一体、「全体主義」といわれるものは、ヒトラーやムッソリーニ代表されるファシズムの政治的頂点であり、それらは第二次大戦によってあとかもなく消滅したはずである。だとすると、『21世紀の全体主義』とは何を指すのか。
著者はハンナ・アーレントの『全体主義の起源』『イェルサレムのアイヒマン』などを参照し、全体主義の歴史性と、その変幻自在な正体を分析しながら、決して滅んだわけではない全体主義の黒い影を日本社会の現下に探り、その兆候をひとつひとつを望見するかつてない試みである。
全体主義に巣食う大衆意識の『思考停止』をアーレントより演繹しながら、とりわけ、今日のように肥大化したメディアにのせられ、、あえてカリスマ指導者を必要としない「思考を停止した無名の多数派」が全体主義の台風の目になりうる可能性に着目した。
世代を一律化、「多様性の調和」に対する露骨な嫌悪感と同調勢力による『いじめ』全体主義、民主党政権時の『事業仕分け』や、自民党小泉政権の『郵政改革』等にみる改革ありきの全体主義、メディアはこれを「劇場型」ともてはやし、それらに群がり雷同する人々は、多数派志向の『凡庸』なその他大勢にすぎず、中身のない『からっぽ』なうねりと断言する。
こうした社会現象を支える経済構造にもメスを入れる。『グローバル経済』の信奉者である日本の経済学会。『新自由主義』経済政策を慫慂する「政・官・財」と産業の一体化した、アメリカの下請け『全体主義』をつぶさに紹介している。強権的な国家運営とは一見無縁に思える民主主義国家にあってこそ『全体主義と結託したとき、瞬く間に全体主義現象を加速し、巨大化させるもの』と警告する。かつてマルクスは「共産党宣言」の冒頭で、「ヨーロッパには幽霊が出る、共産主義という幽霊が」と有名なことばを残した。
マルクスやレーニンすら思い及ばなかった21世紀の幽霊、世界をまたぐ『グローバル資本主義』。
果たしてわたしたちは、日本の顔をした『グローバル全体主義』の蟻地獄に落ちてしまったのであろうか。
『』は本文より引用しました。

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〈凡庸〉という悪魔 (犀の教室) 単行本 – 2015/4/25
藤井聡
(著)
ハンナ・アーレントの
全体主義論で読み解く、
現代日本の病理構造
「思考停止」した「凡庸」な人々の増殖が、
巨大な悪魔=「全体主義」を生む。
21世紀の全体主義は、ヒトラーのナチス・ドイツの時代と違い、
目に見えない「空気」の形で社会を蝕む。
マスコミに圧力をかけ言論を封殺する政治家も、改革を絶対視する風潮も、
グローバリズムの蔓延も、学界の劣化も、すでに「全体主義」の危険水域!
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』の成果を援用しつつ、
現代日本社会の様々な局面で顔をのぞかせる、
「凡庸という悪」のもたらす病理の構造を抉る書き下ろし論考。
思考停止が蔓延する危機の時代に読まれるべきテキスト。
【目次】
序 章 全体主義を導く「凡庸」な人々
■第1部 全体主義とは何か?──ハンナ・アーレントの考察から
第1章 全体主義は、いたって特殊な「主義」である
第2章 ナチス・ドイツの全体主義
第3章 〝凡庸〟という大罪
■第2部 21世紀の全体主義──日本社会の病理構造
第4章 いじめ全体主義
第5章 「改革」全体主義
第6章 「新自由主義」全体主義
第7章 グローバリズム全体主義
おわりに 「大阪都構想」と「全体主義」
全体主義論で読み解く、
現代日本の病理構造
「思考停止」した「凡庸」な人々の増殖が、
巨大な悪魔=「全体主義」を生む。
21世紀の全体主義は、ヒトラーのナチス・ドイツの時代と違い、
目に見えない「空気」の形で社会を蝕む。
マスコミに圧力をかけ言論を封殺する政治家も、改革を絶対視する風潮も、
グローバリズムの蔓延も、学界の劣化も、すでに「全体主義」の危険水域!
