発達障害を持ちながら、障害者枠ではない一般就労をする場合の参考になります。
藤家さんはアスペルガーや重い2次障害を持ちながらよく頑張られたと思いますし、現在イキイキと充実した生活をされているようで前向きな気持ちになれる本です。
しかし、この本では藤家さんが一般就労で働けるようになったことが書かれているのですが、社員ではなく短時間バイトです。
発達障害を持っていても一般就労でフルタイムの正社員として働くにはどうしたらいいのかと思って手に取ったので、星4つにしました。
しかし、藤家さんの体験記を通して、発達障害や2次障害を持っていてもどうやって克服して働けばいいのか参考になります。
福祉の限界や付き合い方も考えさせられるので読んで損はない本かなと思います。
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30歳からの社会人デビュー: アスペルガーの私、青春のトンネルを抜けてつかんだ未来 単行本 – 2012/10/1
藤家 寛子
(著)
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- 本の長さ238ページ
- 言語日本語
- 出版社花風社
- 発売日2012/10/1
- ISBN-104907725868
- ISBN-13978-4907725860
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登録情報
- 出版社 : 花風社 (2012/10/1)
- 発売日 : 2012/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 238ページ
- ISBN-10 : 4907725868
- ISBN-13 : 978-4907725860
- Amazon 売れ筋ランキング: - 638,114位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 84,775位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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2017年10月5日に日本でレビュー済み
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わが国の自閉症者で最初に手記ないし半生記を書いたのは、自閉症療育の先駆者のひとりだった石井哲夫先生との共著(『自閉症克服の記録』〔三一書房〕)という形ではありましたが、幼時に自閉症の診断を受けていた山岸裕さんで、1988年のことでした。テンプル・グランディンさんの Emergence Labeled Autistic が(Arena Press という小出版社から Margaret M. Scariano さんと共著という形で)出版されたのは、わずかその2年前の1986年でした。そして、ドナ・ウィリアムズさんの Nobody Nowhere が(Doubleday という大出版社から単著として)出版され、脚光を浴びたのが1992年であり、わが国で最初に注目された森口奈緒美さんの『変光星』(飛鳥新社)の出版は1996年ですから、山岸さんの共著書は、世界的に見ても最初期のものなのです。にもかかわらず、なぜか専門家から無視されて今日に至っています。
今世紀に入ったあたりから、多くの自閉症当事者が伝記や手記を出版するようになりましたが、ここでとりあげる作品の著者であり、アスペルガー症候群と診断されている藤家寛子さんは、2004年に最初の著書『他の誰かになりたかった』(花風社)を書いています(ちなみに、この本の副題は、「多重人格から目覚めた自閉の少女の手記」となっていますが、ドナ・ウィリアムズさんを筆頭に、別人格をかなり自覚的に利用していた〔いる〕自閉症者と比べると、著者の「多重人格」は、その間の記憶が大幅に消えているということなので、通常の多重人格性障害のものにむしろ近いという印象を受けます)。その8年後の2012年に出版された本書(『30歳からの社会人デビュー』)は、「決して人のせいにせず、障害のせいにもせず、できるようになりたいことにはストイックに取り組ん」できたことによって(190ページ)さまざまな側面で成長を続けてきた著者が、いよいよ「大人の女性」として社会に出るまでの経過を記した非常に貴重な記録です。
一歩踏み込んだ主張をすることになる本レビューでは、なるべく著者の言葉をそのまま使うことで、正確な記述を期したいと思います。ただ、あまり詳しく書きすぎると、かえって売れなくなってしまうおそれもないとは言えません。それでは当方の本意に反することになるので、やはり自分で読んでみないとわからないものだということを、ここに強調しておきたいと思います。
著者の特徴は、主として社会の側の受け入れ態勢を変えることに情熱を注いだらしき山岸さんや森口さんと違って、「現実を受け入れる強さを持つこと」と「誰のせいにもしないこと」(96-97ページ)という姿勢を高らかに宣言していることです。「こちらから定型発達の方に歩み寄ることは、屈するということなのだろうか。/どうしてそう思えてしまうのか、私には不思議だ。/でも、確かにそういう考えを持つ人はいるらしい」(20ページ)、「思い違いをしてはいけないのは、定型発達の人も日々、努力して生きている」(221ページ)というわけです。さらには、「世間には、根強く修行否定派の皆さんがいらっしゃる。/医者の中にだって、頑張る必要がないと説く人が多い(191ページ)」と、堂々と専門家の批判までしています。これは、経験に基づく真の自信のなせる業なのでしょう。そして、「私たちにも社会生活を送る権利がある。/しかし、日々の努力なくして権利を訴えることはフェアじゃないと思った」(22ページ)として、次のように明言するのです。
