『荘子』は玄侑氏にとって、
常にカバンに入れて持ち歩くほど大切な本だという。ふと思いついて
パッと開いたところを読むだけで、何かがほどけるような気分になる、と。
その理由が、本テキストを読んでわかった。
天から見れば万物はみんなちっちゃくて、
土もアリも人間も、みんな同じ。
そしてすべては
刻々と変化して、とどまることがない。
人生にも、
いいも悪いも、好きも嫌いも、きれいも汚ないも
勝ちも負けも、成功も失敗も、夢もうつつもなく、
あれこれ目標を立ててがんばったから
どうということもない。
それより、身におきるすべての変化を、
あるがままに受け入れて
受け身でいることだ。
なにもないことを楽しみ、喜びもかなしみも
順境も逆境も、健康も病気も
等しくおもしろがること。
この「完全なる受け身」こそ
本当の自由。
実際、荘子は王の招きを受けても
「剥製として祀られる亀になるより
泥の中で尾を曳いて生きる亀でいたい」と
宰相を辞退して
貧しくも自由な隠遁生活を送った。
社会の変化があまりに急で、
目が回る現代、
「何もないことを遊べ」と説く
荘子にホッとする人が多いのは、よくわかる。

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『荘子』 2015年5月 (100分 de 名著) ムック – 2015/4/25
玄侑 宗久
(その他)
完全な受け身――
それこそが自由なのだ
今から約2300年前の中国で成立したとされる思想書『荘子』は、一切をあるがままに受け入れるところに真の自由が成立すると説く。後の禅の成立に大きな役割を果たし、西行、芭蕉、漱石など多くの人々に影響を与え続けている。僧侶にして芥川賞作家である玄侑宗久が、『荘子』の魅力を存分に語る。
それこそが自由なのだ
今から約2300年前の中国で成立したとされる思想書『荘子』は、一切をあるがままに受け入れるところに真の自由が成立すると説く。後の禅の成立に大きな役割を果たし、西行、芭蕉、漱石など多くの人々に影響を与え続けている。僧侶にして芥川賞作家である玄侑宗久が、『荘子』の魅力を存分に語る。
- 本の長さ112ページ
- 言語日本語
- 出版社NHK出版
- 発売日2015/4/25
- ISBN-104142230506
- ISBN-13978-4142230501
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登録情報
- 出版社 : NHK出版 (2015/4/25)
- 発売日 : 2015/4/25
- 言語 : 日本語
- ムック : 112ページ
- ISBN-10 : 4142230506
- ISBN-13 : 978-4142230501
- Amazon 売れ筋ランキング: - 547,259位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年5月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
サブタイトルは「地名の由来に秘められた意外な日本史」となっている。
市町村合併により、昔の地名がどんどん消えてしまう中、過去の地名に歴史が刻まれていることを指摘している。平成の大合併で、さらに市町村名が減ってしまったのだろう。
中でも自分の住んでいる地元の話題や、人名が地名から付けられている場合があるので、自分の名前に関係した地名に興味をそそられた。
そして、古代から変わらない地名もあるが、時代を経るに従い変化してきた地名は、なぜ変わったのか、あるいはなぜ変わらなければならなかったのか詳しく考察しており、読み進めるのが楽しかった。
信仰と宗教がわかる地名として「宮」とか「神」がつく地名が挙げられていた。その例示の中に入っていなかったが、この辺では人名で「神代」という苗字がある。よみかたは『かこみ』または『かみよ』という。よそへ行くと『じんだい』と言ったりする。南部一之宮といわれる櫛引八幡宮のお膝元だから、そんな名前の人がいたのだろうか。こんなことも知りたいところだった。
市町村合併により、昔の地名がどんどん消えてしまう中、過去の地名に歴史が刻まれていることを指摘している。平成の大合併で、さらに市町村名が減ってしまったのだろう。
中でも自分の住んでいる地元の話題や、人名が地名から付けられている場合があるので、自分の名前に関係した地名に興味をそそられた。
