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ゼロヴィル 単行本 – 2016/2/27
スティーヴ・エリクソン
(著),
柴田 元幸
(翻訳)
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《映画こそが「現実」なのか? 傑作長篇! 》
語り手がさまざまな映画に言及し、映画に組み込まれ、映画を生きる……無意識や闇が銀幕に映写されるがごとき、特異な「映画小説」。
「映画自閉症」の青年ヴィカーは、映画『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーを、自分のスキンヘッドに刺青している。フィルム編集の才能が買われ、ハリウッドで監督作品を撮ることになるが……。映画と現実が錯綜する傑作長篇。エリクソン来日記念出版!
本書には、実在する無数の映画が取り上げられている。シオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』を原作とし、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラー主演で映画化された『陽のあたる場所』、無声映画の古典で、近年、奇跡的にオリジナル版が発見された『裁かるゝジャンヌ』、増村保造の『盲獣』や鈴木清順の『殺しの烙印』といったエリクソン好みの日本映画……たいていの読者は、本書で触れられている映画が観たくなるにちがいない。
熱狂的な数多の読者の支持を得ているエリクソンは、長年、雑誌で映画評を担当し、『彷徨う日々』『アムニジアスコープ』といった小説でもさまざまな形で映画を登場させてきた。ハリウッドを主たる舞台として、何本もの映画に言及し、映画シナリオを思わせる断章形式を採用した本書においても、読者はおおいに魅了されるだろう。
[原題]ZEROVILLE
語り手がさまざまな映画に言及し、映画に組み込まれ、映画を生きる……無意識や闇が銀幕に映写されるがごとき、特異な「映画小説」。
「映画自閉症」の青年ヴィカーは、映画『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーを、自分のスキンヘッドに刺青している。フィルム編集の才能が買われ、ハリウッドで監督作品を撮ることになるが……。映画と現実が錯綜する傑作長篇。エリクソン来日記念出版!
本書には、実在する無数の映画が取り上げられている。シオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』を原作とし、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラー主演で映画化された『陽のあたる場所』、無声映画の古典で、近年、奇跡的にオリジナル版が発見された『裁かるゝジャンヌ』、増村保造の『盲獣』や鈴木清順の『殺しの烙印』といったエリクソン好みの日本映画……たいていの読者は、本書で触れられている映画が観たくなるにちがいない。
熱狂的な数多の読者の支持を得ているエリクソンは、長年、雑誌で映画評を担当し、『彷徨う日々』『アムニジアスコープ』といった小説でもさまざまな形で映画を登場させてきた。ハリウッドを主たる舞台として、何本もの映画に言及し、映画シナリオを思わせる断章形式を採用した本書においても、読者はおおいに魅了されるだろう。
[原題]ZEROVILLE
- 本の長さ462ページ
- 言語日本語
- 出版社白水社
- 発売日2016/2/27
- ISBN-104560084890
- ISBN-13978-4560084892
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商品の説明
著者について
スティーヴ・エリクソン Steve Erickson
1950年、米国カリフォルニア州生まれ。作家。『彷徨う日々』『ルビコン・ビーチ』『黒い時計の旅』『リープ・イヤー』『Xのアーチ』『アムニジアスコープ』『真夜中に海がやってきた』『エクスタシーの湖』『きみを夢みて』などの邦訳があり、数多の愛読者から熱狂的な支持を受けている。大学で映画論を修め、『LAウィークリー』や『ロサンゼルス・マガジン』で映画評を担当し、映画との関わりは長くて深い。本作は俳優のジェームズ・フランコの監督・主演で映画化が進行している。
