超有名な、文部省推薦(昔は)図書みたいな作品。
だが、重い歴史的事実ゆえに学生時代は手に取る勇気が無かった。
中年になってから、じっくり読んでみたくなって買って読んだのだが、悲惨な状況を描いているはずなのに、なぜか陰鬱な感じというより、落ち着いた気分にさせるのは、翻訳のせいなのか?
或いは、著者が過去を昇華させたからなのか?
繰り返し繰り返し読んでいる本の一冊になっている。
間違いなく名著だと思う。
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夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録 単行本 – 1985/1/23
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本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。
「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。
そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。
だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。
そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう」(「訳者あとがき」より)。
1956年8月の初版刊行と同時にベストセラーになり、約40年を経たいまもなお、
つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書である。
「この手記は独自の性格を持っています。読むだけでも寒気のするような悲惨な事実をつづりながら、
不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやかなのです」(中村光夫氏評)。
------------------------『夜と霧』 霜山版と新版(池田訳)について
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、
日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。
原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。
その後著者フランクルは1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。
みすず書房では、改訂版のテキストよりまた新たに『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を2002年に出版し、
現在は、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』霜山徳爾訳本と、
『夜と霧 新版』池田香代子訳との、
ふたつの『夜と霧』がある。
いずれもみすず書房刊。
「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。
そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。
だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。
そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう」(「訳者あとがき」より)。
1956年8月の初版刊行と同時にベストセラーになり、約40年を経たいまもなお、
つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書である。
「この手記は独自の性格を持っています。読むだけでも寒気のするような悲惨な事実をつづりながら、
不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやかなのです」(中村光夫氏評)。
------------------------『夜と霧』 霜山版と新版(池田訳)について
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、
日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。
原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。
その後著者フランクルは1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。
みすず書房では、改訂版のテキストよりまた新たに『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を2002年に出版し、
現在は、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』霜山徳爾訳本と、
『夜と霧 新版』池田香代子訳との、
ふたつの『夜と霧』がある。
いずれもみすず書房刊。
- ISBN-104622006014
- ISBN-13978-4622006015
- 出版社みすず書房
- 発売日1985/1/23
- 言語日本語
- 本の長さ216ページ
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出版社より
世界的ベストセラー! ホロコーストの記録として必読の書

商品の説明
著者について
ヴィクトール・E・フランクル
Viktor Emil Frankl
