英訳では、「愛の働き」と書名が変更されているように、主題は、不安というより、愛であると、考えられる。不安が生じる理由は、愛の不在、あるいは、利己的な愛にあると見なし、それを克服することが、不安を癒すことになると説明する。不安という感情は、愛という志向性と、表裏一体の関係にあることが分析され、説明されている。
キェルケゴールは、この著書で、愛には3つの段階があり、最初の段階を、利己的な愛と定義し、不安の元凶と説明する。次に定義される第2段階の愛は、代償を求めない愛であると定義され、不安を生むのではなく、それを克服する愛であると、説明している。最後に定義される第3段階の愛は、神に対するかのような、普遍的な愛であると説明されている。
我々日本人には、第3段階の愛に対する理解は、困難かもしれないが、第2段階の愛に関する分析と説明は、十分、説得的である。
実存哲学としてではなく、一人の、人生を真剣に生き抜いた人の忠告として、思春期の誠実な恋愛で悩み苦しんでいる方に、一読して欲しい作品です。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
不安の概念 (岩波文庫) 文庫 – 1979/7/16
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥924","priceAmount":924.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"924","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"kOy3h9oQrhlbFu1POAxL9O7pELFn%2Fi0dLCKG0h%2FaJ4tQCT8oWwf6VAkFRiqGkYVbZvVpJoezytujB9LgCuXQ%2B5hPq4INpMSyGaq0FsI57FGPEVXPkhhJmxwDXJPucyOm","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
激しい憂愁と懐疑に堪えたキェルケゴールは、主体的な存在を問題とした最初の思想家であった。ここに今日に至る実存哲学の祖としての思想史的意義がある。本書はこのような彼の自己自身との厳しい総決算であり、質的飛躍による真実絶対への生を創造する過程を、深い体験の表現において展開した内容豊かなもの。
- 本の長さ299ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1979/7/16
- ISBN-104003363523
- ISBN-13978-4003363522
よく一緒に購入されている商品
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店; 改版 (1979/7/16)
- 発売日 : 1979/7/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 299ページ
- ISBN-10 : 4003363523
- ISBN-13 : 978-4003363522
- Amazon 売れ筋ランキング: - 205,553位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 107位その他の西洋思想関連書籍
- - 1,426位岩波文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年7月17日に日本でレビュー済み
〇 この本は読みにくいと言う人もいるが、うまく読むコツを見つけた。それは饒舌な著者のムダ話に付き合わないこと。ムダ話の典型は冒頭の「緒論」で、28ページにわたって心理学、教義学、倫理学、論理学やさらにはヘーゲル一派を皮肉ったり、当てこすったり、からかったりしている。わたしには何のことかさっぱりわからないし、わからなくても本書の理解に支障はない。本論のなかでも突然こんなおしゃべりが始まる。そうなったら「ああ、また始まった」とさっさと読み飛ばすに限る。そうすると本書は贅肉がそぎ落とされてかえってスッキリとした姿を見せてくる。
〇 そのようにして読んでみると本書は「人が経験する“不安”の17のかたち」とでもいった副題がふさわしい。取り上げられるのは、アダムの不安、アダム後の人々不安、無垢な人の不安と汚れた人の不安、異教徒(ユダヤ、ギリシャ、東洋)の不安、男の不安・女の不安、天才の不安、精神を喪失した人の不安、迷信家の不安・無宗教の不安など。著者はこれらの不安の原因を詳細に分析して行く。
〇 なぜそんな分析をするかと言うと、著者によれば、不安とは怖ろしいものであると同時にとても心惹かれる矛盾した心理で、無垢な人は不安ゆえに抗いがたく罪に近づきその結果として罪を犯してしまうことがあるからである。ほんとうは罪を犯す瞬間の個人を分析したいところだが、罪の瞬間は人は内面でポーンと質的な跳躍を遂げているので、これを心理的に分析することは不可能だ。そこで彼をその飛躍に直接導いた不安を分析究明してみようというのである。