「人生を好転させるためには、自分から動いていかなくてはいけない。/自分から、社会に寄り添っていかなければいけないのだ。/そのためには、恨み言ばかりの生活から離れたほうがいい。/自分の人生に起こっていることは、社会のせいではない。/運に見放されていたり、どんなに努力しても報われなかったり。/だけど、そういうことは、ままあることだ。/誰かのせいにしたい気持ちは分からなくもないが、それでは幸せから遠ざかる。/大切なのは、現実と向き合うことだ」(217ページ)
オポチュニティーの神の寓話は、まさにそのことを言っているわけですが、自分から積極的に向かって行かなければ、真の意味での幸福をつかむことはできないものなのです。著者はさらに続けます。
「できないことが当たり前」を受け入れてくれるほど、世の中は甘くない。/だから、そういう一部の人々は、結局のところ、自滅していくしかないのだろう」(10ページ)。「努力なく、障害に抱え込まれて生きていく人生に、多分出口はない。/ただ同じところをグルグルと、同じ景色を見ながら、ひたすらまわり続ける人生は、安全だけれども、何の喜びもなく、つまらない人生だろう(223ページ)
この発言は、発達障害とされている少なからぬ人たちに反感を抱かせるのではないかと思いますが、著者はその程度のことはもちろん承知のうえです。一世を風靡した評論家の小林秀雄さんは、苦しみがなければ幸せはない、という名言を吐きました。幸福に向かうことは、障害をもつ人にはよけいにそうですが、ふつうの人にとっても厳しいものなのです。二千年前に、イエス・キリストが民衆に向かっていみじくも語りかけたように、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」のに対して、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細い」のです。これは、すべての人間に当てはまる一般則であって、特殊なことではありません。
誤解を恐れずに言えば、“定型発達”をしている圧倒的多数の人たち(その小林秀雄さんの親友でもあった、昭和初期の詩人、中原中也が、軽蔑と畏敬の念の双方を込めて創案した言葉を借用すれば。「芸術派」に対する「生活派」)が中心になって世の中を動かしているのは、進化の歴史を考えれば明らかであり、それを否定することは、数百万年にも及ぶ人類の歴史を否定するようなものです。もちろん、ヒューマニタリアニズムや人類愛と呼ばれるものが昔からあったのは事実ですが、現代ほどではなかったはずですし、そうした余裕のない国や文化圏が今なお存在するのもまちがいないところです。ついでに言えば、ハンス・アスペルガー先生は、まさにそうした全体主義国家の中で、絶滅させられる運命にあった自閉症児を含む障害児たちを、可能な限り救いたかったということなのでしょう。
ところで、著者は、もとは「頑張るという言葉が大嫌いな子どもだった」(12ページ)そうです。「修行の意味に気付いたのは、大人になってから」のことで、しかも「発達障害だという診断をもらってから」のことだ(102ページ)というのです。そうなると、やはり診断には意味があることになります。「頑張ることのできなかった子ども時代とがらりと変わり、今の私にとって頑張るというのは、生きることそのものだ。/頑張ることを厳密にいうなら、『現状に甘んじないで生きていくこと』を表している、と考えている。〔中略〕頑張ることは、挑戦し続けるということでもある」(16ページ)。そして、「いつかは親元を離れ、自立しなければいけないことは分かっていた」(19ページ)そうです。
したがって、著者の「考える一本立ちは、親からの完全独立」(103ページ)なのでした。それは、経済的に独立することと、心理的に独立することのふたつを兼ね備えたものでなければなりません。親からすれば、子どもが自立しない限り育児が完了したことにならないため、「障害児をもつ母親は、みんな心の奥深く死ぬに死ねない思いを抱いて、この世を去っていく」のではないか(久保紘章「自閉症と家族」〔中根晃編『自閉症』(日本評論社)所収〕206ページ)と思わざるをえませんが、逆に、人に迷惑をかけることなくそれができてさえいれば、多少の障害や症状が残っていても、大きな問題にはならないはずです。
ついでながら、子どもに対する親の、あるべき基本的姿勢にふれておくと、「虎はわが子を千尋の谷に突き落とす」と言われるように、子どもには自立に向けて厳しく接する必要があります。それが、親の愛情というものです。たとえば、振り込め詐欺にだまされる親たちは、自分の不安をなだめるために子どもを助けようとするから罠にかかるのであって、本来の親であれば、息子を装った犯人から電話を受け、わが子だと勘違いしてしまったとしても、不祥事の後始末を求めてくるわけですから、「自分で責任をとりなさい」と突き放さなければならないのです。それができないからこそだまされてしまうわけです。その結果、大きな損害が発生するだけではすまず、当の息子から、「俺がそんなことをしたと、どうして思ったのか。俺を信用していないのか」と責められることにもなってしまうのです。
話を戻すと、著者は、長年の精進の結果として、一種の悟りにも似た境地にすら到達しています。専門家は“気づき”ということを重視しますが、実際には、気づき自体に力はありません。それは現実に変化が起こった結果として意識にのぼるものなのであって、それが、次のような“発見”になってくるのです。これは、人に教わってわかることではなく、心の底から自然に出てくるものです。これがさらに進んだ境地が、一般に悟りと呼ばれるものなのでしょう。