そして、古代から変わらない地名もあるが、時代を経るに従い変化してきた地名は、なぜ変わったのか、あるいはなぜ変わらなければならなかったのか詳しく考察しており、読み進めるのが楽しかった。
信仰と宗教がわかる地名として「宮」とか「神」がつく地名が挙げられていた。その例示の中に入っていなかったが、この辺では人名で「神代」という苗字がある。よみかたは『かこみ』または『かみよ』という。よそへ行くと『じんだい』と言ったりする。南部一之宮といわれる櫛引八幡宮のお膝元だから、そんな名前の人がいたのだろうか。こんなことも知りたいところだった。
2015年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「しあわせ」という言葉は奈良時代は「為合」と表記し、天が為すことに合わせて
(受け入れて)生きることが人にとって幸せであるという意味だったようです。
つまり完全に受け身で、何も将来のことを予測せず無心で過ごすことが幸せという
ことで、これは荘子の考えそのものです。
現代社会に暮らしている私たちは常に将来のことを考え、来期は今期よりも売り上げを
伸ばそうとか、次の試験ではもっといい点をとろうとか、社会全体の生産性をあげて
豊かな社会を作ろうとか、いつも何かに追われています。なかなか社会の桎梏を離れて
無心にはなれません。そんな悩める私たちに作家玄侑宗久氏が荘子を通じて、
もっと肩の力を抜いてのびやかに生きてはどうですかと当書で語りかけてくれます。
荘子(荘周)は今から2300年前(戦国時代)の思想家。無為自然を基本とする
その思想は、道教や仏教(禅)、茶道などに大きな影響を与えています。
例えば、聖徳太子の冠位十二階(604年)の最高位、大徳(まひときみ)は真人君とも
書きますが「真人」は荘子から来ています。
荘子は自分の考えを寓話(=面白い小説)のかたちで書いています。思想書のように
難しい理論を述べていないので読みやすく、楽しく読んでいろいろ考えさせるように
なっています。因みに「小説」という言葉も荘子から来ています。
例えば「つるべの寓話」、
昔ある老人は、井戸の底までトンネルを掘ってその底まで下りて水がめに水を入れ
それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいた。それを見たある人が、老人に
「つるべ」という水揚げの便利な機械をなぜ使わないのかと訊ねると「仕掛けからくりを
使うものは、かならずからくり心(機心)を巡らし、こころが純白でなくなる。
つるべの存在を知らないわけではないが、使うのが恥ずかしいだけだ」・・
確かに私たちは効率を追求して便利なもの、便利なものとどんどん使い続けていますが
そのことでこころの安定を失っている面もあります。
荘子は万物斉同(万物はみなひとしい)と言っています。どんなものも人間と同じくらいの
価値があるということですから、現在の「生物多様性の保護」やエコロジー思想のさきがけでも
あります。産業革命から始まった近代化が私たちの生活をどう変えていったか、地球と環境に
どんな影響を与えているのか、(荘子を読んで)ふりかえって考えてみるのも意味あることだ
と思いました。
(受け入れて)生きることが人にとって幸せであるという意味だったようです。
つまり完全に受け身で、何も将来のことを予測せず無心で過ごすことが幸せという
ことで、これは荘子の考えそのものです。
現代社会に暮らしている私たちは常に将来のことを考え、来期は今期よりも売り上げを
伸ばそうとか、次の試験ではもっといい点をとろうとか、社会全体の生産性をあげて
豊かな社会を作ろうとか、いつも何かに追われています。なかなか社会の桎梏を離れて
無心にはなれません。そんな悩める私たちに作家玄侑宗久氏が荘子を通じて、
もっと肩の力を抜いてのびやかに生きてはどうですかと当書で語りかけてくれます。
荘子(荘周)は今から2300年前(戦国時代)の思想家。無為自然を基本とする
その思想は、道教や仏教(禅)、茶道などに大きな影響を与えています。
例えば、聖徳太子の冠位十二階(604年)の最高位、大徳(まひときみ)は真人君とも
書きますが「真人」は荘子から来ています。
荘子は自分の考えを寓話(=面白い小説)のかたちで書いています。思想書のように
難しい理論を述べていないので読みやすく、楽しく読んでいろいろ考えさせるように
なっています。因みに「小説」という言葉も荘子から来ています。
例えば「つるべの寓話」、