〇 なお、ひとつだけ不安を免れる人間のタイプがあるらしい。それは「精神を喪失した人」つまり「心のない人」。世俗的にはたいそうな成功者であっても精神の喪失者は多いのだと言う。そう言えば、別著『死に至る病』において著者は、「自己を喪失すること」を「絶望」と言い換えていた。そして絶望した人は精神的に意味のない人生を送るのだと言っていた。とすれば、本書は「多少なりとも精神的に意味のある人生を送ろうとすればその人は不安から逃れられない」と言っていることになる。
〇 さて不安の原因と症状はわかった。それなら不安に対する処方箋があってしかるべきだ。著者は「信仰」が不安を救うと言う。同時に不安ほど正しい信仰に導くものはないとも言う。え、それだけ?と思うのだが、熱心なキリスト者キェルケゴールにはそれで十分であるらしい。「不安」と「信仰」と「意義ある精神生活」は相性の良い3点セットだと言いたいようだ。
〇 それにしても全体におしゃべりが過ぎるので星ひとつ減じて4星。
〇 なお先評に「本書は『愛の働き』という題で英訳されている」という紹介があったが、評者はなにか思い違いをされたのだろう。英訳『Works of Love』の原著は1847年の出版。本書は1844年の出版で、英語では『The Concept of Anxiety』として知られている。
■ 本書の議論をわたしなりに整理してみました。長文ですが、よろしければご覧ください:
(第1章)アダムの罪
・・ 原罪とアダムの第一の罪は同じものである。アダムの後の人類はすべてこの罪を負っている。というのは、人類はひとりひとりが唯一無二の存在であって個々の個性に欠ける家畜の群れとは違うからである。
・・ 不安はまだ現実化していない可能性に対して生まれる。だからすでに姿の見えている特定の事柄に対する「恐怖」とは異なる。動物は可能性を認識できないから不安を感じない。
・・ 要するに、無垢なアダムに「これをしてはならぬ」という禁止が言い渡されたことで彼には「それをする可能性」が開けた。この可能性に対して彼は不安になり、不安に誘われて罪を犯した、ということになる。不安は怖ろしいが同時に心惹かれるものがある。そうした両義性が特色である。よって個人はある段階でえいっと目をつぶって飛躍する。堕罪はそうした個体の質的飛躍である。そうした意味で堕罪は弁証法的であり、止揚である。
(第2章)アダム後の人類の罪
・・ アダム後の人はアダムに起因する歴史を持っているから生来的に不安である。成長して精神を持つに至ると不安を持つようになる。歴史を持たない天使や動物は不安を持たない。
・・ この不安には人類・世代全体を覆う客観的不安と個人個人が陥る主観的不安がある。主観的不安は、個人が可能性と自由の無限性にめまいを感じてつい有限性に手を伸ばすときに生じるものである。
・・ 人が救済される可能性は存在する。しかしそれは可能性であるがゆえに現実化されるまでの間は不安を免れることができない。
(第3章)罪の意識のない人
・・ 不安は可能性について起こるのであって過去に対しては起こらない。過去に対して起こるのは後悔である。
・・ 精神を喪った人は如何なる不安も感じない。不安を感じるにはあまりに幸福で自足し満足しているからだ。彼らの傍らにも不安は存在しているのだが、それに気が付かないのだ。
・・ 異教徒は無に対して不安を抱く。ここで無とは運命である。運命とは必然性と偶然性の混合である。
(第4章)不自由な人
・・ 無垢でなくなると堕罪の可能性が現実化したのだから不安は悔いになる。それでは不安は一切なくなるかと言えばそうではない。なお新たな堕罪の可能性があるのでありそれに対する不安が生まれる。もちろん堕落しきった喪心の人はそんな不安は感じない。
・・ この不安に打ち勝つのは信仰のみである。
・・ デモーニッシュな人(悪魔的な人)は心を閉じた閉鎖的な人である。だから開示すなわち自由に対して不安を抱く。自分の秘密をさらけだしたくないのだ。
・・ 迷信の人と不信仰の人は確信を欠いている。そのために不安である。
・・ 信仰の人でも安心できない。信仰が世の中に広まり確立されると個人の中の内面性が欠けてくるということもあり得る。内面の欠けた信心家は喜劇的でさえある。
(第5章)信仰と不安
・・ 人は不安から免れられない。だから不安を正しく抱くことを学ぶべきだ。この不安は外部から来るのではなく人間が自ら生み出すものだ。
・・ 不安は自由の可能性である。不安は人を捉えて離さない。不安はすべてのものごとが頼りにならないことを明らかにし、無限性に目を開かせる。不安者は信仰以外のどこにも安息を見出すことはできない。また不安のみが人を正しい信仰に導くことができる。
・・ 精神を喪失した人の傍らにも不安は存在する。ただ彼はそれに気づかないのだ。
〇 そのようにして読んでみると本書は「人が経験する“不安”の17のかたち」とでもいった副題がふさわしい。取り上げられるのは、アダムの不安、アダム後の人々不安、無垢な人の不安と汚れた人の不安、異教徒(ユダヤ、ギリシャ、東洋)の不安、男の不安・女の不安、天才の不安、精神を喪失した人の不安、迷信家の不安・無宗教の不安など。著者はこれらの不安の原因を詳細に分析して行く。
〇 なぜそんな分析をするかと言うと、著者によれば、不安とは怖ろしいものであると同時にとても心惹かれる矛盾した心理で、無垢な人は不安ゆえに抗いがたく罪に近づきその結果として罪を犯してしまうことがあるからである。ほんとうは罪を犯す瞬間の個人を分析したいところだが、罪の瞬間は人は内面でポーンと質的な跳躍を遂げているので、これを心理的に分析することは不可能だ。そこで彼をその飛躍に直接導いた不安を分析究明してみようというのである。