「現状に満足し、しばし平凡な日常を味わうことも大事なこと」ではあるが、「人間はそれに甘んじてしまったら、成長しなくなる生き物である。/それは、定型発達の人も発達障害の人も同じ。/だから精進が必要なのだ」(23ページ)
「生きていれば、理不尽な出来事にぶつかることもある。/悔しい思いをしたり、残酷な仕打ちを受けたりするだろう。/障害を抱えていれば、なおさらそういう機会は多い。/しかし、考えようによっては、だからこそ、学ぶものも多いといえる」(218ページ)
「どんなに心地が悪くても、我慢しなければいけないときがある。/気持ちの悪さを押し殺して、仕事をしなければいけないこともある。/それが、社会のルールに従って生きていくということなのだと思う」(207ページ)
「先が決まっていない道のりを歩いていくのは、時に不安を感じることもある。/でも、それこそが生きる醍醐味であることに、最近、私は気付いた」(71ページ)
「乗り越えてきたものが多ければ多いほど、人生の厚みは増す。/それって、豊かなことではないだろうか」(218ページ)
著者の語る経過が正しければ、脳の機能異常が原因であったとしても、自閉症スペクトラム障害とされるものは、治癒に近い状態に達しうることになります。また、このような言いかたをすると、多くの人たちから反発を受けることにもなりかねませんが、著者の発言に従えば、自閉症の人たちは、結果的にであっても、人生の豊かさや「生きる醍醐味」をまさしく避けていることになるはずです。とはいえ、それは事実なのでしょう。このような発言を“定型発達”者がしたのであれば、まさに信頼性に乏しいわけですが、自閉症スペクトラム障害と診断されている著者が確言すれば、それは強い説得力をもつに違いありません。ところが、まことに残念ながら、ここで問題が発生するのです。
著者は、実際にはアスペルガー症候群から回復したのではなく、そもそもその診断がまちがっていたのではないかと疑われているのだそうです。それは、とりもなおさず、そこまで回復したことを何らかの理由で認めたくない専門家が、それも少なからずいるということです。専門家に限りませんが、人間は、真理が何かを探究しようとしていてすら、定説などの権威の誘惑にどうしても屈してしまうもので、その結果として、目の前の、定説に合わないきわめてデータは忌避され、棄却されてしまうものなのです。これでは、科学的態度とはとうてい言えませんが、一般に言われるように、何らかの「利得を求める」ためにそのようなことが起こるわけではありません。それよりも、はるかに頑強なものなのです。現在の著者に“慰め”は不要でしょうが、専門家も含め、そのような疑いを抱いている人たちに対しては、この点を明確に指摘しておいたほうがいいでしょう。
そして、現実に起こった変化について、著者は次のように具体的に語っています。
「私はお酒は一切飲めなかった。/でも、食べられるものが増え、食欲が出てきた頃を境に、酎ハイくらいならお酒を飲めるようになったのだ。/今ではお祝い事があると必ずお酒を飲む。旅行に行ったときも飲む」(138ページ)
「人と関わりすぎると、姿をくらましたくなっていた私。/そのせいで壊れた関係がいくつかあった。/昔は人と関わることで生まれてくる感情を処理しきれなかった。〔中略〕そんな私が、普通に恋をしている。/周囲の人は、そのことに驚き、そして喜ぶ」(188ページ)
「以前なら、何かトラブルが発生すると、頭がいっぱいになって、すぐさま結論を出そうと必死になっていた。そうしなければ、具合が悪かった。/ひとつのことしか考えられず、一方向からしか物事を見れなかった。/今回のことだったら、すぐに店をやめる、としか思いつかなかっただろう。/人に意見を求めることもしなかったし、そういう手段があると思いつけなかった。/頭の回線がすぐパンクして、通信不能になっていた感じだった」
「ところが今はどうだろう。/今回はまず、親や友達に相談をした。/仕事を続けるか、辞めるとしても転職を考えるか、どちらにしてももっと情報が必要だと感じた。/すぐさま答えを導き出さなくても、ゆっくり考えようと思うことができた。じっくり考えた方がいい結果が出ることは経験から学んでいた。/なんだかビックリだ。/今までなかった神経回路が生えたみたいだった。頭の中で考えた情報が、きちんと脳に伝達されている。/これまでだったら、何かを考えても、神経が、もつれた刺繍糸みたいになって、うまくつたわっていかなかったのに。/どうなっているんだろう。/でも、とにかく、いい傾向だ」(202-203ページ)
「〔仕事先から〕帰ったら、バタンキューすることもなく、ちゃんとお風呂に入った。/湯船の中で鼻歌を歌いながら、私はニヤニヤしていた。/これって、まるで「社会人」だ! ドラマに出てくる、「大人の女性」みたいだ!(121ページ)
このように、以前の状態との比較が明記されているので、どのような進歩が起こったのかが具体的な形でわかります。食べられるものの幅が広がり、食欲が出てくるようになったこと、人と親しくなることに強い抵抗が働いていたのに、恋愛ができるまでになったこと、まったく飲めなかったアルコールがたしなめるようなったこと、自閉症スペクトラム障害のひとつの特徴とされている「単一回路型」から脱却して、複数の問題に並行してとり組めるようになったこと。そして、発達障害とされていた著者が、一人前の「社会人」になり、テレビドラマの「大人の女性」になったのです。そうなると、自閉症は、少なくともかなりの程度まで回復可能であることになりますが、そればかりではありません。脳の機能異常とされているものも、現実には回復可能であることになるのです。このことは、発達障害者のみならず、器質性とされるそれ以外の障害を抱えている人たちの多くにとっても、大変な朗報のはずです(ちなみに、かつてわが国の失語症研究を主導していた井村恒郎先生は、日中戦争中に送還された失語症傷病兵が、急速に自然治癒することに注目していました)。