昔ある老人は、井戸の底までトンネルを掘ってその底まで下りて水がめに水を入れ
それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいた。それを見たある人が、老人に
「つるべ」という水揚げの便利な機械をなぜ使わないのかと訊ねると「仕掛けからくりを
使うものは、かならずからくり心(機心)を巡らし、こころが純白でなくなる。
つるべの存在を知らないわけではないが、使うのが恥ずかしいだけだ」・・
確かに私たちは効率を追求して便利なもの、便利なものとどんどん使い続けていますが
そのことでこころの安定を失っている面もあります。
荘子は万物斉同(万物はみなひとしい)と言っています。どんなものも人間と同じくらいの
価値があるということですから、現在の「生物多様性の保護」やエコロジー思想のさきがけでも
あります。産業革命から始まった近代化が私たちの生活をどう変えていったか、地球と環境に
どんな影響を与えているのか、(荘子を読んで)ふりかえって考えてみるのも意味あることだ
と思いました。
2015年6月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
長文ですみませんが、言わずにおれないので、言わせていただきます。
(1) 「はじめに」の中で、「いつしか人間は、自然というものは、自分たちが全貌を理解して制御することが可能なものだと思い込んでいたのではないでしょうか」(p.6)とありますが、東日本大震災以前でも、そこそこ被害の出た地震や災害は起こっていますし、海外での自然災害のニュースも入ってきますし、今の時点で人間が自然の全貌を理解して、完全に制御できると思っている人はいないと思います。宗教関係者は、世間を批判したいがために、世間の見方を実際以上に単純化したり極端化して悪くとらえる傾向があります。番組の第3回の中では、東日本大震災の時にいくらの損害だという金額が出たことについて、著者は「死者一人をいくらで計算してんの」と言ってましたが、この損害額は「経済損失」を金額表示しているだけで、人命を金額で評価しているわけではありません。世間を悪く解釈し過ぎる傾向があるから、こういう誤解をしてしまうのではないでしょうか。
(2) p.24では、機械の使用を勧められた人が「からくり(機械)を使う者は必ずからくり心を起こし、心の純白さがなくなる」と言って断った話が出てきますが、機械を使うことで心が不純になったりはしません。これは言葉の連想によるこじつけに過ぎません。老荘思想は言葉を信用していないとのことですが、それならなおさら言葉の意味の違いを慎重に見極める必要があるのに、老荘思想家たちは逆にそれを疎かにして、言葉の意味のすりかえに気が付かず、詭弁に陥ってしまっているのではないでしょうか。機械の普及で何か問題が発生する場合があるとしても、だからと言ってなぜ機械を全面否定する必要があるのでしょうか。地震の際、まだ効率的な救出技術がないために、それがあれば救えた命が失われています。技術も経済も福祉を支える重要な要素であり、これらを全面否定したり、過度に軽視することは、結局、命を軽視していることになります。命を軽視しているのは世間よりもむしろ老荘思想家の方ではないでしょうか。
(3) p.26では、「常に相手に同調して自己主張しない人」の話を無為自然の模範として出していますが、荘子自身は常に相手に同調などしていませんし、反論もしています。上記のp.24の人も相手に同調なんかしてません。著者は「荘子」に書いてあることがすべて正しいという前提で盲信的な読み方をしているせいか、こういう矛盾にも気が付かないのでしょうか。また、ここの話で、「自己主張しないこと」と「無為自然」を結びつけてとらえているのは著者であって、荘子自身がそういうとらえ方をしているかどうかはわかりません。「自己主張しないこと」はその人のいろんな特徴の一つとして挙げてあるだけです。
(4) p.48〜49では、「来世は待つべからず」という言葉を引用して、予測したり計画したり目標を立てたりすることを否定していますが、こういう解釈は字句にとらわれた原理主義的な解釈ではないでしょうか。この言葉は内篇の人間世篇の最後の話に出てきますが、その文脈では、乱世で「将来に希望を持てない」という趣旨の言葉のようで、「未来のことを何も考えてはいけない」という意味ではなさそうです。著者はこの言葉については出典を明記していませんが、元の文脈での意味がばれないようにということなら意図的曲解ということになります。また、p.50では、「(明王は)不測に立ちて無有に遊ぶ者なり」の「不測」を「予測がつかない状態」という意味に解釈していますが、「はかり知れない境地」(金谷治訳、興膳宏訳、森三樹三郎訳)とか「無限の広野」(市川安司訳)などの訳もあり、「予測がつかない状態」という意味かどうかはわかりません。老荘思想の問題点は老子や荘子自身の問題もあるかもしれませんが、老荘思想家たちの解釈の仕方にも問題があるかもしれません。
