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1/700 スカイウェーブシリーズ 日本海軍峯風型駆逐艦 秋風 プラモデル

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ブランド ピットロード(PIT-ROAD)
シーズン オールシーズン
個数 1
スケール 1/700
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登録情報

  • 梱包サイズ ‏ : ‎ 29.5 x 13.2 x 3.7 cm; 104 g
  • Amazon.co.jp での取り扱い開始日 ‏ : ‎ 2007/11/21
  • ASIN ‏ : ‎ B003NJVLKS
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ピットロード

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峯風型駆逐艦9番艦「秋風」・昭和6(1931)年9月・第4駆逐隊所属時 (ピットロードSPW04駆逐艦秋風)
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峯風型駆逐艦9番艦「秋風」・昭和6(1931)年9月・第4駆逐隊所属時 (ピットロードSPW04駆逐艦秋風)
1/700 ピットロード・峯風型駆逐艦9番艦「秋風」・昭和6(1931)年9月・第4駆逐隊所属時(ピットロードSPW04駆逐艦秋風)22.04.28完成[キットについて]7番艦「羽風」から12番艦「帆風」まで艦名デカール附属。作例は『日本海軍艦艇写真集18・駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』所収、昭和6年9月、第1水雷戦隊3番隊第4駆逐隊所属時の写真に拠った。実写真に基づき艦橋頂部は測距儀に換装、2番主砲後の機銃撤去、4番主砲背後の銃座撤去。艦橋両脇の機銃の有無は不鮮明で判定できなかったが、前期型の峯風・澤風・沖風・矢風・羽風の5隻以降は艦橋両ウィング上に装備されたという記録がある為搭載した。また大型掃海具(パラベーン)を追加。作例は第4駆逐隊在籍時、昭和6年(1931)9月頃を再現。[要目]基準排水量:1.215t公試排水量:1.345t全長:102.6m全幅:8.92m吃水:2.79m機関:ロ号艦本式罐4基、パーソンズ式タービン2基2軸、38.500hp速力:39kt/h航続距離:14kt/h/3.600浬燃料:重油395t乗員:154名兵装:45口径12cm単装砲4基4門、6.5mm単装機銃2基2挺、53.3cm連装魚雷発射管3基6門、魚雷8本(予備2本)、1号機雷掃海16個[艦歴]「秋風(あきかぜ)」は峯風型駆逐艦9番艦。大正9(1920年6月7日、三菱長崎造船所で起工。12月14日進水。大正10(1921)年4月1日竣工。横須賀鎮守府籍。昭和8(1933)年3月3日、昭和三陸地震発生の際は、第4駆逐隊に属し大湊要港部より被災地の救援活動に従事。昭和13(1938)年より華中作戦支援。昭和15(1940)年、第34駆逐隊編成(羽風・秋風・太刀風・夕風)により舞鶴鎮守府に転籍。11月15日、第3航空戦隊(空母鳳翔・龍驤、司令官角田覚治少将)編入。昭和16(1941)4月10日、第1航空艦隊第1航空戦隊(空母赤城・加賀)に編入。5月1日、第2遣支艦隊に編入。9月15日、第11航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)編入。12月8日開戦時、34駆逐隊(羽風・秋風・太刀風)は高雄で不時着機救難任務。駆逐艦長森卓次少佐(海兵56期)。初期作戦では南方作戦の船団護衛や支援任務に従事。既に峯風型は老朽化し、最大発揮速力32kt/h前後に低下していた。昭和17(1942)年2月、蘭印作戦に参加、バンダ海アンボン島に進出。4月22日アンボン島発。5月4日舞鶴着。6月8日舞鶴発。6月22日ニューブリテン島ラバウルに進出。9月1日、ブカ島近海で空襲により小破。10月25日、空襲により中破。ガダルカナル戦期間中は鼠輸送に参加。昭和18(1943)年3月14日、ニューアイルランド島カビエン発、カイリル島、ロレンガンを経て18日にラバウル到着。この18日に「秋風事件」発生(後述)。4月1日、第34駆逐隊(司令天谷嘉重大佐)は解隊、第11航空艦隊直属に変更。3日に佐世保へ帰投。舞鶴海軍工廠で修理整備。5月25日横須賀発、6月3日ラバウル進出。7月28日、ニューブリテン島グロスター岬で喪失した駆逐艦2隻(三日月・有明)の救助に出動。8月2日、ラバウル南方で空襲により艦橋・前檣・1番煙突を喪失し大破。艦長佐部鶴吉少佐以下多数が戦死、兵曹長(掌砲長)の指揮でラバウルに帰還。後任駆逐艦長は、「秋風」が救助した「三日月」沈没時の艦長、山崎仁太郎少佐(海兵58期)が着任。