かくして、自分を救った著者は、その経験を他者と分かち合うことを考えるようになります。
「どんなにどん底からでも、這い上がりさえすれば、キラキラと輝く太陽の下で生活できることを伝える。/それが、私に与えられた新しい使命ではないかと考えるようになった。/私が回復したのは、それを多くの人に伝えるためかもしれないのだ」(152ページ)
自分が立ち直ると、同じ障害を抱えた人たちのために活動することを考えるようになるのは、自閉症スペクトラム障害の人たちに比較的共通してみられる特性のようですが、まことに興味深いことに、これは、がんの人たちと共通する特性でもあります。
ところが、順風満帆に見えた著者に、異変が起こります。
「〔ドラグストアで働くようになって1ヵ月半が過ぎたころから〕これまですこぶる調子よくすすんでいた日々。それが、少しずつ狂い始めた。/まず、就寝前の薬がよく効かなくなった。入眠までに時間がかかり、夜中の三時過ぎに目が覚める。/寝ては醒めを繰り返すので、熟睡ができなくなった。この悪循環の影響は、仕事に差し支えた。/眠りの質が低下したせいで、頭がボーっとして、うまく集中できなくなった。そして、メニエールの発作にも似ためまいが、私を襲うようになった」(192ページ)
著者は、「本当は、こんなによくなったことが不安でたまらなかった」(191ページ)と書いていますが、人間は一般に、自分が望んでいることがいざ現実になると、それを素直に喜ばないものなのです。そして、その時に、その幸福に水を注すような工作を、いわゆる無意識のうちに行なうことになるのです。その時には、心身症的な症状をはじめ、さまざまな“異常”が起こります。ただしそれは、いずれ“ほとぼり”が冷めると消えるので、全体の経過を遠目で眺めると、いい方向にしか進んでいないことがわかるわけです。
「知らない間に、私の人生は、いい方向にばかり進むようになった。/あんなに不遇だった二十数年間が嘘のようだ。/一体何がよかったのだろう。/私はどうやって人生を立て直したのだろう」(213ページ)
これは、グニラ・ガーランドさんが自著『ずっと「普通」になりたかった』(273ページ)に書いているのとまったく同じ疑問ですが、別にふしぎなことではありません。一流のスポーツ選手などが語ることと根は同じなのですが、要するに、難しい課題や選択肢をいつも選んで進んで行けば、いわゆる舵取りの必要なく、自分が望んでいる方向へ自然に進むようになっているのです。それは、ネガティヴィズムから脱却して、真の意味で素直になるということでもあります。このあたりについては、経験的に知ることしかできないのですが、このことは、自閉症スペクトラム障害とは無関係に、人間であれば誰にでも当てはまる大原則と言えるでしょう。
自閉症の本質がわかっていないのは、ひとつには、“正常”とされる人たちの心の動きがほとんど理解されていないためです。逆に言えば、自閉症の本質――正確に言うと、脳の病変や機能異常という側面ではなく、精神病理学的な角度から見た自閉症の本質――が明らかになれば、それにつれて、正常とは何かという、心理学や精神医学では実際に扱われることがまずない、人間にとってきわめて重要な疑問も並行して解決に向かうはずなのです。
本書は、自閉症の人たちと“定型発達”とされる人たちが、根本から異質なわけではないどころか、両者は実は地続きであることを教えてくれる、きわめて重要な資料と言えるでしょう。
今世紀に入ったあたりから、多くの自閉症当事者が伝記や手記を出版するようになりましたが、ここでとりあげる作品の著者であり、アスペルガー症候群と診断されている藤家寛子さんは、2004年に最初の著書『他の誰かになりたかった』(花風社)を書いています(ちなみに、この本の副題は、「多重人格から目覚めた自閉の少女の手記」となっていますが、ドナ・ウィリアムズさんを筆頭に、別人格をかなり自覚的に利用していた〔いる〕自閉症者と比べると、著者の「多重人格」は、その間の記憶が大幅に消えているということなので、通常の多重人格性障害のものにむしろ近いという印象を受けます)。その8年後の2012年に出版された本書(『30歳からの社会人デビュー』)は、「決して人のせいにせず、障害のせいにもせず、できるようになりたいことにはストイックに取り組ん」できたことによって(190ページ)さまざまな側面で成長を続けてきた著者が、いよいよ「大人の女性」として社会に出るまでの経過を記した非常に貴重な記録です。
一歩踏み込んだ主張をすることになる本レビューでは、なるべく著者の言葉をそのまま使うことで、正確な記述を期したいと思います。ただ、あまり詳しく書きすぎると、かえって売れなくなってしまうおそれもないとは言えません。それでは当方の本意に反することになるので、やはり自分で読んでみないとわからないものだということを、ここに強調しておきたいと思います。