(5) p.54では、「無意識であること」が大事で、反復練習で無意識に出来るようになると言っていますが、最初から何も意識せずに練習すると、間違ったやり方や下手なやり方が身についてしまう場合もありますから、最初は正しいやり方や上手なやり方を「意識」して練習する必要があり、「意識的行為」を「人為」だからダメだと全面否定する必要はないはずです。
(6) p.57〜61では、「役に立つ者はそのために苦しむ。役に立たない方が長生きできる。」という趣旨の話を引き、「役立たず」になれと言っていますが、なぜ「長生き」に絶対的な価値を置くのでしょうか。地震の際に、救助活動に従事すると、二次災害に遭って危ないから、やめておけと言うのでしょうか。それでは単なる利己主義でしょう?また、役に立つと必ず苦しむわけではありません。「物事には良い面も悪い面もあって、価値は目的や観点によって異なる」という趣旨の話として解釈するならわかりますが、「役立たずになれ」というのはどう考えてもおかしいでしょう?荘子は内篇の徳充符篇の最後の話で「生を益さず(寿命を延ばそうとしない)」とも説いているわけですから、荘子自身がここの話を長生きや役立たずを推奨する趣旨で書いたのかどうかは疑問です。著者がそう解釈しているだけではないでしょうか。
(7) p.65では、「蝉は死を恐れたりしないため、死ぬ直前までその「もちまえ」を発揮し、ミンミン、ジージーと鳴いているのです」とありますが、蝉を捕まえようとすると逃げますから、死を恐れているのではないでしょうか。死に対する恐れを持たない生物がいるかどうかは知りませんが、多くの生物は「もちまえ(本性)」の一部として死に対する恐れを持っているはずです。
(8) p.68では、人間も鳥獣もそれぞれの「もちまえ(本性)」を発揮して仲良く同居している状態が「至徳の世」だという話が引用されていますが、本性だけで行動している動物の世界は厳しい弱肉強食の世界で、決して「仲良く」暮らしているわけではありません。人間の本性には動物的な本能がまだ残っていて、人間が本能にだけ従うと争いが絶えません。だから、人間は法律、道徳、教育などで内外からその本能を制御して、少しずつより良い社会を作る努力をしているわけでしょう?「もちまえ(本性)」を発揮すれば万事うまく行くという保証はまったくありません。法律、道徳、教育もやり方によっては弊害面もあるかもしれませんが、徐々に改善していけばよいわけで、全面否定する必要はありません。自然界もすべてが完全ではなく、進化の過程で徐々に改善されてきて今の状態があるわけです。自然にも人為にもそれぞれ良い面と悪い面の両面があるのに、老荘思想は自然の良い面だけを見て自然を絶対善とみなし、人為の悪い面だけを見て人為を絶対悪と見ています。一方で善悪は絶対的なものではないとか言いながら、「人為=悪、自然=善」という老荘思想のとらえ方自体が硬直化した善悪観です。
(9) p.69〜70では、儒家や世俗で説かれる徳性(聖、勇、義、智、仁)は泥棒にも利用されるという話を引用し、「人為的な道徳は善人と悪人の両方をつくってしまう」と述べていますが、荘子が説く「もちまえ(本性)」も「泥棒が我々のもちまえだ」と悪用できます。悪用できるかどうかは「人為的」かどうかとは関係ありません。p.68で著者は「後天的に獲得したものでも無意識の領域に入ったものであれば、それは「もちまえ」だということになります」と言っていますが、悪い習慣が「もちまえ」として身に付く場合もあるわけですから、それぞれの「もちまえ」を発揮すれば万事うまく行くという保証はないはずです。