訳者:柴田元幸(しばた・もとゆき)
1954年生まれ。米文学者・東京大学特任教授・翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベック、スティーヴ・エリクソン、レベッカ・ブラウン、バリー・ユアグロー、トマス・ピンチョン、マーク・トウェイン、ジャック・ロンドンなど翻訳多数。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。
1950年、米国カリフォルニア州生まれ。作家。『彷徨う日々』『ルビコン・ビーチ』『黒い時計の旅』『リープ・イヤー』『Xのアーチ』『アムニジアスコープ』『真夜中に海がやってきた』『エクスタシーの湖』『きみを夢みて』などの邦訳があり、数多の愛読者から熱狂的な支持を受けている。大学で映画論を修め、『LAウィークリー』や『ロサンゼルス・マガジン』で映画評を担当し、映画との関わりは長くて深い。本作は俳優のジェームズ・フランコの監督・主演で映画化が進行している。
訳者:柴田元幸(しばた・もとゆき)
1954年生まれ。米文学者・東京大学特任教授・翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベック、スティーヴ・エリクソン、レベッカ・ブラウン、バリー・ユアグロー、トマス・ピンチョン、マーク・トウェイン、ジャック・ロンドンなど翻訳多数。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。
登録情報
- 出版社 : 白水社 (2016/2/27)
- 発売日 : 2016/2/27
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 462ページ
- ISBN-10 : 4560084890
- ISBN-13 : 978-4560084892
- Amazon 売れ筋ランキング: - 617,579位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 8,367位英米文学
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年3月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
映画ファンにとってはたまらない作品である。著者が作品中であえて明らかにしていな
いシーンの文章一行から場面を想像し題名や内容を思いだし、その作品の監督や主演俳優
まで浮かんでくる読者も多いことだろう。ただ、映画名、監督、俳優などそれぞれ膨大な
数である。また、制作側(編集、音楽など)のテクニックと観客側の立場での鑑賞の仕方
を解説してくれている箇所も多い。しかし、映画について造詣が深くなくてもストーリー
は十分楽しめるし、エリクソンの世界の網に絡み取られ逃げ切れなくなる作品である。
作中人物は、主人公ヴィカー(アイク・ジェローム)1969年現在二十四歳である。建築
の学位をもち、映画自閉症(シネオースティック)、映画となったら気狂いの男である。
ドティ・ランガー(女性映画編集者)とヴァイキング・マン(映画監督)の二人が、ハリ
ウッド映画界、映画技術、人間関係のアドバイスや案内役である。泥棒として押し入られ、
路上強盗で「再会」した黒人は映画通であり映画の裏話が楽しめる。そして、さっそく出
会うのが三歳の女の子ザジと母親ソレンダート・パラディン。娘は音楽の才能を発揮して
いくが、母親は俳優の仕事になかなかつけずヴィカーに娘を託して死ぬ。物語はヴィカー
とザジの数奇な運命に収斂されていく。話の進展する中、多くの映画内容が複雑に影響し
合い読者として、関係する映画はいますぐ観たくなるだろう。
ヴィカーは七歳のとき特異な経験をする。厳格なカルヴァン主義者だった父から聖書以
外あらゆる快楽を禁じられ「すべての息子には正義の生贄の運命が印づけられる」と告げ
られる。アブラハムが息子イサクを生贄にする寸前、それを命じた神から止められる旧約