著者の特徴は、主として社会の側の受け入れ態勢を変えることに情熱を注いだらしき山岸さんや森口さんと違って、「現実を受け入れる強さを持つこと」と「誰のせいにもしないこと」(96-97ページ)という姿勢を高らかに宣言していることです。「こちらから定型発達の方に歩み寄ることは、屈するということなのだろうか。/どうしてそう思えてしまうのか、私には不思議だ。/でも、確かにそういう考えを持つ人はいるらしい」(20ページ)、「思い違いをしてはいけないのは、定型発達の人も日々、努力して生きている」(221ページ)というわけです。さらには、「世間には、根強く修行否定派の皆さんがいらっしゃる。/医者の中にだって、頑張る必要がないと説く人が多い(191ページ)」と、堂々と専門家の批判までしています。これは、経験に基づく真の自信のなせる業なのでしょう。そして、「私たちにも社会生活を送る権利がある。/しかし、日々の努力なくして権利を訴えることはフェアじゃないと思った」(22ページ)として、次のように明言するのです。
「人生を好転させるためには、自分から動いていかなくてはいけない。/自分から、社会に寄り添っていかなければいけないのだ。/そのためには、恨み言ばかりの生活から離れたほうがいい。/自分の人生に起こっていることは、社会のせいではない。/運に見放されていたり、どんなに努力しても報われなかったり。/だけど、そういうことは、ままあることだ。/誰かのせいにしたい気持ちは分からなくもないが、それでは幸せから遠ざかる。/大切なのは、現実と向き合うことだ」(217ページ)
オポチュニティーの神の寓話は、まさにそのことを言っているわけですが、自分から積極的に向かって行かなければ、真の意味での幸福をつかむことはできないものなのです。著者はさらに続けます。
「できないことが当たり前」を受け入れてくれるほど、世の中は甘くない。/だから、そういう一部の人々は、結局のところ、自滅していくしかないのだろう」(10ページ)。「努力なく、障害に抱え込まれて生きていく人生に、多分出口はない。/ただ同じところをグルグルと、同じ景色を見ながら、ひたすらまわり続ける人生は、安全だけれども、何の喜びもなく、つまらない人生だろう(223ページ)
この発言は、発達障害とされている少なからぬ人たちに反感を抱かせるのではないかと思いますが、著者はその程度のことはもちろん承知のうえです。一世を風靡した評論家の小林秀雄さんは、苦しみがなければ幸せはない、という名言を吐きました。幸福に向かうことは、障害をもつ人にはよけいにそうですが、ふつうの人にとっても厳しいものなのです。二千年前に、イエス・キリストが民衆に向かっていみじくも語りかけたように、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」のに対して、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細い」のです。これは、すべての人間に当てはまる一般則であって、特殊なことではありません。
誤解を恐れずに言えば、“定型発達”をしている圧倒的多数の人たち(その小林秀雄さんの親友でもあった、昭和初期の詩人、中原中也が、軽蔑と畏敬の念の双方を込めて創案した言葉を借用すれば。「芸術派」に対する「生活派」)が中心になって世の中を動かしているのは、進化の歴史を考えれば明らかであり、それを否定することは、数百万年にも及ぶ人類の歴史を否定するようなものです。もちろん、ヒューマニタリアニズムや人類愛と呼ばれるものが昔からあったのは事実ですが、現代ほどではなかったはずですし、そうした余裕のない国や文化圏が今なお存在するのもまちがいないところです。ついでに言えば、ハンス・アスペルガー先生は、まさにそうした全体主義国家の中で、絶滅させられる運命にあった自閉症児を含む障害児たちを、可能な限り救いたかったということなのでしょう。
ところで、著者は、もとは「頑張るという言葉が大嫌いな子どもだった」(12ページ)そうです。「修行の意味に気付いたのは、大人になってから」のことで、しかも「発達障害だという診断をもらってから」のことだ(102ページ)というのです。そうなると、やはり診断には意味があることになります。「頑張ることのできなかった子ども時代とがらりと変わり、今の私にとって頑張るというのは、生きることそのものだ。/頑張ることを厳密にいうなら、『現状に甘んじないで生きていくこと』を表している、と考えている。〔中略〕頑張ることは、挑戦し続けるということでもある」(16ページ)。そして、「いつかは親元を離れ、自立しなければいけないことは分かっていた」(19ページ)そうです。
したがって、著者の「考える一本立ちは、親からの完全独立」(103ページ)なのでした。それは、経済的に独立することと、心理的に独立することのふたつを兼ね備えたものでなければなりません。親からすれば、子どもが自立しない限り育児が完了したことにならないため、「障害児をもつ母親は、みんな心の奥深く死ぬに死ねない思いを抱いて、この世を去っていく」のではないか(久保紘章「自閉症と家族」〔中根晃編『自閉症』(日本評論社)所収〕206ページ)と思わざるをえませんが、逆に、人に迷惑をかけることなくそれができてさえいれば、多少の障害や症状が残っていても、大きな問題にはならないはずです。
ついでながら、子どもに対する親の、あるべき基本的姿勢にふれておくと、「虎はわが子を千尋の谷に突き落とす」と言われるように、子どもには自立に向けて厳しく接する必要があります。それが、親の愛情というものです。たとえば、振り込め詐欺にだまされる親たちは、自分の不安をなだめるために子どもを助けようとするから罠にかかるのであって、本来の親であれば、息子を装った犯人から電話を受け、わが子だと勘違いしてしまったとしても、不祥事の後始末を求めてくるわけですから、「自分で責任をとりなさい」と突き放さなければならないのです。それができないからこそだまされてしまうわけです。その結果、大きな損害が発生するだけではすまず、当の息子から、「俺がそんなことをしたと、どうして思ったのか。俺を信用していないのか」と責められることにもなってしまうのです。