(10) p.75〜76では、宇宙的なスケールで見ると国同士の争いなどちっぽけだという「蝸牛角上の争い」の話が出ていますが、「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点では、結局、戦争で多くの人が死んでもちっぽけなことだからどうでもよいということになります。子供がいじめで自殺しても、宇宙全体から見るとちっぽけなことなので、どうでもよいということになります。「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点を物事の価値と関連付けると、命の軽視やあらゆる悪の肯定につながる可能性があります。本来、物理的な大きさと物事の価値は必ずしも関係なく、「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点は価値判断の根拠にしていいものではありません。この話も物理的な大きさを価値の大きさにすり替えているという点で一種の詭弁になっています。
(11) p.70〜71では、禅の「見性成仏」の「見」は「見る」ではなくて「現す」という意味だと述べていますが、仏教辞典などには「(自己の仏性を)見る」の意味で解釈してあります。「見」を「現す」と解釈するのは、そういう特殊な解釈をする人たちがいるだけで、その人たち自身もそれが本来の意味だと言っているわけではないはずですが、著者はそれが本来の意味だと誤解しているのでしょうか。
(12) p.87では、小乗仏典(原始仏典)と大乗仏典を含む仏典全体が釈迦一代の内に徐々に説かれたものと解釈する「五時八教」の説を出して、その説で釈迦の円熟した晩年に説かれたとされる法華経に例え話が多いことと、荘子が最初から例え話を多用していることから、釈迦より荘子の方がレベルが高いのではと言いたそうですが、現代の仏教学では、阿含経が「原始仏典」(釈迦の直説とそれに基づいて後代に作られた経典)で、大乗仏典は西暦1世紀前後以降に作られた創作経典とされています。著者はこのことには言及せず、本気で「五時八教」をうのみにしているように見えます。禅宗では「あまり本を読むな」と言うそうなので、どうしても勉強不足になるのでしょうか?
(13) p.22では、感覚器官のない「混沌」が感覚器官を持つと死んだという話を引用して、「感覚は無為自然ではなく人為」と述べていますが、感覚は動物にもあります。「人為」は意識的行為のことでしょう?感覚は通常、無意識のうちに働くわけですから、「人為」とは言えないでしょう?そもそも「無為自然にすればすべてうまく行く」という主張自体が疑問で、「そういう場合もある」というだけのことなのに、それを「普遍的真理」のようにみなし過ぎるのではないでしょうか。一方では「私情をなくせ」と説いていますが、「無為自然」にすると人間は私情が出るのが普通でしょう?私情をなくすには実際には意識的努力が必要でしょう?本来矛盾している「無為自然」と「私情の超越」を両立させるために、「感覚は人為」とか「人間にはもともと情はない」(p.64)などの無理なこじつけをせざるを得なくなったのではないでしょうか。荘子は「情はない」とは「好悪を以て内に其の身を傷らず」という意味だと苦しい釈明をしていますが、それは人間の「理想」であって「本来の状態」とは言えないでしょう?「理想」を「本来の状態」とみなすのは「無為自然」を絶対善とみなしたいがためのこじつけでしょう?
老荘思想は玉石混交で、解釈の仕方によっては「玉」と言える部分も多々あるかもしれませんが、納得のいかない部分もかなりあります。老荘思想の「奥深さ」は逆説表現などの「レトリック的効果」による錯覚である面がかなりあり、そういう表現技法の効果に惑わされずに、実質的な内容を慎重に吟味すると、事実誤認に基づく「無為自然」の過大評価、「一面的真理」を「普遍的真理」のようにみなす傾向、世間を必要以上に否定する独善的傾向、言葉を蔑視しながらかえって言葉の罠にはまり込んで詭弁や錯誤に陥る傾向など、多くの問題点があるようです。その責任の所在が老子や荘子自身にどの程度あるか、どの程度その弟子や後代の老荘思想家の解釈にあるかははっきりしませんが、せっかく「玉」の部分があっても、「石」の部分が目に余るほどあるため、価値が半減してしまっているように思います。
(1) 「はじめに」の中で、「いつしか人間は、自然というものは、自分たちが全貌を理解して制御することが可能なものだと思い込んでいたのではないでしょうか」(p.6)とありますが、東日本大震災以前でも、そこそこ被害の出た地震や災害は起こっていますし、海外での自然災害のニュースも入ってきますし、今の時点で人間が自然の全貌を理解して、完全に制御できると思っている人はいないと思います。宗教関係者は、世間を批判したいがために、世間の見方を実際以上に単純化したり極端化して悪くとらえる傾向があります。番組の第3回の中では、東日本大震災の時にいくらの損害だという金額が出たことについて、著者は「死者一人をいくらで計算してんの」と言ってましたが、この損害額は「経済損失」を金額表示しているだけで、人命を金額で評価しているわけではありません。世間を悪く解釈し過ぎる傾向があるから、こういう誤解をしてしまうのではないでしょうか。