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』の成果を援用しつつ、
現代日本社会の様々な局面で顔をのぞかせる、
「凡庸という悪」のもたらす病理の構造を抉る書き下ろし論考。
思考停止が蔓延する危機の時代に読まれるべきテキスト。
【目次】
序 章 全体主義を導く「凡庸」な人々
■第1部 全体主義とは何か?──ハンナ・アーレントの考察から
第1章 全体主義は、いたって特殊な「主義」である
第2章 ナチス・ドイツの全体主義
第3章 〝凡庸〟という大罪
■第2部 21世紀の全体主義──日本社会の病理構造
第4章 いじめ全体主義
第5章 「改革」全体主義
第6章 「新自由主義」全体主義
第7章 グローバリズム全体主義
おわりに 「大阪都構想」と「全体主義」
- 本の長さ280ページ
- 言語日本語
- 出版社晶文社
- 発売日2015/4/25
- 寸法18.8 x 12.8 x 2.5 cm
- ISBN-104794968191
- ISBN-13978-4794968197
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商品の説明
著者について
藤井聡(ふじい・さとし) 1968年奈良県生まれ。京都大学大学院工学研究科教授(都市社会工学専攻)。京都大学土木工学科卒、同大学院土木工学専攻修了後、同大学助教授、東京工業大学助教授、教授、イエテボリ大学心理学科客員研究員等を経て、09年より現職。また、11年より京都大学レジリエンス研究ユニット長、ならびに第二次安倍内閣・内閣官房参与(防災減災ニューディール担当)。文部科学大臣表彰、日本学術振興会賞等、受賞多数。専門は、公共政策に関わる実践的人文社会科学全般。 『大衆社会の処方箋 実学としての社会哲学』(北樹出版)、『社会的ジレンマの処方箋 都市・交通・環境問題のための心理学』(ナカニシヤ出版)、『政の哲学』(青林堂)、『土木計画学 公共選択の社会科学』(学芸出版社)、『プラグマティズムの作法』(技術評論社)、『強靭化の思想』(扶桑社)、『築土構木の思想』(晶文社)、『公共事業が日本を救う』『列島強靭化論』『大阪都構想が日本を破壊する』(共に文春新書)、など著書多数。
登録情報
- 出版社 : 晶文社 (2015/4/25)
- 発売日 : 2015/4/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 280ページ
- ISBN-10 : 4794968191
- ISBN-13 : 978-4794968197
- 寸法 : 18.8 x 12.8 x 2.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 394,396位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,873位哲学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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藤井 聡(ふじい さとし)京都大学(大学院工学研究科・都市社会工学専攻)教授 1968年奈良県生まれ。
91年京都大学卒業、93年京都大学大学院修了後、93年同大学助手、98年スウェーデン・イエテボリ大学客員研究員,02年京都大学助教授、03年東京工業大学助教授、06同大学教授を経て,09年より現職。
専門は土木工学(土木計画学)、交通工学,ならびに,公共問題のための心理学.
受賞歴は、
『社会的ジレンマ研究』で03年土木学会論文賞,07年文部科学大臣表彰・若手科学者賞、10年日本学術振興会賞。
『認知的意思決定研究』で05年日本行動計量学会優秀賞(林知己夫賞)。
『村上春樹に見る近代日本のクロニクル』にて06年表現者奨励賞。
『交通政策論』で08年米谷・佐々木賞。
『モビリティ・マネジメント入門』にて08年交通図書賞。
『交通需要予測研究』で98年土木学会論文奨励賞。
『コミュニティに関する進化心理学研究』で09年社会心理学会奨励論文賞。
詳しくは、
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/fujiilab/fujii.html
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2021年6月18日に日本でレビュー済み
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まさに今の時代に読んでほしい本。あれ?おかしいのになんでみんな言わへんの?ということがあったら必読です!