9月6日佐世保帰投。舞鶴へ回航され修理工事を実施。11月4日舞鶴発、11月18日ラバウル進出。輸送任務・船団護衛任務に復帰。従事する。12月7日、被雷した艦艇の救援作業中、駆逐艦「天霧」が左舷に衝突し損傷、カビエンに回航。21日、ラバウルで空襲により損傷、トラック泊地で応急修理。昭和19(1944)年2月17日のトラック島空襲後、トラック泊地の損傷艦をパラオ泊地へ護衛任務。以後パラオ・トラック・サイパン方面船団護衛任務。4月22日サイパン発、26日横須賀到着、舞鶴に回航。5月1日、佐世保鎮守府に転籍、第3水雷戦隊(司令官中川浩少将)第30駆逐隊(司令澤村成ニ大佐)編入(卯月・夕月・秋風・松風)編入。第1機動艦隊附属となり、比島方面で船団護衛任務。サイパン島攻略戦で3水戦司令部が玉砕した為、8月20日、新編第31戦隊(司令官江戸兵太郎少将)編入。9月26日、佐世保着。10月24日、第1機動艦隊第2補給部隊(秋風・油槽船仁栄丸・海防艦3隻)を指揮して呉を出撃。豊後水道を南下するが、25日、高知県足摺岬沖で「仁栄丸」が米潜「スターレット」に撃沈され、護衛任務は中止される。10月31日、「秋風」は比島方面緊急輸送作戦に合流。空母「隼鷹」を護衛(隼鷹・木曾・夕月・卯月・秋風)し佐世保を出撃。馬公を経由しブルネイに向け航行中の11月3日夜、米潜水艦「ピンタド」(USS Pintado, SS-387)が「隼鷹」を雷撃するが、「隼鷹」を外れた魚雷が「秋風」に命中。2258、大爆発により艦体が分断され、ルソン島サンフェルナンド西方で沈没。「夕月」が救援作業にあたるが、山崎艦長以下総員行方不明(戦死認定)。昭和20(1945)年1月10日除籍。歴代艦長には後の戦艦「大和」艦長有賀幸作少佐(1932.02.12-12.01在任)がいる。[秋風事件]昭和18(1943)年3月18日に発生した民間人虐殺事件。東部ニューギニアはオーストラリア委任統治領として、日本軍進駐後も宣教師や農園主等民間人が居住していた。南東方面艦隊司令部(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は同地に航空基地進出を企図。3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令。4月15日を目標に21箇所(新設10)の陸上基地、12箇所(新設6)の水上機基地整備を計画した。3月18日、基地設営該当地域より、ニューブリテン島ラバウルへ輸送中の駆逐艦「秋風」艦上で、沿岸監視員等敵性住民とされた民間人73名(ドイツ・オランダ・アメリカ・ハンガリー・中国)全員が、乗組員により殺害された。戦後、連合国は本事件を調査。当時「秋風」が所属した第8艦隊司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将をB級戦犯に指定、1947(昭和22)年1月に拘束した。事件当時の「秋風」駆逐艦長佐部鶴吉少佐以下、主要士官は1943(昭和18)年8月2日、大破時に戦死していた為、裁判の焦点は事件当時の命令者に移った。裁判では、第2復員省・草鹿元南東方面艦隊司令長官・第8艦隊関係者は、当時の「秋風」が第8艦隊指揮下にあったと主張。これに対し三川・大西両名は、当時南東方面部隊指揮下にあり、南東方面艦隊司令部の命令で行動していたと反論した。当時の軍隊区分では「秋風」は南東方面艦隊・第十一航空艦隊(第8艦隊の上部組織)附属であり、第8艦隊と別命令系統に属していた。1948(昭和23)年10月、小口茂元機関長や、秋風元乗組員等が被告側証言。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)が南東方面艦隊戦時日誌を証拠提出。此等により当時「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将・第11航空艦隊司令長官兼務)の命令下であった事が明らかになり、10月18日、三川・大西両名は起訴却下となった。後日大西は、冷戦でアメリカの対日政策が変わり、草鹿元中将起訴の恐れが無くなり、第2復員省による南東方面艦隊戦時日誌提出に繋がったと推測している。昭和22(1947)年2月に内地に復員していた草鹿元中将も後に無罪となった。
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2022年4月28日に日本でレビュー済み
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5つ星のうち5.0 峯風型駆逐艦9番艦「秋風」・昭和6(1931)年9月・第4駆逐隊所属時 (ピットロードSPW04駆逐艦秋風)
2022年4月28日に日本でレビュー済み
1/700 ピットロード・峯風型駆逐艦9番艦「秋風」・昭和6(1931)年9月・第4駆逐隊所属時
(ピットロードSPW04駆逐艦秋風)
22.04.28完成