(2) p.24では、機械の使用を勧められた人が「からくり(機械)を使う者は必ずからくり心を起こし、心の純白さがなくなる」と言って断った話が出てきますが、機械を使うことで心が不純になったりはしません。これは言葉の連想によるこじつけに過ぎません。老荘思想は言葉を信用していないとのことですが、それならなおさら言葉の意味の違いを慎重に見極める必要があるのに、老荘思想家たちは逆にそれを疎かにして、言葉の意味のすりかえに気が付かず、詭弁に陥ってしまっているのではないでしょうか。機械の普及で何か問題が発生する場合があるとしても、だからと言ってなぜ機械を全面否定する必要があるのでしょうか。地震の際、まだ効率的な救出技術がないために、それがあれば救えた命が失われています。技術も経済も福祉を支える重要な要素であり、これらを全面否定したり、過度に軽視することは、結局、命を軽視していることになります。命を軽視しているのは世間よりもむしろ老荘思想家の方ではないでしょうか。
(3) p.26では、「常に相手に同調して自己主張しない人」の話を無為自然の模範として出していますが、荘子自身は常に相手に同調などしていませんし、反論もしています。上記のp.24の人も相手に同調なんかしてません。著者は「荘子」に書いてあることがすべて正しいという前提で盲信的な読み方をしているせいか、こういう矛盾にも気が付かないのでしょうか。また、ここの話で、「自己主張しないこと」と「無為自然」を結びつけてとらえているのは著者であって、荘子自身がそういうとらえ方をしているかどうかはわかりません。「自己主張しないこと」はその人のいろんな特徴の一つとして挙げてあるだけです。
(4) p.48〜49では、「来世は待つべからず」という言葉を引用して、予測したり計画したり目標を立てたりすることを否定していますが、こういう解釈は字句にとらわれた原理主義的な解釈ではないでしょうか。この言葉は内篇の人間世篇の最後の話に出てきますが、その文脈では、乱世で「将来に希望を持てない」という趣旨の言葉のようで、「未来のことを何も考えてはいけない」という意味ではなさそうです。著者はこの言葉については出典を明記していませんが、元の文脈での意味がばれないようにということなら意図的曲解ということになります。また、p.50では、「(明王は)不測に立ちて無有に遊ぶ者なり」の「不測」を「予測がつかない状態」という意味に解釈していますが、「はかり知れない境地」(金谷治訳、興膳宏訳、森三樹三郎訳)とか「無限の広野」(市川安司訳)などの訳もあり、「予測がつかない状態」という意味かどうかはわかりません。老荘思想の問題点は老子や荘子自身の問題もあるかもしれませんが、老荘思想家たちの解釈の仕方にも問題があるかもしれません。
(5) p.54では、「無意識であること」が大事で、反復練習で無意識に出来るようになると言っていますが、最初から何も意識せずに練習すると、間違ったやり方や下手なやり方が身についてしまう場合もありますから、最初は正しいやり方や上手なやり方を「意識」して練習する必要があり、「意識的行為」を「人為」だからダメだと全面否定する必要はないはずです。
(6) p.57〜61では、「役に立つ者はそのために苦しむ。役に立たない方が長生きできる。」という趣旨の話を引き、「役立たず」になれと言っていますが、なぜ「長生き」に絶対的な価値を置くのでしょうか。地震の際に、救助活動に従事すると、二次災害に遭って危ないから、やめておけと言うのでしょうか。それでは単なる利己主義でしょう?また、役に立つと必ず苦しむわけではありません。「物事には良い面も悪い面もあって、価値は目的や観点によって異なる」という趣旨の話として解釈するならわかりますが、「役立たずになれ」というのはどう考えてもおかしいでしょう?荘子は内篇の徳充符篇の最後の話で「生を益さず(寿命を延ばそうとしない)」とも説いているわけですから、荘子自身がここの話を長生きや役立たずを推奨する趣旨で書いたのかどうかは疑問です。著者がそう解釈しているだけではないでしょうか。