2021年6月9日に日本でレビュー済み
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このショップからは、何度か購入しているが、いつも上質なレベルのものが送られてくるので安心している。
2015年7月7日に日本でレビュー済み
「政治においては服従と支配は同じもの」というハンナ・アーレントの言葉は胸に突き刺さる。だからこそ命令に従っただけ、国家という組織のなかの歯車にすぎなかった、という言い訳は成り立たないとした彼女の論理は日々政治にかかわる人間、政治家だけでなくわれわれ有権者の責任をも問うている。「政治とは子供の遊び場ではない」。もっといえば企業の経営や団体の運営にしても、ひとたび個人を越えたコミュニティという単位が立ち上がった瞬間から子供の遊び場ではない。服従と支配は同じもの、無関心と支配は同じもの。権利というものをタダで手にすることはできないのだ。昨今の少年犯罪者の著書を巡る問題では被害者の心情や加害者の更生、犯罪者が商業出版によって利益を得ることの是非などが問題になったが、「表現の自由」についての議論が深まることはなかった。「表現の自由」は、今回のような不快な出来事が起こる可能性をあらかじめ含んでいる。どう見てもこいつが犯人だろうと思う場合でも、証拠がなければ「疑わしきは罰しない」ことが法に守られることに対する代償であるように。そんなことを考えた。
全体主義、についての本である。2章まではアーレントの考察。彼女がナチスの犯罪の中に見た「凡庸という悪魔」の正体が手短に書かれており、独裁者以外誰もものを決められないという典型的かつ徹底的な思考停止社会であったナチス・ドイツについて語られる。それは遠い時代の遠い国の話ではなく、すぐそこに見つけることのでき現象である。ここまではよかったが、3章以降は郵政改革も新自由主義もグローバリズムもことごとく「全体主義」であると断じるなど、議論が乱暴。扇情的な表現や決めつけも気になった。たとえば「『新自由主義が正しいと言ってくれ!』、とよだれを垂らしながらねだり続ける俗情にまみれたあらゆる種類の野獣たちが蠢いている」といったくだり。ここまで言う必要があるのだろうか。「グローバル化さえしていなければこうした景気の乱高下はあり得ない」「こうした軍事的危機が世界各国で高まっている状況は、グローバル化さえ進展していなければ生じていなかったに違いない」「新自由主義さえなければ普通に暮らしていけたに違いない夥しい数の人々が不幸の底にたたき落とされ……」とまで言い切れるのだろうか。「ユダヤ人さえいなければ」というロジックをなぞってしまっていることにならないのだろうか。
全体主義、についての本である。2章まではアーレントの考察。彼女がナチスの犯罪の中に見た「凡庸という悪魔」の正体が手短に書かれており、独裁者以外誰もものを決められないという典型的かつ徹底的な思考停止社会であったナチス・ドイツについて語られる。それは遠い時代の遠い国の話ではなく、すぐそこに見つけることのでき現象である。ここまではよかったが、3章以降は郵政改革も新自由主義もグローバリズムもことごとく「全体主義」であると断じるなど、議論が乱暴。扇情的な表現や決めつけも気になった。たとえば「『新自由主義が正しいと言ってくれ!』、とよだれを垂らしながらねだり続ける俗情にまみれたあらゆる種類の野獣たちが蠢いている」といったくだり。ここまで言う必要があるのだろうか。「グローバル化さえしていなければこうした景気の乱高下はあり得ない」「こうした軍事的危機が世界各国で高まっている状況は、グローバル化さえ進展していなければ生じていなかったに違いない」「新自由主義さえなければ普通に暮らしていけたに違いない夥しい数の人々が不幸の底にたたき落とされ……」とまで言い切れるのだろうか。「ユダヤ人さえいなければ」というロジックをなぞってしまっていることにならないのだろうか。
