実に興味深かった。
松尾匡氏の著作は「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」を読んで関心を引かれていたが、昨年発刊された本著はその続編的内容だ。
非常に盛沢山の内容なので手短に要約することはできないが、キーワードは市場システムに代表される「流動的な人間関係」の世界と、各種共同体に代表される「固定的な人間関係」の世界では自由、責任、自己責任の意味付けが大きく変わってくるという認識だ。
それを軸に福祉国家を志向した現代のリベラリズム、マルクス主義的な左翼思想、日本ではサンデル教授で有名になったコミュニタリアンの思想、リバタリアニズム、ナショナリズムなど現代の思潮傾向の矛盾、限界を読み解いていく。
「**からの自由」(消極的自由)を越えて「**への自由」(積極的自由)を唱えながら20世紀の共産主義思想が個人レベルでの自由を抑圧する社会になって行った思想的な必然性の読み解きは、著者自身が若い頃に左翼運動(既に衰退期だった)に関わりながら、幻滅して行った経験にも裏打ちされている。
今でも市場システムに非情さを感じる人々は、様々な形で共同的的な志向を行うが、それが個人的なレベルの自由の抑圧、異分子の排除の論理を内在していることを著者は鋭く指摘する。
著者が希望を見出すのは「左翼リバタリアニズム(リバタリアニズム・レフト)」だ。リバタリアニズムは一般的には「個人の自由至上主義」であり、小さい政府を主張するので右派に位置付けられる。しかし、著者は現代の「流動的な人間関係」が一般的になった今日において社会福祉などの思想、政策と矛盾しない形でのリバタリアニズムを追求する。
著者が、日本ではマルクス経済学の数理的な展開を行い日本のマルクス経済学の潮流の中でひときわユニークな立ち位置を築いた置塩信雄教授の弟子というのも興味深い。私自身も東大経済学部の宇野学派の諸先生の講義を受けながら、神戸大学の置塩教授の著作に遭遇し強く惹かれてその主要著作を熟読したことがある。
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自由のジレンマを解く グローバル時代に守るべき価値とは何か (PHP新書) 新書 – 2016/2/15
松尾 匡
(著)
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人間関係が固定的で、個人の責任とは集団の中で与えられた役割を果たすこととみなされる「武士道型」の社会から、グローバル化によって人間関係が流動的な「商人道」型の社会に移行している現代においては、個人の責任は自らの自由な選択に対して課されるようになる。このような時代にフィットすると思われる思想はリバタリアンの自由至上主義であるが、リバタリアンは福祉政策にも景気対策にも公金を使わないことを主張することが多い。これらの政策はいかにして正当化されるのか。また、様々な文化的背景を持つ個々人の「自由」の対立は解決できるのか。かつてマルクスは、文化の相違をもたらす、人間のさまざまな「考え方」による抑圧を批判し、単純労働者による団結・調整により自由は現出すると考えたが、労働の異質化が進んだ現代ではその展望は実現しない。しかし、インドの経済学者アマルティア・センの「アイデンティティの複数性」という提案が大きなヒントになる――。俊英の理論経済学者が、現代の新たな自由論を構築する。
- 本の長さ286ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2016/2/15
- 寸法10.8 x 1.4 x 17.3 cm
- ISBN-104569829678
- ISBN-13978-4569829678
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商品の説明
出版社からのコメント
まえがき
第1章 責任のとり方が変わった日本社会
責任のあり方が変わった
二種類の責任概念と「自己責任」論
イラク日本人拘束事件での「自己責任」論の奇妙なねじれ
第2章 「武士道」の限界
「社会関係資本」の構築の前提になるもの
南イタリアで支配的だったのは「固定的人間関係」
損をしてでも他人の足をひっぱる性質を持つ日本人
第3章 リベラル派vs.コミュニタリアン
ロールズ流社会契約論による福祉の位置づけ
リベラル派社会契約のリアリティがなくなった
「国家間バトルロワイヤル」というグローバル市場観
第4章 リバタリアンはハイエクを越えよ
左翼リバタリアンは課税を正当化するが
確定不能な責任の事前補償という位置づけ
ほんとうに「自己決定」なんかしているのか
第5章 自由と理性
バーリンの「積極的自由」批判
理性を主人公にする「自由」が抑圧をもたらす
理性だけが「自分」ではない
第6章 マルクスによる自由論の「美しい」解決
「生身の個人」をそのまま容認できるか
マルクスに共通する二項対立概念
「疎外論」を捨てて「唯物史観」になっただって?