(7) p.65では、「蝉は死を恐れたりしないため、死ぬ直前までその「もちまえ」を発揮し、ミンミン、ジージーと鳴いているのです」とありますが、蝉を捕まえようとすると逃げますから、死を恐れているのではないでしょうか。死に対する恐れを持たない生物がいるかどうかは知りませんが、多くの生物は「もちまえ(本性)」の一部として死に対する恐れを持っているはずです。
(8) p.68では、人間も鳥獣もそれぞれの「もちまえ(本性)」を発揮して仲良く同居している状態が「至徳の世」だという話が引用されていますが、本性だけで行動している動物の世界は厳しい弱肉強食の世界で、決して「仲良く」暮らしているわけではありません。人間の本性には動物的な本能がまだ残っていて、人間が本能にだけ従うと争いが絶えません。だから、人間は法律、道徳、教育などで内外からその本能を制御して、少しずつより良い社会を作る努力をしているわけでしょう?「もちまえ(本性)」を発揮すれば万事うまく行くという保証はまったくありません。法律、道徳、教育もやり方によっては弊害面もあるかもしれませんが、徐々に改善していけばよいわけで、全面否定する必要はありません。自然界もすべてが完全ではなく、進化の過程で徐々に改善されてきて今の状態があるわけです。自然にも人為にもそれぞれ良い面と悪い面の両面があるのに、老荘思想は自然の良い面だけを見て自然を絶対善とみなし、人為の悪い面だけを見て人為を絶対悪と見ています。一方で善悪は絶対的なものではないとか言いながら、「人為=悪、自然=善」という老荘思想のとらえ方自体が硬直化した善悪観です。
(9) p.69〜70では、儒家や世俗で説かれる徳性(聖、勇、義、智、仁)は泥棒にも利用されるという話を引用し、「人為的な道徳は善人と悪人の両方をつくってしまう」と述べていますが、荘子が説く「もちまえ(本性)」も「泥棒が我々のもちまえだ」と悪用できます。悪用できるかどうかは「人為的」かどうかとは関係ありません。p.68で著者は「後天的に獲得したものでも無意識の領域に入ったものであれば、それは「もちまえ」だということになります」と言っていますが、悪い習慣が「もちまえ」として身に付く場合もあるわけですから、それぞれの「もちまえ」を発揮すれば万事うまく行くという保証はないはずです。
(10) p.75〜76では、宇宙的なスケールで見ると国同士の争いなどちっぽけだという「蝸牛角上の争い」の話が出ていますが、「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点では、結局、戦争で多くの人が死んでもちっぽけなことだからどうでもよいということになります。子供がいじめで自殺しても、宇宙全体から見るとちっぽけなことなので、どうでもよいということになります。「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点を物事の価値と関連付けると、命の軽視やあらゆる悪の肯定につながる可能性があります。本来、物理的な大きさと物事の価値は必ずしも関係なく、「宇宙的なスケールで見るとちっぽけだ」という視点は価値判断の根拠にしていいものではありません。この話も物理的な大きさを価値の大きさにすり替えているという点で一種の詭弁になっています。
(11) p.70〜71では、禅の「見性成仏」の「見」は「見る」ではなくて「現す」という意味だと述べていますが、仏教辞典などには「(自己の仏性を)見る」の意味で解釈してあります。「見」を「現す」と解釈するのは、そういう特殊な解釈をする人たちがいるだけで、その人たち自身もそれが本来の意味だと言っているわけではないはずですが、著者はそれが本来の意味だと誤解しているのでしょうか。
(12) p.87では、小乗仏典(原始仏典)と大乗仏典を含む仏典全体が釈迦一代の内に徐々に説かれたものと解釈する「五時八教」の説を出して、その説で釈迦の円熟した晩年に説かれたとされる法華経に例え話が多いことと、荘子が最初から例え話を多用していることから、釈迦より荘子の方がレベルが高いのではと言いたそうですが、現代の仏教学では、阿含経が「原始仏典」(釈迦の直説とそれに基づいて後代に作られた経典)で、大乗仏典は西暦1世紀前後以降に作られた創作経典とされています。著者はこのことには言及せず、本気で「五時八教」をうのみにしているように見えます。禅宗では「あまり本を読むな」と言うそうなので、どうしても勉強不足になるのでしょうか?