2021年5月12日に日本でレビュー済み
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今、起こっている不条理な現実について、道筋を明らかにしてくれており、「なるほど!」と合点が行きました。小生のような凡人にとっては「平凡」であることの素晴しさの反面、「凡庸」であってはならない怖さを認識することができました。
2015年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最期まで読了して、結果的に非常に面白い著書であった。
最初、ハンナ・アーレントを引用したナチス批判に関しては既視感があり、正しい事は言っているものの、
その中における<凡庸>という言葉の使い方に危機感を感じた。
なぜなら、いわゆる全体主義は民族の優秀性を誇示し、単なる凡俗にすぎない一般市民を選ばれし優良民族に祭り上げてしまうからだ。
近年蔓延している新自由主義においても「バスに乗り遅れるな」「市場開放に賛同しないものは馬鹿」などと、思考停止に陥った人たちが
実際に自分の頭で考えて反対を表明している人たちの言説を否定するときに使う言葉が「あいつらは馬鹿だから」である。検証もせずに
ただの周辺の空気によって相手を馬鹿認定する。いわゆる、思考停止に陥った人間が相手を意見を「凡庸」と切り捨てて暴走をする
プロセスを想起させられたからだ。
しかし、この問題は130頁以降に記述されているアノミーによって説明されていた。道徳規律の崩壊によって人は他者の意見を尊重せず、
意図的な詐術によって自己利益を得ようとし、その過程において、それが嘘である事が分かっていながら、単なる権力闘争の道具を
正義であると言い換えて国家を崩壊に導く過程に介在するアノミーの存在こそ警戒しなければならない。そのことを明確に記述してあった。
前半はナチスの事例を中心として書かれているが、後半には現代日本の問題点、改革という名のミスリード、ルサンチマンを利用した
大衆扇動など、極めて勉強になる内容が多く、大いに知的好奇心を満足させられた。
人間は実はそれほど馬鹿ではない。問題は、最初から間違いであると分かっている事象に対して、僅かな自己利益を得るために、国家が崩壊し
莫大な数の人々が死ぬことも是とする道徳規律の崩壊こそ恐怖であり、それを肯定し、思考停止に陥ってしまう過程においてアノミーが介在し、
その事によって全体主義が加速していく状況が詳細に記述してあり、極めて納得のいく内容であった。
現代に蔓延する洗脳、扇動に踊らされぬために、是非とも読んでおきたい一冊である。
最初、ハンナ・アーレントを引用したナチス批判に関しては既視感があり、正しい事は言っているものの、
その中における<凡庸>という言葉の使い方に危機感を感じた。
なぜなら、いわゆる全体主義は民族の優秀性を誇示し、単なる凡俗にすぎない一般市民を選ばれし優良民族に祭り上げてしまうからだ。
近年蔓延している新自由主義においても「バスに乗り遅れるな」「市場開放に賛同しないものは馬鹿」などと、思考停止に陥った人たちが
実際に自分の頭で考えて反対を表明している人たちの言説を否定するときに使う言葉が「あいつらは馬鹿だから」である。検証もせずに
ただの周辺の空気によって相手を馬鹿認定する。いわゆる、思考停止に陥った人間が相手を意見を「凡庸」と切り捨てて暴走をする
プロセスを想起させられたからだ。
しかし、この問題は130頁以降に記述されているアノミーによって説明されていた。道徳規律の崩壊によって人は他者の意見を尊重せず、
意図的な詐術によって自己利益を得ようとし、その過程において、それが嘘である事が分かっていながら、単なる権力闘争の道具を
正義であると言い換えて国家を崩壊に導く過程に介在するアノミーの存在こそ警戒しなければならない。そのことを明確に記述してあった。