話を戻すと、著者は、長年の精進の結果として、一種の悟りにも似た境地にすら到達しています。専門家は“気づき”ということを重視しますが、実際には、気づき自体に力はありません。それは現実に変化が起こった結果として意識にのぼるものなのであって、それが、次のような“発見”になってくるのです。これは、人に教わってわかることではなく、心の底から自然に出てくるものです。これがさらに進んだ境地が、一般に悟りと呼ばれるものなのでしょう。
「現状に満足し、しばし平凡な日常を味わうことも大事なこと」ではあるが、「人間はそれに甘んじてしまったら、成長しなくなる生き物である。/それは、定型発達の人も発達障害の人も同じ。/だから精進が必要なのだ」(23ページ)
「生きていれば、理不尽な出来事にぶつかることもある。/悔しい思いをしたり、残酷な仕打ちを受けたりするだろう。/障害を抱えていれば、なおさらそういう機会は多い。/しかし、考えようによっては、だからこそ、学ぶものも多いといえる」(218ページ)
「どんなに心地が悪くても、我慢しなければいけないときがある。/気持ちの悪さを押し殺して、仕事をしなければいけないこともある。/それが、社会のルールに従って生きていくということなのだと思う」(207ページ)
「先が決まっていない道のりを歩いていくのは、時に不安を感じることもある。/でも、それこそが生きる醍醐味であることに、最近、私は気付いた」(71ページ)
「乗り越えてきたものが多ければ多いほど、人生の厚みは増す。/それって、豊かなことではないだろうか」(218ページ)
著者の語る経過が正しければ、脳の機能異常が原因であったとしても、自閉症スペクトラム障害とされるものは、治癒に近い状態に達しうることになります。また、このような言いかたをすると、多くの人たちから反発を受けることにもなりかねませんが、著者の発言に従えば、自閉症の人たちは、結果的にであっても、人生の豊かさや「生きる醍醐味」をまさしく避けていることになるはずです。とはいえ、それは事実なのでしょう。このような発言を“定型発達”者がしたのであれば、まさに信頼性に乏しいわけですが、自閉症スペクトラム障害と診断されている著者が確言すれば、それは強い説得力をもつに違いありません。ところが、まことに残念ながら、ここで問題が発生するのです。
著者は、実際にはアスペルガー症候群から回復したのではなく、そもそもその診断がまちがっていたのではないかと疑われているのだそうです。それは、とりもなおさず、そこまで回復したことを何らかの理由で認めたくない専門家が、それも少なからずいるということです。専門家に限りませんが、人間は、真理が何かを探究しようとしていてすら、定説などの権威の誘惑にどうしても屈してしまうもので、その結果として、目の前の、定説に合わないきわめてデータは忌避され、棄却されてしまうものなのです。これでは、科学的態度とはとうてい言えませんが、一般に言われるように、何らかの「利得を求める」ためにそのようなことが起こるわけではありません。それよりも、はるかに頑強なものなのです。現在の著者に“慰め”は不要でしょうが、専門家も含め、そのような疑いを抱いている人たちに対しては、この点を明確に指摘しておいたほうがいいでしょう。
そして、現実に起こった変化について、著者は次のように具体的に語っています。
「私はお酒は一切飲めなかった。/でも、食べられるものが増え、食欲が出てきた頃を境に、酎ハイくらいならお酒を飲めるようになったのだ。/今ではお祝い事があると必ずお酒を飲む。旅行に行ったときも飲む」(138ページ)
「人と関わりすぎると、姿をくらましたくなっていた私。/そのせいで壊れた関係がいくつかあった。/昔は人と関わることで生まれてくる感情を処理しきれなかった。〔中略〕そんな私が、普通に恋をしている。/周囲の人は、そのことに驚き、そして喜ぶ」(188ページ)
「以前なら、何かトラブルが発生すると、頭がいっぱいになって、すぐさま結論を出そうと必死になっていた。そうしなければ、具合が悪かった。/ひとつのことしか考えられず、一方向からしか物事を見れなかった。/今回のことだったら、すぐに店をやめる、としか思いつかなかっただろう。/人に意見を求めることもしなかったし、そういう手段があると思いつけなかった。/頭の回線がすぐパンクして、通信不能になっていた感じだった」
「ところが今はどうだろう。/今回はまず、親や友達に相談をした。/仕事を続けるか、辞めるとしても転職を考えるか、どちらにしてももっと情報が必要だと感じた。/すぐさま答えを導き出さなくても、ゆっくり考えようと思うことができた。じっくり考えた方がいい結果が出ることは経験から学んでいた。/なんだかビックリだ。/今までなかった神経回路が生えたみたいだった。頭の中で考えた情報が、きちんと脳に伝達されている。/これまでだったら、何かを考えても、神経が、もつれた刺繍糸みたいになって、うまくつたわっていかなかったのに。/どうなっているんだろう。/でも、とにかく、いい傾向だ」(202-203ページ)
「〔仕事先から〕帰ったら、バタンキューすることもなく、ちゃんとお風呂に入った。/湯船の中で鼻歌を歌いながら、私はニヤニヤしていた。/これって、まるで「社会人」だ! ドラマに出てくる、「大人の女性」みたいだ!(121ページ)