聖書『創世記』が根底にある。「神」や「父」へ抗う感情がヴィカーの意識、無意識の世
界に埋め込まれる。二十歳で、マザー神学校の卒業作品を創作する。「小さな、出入り口
のない教会で、異様な尖塔があり、黄金の斧を持って王冠をかぶったライオンの彫刻」が
装飾されている。ノルウェイの紋章でもあり、オスロの県章にも思える。その夜、父がナ
イフを持ってベッドに座っているのを見る。母親は家を出たようだ。また、初めて映画を
観る。『欲望』(1967年)と『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)。それぞれの
印象が面白く描写されている。それ以来、どんな映画を観ても「夢」を見る。水平な岩の
上に人らしきシルエットがあり、白い文字が浮かび岩が開いて誰かを呼び込んでいるよう
な内容である。
そして、「いかなる親も血筋も認めず、幼年期の痕跡は剥げ落ちて」ハリウッドに来る。
頭をスキンヘッドにし、『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テ
イラーの顔を刺青している。また、左目の下に赤い涙のしずくの刺青もしている。若い人
たちからジェームズ・ディーンとナタリー・ウッドに間違えられる。さっそく映画鑑賞。
無声映画でマドモアゼル・ファルコネッティー主演『裁かるるジャンヌ』(1927年)と『
2001年宇宙の旅』(1968年)である。中世と未来の映画を観たことになる。当然、この
映画を観た後、同じ「夢」を見ている。特に生贄となって少女ジャンヌ・ダルクが火炙り
の刑に処せられる場面は強烈であった。どうもすべての映画の中に夢と同じ「秘密の一コ
マ」が挿入され隠されているのが彼には見えている。なぜか「尖塔」や「探偵」が出る映
画、例えば「前世の呪縛」で飛び降り自殺の場面がある『めまい』、探偵が活躍する『チ
ャイナタウン』『ロング・グッドバイ』などが印象に残る。
神や父への反抗は、友人の保安官がキッドを撃つ『ビリー・ザ・キッド』に父親が息子
を生贄にする解釈。映画館で『エクソシスト』を鑑賞し「子供たちを奪うのは神です、悪
魔ではありません」と叫んでしまう。『ゴッドファーザーPARTⅡ』でマイケルが兄フレッ
ドを殺させることを「父」の役割を引き受けたということなど。ついに、ヴィカー自らJ・
K・ユイスマン(フランスの小説家)の『彼方』(1891年作)を映画化しようとする。題
名は『神の最大の悪夢』である。ジャンヌ・ダルクの腹心だった「ジル・ド・レ」の生涯
を描く。ジャンヌの死後、数百とも数千ともいわれる児童殺害犯になった男の物語である。
なぜ、子供たちが殺されるのか。
ヴィカーは、ソレンダートから「教会の模型」は昔いたことのある「オスロの精神病院
施設」といわれ、模型は何かの「合図」だったのかと思う。施設で『裁かるるジャンヌ』
のフィルム原本を発見し、八千コマあたりで夢と同じ映像一コマを切り取る。1982年カリ
フォルニアで作られたポルノ映画にも見つけている。「僕は指に目があるんです」(増村
保造監督『猛獣』・1969年)と、自分のコレクターフィルムからも探し出し引き延ばして
スチルにしていく。多くのスチルが重なり合うところを「触れる」と横たわるザジの体が
浮かんでくる。「ああ、わが娘よ」と叫ぶ。夢に出るヘブライ語の「白い文字」はUCLA聖
書言語研究のコーン教授から「愛よりも信仰、涙より血」と解説される。これはアブラハ
ムが息子イサクを殺そうとした斧の取っ手に刻み込まれていた文字である。「神の冗談か
もしれない」と言われる。もしかして父のナイフの取っ手も同じだったかも。
一方、ザジは成長し音楽活動に才能を発揮していく。母親の交通事故(自殺かも)のち、
ヴィカーと生活する。ヴィカーは娘同様に育てていく。ザジは映画にも興味を示し、『陽
のあたる場所』は一人で観ると体に染みこんでくると評価し、『カサブランカ』のボガー
ドの台詞「いつか君にもわかるよ」は男のひとりよがりで、自分を哀れんだ言葉だ、とい
う。映画の批評は誰の影響を受けたのか。ヴィカーはハリーウッドにきたとき「音」だと
思っていたが「音楽」に聞こえるようになり次第に陶酔し「憑かれたよう」になっていく
が「音楽」より「映画」を選択する。「音楽」は誰の影響だろう。ヴィカーとザジはお互