前半はナチスの事例を中心として書かれているが、後半には現代日本の問題点、改革という名のミスリード、ルサンチマンを利用した
大衆扇動など、極めて勉強になる内容が多く、大いに知的好奇心を満足させられた。
人間は実はそれほど馬鹿ではない。問題は、最初から間違いであると分かっている事象に対して、僅かな自己利益を得るために、国家が崩壊し
莫大な数の人々が死ぬことも是とする道徳規律の崩壊こそ恐怖であり、それを肯定し、思考停止に陥ってしまう過程においてアノミーが介在し、
その事によって全体主義が加速していく状況が詳細に記述してあり、極めて納得のいく内容であった。
現代に蔓延する洗脳、扇動に踊らされぬために、是非とも読んでおきたい一冊である。
2020年7月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、大衆を空っぽのものとして論じる本には反対だ。アーレントやオルテガ・イ・ガセット、もちろん本書も。庶民への蔑視と強烈なエリート意識が素直な読書を妨げる。なによりも、読者に自分は庶民ではないという優越感を与え、必要な批判意識を鈍らせることが問題だ
大衆を一種の無機物と見立てるのは、論じるのがたやすく、またもっともらしいストーリーになることは確かなのだろうが、事実を正確に反映しているかどうかの検証がおろそかになりはしまいか。私は、たとえばWW1後のドイツ国民は真剣に国の将来のことを、それぞれの頭で考えたがゆえにあの悲劇につながったのだと思うが、どうだろう。連合国の要求を一方的に飲んで、これから二等国として落ちぶれてゆくより、ナチスの指し示す希望にすがるということは、それほど思考停止だろうか。私が当時のドイツ国民なら、たぶんそれに乗る。歴史というのは、最良の選択でも結局は悲劇にしかならないという逆説にあふれている
空っぽ=ニヒリズム、というが、ニヒリズムの代表であるニーチェ、あるいは日本で適当に思いつくところで芥川龍之介、現代ではニック・ランドなど、いずれも強烈な自己主張の持ち主であり、ニヒリズムが空虚であるとはあまりにも皮相な見方だ。少し細かい議論だが、例えばニーチェのニヒリズムは、道徳や社会的規範の絶対的な論拠が存在しないことを言うのであり、むしろ膨大な考察の末の選択である。ニヒリズムとはだれの場合を取ってもそういうものだ。ほめられたものではないとしても
私はハンナ・アーレントの著作も、歴史的事実が外観できてその意味ではよいと思うが、考察はそこまで深いとは思わない。彼女が今脚光を浴びているのは、国家主義をけん制しグローバル化推進の要求に沿うもので、むしろ藤井氏の意味付けとは別の動きによるものだと思う。そうであるとしたら、本書のような抽象的で軽い分析によってひっくりかえせるものとは思えない。本書の叙述で納得してしまうとしたら、読解力に問題がある
この著者をはじめとしてグローバリズムを非とする主張はよく聞く。もちろん現状では行き過ぎているのだろう。だが、人間の歴史はグローバル化とともにあることもたしかだ。なぜかというに、商売をしていればもっと儲けたいと思うし、それなら販路を広げよう、ここで安く手に入れたものを外に持って行って高く売ろう、効率を考えて我が国はキャラバンだけに徹しよう、となるのは自然だ。それは人間の欲に根差したものである
だから妨げるべきではない、と言いたいわけではない。著者はGDPの拡大を礼賛する。そうであれば、それは個人の「儲けたい」という欲に訴えることであり、最初から矛盾含みである。だからここはきめ細かな議論が必要なと ころだが、単純にGDPは拡大すべきであり、グローバリズムはいけないと、別々に言っているようにしか見えない。それは藤井氏の別の議論でもそうで、国土強靭化は結構なことだが、単純労働者を移民として入れなければ到底実行できない計画を出して、一方でグローバリズム反対、はない