〇 なお、ひとつだけ不安を免れる人間のタイプがあるらしい。それは「精神を喪失した人」つまり「心のない人」。世俗的にはたいそうな成功者であっても精神の喪失者は多いのだと言う。そう言えば、別著『死に至る病』において著者は、「自己を喪失すること」を「絶望」と言い換えていた。そして絶望した人は精神的に意味のない人生を送るのだと言っていた。とすれば、本書は「多少なりとも精神的に意味のある人生を送ろうとすればその人は不安から逃れられない」と言っていることになる。
〇 さて不安の原因と症状はわかった。それなら不安に対する処方箋があってしかるべきだ。著者は「信仰」が不安を救うと言う。同時に不安ほど正しい信仰に導くものはないとも言う。え、それだけ?と思うのだが、熱心なキリスト者キェルケゴールにはそれで十分であるらしい。「不安」と「信仰」と「意義ある精神生活」は相性の良い3点セットだと言いたいようだ。
〇 それにしても全体におしゃべりが過ぎるので星ひとつ減じて4星。
〇 なお先評に「本書は『愛の働き』という題で英訳されている」という紹介があったが、評者はなにか思い違いをされたのだろう。英訳『Works of Love』の原著は1847年の出版。本書は1844年の出版で、英語では『The Concept of Anxiety』として知られている。
■ 本書の議論をわたしなりに整理してみました。長文ですが、よろしければご覧ください:
(第1章)アダムの罪
・・ 原罪とアダムの第一の罪は同じものである。アダムの後の人類はすべてこの罪を負っている。というのは、人類はひとりひとりが唯一無二の存在であって個々の個性に欠ける家畜の群れとは違うからである。
・・ 不安はまだ現実化していない可能性に対して生まれる。だからすでに姿の見えている特定の事柄に対する「恐怖」とは異なる。動物は可能性を認識できないから不安を感じない。
・・ 要するに、無垢なアダムに「これをしてはならぬ」という禁止が言い渡されたことで彼には「それをする可能性」が開けた。この可能性に対して彼は不安になり、不安に誘われて罪を犯した、ということになる。不安は怖ろしいが同時に心惹かれるものがある。そうした両義性が特色である。よって個人はある段階でえいっと目をつぶって飛躍する。堕罪はそうした個体の質的飛躍である。そうした意味で堕罪は弁証法的であり、止揚である。
(第2章)アダム後の人類の罪
・・ アダム後の人はアダムに起因する歴史を持っているから生来的に不安である。成長して精神を持つに至ると不安を持つようになる。歴史を持たない天使や動物は不安を持たない。
・・ この不安には人類・世代全体を覆う客観的不安と個人個人が陥る主観的不安がある。主観的不安は、個人が可能性と自由の無限性にめまいを感じてつい有限性に手を伸ばすときに生じるものである。
・・ 人が救済される可能性は存在する。しかしそれは可能性であるがゆえに現実化されるまでの間は不安を免れることができない。
(第3章)罪の意識のない人
・・ 不安は可能性について起こるのであって過去に対しては起こらない。過去に対して起こるのは後悔である。
・・ 精神を喪った人は如何なる不安も感じない。不安を感じるにはあまりに幸福で自足し満足しているからだ。彼らの傍らにも不安は存在しているのだが、それに気が付かないのだ。
・・ 異教徒は無に対して不安を抱く。ここで無とは運命である。運命とは必然性と偶然性の混合である。
(第4章)不自由な人
・・ 無垢でなくなると堕罪の可能性が現実化したのだから不安は悔いになる。それでは不安は一切なくなるかと言えばそうではない。なお新たな堕罪の可能性があるのでありそれに対する不安が生まれる。もちろん堕落しきった喪心の人はそんな不安は感じない。
・・ この不安に打ち勝つのは信仰のみである。
・・ デモーニッシュな人(悪魔的な人)は心を閉じた閉鎖的な人である。だから開示すなわち自由に対して不安を抱く。自分の秘密をさらけだしたくないのだ。
・・ 迷信の人と不信仰の人は確信を欠いている。そのために不安である。
・・ 信仰の人でも安心できない。信仰が世の中に広まり確立されると個人の中の内面性が欠けてくるということもあり得る。内面の欠けた信心家は喜劇的でさえある。
(第5章)信仰と不安
・・ 人は不安から免れられない。だから不安を正しく抱くことを学ぶべきだ。この不安は外部から来るのではなく人間が自ら生み出すものだ。
・・ 不安は自由の可能性である。不安は人を捉えて離さない。不安はすべてのものごとが頼りにならないことを明らかにし、無限性に目を開かせる。不安者は信仰以外のどこにも安息を見出すことはできない。また不安のみが人を正しい信仰に導くことができる。
・・ 精神を喪失した人の傍らにも不安は存在する。ただ彼はそれに気づかないのだ。
2015年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
キルケゴールの宗教に対する強すぎた思いが全面ににじみ出ていて個人的に受け入れられない文体かな。。。
2011年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難しい本で、全部読みきることが出来なかった。この本に挑戦する人は、相応の覚悟をもって。