い「心」の交流が始まっていたのだ。「霊」の交換といってもよい。ヴィカーがザジの「
夢日記」を覗き見ると、ヴィカーと一緒に観た映画、ヴィカーが体験したこと、探偵や尖
塔の描写。『陽のあたる場所』『めまい』『裁かるるジャンヌ』『カサブランカ』などの
シーンが記入されている。ヴィカーの視覚、触覚がザジに入り込み、ザジの聴覚がヴィカ
ーに入り込んでいく不思議な幻覚世界である。ザジはヴィカーの残したスチルに耳を傾け
「岩の上の人物」を読み取ろうとする。そして、「彼女の口ががくんと開く」。
映画論を楽しみ、古典的作品に郷愁を覚える。しかし、物語は神への疑問、神が子を殺
させるのではないか、息子の父への畏れなど重いテーマが流れている。創世記にはアブラ
ハムに殺されかけたイサクの心情は描かれていない。ヴィカーは少年イサク、少女ジャン
ヌ・ダルクのようにザジを生贄にしてはならない、神に挑んで自分が身代わりになっても
ザジを守り抜く「愛」を貫いたのではないか。「フィルムはマルであり、連続性なんて糞
くらえです」と言う。ヴィカーの「生」は「ゼロ」にリセットされ前世に還っていったの
か。物語は「第Ⅰ章」から始まり「第227章」で折り返し「第ゼロ章」にフィルムのコ
マのように回転していく。しかし、折り返しでは「章」が欠けていたり、飛んだり、重複
していたりするのは、ヴィカーがフィルムのコマを切り取ったり、狂気へと向かう精神的
不安を表現しているのだろう。前世で、ヴィカーはザジとソレンダートと親子だったかも
しれない。著者は、最後の「第1章」と「第ゼロ章」でザジがヴィカーに守られていく、
「夢」か「創世記の時代」か、幻か、現実かの世界で終わらせている。ヴィカーは『創世
記』の記録を「正したかった」のだろうか。『信仰より愛を、血より涙』と。「第2章」
は空白である。読者の想像を書き込むスペースかもしれない、悠久の世紀を遡っている空
間かもしれない。宇宙の旅のように。
表紙はヴィカーが第三十一回カンヌ映画際で特別賞を受賞した『君の薄青い瞳』のブル
ーと彼が生涯愛した『陽のあたる場所』の主演男女である。表紙は右から眺めても左から
眺めても鑑賞にたえる美しい顔である。現在、「撮影中」だという本作品はどんな横顔を
見せてくれるのだろうか。
くれぐれも「第ゼロ章」から読み始めないように願いたい。翻訳は柴田元幸である。訳
については、言を俟たない。
いシーンの文章一行から場面を想像し題名や内容を思いだし、その作品の監督や主演俳優
まで浮かんでくる読者も多いことだろう。ただ、映画名、監督、俳優などそれぞれ膨大な
数である。また、制作側(編集、音楽など)のテクニックと観客側の立場での鑑賞の仕方
を解説してくれている箇所も多い。しかし、映画について造詣が深くなくてもストーリー
は十分楽しめるし、エリクソンの世界の網に絡み取られ逃げ切れなくなる作品である。
作中人物は、主人公ヴィカー(アイク・ジェローム)1969年現在二十四歳である。建築
の学位をもち、映画自閉症(シネオースティック)、映画となったら気狂いの男である。
ドティ・ランガー(女性映画編集者)とヴァイキング・マン(映画監督)の二人が、ハリ
ウッド映画界、映画技術、人間関係のアドバイスや案内役である。泥棒として押し入られ、
路上強盗で「再会」した黒人は映画通であり映画の裏話が楽しめる。そして、さっそく出
会うのが三歳の女の子ザジと母親ソレンダート・パラディン。娘は音楽の才能を発揮して
いくが、母親は俳優の仕事になかなかつけずヴィカーに娘を託して死ぬ。物語はヴィカー
とザジの数奇な運命に収斂されていく。話の進展する中、多くの映画内容が複雑に影響し
合い読者として、関係する映画はいますぐ観たくなるだろう。
ヴィカーは七歳のとき特異な経験をする。厳格なカルヴァン主義者だった父から聖書以
外あらゆる快楽を禁じられ「すべての息子には正義の生贄の運命が印づけられる」と告げ
られる。アブラハムが息子イサクを生贄にする寸前、それを命じた神から止められる旧約
聖書『創世記』が根底にある。「神」や「父」へ抗う感情がヴィカーの意識、無意識の世
界に埋め込まれる。二十歳で、マザー神学校の卒業作品を創作する。「小さな、出入り口
のない教会で、異様な尖塔があり、黄金の斧を持って王冠をかぶったライオンの彫刻」が
装飾されている。ノルウェイの紋章でもあり、オスロの県章にも思える。その夜、父がナ