[キットについて]
7番艦「羽風」から12番艦「帆風」まで艦名デカール附属。作例は『日本海軍艦艇写真集18・駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』所収、昭和6年9月、第1水雷戦隊3番隊第4駆逐隊所属時の写真に拠った。実写真に基づき艦橋頂部は測距儀に換装、2番主砲後の機銃撤去、4番主砲背後の銃座撤去。艦橋両脇の機銃の有無は不鮮明で判定できなかったが、前期型の峯風・澤風・沖風・矢風・羽風の5隻以降は艦橋両ウィング上に装備されたという記録がある為搭載した。また大型掃海具(パラベーン)を追加。作例は第4駆逐隊在籍時、昭和6年(1931)9月頃を再現。

[要目]
基準排水量:1.215t
公試排水量:1.345t
全長:102.6m
全幅:8.92m
吃水:2.79m
機関:ロ号艦本式罐4基、パーソンズ式タービン2基2軸、38.500hp
速力:39kt/h
航続距離:14kt/h/3.600浬
燃料:重油395t
乗員:154名
兵装:45口径12cm単装砲4基4門、6.5mm単装機銃2基2挺、53.3cm連装魚雷発射管3基6門、魚雷8本(予備2本)、1号機雷掃海16個

[艦歴]
「秋風(あきかぜ)」は峯風型駆逐艦9番艦。大正9(1920年6月7日、三菱長崎造船所で起工。12月14日進水。大正10(1921)年4月1日竣工。横須賀鎮守府籍。昭和8(1933)年3月3日、昭和三陸地震発生の際は、第4駆逐隊に属し大湊要港部より被災地の救援活動に従事。昭和13(1938)年より華中作戦支援。

昭和15(1940)年、第34駆逐隊編成(羽風・秋風・太刀風・夕風)により舞鶴鎮守府に転籍。11月15日、第3航空戦隊(空母鳳翔・龍驤、司令官角田覚治少将)編入。昭和16(1941)4月10日、第1航空艦隊第1航空戦隊(空母赤城・加賀)に編入。5月1日、第2遣支艦隊に編入。9月15日、第11航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)編入。

12月8日開戦時、34駆逐隊(羽風・秋風・太刀風)は高雄で不時着機救難任務。駆逐艦長森卓次少佐(海兵56期)。
初期作戦では南方作戦の船団護衛や支援任務に従事。既に峯風型は老朽化し、最大発揮速力32kt/h前後に低下していた。

昭和17(1942)年2月、蘭印作戦に参加、バンダ海アンボン島に進出。4月22日アンボン島発。5月4日舞鶴着。6月8日舞鶴発。6月22日ニューブリテン島ラバウルに進出。9月1日、ブカ島近海で空襲により小破。10月25日、空襲により中破。ガダルカナル戦期間中は鼠輸送に参加。

昭和18(1943)年3月14日、ニューアイルランド島カビエン発、カイリル島、
ロレンガンを経て18日にラバウル到着。この18日に「秋風事件」発生(後述)。
4月1日、第34駆逐隊(司令天谷嘉重大佐)は解隊、第11航空艦隊直属に変更。3日に佐世保へ帰投。舞鶴海軍工廠で修理整備。

5月25日横須賀発、6月3日ラバウル進出。7月28日、ニューブリテン島グロスター岬で喪失した駆逐艦2隻(三日月・有明)の救助に出動。8月2日、ラバウル南方で空襲により艦橋・前檣・1番煙突を喪失し大破。艦長佐部鶴吉少佐以下多数が戦死、兵曹長(掌砲長)の指揮でラバウルに帰還。後任駆逐艦長は、「秋風」が救助した「三日月」沈没時の艦長、山崎仁太郎少佐(海兵58期)が着任。