(13) p.22では、感覚器官のない「混沌」が感覚器官を持つと死んだという話を引用して、「感覚は無為自然ではなく人為」と述べていますが、感覚は動物にもあります。「人為」は意識的行為のことでしょう?感覚は通常、無意識のうちに働くわけですから、「人為」とは言えないでしょう?そもそも「無為自然にすればすべてうまく行く」という主張自体が疑問で、「そういう場合もある」というだけのことなのに、それを「普遍的真理」のようにみなし過ぎるのではないでしょうか。一方では「私情をなくせ」と説いていますが、「無為自然」にすると人間は私情が出るのが普通でしょう?私情をなくすには実際には意識的努力が必要でしょう?本来矛盾している「無為自然」と「私情の超越」を両立させるために、「感覚は人為」とか「人間にはもともと情はない」(p.64)などの無理なこじつけをせざるを得なくなったのではないでしょうか。荘子は「情はない」とは「好悪を以て内に其の身を傷らず」という意味だと苦しい釈明をしていますが、それは人間の「理想」であって「本来の状態」とは言えないでしょう?「理想」を「本来の状態」とみなすのは「無為自然」を絶対善とみなしたいがためのこじつけでしょう?
老荘思想は玉石混交で、解釈の仕方によっては「玉」と言える部分も多々あるかもしれませんが、納得のいかない部分もかなりあります。老荘思想の「奥深さ」は逆説表現などの「レトリック的効果」による錯覚である面がかなりあり、そういう表現技法の効果に惑わされずに、実質的な内容を慎重に吟味すると、事実誤認に基づく「無為自然」の過大評価、「一面的真理」を「普遍的真理」のようにみなす傾向、世間を必要以上に否定する独善的傾向、言葉を蔑視しながらかえって言葉の罠にはまり込んで詭弁や錯誤に陥る傾向など、多くの問題点があるようです。その責任の所在が老子や荘子自身にどの程度あるか、どの程度その弟子や後代の老荘思想家の解釈にあるかははっきりしませんが、せっかく「玉」の部分があっても、「石」の部分が目に余るほどあるため、価値が半減してしまっているように思います。
2015年6月9日に日本でレビュー済み
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取り上げたテーマは、よいと思いますが、文章に説得力が感じられない。美辞麗句が並びすぎの感じです
玄侑氏には申し訳なく思いますが、著者本人も、十分理解していないのではないか、との印象を持ちました。
玄侑氏には申し訳なく思いますが、著者本人も、十分理解していないのではないか、との印象を持ちました。
2015年8月19日に日本でレビュー済み
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入門書として、分かりやすく興味を持たせる内容。本の終わり方が少々、残念。
2015年7月6日に日本でレビュー済み
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最初、NHKの100分de名著を見たときは、「なんで禅僧が荘子の解説をするの?」と思いましたが、禅と荘子の関係性が良くわかりました。
荘子の面白いエピソードをいくつかピックアップして、分かりやすく書いてあります。
初心者にはとっつきやすい内容と思います。
荘周さんが現代に現れたらという仮定の話も書かれていますが、まあ、お遊び程度でしょうか。
NHKオンデマンドで番組は見ることができますので、オンデマンドの方がお勧め。
オンデマンドが面倒な方は、本を読まれると充分と思います。
この本のあと、基礎的なテキスト、「荘子」(森三樹三郎、中公クラッシクス)を読むのをお勧めします。
荘子の面白いエピソードをいくつかピックアップして、分かりやすく書いてあります。
初心者にはとっつきやすい内容と思います。
荘周さんが現代に現れたらという仮定の話も書かれていますが、まあ、お遊び程度でしょうか。
NHKオンデマンドで番組は見ることができますので、オンデマンドの方がお勧め。
オンデマンドが面倒な方は、本を読まれると充分と思います。
この本のあと、基礎的なテキスト、「荘子」(森三樹三郎、中公クラッシクス)を読むのをお勧めします。