私がこの本で心から悪質だと思うのは、ナチスという誰も反対のしようのない悪と、アーレントという強力な権威を出しておいて、日本の状況を述べ、さらに大阪維新の会への批判を締めに持ってきた点で、これこそ印象操作と言わずして何であろう。そもそもつなぎの部分の理論がまたあまりに粗雑で全く読むに値しない愚論である。たとえば、いじめも全体主義の構造を持つというのだが、いじめとは結局入学前の教育の問題、そして教師の権威の低下の問題である。教室の規律がもっとしっかり保たれておれば、すなわちもう少し全体主義的であったなら、そして人には親切に接しようというプロパガンダが成功しておれば、いじめは激減するだろう
私は、自分の説が正しいというのではない。国民の規範意識とは、せんじ詰めれば洗脳と一種の思考停止であり、プラスにもマイナスにも自在に価値づけ可能である。つまりどうにでも論じられる。あれもこれも全体主義と相似形である、という議論は全く役に立たない。はっきり言って中学生でも思いつくレベルのことで、自信たっぷりに本に書いてしまうとは情けないにもほどがある
経済理論についてはさらに言いたいことがあるが、ここは複雑すぎる問題なので省く。ただひとつ、氏のでたらめな論理で、人の理屈を疑似科学呼ばわりはない、ということだ。最後の大阪維新の会についてだが、いろいろな意見があるにせよ、藤井氏の論は日本解体という極論を持ち出してまともな議論を封殺するもので、まじめに考えているとはとても思えない。もちろん維新の言い分に何やらうさん臭さを感じる人も多いらしいが、私は道州制についての足立衆院議員の説明をYouTubeで視聴して、まともに考えるべきものと思うようになった。それによると、国の権力の一部を地方へ与えることで、国にしかできないこと、例えば国防や金融政策に集中してもらう案ということだ。ここで重要なのは、中央集権を弱めることで官僚の力をそぐことができるということ。現代日本の問題の非常に大きな一つが、官僚が強すぎるということで、藤井氏も、そして言論の同志たる三橋氏や中野氏もそれを指摘している。しかし彼らの理論は総体として中央集権を強め、官僚の力をさらに上げてゆくものである。もちろん一部を取って、そうではないと否定できる部分もあろうが、あくまでも総体としてそうなっていると私は思う
議論はただで無害なのだから、この点はもっと柔軟に、現実的に考えていってもよいのではないだろうか。もっとも、藤井氏は自分が気に入らない人はみな全体主義者か空っぽの愚民に見えるらしいからまともな意見交換は無理か
大衆を一種の無機物と見立てるのは、論じるのがたやすく、またもっともらしいストーリーになることは確かなのだろうが、事実を正確に反映しているかどうかの検証がおろそかになりはしまいか。私は、たとえばWW1後のドイツ国民は真剣に国の将来のことを、それぞれの頭で考えたがゆえにあの悲劇につながったのだと思うが、どうだろう。連合国の要求を一方的に飲んで、これから二等国として落ちぶれてゆくより、ナチスの指し示す希望にすがるということは、それほど思考停止だろうか。私が当時のドイツ国民なら、たぶんそれに乗る。歴史というのは、最良の選択でも結局は悲劇にしかならないという逆説にあふれている
空っぽ=ニヒリズム、というが、ニヒリズムの代表であるニーチェ、あるいは日本で適当に思いつくところで芥川龍之介、現代ではニック・ランドなど、いずれも強烈な自己主張の持ち主であり、ニヒリズムが空虚であるとはあまりにも皮相な見方だ。少し細かい議論だが、例えばニーチェのニヒリズムは、道徳や社会的規範の絶対的な論拠が存在しないことを言うのであり、むしろ膨大な考察の末の選択である。ニヒリズムとはだれの場合を取ってもそういうものだ。ほめられたものではないとしても