第7章 「獲得による普遍化」という解決―センのアプローチをどう読むか
アイデンティティ喪失という解決
「ニーティ」の正義と「ニヤーヤ」の正義
コミュニティの一員としてのアイデンティティの強調がもたらす地獄
第8章 疎外のない社会への展望
大塚久雄の確信犯的改ざん
善玉ヨーマン農民vs.悪玉国王・領主・大商人・高利貸し
自立したプロテスタントが勝利する物語
第1章 責任のとり方が変わった日本社会
責任のあり方が変わった
二種類の責任概念と「自己責任」論
イラク日本人拘束事件での「自己責任」論の奇妙なねじれ
第2章 「武士道」の限界
「社会関係資本」の構築の前提になるもの
南イタリアで支配的だったのは「固定的人間関係」
損をしてでも他人の足をひっぱる性質を持つ日本人
第3章 リベラル派vs.コミュニタリアン
ロールズ流社会契約論による福祉の位置づけ
リベラル派社会契約のリアリティがなくなった
「国家間バトルロワイヤル」というグローバル市場観
第4章 リバタリアンはハイエクを越えよ
左翼リバタリアンは課税を正当化するが
確定不能な責任の事前補償という位置づけ
ほんとうに「自己決定」なんかしているのか
第5章 自由と理性
バーリンの「積極的自由」批判
理性を主人公にする「自由」が抑圧をもたらす
理性だけが「自分」ではない
第6章 マルクスによる自由論の「美しい」解決
「生身の個人」をそのまま容認できるか
マルクスに共通する二項対立概念
「疎外論」を捨てて「唯物史観」になっただって?
第7章 「獲得による普遍化」という解決―センのアプローチをどう読むか
アイデンティティ喪失という解決
「ニーティ」の正義と「ニヤーヤ」の正義
コミュニティの一員としてのアイデンティティの強調がもたらす地獄
第8章 疎外のない社会への展望
大塚久雄の確信犯的改ざん
善玉ヨーマン農民vs.悪玉国王・領主・大商人・高利貸し
自立したプロテスタントが勝利する物語
著者について
立命館大学経済学部教授
登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2016/2/15)
- 発売日 : 2016/2/15
- 言語 : 日本語
- 新書 : 286ページ
- ISBN-10 : 4569829678
- ISBN-13 : 978-4569829678
- 寸法 : 10.8 x 1.4 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 526,853位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 368位経済学入門
- - 494位経済思想・経済学説 (本)
- - 903位その他の地域の世界経済関連書籍
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2017年9月15日に日本でレビュー済み
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2016年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この著者の特徴は「◎」か「◎」かと二分法的な手法で厖大な知識をわかりやすく伝えるところにある。
「自由」をめぐるさまざまな論点と文献を整理していただき、ありがたい。
ただ、前著も含めてこのハイエク解釈は学問的には受け入れられているのかな。ちょっと気になります。
主張としては賛成なのですが。
「自由」をめぐるさまざまな論点と文献を整理していただき、ありがたい。
ただ、前著も含めてこのハイエク解釈は学問的には受け入れられているのかな。ちょっと気になります。
主張としては賛成なのですが。
2019年5月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
市場システムに代表される「流動的な人間関係」の世界と各種共同体に代表される「固定的な人間関係」の世界の2軸を「リスク・決定・責任は一致しなければならない」というテーゼを切り口に、左翼リバタリアニズムの可能性に言及している。非常に勉強になった。私自身はコミュニタリアン(共同体主義)の思想に留まっていたのだが、御蔭で先に進めそうである。価値ある一冊。
2021年5月16日に日本でレビュー済み
最終章の失速感が勿体ない。
ウイルス•培地という中途半端な比喩を使う意味はあったのかな?
ウイルス•培地という中途半端な比喩を使う意味はあったのかな?