このように、以前の状態との比較が明記されているので、どのような進歩が起こったのかが具体的な形でわかります。食べられるものの幅が広がり、食欲が出てくるようになったこと、人と親しくなることに強い抵抗が働いていたのに、恋愛ができるまでになったこと、まったく飲めなかったアルコールがたしなめるようなったこと、自閉症スペクトラム障害のひとつの特徴とされている「単一回路型」から脱却して、複数の問題に並行してとり組めるようになったこと。そして、発達障害とされていた著者が、一人前の「社会人」になり、テレビドラマの「大人の女性」になったのです。そうなると、自閉症は、少なくともかなりの程度まで回復可能であることになりますが、そればかりではありません。脳の機能異常とされているものも、現実には回復可能であることになるのです。このことは、発達障害者のみならず、器質性とされるそれ以外の障害を抱えている人たちの多くにとっても、大変な朗報のはずです(ちなみに、かつてわが国の失語症研究を主導していた井村恒郎先生は、日中戦争中に送還された失語症傷病兵が、急速に自然治癒することに注目していました)。
かくして、自分を救った著者は、その経験を他者と分かち合うことを考えるようになります。
「どんなにどん底からでも、這い上がりさえすれば、キラキラと輝く太陽の下で生活できることを伝える。/それが、私に与えられた新しい使命ではないかと考えるようになった。/私が回復したのは、それを多くの人に伝えるためかもしれないのだ」(152ページ)
自分が立ち直ると、同じ障害を抱えた人たちのために活動することを考えるようになるのは、自閉症スペクトラム障害の人たちに比較的共通してみられる特性のようですが、まことに興味深いことに、これは、がんの人たちと共通する特性でもあります。
ところが、順風満帆に見えた著者に、異変が起こります。
「〔ドラグストアで働くようになって1ヵ月半が過ぎたころから〕これまですこぶる調子よくすすんでいた日々。それが、少しずつ狂い始めた。/まず、就寝前の薬がよく効かなくなった。入眠までに時間がかかり、夜中の三時過ぎに目が覚める。/寝ては醒めを繰り返すので、熟睡ができなくなった。この悪循環の影響は、仕事に差し支えた。/眠りの質が低下したせいで、頭がボーっとして、うまく集中できなくなった。そして、メニエールの発作にも似ためまいが、私を襲うようになった」(192ページ)
著者は、「本当は、こんなによくなったことが不安でたまらなかった」(191ページ)と書いていますが、人間は一般に、自分が望んでいることがいざ現実になると、それを素直に喜ばないものなのです。そして、その時に、その幸福に水を注すような工作を、いわゆる無意識のうちに行なうことになるのです。その時には、心身症的な症状をはじめ、さまざまな“異常”が起こります。ただしそれは、いずれ“ほとぼり”が冷めると消えるので、全体の経過を遠目で眺めると、いい方向にしか進んでいないことがわかるわけです。
「知らない間に、私の人生は、いい方向にばかり進むようになった。/あんなに不遇だった二十数年間が嘘のようだ。/一体何がよかったのだろう。/私はどうやって人生を立て直したのだろう」(213ページ)
これは、グニラ・ガーランドさんが自著『ずっと「普通」になりたかった』(273ページ)に書いているのとまったく同じ疑問ですが、別にふしぎなことではありません。一流のスポーツ選手などが語ることと根は同じなのですが、要するに、難しい課題や選択肢をいつも選んで進んで行けば、いわゆる舵取りの必要なく、自分が望んでいる方向へ自然に進むようになっているのです。それは、ネガティヴィズムから脱却して、真の意味で素直になるということでもあります。このあたりについては、経験的に知ることしかできないのですが、このことは、自閉症スペクトラム障害とは無関係に、人間であれば誰にでも当てはまる大原則と言えるでしょう。
自閉症の本質がわかっていないのは、ひとつには、“正常”とされる人たちの心の動きがほとんど理解されていないためです。逆に言えば、自閉症の本質――正確に言うと、脳の病変や機能異常という側面ではなく、精神病理学的な角度から見た自閉症の本質――が明らかになれば、それにつれて、正常とは何かという、心理学や精神医学では実際に扱われることがまずない、人間にとってきわめて重要な疑問も並行して解決に向かうはずなのです。
本書は、自閉症の人たちと“定型発達”とされる人たちが、根本から異質なわけではないどころか、両者は実は地続きであることを教えてくれる、きわめて重要な資料と言えるでしょう。
2015年6月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
生きにくい世の中でたいへんだと感じます。支援している同じ障害者の方はいるので読むようにすすめます。
2013年8月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この中にある、一男性との恋人になるまでの経緯が書いてある項目を読んだら、さもアスペルガーでも普通の恋愛が出来ると下手に希望を与えかねない内容になっているが、そのような内容は書かないほうが良いと思った。そもそもこの著者はこの本が出版されてすぐにこの男性と別れたという噂もあり、逆に失望を与えてしまう結果になってしまっている。
著者の(元?)恋人の男性にもプライバシーがあるわけで、それも含めもし破局した時のことも考え詳細に書くべきではなかったと思うし、内容そのものを書くべきではなかったのでは?
それをしっかり監修出来なかった出版社もどうかと思う。
アスペルガーゆえに他人の気持ちがわからないというところがあからさまに出てると思うが、執筆するならばいくらアスペルガーといえどそれなりの自覚と責任を持たいとね。
著者の(元?)恋人の男性にもプライバシーがあるわけで、それも含めもし破局した時のことも考え詳細に書くべきではなかったと思うし、内容そのものを書くべきではなかったのでは?