私はハンナ・アーレントの著作も、歴史的事実が外観できてその意味ではよいと思うが、考察はそこまで深いとは思わない。彼女が今脚光を浴びているのは、国家主義をけん制しグローバル化推進の要求に沿うもので、むしろ藤井氏の意味付けとは別の動きによるものだと思う。そうであるとしたら、本書のような抽象的で軽い分析によってひっくりかえせるものとは思えない。本書の叙述で納得してしまうとしたら、読解力に問題がある
この著者をはじめとしてグローバリズムを非とする主張はよく聞く。もちろん現状では行き過ぎているのだろう。だが、人間の歴史はグローバル化とともにあることもたしかだ。なぜかというに、商売をしていればもっと儲けたいと思うし、それなら販路を広げよう、ここで安く手に入れたものを外に持って行って高く売ろう、効率を考えて我が国はキャラバンだけに徹しよう、となるのは自然だ。それは人間の欲に根差したものである
だから妨げるべきではない、と言いたいわけではない。著者はGDPの拡大を礼賛する。そうであれば、それは個人の「儲けたい」という欲に訴えることであり、最初から矛盾含みである。だからここはきめ細かな議論が必要なと ころだが、単純にGDPは拡大すべきであり、グローバリズムはいけないと、別々に言っているようにしか見えない。それは藤井氏の別の議論でもそうで、国土強靭化は結構なことだが、単純労働者を移民として入れなければ到底実行できない計画を出して、一方でグローバリズム反対、はない
私がこの本で心から悪質だと思うのは、ナチスという誰も反対のしようのない悪と、アーレントという強力な権威を出しておいて、日本の状況を述べ、さらに大阪維新の会への批判を締めに持ってきた点で、これこそ印象操作と言わずして何であろう。そもそもつなぎの部分の理論がまたあまりに粗雑で全く読むに値しない愚論である。たとえば、いじめも全体主義の構造を持つというのだが、いじめとは結局入学前の教育の問題、そして教師の権威の低下の問題である。教室の規律がもっとしっかり保たれておれば、すなわちもう少し全体主義的であったなら、そして人には親切に接しようというプロパガンダが成功しておれば、いじめは激減するだろう
私は、自分の説が正しいというのではない。国民の規範意識とは、せんじ詰めれば洗脳と一種の思考停止であり、プラスにもマイナスにも自在に価値づけ可能である。つまりどうにでも論じられる。あれもこれも全体主義と相似形である、という議論は全く役に立たない。はっきり言って中学生でも思いつくレベルのことで、自信たっぷりに本に書いてしまうとは情けないにもほどがある
経済理論についてはさらに言いたいことがあるが、ここは複雑すぎる問題なので省く。ただひとつ、氏のでたらめな論理で、人の理屈を疑似科学呼ばわりはない、ということだ。最後の大阪維新の会についてだが、いろいろな意見があるにせよ、藤井氏の論は日本解体という極論を持ち出してまともな議論を封殺するもので、まじめに考えているとはとても思えない。もちろん維新の言い分に何やらうさん臭さを感じる人も多いらしいが、私は道州制についての足立衆院議員の説明をYouTubeで視聴して、まともに考えるべきものと思うようになった。それによると、国の権力の一部を地方へ与えることで、国にしかできないこと、例えば国防や金融政策に集中してもらう案ということだ。ここで重要なのは、中央集権を弱めることで官僚の力をそぐことができるということ。現代日本の問題の非常に大きな一つが、官僚が強すぎるということで、藤井氏も、そして言論の同志たる三橋氏や中野氏もそれを指摘している。しかし彼らの理論は総体として中央集権を強め、官僚の力をさらに上げてゆくものである。もちろん一部を取って、そうではないと否定できる部分もあろうが、あくまでも総体としてそうなっていると私は思う
議論はただで無害なのだから、この点はもっと柔軟に、現実的に考えていってもよいのではないだろうか。もっとも、藤井氏は自分が気に入らない人はみな全体主義者か空っぽの愚民に見えるらしいからまともな意見交換は無理か