1905年ヴィーンに生まれる。ヴィーン大学医学部卒業。1955年からヴィーン大学教授(神経学、精神医学)。実存分析、ロゴテラピーの創始者。ロゴテラピーは人間の意味への指向・その意志を重視し、深層における精神的実存的人間の発見を意図する療法である。1997年9月歿。
著書『死と愛――実存分析入門』、『時代精神の病理学』、『神経症――その理論と治療』『精神医学的人間像』『識られざる神』。
霜山徳爾
しもやま・とくじ
1919年東京に生まれる。1942年東京大学文学部心理学科卒業。宗教哲学・心理学専攻。上智大学名誉教授。2009年10月逝去。
著書『人間の限界』(岩波新書、1975)、『人間へのまなざし』(中公叢書、1977)、『素足の心理療法』(みすず書房、1989)、『霜山徳爾著作集』(全7巻、学樹書院、1999-2001)。訳書 フランクル『死と愛』『神経症 II』、メダルト・ボス『東洋の英知と心理療法』(共訳、以上みすず書房)。
Viktor Emil Frankl
1905年ヴィーンに生まれる。ヴィーン大学医学部卒業。1955年からヴィーン大学教授(神経学、精神医学)。実存分析、ロゴテラピーの創始者。ロゴテラピーは人間の意味への指向・その意志を重視し、深層における精神的実存的人間の発見を意図する療法である。1997年9月歿。
著書『死と愛――実存分析入門』、『時代精神の病理学』、『神経症――その理論と治療』『精神医学的人間像』『識られざる神』。
霜山徳爾
しもやま・とくじ
1919年東京に生まれる。1942年東京大学文学部心理学科卒業。宗教哲学・心理学専攻。上智大学名誉教授。2009年10月逝去。
著書『人間の限界』(岩波新書、1975)、『人間へのまなざし』(中公叢書、1977)、『素足の心理療法』(みすず書房、1989)、『霜山徳爾著作集』(全7巻、学樹書院、1999-2001)。訳書 フランクル『死と愛』『神経症 II』、メダルト・ボス『東洋の英知と心理療法』(共訳、以上みすず書房)。
登録情報
- 出版社 : みすず書房 (1985/1/23)
- 発売日 : 1985/1/23
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 216ページ
- ISBN-10 : 4622006014
- ISBN-13 : 978-4622006015
- Amazon 売れ筋ランキング: - 16,506位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,474位文学・評論 (本)
- - 4,570位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月1日に日本でレビュー済み
昭和31年刊行。日本軍も同じようなことをしていた、むしろもっと酷かったかもしれないと思いました。具体的に何をされた何があったかの叙述は省かれていて、医師である著者の内面的なものをテーマに描いてあり、人間性を奪われ使役されるなかで、正気を保ち、それは生きる意欲ともいえ、肉体的にも生命力となるものは何かを追求してあります。そして、それを保ち生き抜けた著者の内面を通して描かれているため、ただただ陰惨なだけでなく、凄みのある明るさがありますね。保つ、というのか、高めてゆくと言った方が相応しいのでしょう。これは、私が言うに及ばないことですが、名著。繰り返し読みたいものです。
2023年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
友達に頼まれて購入しました。
友達はよかったと言っていました。
友達はよかったと言っていました。
2023年3月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
旧書、新書どちらも完読。旧の方は文体が硬く読みづらいが時代背景と交差してより真実味が際立つ。人間がどこまで卑劣に残虐かつ凶悪になれるのかを知らしめた時代とそこに生きた人達。かの時代、例えば自分がユダヤ人でない独人だっら、例えばナチ側の教育で育っていたら、国をあげて靡いた独裁政策に背を向け、ユダヤ人達を匿うことができたのか?強制収容所の監視責任者の様に殺される事を覚悟してでも囚人達に自腹で薬を買いに行ける勇敢な人間でいれただろうか?考えさせられました。
どんな状況の中でもこの世の中には2つの種族がある、すなわち善意ある品位ある人間と、そうでない人間、、著者の言葉には説得力と真意がある。
未来を失うことは希望を失う、希望を失うことは未来を失わせる、希望は生命力を強くする。ハッタリでも希望をもって未来を思い描こう!
希望は自分の心の中にあるのだ!そしてタダです!!
「人間はどこまでも尊くどこまでも悪になれる」事をこれでもかと教えられたられた。大きな畝りに時代が悪の方向に流され、国も政治も民衆も近隣国もその膨大な畝りに飲まれていった行き先がこの人間地獄絵図。この事実が近代にあった事を私たちは絶対に忘れてはいけない。
間違った方向に進んで行かない世の中を、地球に生きる一員として愛と品位と心の通った思いを持って胸を張って生きていこうと思います。
どんな状況の中でもこの世の中には2つの種族がある、すなわち善意ある品位ある人間と、そうでない人間、、著者の言葉には説得力と真意がある。
未来を失うことは希望を失う、希望を失うことは未来を失わせる、希望は生命力を強くする。ハッタリでも希望をもって未来を思い描こう!
希望は自分の心の中にあるのだ!そしてタダです!!
「人間はどこまでも尊くどこまでも悪になれる」事をこれでもかと教えられたられた。大きな畝りに時代が悪の方向に流され、国も政治も民衆も近隣国もその膨大な畝りに飲まれていった行き先がこの人間地獄絵図。この事実が近代にあった事を私たちは絶対に忘れてはいけない。
間違った方向に進んで行かない世の中を、地球に生きる一員として愛と品位と心の通った思いを持って胸を張って生きていこうと思います。