2020年9月14日に日本でレビュー済み
日本社会の矛盾を論理的に指摘する良書。固定的社会と流動的社会の対比を通じて、自由とは何か、功利主義とは何かなどを対比を通じて、主張と背景と思考を概観する。メモを作りながら読むことを強くお勧めする。そのメモは身近な問題を解くときにも役に立つはず。
2016年3月18日に日本でレビュー済み
ずっと以前から持っていた疑問があります。なぜ左派・リベラルというと国家主義や因習の鎖を切って個人の自由を重視する立場のはずなのに、福祉のためとはいえ政府や官僚に強い権限を与えることに賛成(とまでいかなくても鈍感)なのかという疑問です。この本はそんな私の長年の疑問に正面から答えてくれていて非常にありがたいです。個人の自由を最大限重視する立場(リバタリアンの立場)からも福祉の必要性は論理的に導き出せる、そのことがクリアに説明されていて感銘を受けました。
私の理解ではこの本の構成は前半と後半に分かれています。前述の私の疑問に対する回答は前半部分(4章まで)に記載されています。後半部分(5章以降)ではその自由を理性だけで判断していいのか、という自由の本質に対する深い考察が行われています。両者の議論は密接に関連しているので、本当は後半も含めて全部理解しないと前半もより深く理解できないのでしょうが、前半だけ読んでも(途中で挫折しても)十分価値があると思いました。シノドスの連載のときも読んでいましたが、本になって少し構成が変わって全体の流れが理解しやすくなりました。
本書のつかみはひところ巷を騒がせた自己責任論。そもそもここでいう「自己責任」とは何なのか、という解説から始まります。自分で選び取った選択肢から生じる結果に対して責任を負うのが本当の「自己責任」であり、組織に属していることから生じる責任(立場責任とか国民としての責任というイメージでしょうか)とは峻別しないといけない、とのことです。前者の自由主義の自己責任の考えを取る場合は、周囲に被害を与えたときには賠償をする必要があり、後者の「立場責任」の場合は賠償というよりは「勝手なことをした人間に制裁を加える」ということがメインになります。前者の価値観は取引相手が次から次へと変わる流動的人間関係に適しており、後者の価値観は内輪で話が完結する固定的人間関係(ムラ社会)に適しているとのことです。現在のようなグローバル化が進んだ(これからも進んでいくであろう)社会では必然的に流動的な人間関係がメジャーになっていくので、前者の自由主義者の自己責任の価値観を重視していかざるを得ない、とのことです。
でも、こんな考えがはびこったら福祉がおろそかになるのでは? という恐れを持つ人は(私も含めて)多いのではないでしょうか。そこで登場するのがゲーム理論。一人一人が最適化行動を取った結果、自分の行動が意図せずして他人に被害を与えていることが起こりえて、実際にも起こっていることが示されます。多くの地球環境問題もそうでしょうし、全員が買い控えする不況の問題もそうでしょう。そういう意図せずして他人に迷惑を掛けていることが起こるのだから、そのための補償として福祉のために税金を使うことはあってもいい、むしろ自然なのではないか、という流れです。この立場は自由主義の自己責任論とも矛盾しないように思えます。
ここでの議論のミソであり、最大の興味深い点は、この論理展開に「共同体」とか「国民」とかそういう枠組みが一切登場しないこと。「自国民を救うのが当然」というロジックは福祉を正当化するのに一番てっとり早い方法ですが、これを安易に持ち出すと極右への道を開くことがヨーロッパの実例を挙げて紹介されています。福祉重視派や思想を持たない人がこのような流れで無自覚に極右になってしまうのは恐ろしい話です。貿易しないと生活が保てない現代のグローバルな状況で、固定的人間関係にフィットした極右的なロジックのみに頼れば、全員貧乏で自由のない社会になるように思えてなりません。
後半部分は理性と生身の人間の乖離の問題を取り扱っています。理性で納得していたら(合意の上で受け入れていたら)、生身の人間を抑圧する慣習もOKなのか? 理性で考えると理性自体が無矛盾な体系を求めるようになり、系統だった理性体系を持っている権力者に従属するようになってしまい、生身の個人がボロボロになってしまう恐れがあるそうです(実際の全体主義の国ではそういうことが起こってしまった)。自己責任で行動するためには理性が必要なのは当然ですが、こういう恐れがあるというのは著者の実際に見聞きした話が入っていて生々しい話です。この生身の人間と理性との乖離に対して、著者は二つの解決策を紹介しています。一つは「喪失による普遍化」という解決策で、もう一つは「獲得による普遍化」。なかなか深い話で、何度も読まないと理解できないですが、読みごたえがありました。私にとっては著者のいう、多様なコミュニティの結節点としての個人という考え方が非常に魅力的でした。
