かないうちに解離性同一性障害が発病しているのではないのだろうか?
そうでも考えないと、まさかあんなことやあんな事はしないだろう…。
この本の面白いところは、例の「阿修羅」との関連。向こうも三人の人格が現れていて、それの解釈などはそれぞれ語られてはいるが、正しいところはわかるまい。この本に書いてある事が本当なのかもしれない。
とにかく、章とかがないし、どこで休んでいいかもわからない感じで話が流れていくので、一度読んだら終わるまで読まないといけない本です。
2010年7月12日に日本でレビュー済み
この本を読んで先ず感じた事は、多重人格(解離性同一障害)と「阿修羅」を結びつけたことです。
三重人格と三つの顔を持つ阿修羅像との対比の上手さと、患者が多重人格になる原因とが上手く関連付けられており、楽しく読む事が出来ました。
物語は一見ハッピー・エンドで終わりますが、作者はそれだけではなく、こうした多重人格と言うものがどういうもので、考え方に依っては誰にでも程度の差こそあれ、その要素は持っていると語っているようです。
それだけ精神疾患の境目は微妙と言う事でしょう。
何が「正常」で、何が「異常」なのか、と言う事です。
この小説の中でも当然のことながら宗教的な話も出てきます。
印象に残ったのは、「自我」と言うのは他人に認識されることによって形成されると言うところです。
「人は立場によって作られる」とも言います。
確かにと、納得の一言でした。
三重人格と三つの顔を持つ阿修羅像との対比の上手さと、患者が多重人格になる原因とが上手く関連付けられており、楽しく読む事が出来ました。
物語は一見ハッピー・エンドで終わりますが、作者はそれだけではなく、こうした多重人格と言うものがどういうもので、考え方に依っては誰にでも程度の差こそあれ、その要素は持っていると語っているようです。
それだけ精神疾患の境目は微妙と言う事でしょう。
何が「正常」で、何が「異常」なのか、と言う事です。
この小説の中でも当然のことながら宗教的な話も出てきます。
印象に残ったのは、「自我」と言うのは他人に認識されることによって形成されると言うところです。
「人は立場によって作られる」とも言います。
確かにと、納得の一言でした。