9月6日佐世保帰投。舞鶴へ回航され修理工事を実施。11月4日舞鶴発、11月18日ラバウル進出。輸送任務・船団護衛任務に復帰。従事する。12月7日、被雷した艦艇の救援作業中、駆逐艦「天霧」が左舷に衝突し損傷、カビエンに回航。21日、ラバウルで空襲により損傷、トラック泊地で応急修理。

昭和19(1944)年2月17日のトラック島空襲後、トラック泊地の損傷艦をパラオ泊地へ護衛任務。以後パラオ・トラック・サイパン方面船団護衛任務。4月22日サイパン発、26日横須賀到着、舞鶴に回航。5月1日、佐世保鎮守府に転籍、第3水雷戦隊(司令官中川浩少将)第30駆逐隊(司令澤村成ニ大佐)編入(卯月・夕月・秋風・松風)編入。第1機動艦隊附属となり、比島方面で船団護衛任務。サイパン島攻略戦で3水戦司令部が玉砕した為、8月20日、新編第31戦隊(司令官江戸兵太郎少将)編入。9月26日、佐世保着。10月24日、第1機動艦隊第2補給部隊(秋風・油槽船仁栄丸・海防艦3隻)を指揮して呉を出撃。豊後水道を南下するが、25日、高知県足摺岬沖で「仁栄丸」が米潜「スターレット」に撃沈され、護衛任務は中止される。

10月31日、「秋風」は比島方面緊急輸送作戦に合流。空母「隼鷹」を護衛(隼鷹・木曾・夕月・卯月・秋風)し佐世保を出撃。馬公を経由しブルネイに向け航行中の11月3日夜、米潜水艦「ピンタド」(USS Pintado, SS-387)が「隼鷹」を雷撃するが、「隼鷹」を外れた魚雷が「秋風」に命中。2258、大爆発により艦体が分断され、ルソン島サンフェルナンド西方で沈没。「夕月」が救援作業にあたるが、山崎艦長以下総員行方不明(戦死認定)。昭和20(1945)年1月10日除籍。歴代艦長には後の戦艦「大和」艦長有賀幸作少佐(1932.02.12-12.01在任)がいる。

[秋風事件]
昭和18(1943)年3月18日に発生した民間人虐殺事件。東部ニューギニアはオーストラリア委任統治領として、日本軍進駐後も宣教師や農園主等民間人が居住していた。南東方面艦隊司令部(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は同地に航空基地進出を企図。3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令。4月15日を目標に21箇所(新設10)の陸上基地、12箇所(新設6)の水上機基地整備を計画した。3月18日、基地設営該当地域より、ニューブリテン島ラバウルへ輸送中の駆逐艦「秋風」艦上で、沿岸監視員等敵性住民とされた民間人73名(ドイツ・オランダ・アメリカ・ハンガリー・中国)全員が、乗組員により殺害された。

戦後、連合国は本事件を調査。当時「秋風」が所属した第8艦隊司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将をB級戦犯に指定、1947(昭和22)年1月に拘束した。事件当時の「秋風」駆逐艦長佐部鶴吉少佐以下、主要士官は1943(昭和18)年8月2日、大破時に戦死していた為、裁判の焦点は事件当時の命令者に移った。裁判では、第2復員省・草鹿元南東方面艦隊司令長官・第8艦隊関係者は、当時の「秋風」が第8艦隊指揮下にあったと主張。これに対し三川・大西両名は、当時南東方面部隊指揮下にあり、南東方面艦隊司令部の命令で行動していたと反論した。

当時の軍隊区分では「秋風」は南東方面艦隊・第十一航空艦隊(第8艦隊の上部組織)附属であり、第8艦隊と別命令系統に属していた。1948(昭和23)年10月、小口茂元機関長や、秋風元乗組員等が被告側証言。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)が南東方面艦隊戦時日誌を証拠提出。此等により当時「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将・第11航空艦隊司令長官兼務)の命令下であった事が明らかになり、10月18日、三川・大西両名は起訴却下となった。後日大西は、冷戦でアメリカの対日政策が変わり、草鹿元中将起訴の恐れが無くなり、第2復員省による南東方面艦隊戦時日誌提出に繋がったと推測している。昭和22(1947)年2月に内地に復員していた草鹿元中将も後に無罪となった。
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