とにかくこの本は新書にはありえないぐらい盛りだくさんの本です。それでいて、平面な文章で例も豊富なのでわかりやすく読みやすいです。取り扱っている内容が深いので、さっと理解することは難しいですが、一読の価値ありと思います。
私の理解ではこの本の構成は前半と後半に分かれています。前述の私の疑問に対する回答は前半部分(4章まで)に記載されています。後半部分(5章以降)ではその自由を理性だけで判断していいのか、という自由の本質に対する深い考察が行われています。両者の議論は密接に関連しているので、本当は後半も含めて全部理解しないと前半もより深く理解できないのでしょうが、前半だけ読んでも(途中で挫折しても)十分価値があると思いました。シノドスの連載のときも読んでいましたが、本になって少し構成が変わって全体の流れが理解しやすくなりました。
本書のつかみはひところ巷を騒がせた自己責任論。そもそもここでいう「自己責任」とは何なのか、という解説から始まります。自分で選び取った選択肢から生じる結果に対して責任を負うのが本当の「自己責任」であり、組織に属していることから生じる責任(立場責任とか国民としての責任というイメージでしょうか)とは峻別しないといけない、とのことです。前者の自由主義の自己責任の考えを取る場合は、周囲に被害を与えたときには賠償をする必要があり、後者の「立場責任」の場合は賠償というよりは「勝手なことをした人間に制裁を加える」ということがメインになります。前者の価値観は取引相手が次から次へと変わる流動的人間関係に適しており、後者の価値観は内輪で話が完結する固定的人間関係(ムラ社会)に適しているとのことです。現在のようなグローバル化が進んだ(これからも進んでいくであろう)社会では必然的に流動的な人間関係がメジャーになっていくので、前者の自由主義者の自己責任の価値観を重視していかざるを得ない、とのことです。
でも、こんな考えがはびこったら福祉がおろそかになるのでは? という恐れを持つ人は(私も含めて)多いのではないでしょうか。そこで登場するのがゲーム理論。一人一人が最適化行動を取った結果、自分の行動が意図せずして他人に被害を与えていることが起こりえて、実際にも起こっていることが示されます。多くの地球環境問題もそうでしょうし、全員が買い控えする不況の問題もそうでしょう。そういう意図せずして他人に迷惑を掛けていることが起こるのだから、そのための補償として福祉のために税金を使うことはあってもいい、むしろ自然なのではないか、という流れです。この立場は自由主義の自己責任論とも矛盾しないように思えます。
ここでの議論のミソであり、最大の興味深い点は、この論理展開に「共同体」とか「国民」とかそういう枠組みが一切登場しないこと。「自国民を救うのが当然」というロジックは福祉を正当化するのに一番てっとり早い方法ですが、これを安易に持ち出すと極右への道を開くことがヨーロッパの実例を挙げて紹介されています。福祉重視派や思想を持たない人がこのような流れで無自覚に極右になってしまうのは恐ろしい話です。貿易しないと生活が保てない現代のグローバルな状況で、固定的人間関係にフィットした極右的なロジックのみに頼れば、全員貧乏で自由のない社会になるように思えてなりません。
後半部分は理性と生身の人間の乖離の問題を取り扱っています。理性で納得していたら(合意の上で受け入れていたら)、生身の人間を抑圧する慣習もOKなのか? 理性で考えると理性自体が無矛盾な体系を求めるようになり、系統だった理性体系を持っている権力者に従属するようになってしまい、生身の個人がボロボロになってしまう恐れがあるそうです(実際の全体主義の国ではそういうことが起こってしまった)。自己責任で行動するためには理性が必要なのは当然ですが、こういう恐れがあるというのは著者の実際に見聞きした話が入っていて生々しい話です。この生身の人間と理性との乖離に対して、著者は二つの解決策を紹介しています。一つは「喪失による普遍化」という解決策で、もう一つは「獲得による普遍化」。なかなか深い話で、何度も読まないと理解できないですが、読みごたえがありました。私にとっては著者のいう、多様なコミュニティの結節点としての個人という考え方が非常に魅力的でした。
とにかくこの本は新書にはありえないぐらい盛りだくさんの本です。それでいて、平面な文章で例も豊富なのでわかりやすく読みやすいです。取り扱っている内容が深いので、さっと理解することは難しいですが、一読の価値ありと思います。