2019年10月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
解説は途中で長すぎて読みきれず。本編は全部読みました。
このような状況の中で、他者への愛や自分の使命などによりほんのわずかな生きる活力を見出した。他者への働きかけもあったからわずかな可能性の中生き延びた。
どんな悪い組織にもわずかながら善は存在し、どんな良い組織にもわずかながら悪は存在する。
文字だったから何とか拒絶せずに読めたが、少しでも挿絵があったら残酷すぎて無理だった。
なんでこんな残虐な世界を作る必要があったのか、歴史的背景を学ばなくては。
このような状況の中で、他者への愛や自分の使命などによりほんのわずかな生きる活力を見出した。他者への働きかけもあったからわずかな可能性の中生き延びた。
どんな悪い組織にもわずかながら善は存在し、どんな良い組織にもわずかながら悪は存在する。
文字だったから何とか拒絶せずに読めたが、少しでも挿絵があったら残酷すぎて無理だった。
なんでこんな残虐な世界を作る必要があったのか、歴史的背景を学ばなくては。
2023年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ナチスドイツがこのような人間への仕打ちをしたのは100年も経っていないという事実。国家、民族を問わず、現代も世界中で虐待、虐殺はある。無くならない。創造価値、体験価値、態度価値。人生における使命、生きる価値を作るのではなく見出すこと。生きるとは人生からの問いかけに日々、行動で答えていくこと。改めて自戒とした。
2021年4月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ここで述べられている最も重要なものとは、どのようなおぞましい悪夢よりも悪(苦しみ)の存在するなか(現実)に置かれたとき、人を真に救済するのは何であったかという人間がいつしか必ず直面するであろう何より深刻な問題である。
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。
最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。
『われわれは「幸福」を問題としないのである。
われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」
この世界には、いつから始まったのだろうか、その存在が堪えられないと感じるほどの悪(苦しみ)が。
人が悪を行うも善を行うも、その善と悪を享受するも拒むも、その決断する自由が、本当に平等にあるのならば。
そして、自由であるからこそ、そこに揺るがない"罪"として存在し得るのか。
人間が、本当に自由であると信じるとき、それは自分の身に降り掛かるすべての苦痛でさえ、みずからの自由の決断によって起こるべくして起こっていることを信ずるということである。
わたしはこのフランクルが何度と溢れる悲しみを抑えながら綴り続けたであろう『夜と霧』を読みながら感動で幾度も涙が流れたが、一つの深い不満を感じているのは、人間の"罪"の意識について、それが重要なものとして言及されていなかったと感じたからである。
罪の意識とは、顕在意識と潜在意識両方に存在できるが、その罪なる行為から目を背けている以上、例え人間が苦しみの底にあり続けようとも自分が赦される日が来ることを信じる(求める)ことはできないだろう。
わたしはこの本を人類が客観的視点、また過去に起きた悲劇として読んではならないと感じるのはまさに人類は未だ"本当"の強制収容所のなかに生きて死んでゆかねばならない存在(当事者)であることをわたしが知るからである。
もっとも、この強制収容所が現実に今もほとんどの国の場所に存在し続ける"断末魔の鳴り止まない地獄"の、その排泄物と血に汚れた場所とほとんどそっくりの在り方をしていることに気づいた読者は少なくないであろう。
"彼ら"もまた、自分にいつ"死"が訪れるかは知らない。
そして何故、自分たちがこのような"地獄"のなかで生きなくてはならないか、そして何故支配する者たちによって殺されねばならないか、その理由を知り得ない。
"彼ら"もまた、"人"として叫び続けているかも知れない。
「わたしたちは全くこれほどの酷い扱いを受けなくてはならないほどに悪いことをしたであろうか?」
"彼ら"は、助けてくれと、その悲痛なる"声"によって支配者に対して懇願する。
最期の最後まで、切実に"彼ら"は願う。
「わたしは殺されたくない。わたしは生きたいのだ。わたしは生きている。わたしにもあなたと同じ赤い血が流れている。あなたと何が違うのだろうか。」
ある日、囚人の為に、悦ばしいものが"食べ物"として与えられた。
囚人たちは夢中になって、その歓喜を挙げるほどに美味いものを口に運んだ。
そしてのちに、それが自分と同じ"仲間"だった者の"肉"であったことを知った。
それに気づいていながらも、それを味わって食べることをやめるすべを持たなかった。
わたしは想うのだが、これこそが、人間にとって、最も残酷な悲劇として、人間によって人間が人間で在り続けることを奪われる最も忌まわしく皮肉で悍ましい我々が経験し得る最悪な"罪"の意識として在ると言えるのではないか。
しかし実際には、どれほどの人がその罪の意識に最も苦しみ続けて生きて死んでゆけたであろうか。
わたしはこの本を読んで、最も気になったのは、本当に精神の倫理的、道徳的高みに達した極少数の人が、自分の身に起こる、時に堪えられないほどの苦痛と、みずからの"罪"の深層にある何より重く苦しい意識とを全く関係のないものとして切り離し続けて過ごしたのか、ということである。
つまり自分を"被害を受ける者"から、"加害を与えた者"としてみずからを省みて苦しむ瞬間が、どれほどあったのか。