イフを持ってベッドに座っているのを見る。母親は家を出たようだ。また、初めて映画を
観る。『欲望』(1967年)と『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)。それぞれの
印象が面白く描写されている。それ以来、どんな映画を観ても「夢」を見る。水平な岩の
上に人らしきシルエットがあり、白い文字が浮かび岩が開いて誰かを呼び込んでいるよう
な内容である。
そして、「いかなる親も血筋も認めず、幼年期の痕跡は剥げ落ちて」ハリウッドに来る。
頭をスキンヘッドにし、『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テ
イラーの顔を刺青している。また、左目の下に赤い涙のしずくの刺青もしている。若い人
たちからジェームズ・ディーンとナタリー・ウッドに間違えられる。さっそく映画鑑賞。
無声映画でマドモアゼル・ファルコネッティー主演『裁かるるジャンヌ』(1927年)と『
2001年宇宙の旅』(1968年)である。中世と未来の映画を観たことになる。当然、この
映画を観た後、同じ「夢」を見ている。特に生贄となって少女ジャンヌ・ダルクが火炙り
の刑に処せられる場面は強烈であった。どうもすべての映画の中に夢と同じ「秘密の一コ
マ」が挿入され隠されているのが彼には見えている。なぜか「尖塔」や「探偵」が出る映
画、例えば「前世の呪縛」で飛び降り自殺の場面がある『めまい』、探偵が活躍する『チ
ャイナタウン』『ロング・グッドバイ』などが印象に残る。
神や父への反抗は、友人の保安官がキッドを撃つ『ビリー・ザ・キッド』に父親が息子
を生贄にする解釈。映画館で『エクソシスト』を鑑賞し「子供たちを奪うのは神です、悪
魔ではありません」と叫んでしまう。『ゴッドファーザーPARTⅡ』でマイケルが兄フレッ
ドを殺させることを「父」の役割を引き受けたということなど。ついに、ヴィカー自らJ・
K・ユイスマン(フランスの小説家)の『彼方』(1891年作)を映画化しようとする。題
名は『神の最大の悪夢』である。ジャンヌ・ダルクの腹心だった「ジル・ド・レ」の生涯
を描く。ジャンヌの死後、数百とも数千ともいわれる児童殺害犯になった男の物語である。
なぜ、子供たちが殺されるのか。
ヴィカーは、ソレンダートから「教会の模型」は昔いたことのある「オスロの精神病院
施設」といわれ、模型は何かの「合図」だったのかと思う。施設で『裁かるるジャンヌ』
のフィルム原本を発見し、八千コマあたりで夢と同じ映像一コマを切り取る。1982年カリ
フォルニアで作られたポルノ映画にも見つけている。「僕は指に目があるんです」(増村
保造監督『猛獣』・1969年)と、自分のコレクターフィルムからも探し出し引き延ばして
スチルにしていく。多くのスチルが重なり合うところを「触れる」と横たわるザジの体が
浮かんでくる。「ああ、わが娘よ」と叫ぶ。夢に出るヘブライ語の「白い文字」はUCLA聖
書言語研究のコーン教授から「愛よりも信仰、涙より血」と解説される。これはアブラハ
ムが息子イサクを殺そうとした斧の取っ手に刻み込まれていた文字である。「神の冗談か
もしれない」と言われる。もしかして父のナイフの取っ手も同じだったかも。
一方、ザジは成長し音楽活動に才能を発揮していく。母親の交通事故(自殺かも)のち、
ヴィカーと生活する。ヴィカーは娘同様に育てていく。ザジは映画にも興味を示し、『陽
のあたる場所』は一人で観ると体に染みこんでくると評価し、『カサブランカ』のボガー
ドの台詞「いつか君にもわかるよ」は男のひとりよがりで、自分を哀れんだ言葉だ、とい
う。映画の批評は誰の影響を受けたのか。ヴィカーはハリーウッドにきたとき「音」だと
思っていたが「音楽」に聞こえるようになり次第に陶酔し「憑かれたよう」になっていく
が「音楽」より「映画」を選択する。「音楽」は誰の影響だろう。ヴィカーとザジはお互
い「心」の交流が始まっていたのだ。「霊」の交換といってもよい。ヴィカーがザジの「
夢日記」を覗き見ると、ヴィカーと一緒に観た映画、ヴィカーが体験したこと、探偵や尖
塔の描写。『陽のあたる場所』『めまい』『裁かるるジャンヌ』『カサブランカ』などの
シーンが記入されている。ヴィカーの視覚、触覚がザジに入り込み、ザジの聴覚がヴィカ