それをしっかり監修出来なかった出版社もどうかと思う。
アスペルガーゆえに他人の気持ちがわからないというところがあからさまに出てると思うが、執筆するならばいくらアスペルガーといえどそれなりの自覚と責任を持たいとね。
2017年8月20日に日本でレビュー済み
花風社さんから出版される書籍に対し、悪口を書き続けている方が一人いますね。
個人的な恨み、妬みで、一般の人が見るプレビューに嘘を書くのは止めた方が良いと思います。
著者の方は、大学を卒業されていますし、今もなお、仕事を続けられ、どんどんキャリアを重ねていらっしゃいます。
書籍が出版されてから5年が経ちますが、社会人として働き続けられているのが、何より治った証拠。
以前のような感覚過敏もなくなり、またちゃんと疲れて、ちゃんと休んだら回復できる身体に変わられたのです。
いくら他人が悪口や嘘を書いても、目標であった社会人として働き続けられている姿を否定することはできません。
また一緒に働かれている職場の仲間、治ることを応援してきた仲間、治った姿を見た仲間が全国にいます。
この書籍は、発達障害を持つ子ども達、若者たちへの希望が詰まった本です。
社会人デビューされたあとも、どんどん治り続け、良い資質は活かしながら、社会人の一人として活躍されています。
発達障害を理由に、仕事も、自立した生活も、幸せも、諦める必要はないということを教えてくれます。
個人的な恨み、妬みで、一般の人が見るプレビューに嘘を書くのは止めた方が良いと思います。
著者の方は、大学を卒業されていますし、今もなお、仕事を続けられ、どんどんキャリアを重ねていらっしゃいます。
書籍が出版されてから5年が経ちますが、社会人として働き続けられているのが、何より治った証拠。
以前のような感覚過敏もなくなり、またちゃんと疲れて、ちゃんと休んだら回復できる身体に変わられたのです。
いくら他人が悪口や嘘を書いても、目標であった社会人として働き続けられている姿を否定することはできません。
また一緒に働かれている職場の仲間、治ることを応援してきた仲間、治った姿を見た仲間が全国にいます。
この書籍は、発達障害を持つ子ども達、若者たちへの希望が詰まった本です。
社会人デビューされたあとも、どんどん治り続け、良い資質は活かしながら、社会人の一人として活躍されています。
発達障害を理由に、仕事も、自立した生活も、幸せも、諦める必要はないということを教えてくれます。
2013年3月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アスペルガーだからということで、誰でも同じという訳ではないのでしょうが、いろいろと参考になりました。
2016年8月20日に日本でレビュー済み
著者の社会人デビューまでの課題と克服過程が書かれています。
幼少時代の事についても、「他の誰かになりたかった」よりは、スッキリと整理されて語られているように思います。
ウツやパニック障害、解離線人格障害などの二次障害を克服し、自閉症の診断を受けてアスペルガー症候群の自覚を持つようになってから、自分の特性をつかんで行動する必要性を強く意識するようになった著者。
支援団体や支援施設での経験を積み、その中でも自分が社会に出て自立するという目標を見失わずに、努力を続けていた様子が書かれています。
支援施設などでの限界も感じながら、その度に次へステップアップする方策を考え、挑戦する姿勢には、感心するものがあります。
彼女の様に社会へ出ていけるまで前進できる人は、まだ少ないようですが、ステップアップの過程でぶつかる様々な障害を、当事者の視点から語ってくれているこの本は、貴重な体験談だと言えるでしょう。
幼少時代の事についても、「他の誰かになりたかった」よりは、スッキリと整理されて語られているように思います。
ウツやパニック障害、解離線人格障害などの二次障害を克服し、自閉症の診断を受けてアスペルガー症候群の自覚を持つようになってから、自分の特性をつかんで行動する必要性を強く意識するようになった著者。
支援団体や支援施設での経験を積み、その中でも自分が社会に出て自立するという目標を見失わずに、努力を続けていた様子が書かれています。
支援施設などでの限界も感じながら、その度に次へステップアップする方策を考え、挑戦する姿勢には、感心するものがあります。
彼女の様に社会へ出ていけるまで前進できる人は、まだ少ないようですが、ステップアップの過程でぶつかる様々な障害を、当事者の視点から語ってくれているこの本は、貴重な体験談だと言えるでしょう。
2017年8月20日に日本でレビュー済み
藤家寛子さんの事を知らない人が好き勝手にレビューを書いていますが、大変だった頃の過去を乗り越えて大学を卒業し、一般就労で週に5日働き、更には(試験を受けて)有資格者としても活躍し、休日には好きなミュージシャンのライブを楽しみ、一人で旅行にも行ける彼女の「自閉症が治った」という言葉を聞いて、発達障害児を育てている親として我が子も働く大人になって欲しい(なれる!)という希望が持てるなら、そんなにいい事はないですね?
治りません。と言われて何もしないで立ち止まるよりも、ずっと前向きだし素敵だと思います。
今の藤家寛子さんを多少なりとも知っている者として、現実に会って話した藤家さんは素敵な働く大人です!
ホントに治りたいなら頑張ればいいだけの事。
治りません。と言われて何もしないで立ち止まるよりも、ずっと前向きだし素敵だと思います。
今の藤家寛子さんを多少なりとも知っている者として、現実に会って話した藤家さんは素敵な働く大人です!
ホントに治りたいなら頑張ればいいだけの事。