これは原罪を信じる敬虔なクリスチャンやみずからの内にある善悪と常に向き合って来た仏教徒などばかりがここぞとばかりに与えられる特権的心理ではないはずである。
フランクルが、疲弊しきった心身を起こし、仲間たちに人間の救いを論ずる最後に、"犠牲"の価値(意味)について語り、それを聴き終えた者たちが涙して彼にぼろぼろの身体でよろめきながら歩み寄って感謝するシーンに、わたしは涙が流れた。
わたしもまた、人間にとって最も救いとなる意識は、みずから"犠牲"となることを望む精神にこそ在ると信じているからである。
しかしわたしの言う"犠牲"は、愛する者たちを最も救う為の犠牲ではなく、その意識には、自分が無関心を装い続けてきたすべての存在、そして何よりも自分がこれまで、愛することができなかったが為に、苦しめ、また殺して来た無数の存在たちに対する"罪"の意識がどうしても密接に関わっている必要があるのである。
聖書を繰り返し読み続けて来たであろうフランクル(彼の”神”なる超越した存在に対する想いは『人生の意味と神』という彼の神についての対話の本を今後読んで知りたいと想う。)が、堪えられない地獄の生活のなかで人間のなかに積み重なり続けて来たであろう目を背け続けて来た人々とみずからの罪と人間の救済の関わりについて考察してくれなかったことが真に残念でならない。
イエス・キリストの尊い犠牲は、人類の罪がなくては、必要がなかったのである。
人間にとって、最も重要な決断、みずからを、最も苦しい地獄から救い出す為の勇気ある決断、それは、自分が愛する者の為の犠牲となることではなく、寧ろ自分がその痛みと苦しみをわからなかったが為に、その地獄から救うことに関心も持たなかったが為に、地獄の底に突き落とし虚しく生命を終わらせ続けて来た存在たちの為に、人はどれほど苦しくともみずから犠牲となることを心から求め続け、それを成就させようとする決意、みずからの神との約束なのである。
だからイエス・キリストは「容易に愛することのできる者(自分を愛してくれる者)だけを愛したからといって何の報いがあるだろうか。」と言い、自分を苦しめて迫害した者の為に祈り続け、自分の地獄の苦しみによって人類の(堪えられないほどの)罪を贖うことを信仰し、"真の愛"こそが自らを救うことを"人"の手本として見せる為に拷問を受けて磔となって処刑されたのである。
終末に恐ろしい速度で向かっているだろう今、我々人類が、本当の滅びに至るまでに、この"自己犠牲"の決断をできるかが、一人ひとりに試されているのではないか。
そのとき、自分の護りたい存在だけを助けようとし、自分たちの苦痛ばかりに囚われ、自分の望む未来だけを希望するならば、到底、最早われわれは、間に合わないだろう。
そこには永遠に続くと感じる強制収容所と比べ物にならないほどの、未曾有の状態が待ち受けてるかも知れないのである。
このようなホロコーストが、ジェノサイドが、何故起こってしまったのか?を考え続けながら、大多数の人類が現に今関わり続けている無慈悲なホロコースト(大量虐殺)から目を逸らし続ける限り、悍ましく悲惨な歴史は繰り返されるだろう。
人はまさしく人でありながら支配する人間たちの利己的な意識の為に家畜となり、屠殺されるが如き"地獄の死"に向かって生かされ、そして実にほとんどの者が、その場所から生きて出られないのである。
しかし人間には、精神の自由があるはずではないか。
精神とは、潜在する深層にある意識である。
人は本当の苦しみの底に在るとき、自分が自分の生死を決める権限を持ってはいないのだと信じる必要があるだろうか。
人は自分が本当に殺されたくはないのに、殺されるときには自分の望みも虚しく殺されるのだということを信じる必要があるだろうか。
そしてその信仰によって、人は救われるだろうか。
人は真に救いを求めずにはいられぬほどに苦しみ続けた末に、自分は救われないことを信じて、自分の信仰によって虚しく救われないまま死ぬ必要があるだろうか。
わたしは、はっきりと言いたいが、人間の真の悲劇、真の不幸は、これ(堪えられないほどの地獄が持続し続ける苦しみ)を経験して死んだ者よりずっと、これを経験できないで死ぬことに在ると言いたい。
それは存在が永遠の無限の自由であることをわたしが信じる以外は、わたしがどうしてもこの世界に納得できないほどに、この世界も自分自身の人生も、堪え難い苦しみが絶えないからである。
フランクルの言った"光(喜び)と闇(苦痛)のコントラスト"は、真実を表している。
だからこそ、みずからどこまでも苦しもうとする者ほど、確かにどのような苦しみにも堪え忍ぶことのできる強さを与えられ、その者は、その力によって真の喜びを創造する未来をみずから約束し、みずからの放つ光によってみずからを救うことができ得るのである。
そしてみずからどこまでも苦しみを求むこととは、自分に堪えられるだけの苦しみを神が自分に与えることを真に信じる信仰であり、それによって初めて人は本当に恐れを手放し、我が人生のすべてに身を委ね、みずからの傷を癒やし、安心することができるだろう。
安易な希望と未来(みずからに都合の良い世界)を信じ、自分の罪も省みないで苦しみが取り除かれることを祈る道は自己を崩壊する道であるのに対し、ひたすら自分のすべての罪悪が正しく裁かれることを祈り続け、自分の愚かさを嘆き、すべてへの贖いとすべてを救う為に自分が堪え得る限りの苦しみの犠牲となることを祈り続ける道は、自己を真に救済する道であることをわたしは人々にもフランクルにも言いたい。
多分彼なら、わたしの言い分を快く認め、頷いてくれるように想える。
この一つの抜け出ることの許されぬ場所(地上)に生きる哀れな、ほとんど誰も読まない言葉を綴り続け、切実に救いを請い求め続ける罪深く愚かな独りの人間に対して。
最後に終盤で彼が語った印象的な言葉を載せる。
『われわれは「幸福」を問題としないのである。
われわれを支えてくれるもの、
われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。」