ーに入り込んでいく不思議な幻覚世界である。ザジはヴィカーの残したスチルに耳を傾け
「岩の上の人物」を読み取ろうとする。そして、「彼女の口ががくんと開く」。
映画論を楽しみ、古典的作品に郷愁を覚える。しかし、物語は神への疑問、神が子を殺
させるのではないか、息子の父への畏れなど重いテーマが流れている。創世記にはアブラ
ハムに殺されかけたイサクの心情は描かれていない。ヴィカーは少年イサク、少女ジャン
ヌ・ダルクのようにザジを生贄にしてはならない、神に挑んで自分が身代わりになっても
ザジを守り抜く「愛」を貫いたのではないか。「フィルムはマルであり、連続性なんて糞
くらえです」と言う。ヴィカーの「生」は「ゼロ」にリセットされ前世に還っていったの
か。物語は「第Ⅰ章」から始まり「第227章」で折り返し「第ゼロ章」にフィルムのコ
マのように回転していく。しかし、折り返しでは「章」が欠けていたり、飛んだり、重複
していたりするのは、ヴィカーがフィルムのコマを切り取ったり、狂気へと向かう精神的
不安を表現しているのだろう。前世で、ヴィカーはザジとソレンダートと親子だったかも
しれない。著者は、最後の「第1章」と「第ゼロ章」でザジがヴィカーに守られていく、
「夢」か「創世記の時代」か、幻か、現実かの世界で終わらせている。ヴィカーは『創世
記』の記録を「正したかった」のだろうか。『信仰より愛を、血より涙』と。「第2章」
は空白である。読者の想像を書き込むスペースかもしれない、悠久の世紀を遡っている空
間かもしれない。宇宙の旅のように。
表紙はヴィカーが第三十一回カンヌ映画際で特別賞を受賞した『君の薄青い瞳』のブル
ーと彼が生涯愛した『陽のあたる場所』の主演男女である。表紙は右から眺めても左から
眺めても鑑賞にたえる美しい顔である。現在、「撮影中」だという本作品はどんな横顔を
見せてくれるのだろうか。
くれぐれも「第ゼロ章」から読み始めないように願いたい。翻訳は柴田元幸である。訳
については、言を俟たない。
2016年3月1日に日本でレビュー済み
昨年に続いて早々に翻訳が出た事が嬉しい。2007年作だから「エクスタシーの湖」と「君を夢見て」の中間にあたる作品。「エクスタシーの湖」は難解で挫折しそうになったけど、本作はハリウッド映画等のポップカルチャーを中心に展開され、エリクソン作品群の中ではエンタメ要素が高く一気に読めた。映画自閉症でモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーをスキンヘッドに刺青してる主人公(どことなくフォレスト・ガンプやレオンを連想させる)のキャラを筆頭に、出てくるキャラは全て強烈。そして皆独自の視点で映画を語る様は楽しく読めるし笑える要素が多い。膨大な映画がこの小説で語られるけど、分からなくても話しは楽しめると思う。巻末には訳者の注釈がついてるので興味があればチェックするのも可能。いつものエリクソンのような幻視的な仕掛けは控えめのような気がするが、ハリウッド自体が虚構の塊なのであえて強く打ち出す必要もないのか。でも終盤からラストまで怒涛のエリクソンワールド全開で堪能出来た。
【追記】2016年3月6日に行われた著者によるトークイベントに参加出来ました。本人曰く、今回の作品は映画がテーマなので、いつもの幻視は小説の構造に合わないので封印し、主人公の行動に沿ったオーソドックスな時間列で話を進めているとの事。
主人公の行動は描くが、内面の描写は一切ない。
アメリカ社会の階級もテーマの1つ‥等々。
これから読まれる参考になればと思い、ネタバレにならない程度のザックリとした内容で追記しました。どうぞエリクソンワールドを一人でも多くの方が楽しめますように!
【追記】2016年3月6日に行われた著者によるトークイベントに参加出来ました。本人曰く、今回の作品は映画がテーマなので、いつもの幻視は小説の構造に合わないので封印し、主人公の行動に沿ったオーソドックスな時間列で話を進めているとの事。
主人公の行動は描くが、内面の描写は一切ない。
アメリカ社会の階級もテーマの1つ‥等々。
これから読まれる参考になればと思い、ネタバレにならない程度のザックリとした内容で追記しました。どうぞエリクソンワールドを一人でも多くの方が楽しめますように!