状態も良く、いいお店でした。
連絡もきっちりとされてましたし、安心できました。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
謎の豪族 蘇我氏 (文春新書 495) 新書 – 2006/3/20
水谷 千秋
(著)
大化の改新より逆賊とされてきた飛鳥第一の豪族を、初めてメインに取り上げ、古代王朝のシステムとアジア情勢を見直す画期的研究
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社文藝春秋
- 発売日2006/3/20
- ISBN-104166604953
- ISBN-13978-4166604951
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 文藝春秋 (2006/3/20)
- 発売日 : 2006/3/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4166604953
- ISBN-13 : 978-4166604951
- Amazon 売れ筋ランキング: - 350,064位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年7月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
蘇我氏は『日本書紀』の中でも最大級の逆賊として描かれ、そのイメージが現代にもつきまとう。本書は政治家としての蘇我氏に再評価を与えるものだ。
蘇我氏が歴史の表舞台に登場するのは宣化元年(536)、稲目が大臣に就任してからだが、その現れ方があまりに突然なため出自をめぐっていろいろな憶測が生まれた。渡来人説、葛城氏末裔説などであるが、著者はこれらを退けて現奈良県橿原市曽我を本貫とする氏族であったとする。継体天皇の大和入りにおいて何らかの功績があったことで、出世のきっかけをつかんだと推測する。
大臣となった蘇我氏の活躍がめだつのは、屯倉の設置と管理を伝える記事においてである。政権の直轄領である屯倉では戸籍が作られ税が課せられた。その実務にあたっては渡来人の技術が利用されたが、渡来人をまとめ使いこなす上で蘇我氏が行政官僚的な能力を発揮したようだ。
6世紀はヤマト王権にとって画期となった時期である。天皇家の内紛・断絶・分裂によって弱体化した王権は、この時期に部民制や屯倉の創設拡充などの政策を実行して基盤を固めていく。その中心には宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の大臣を務めた稲目と馬子がいた。まさに「蘇我氏あっての天皇」という姿が浮かんでくるという。
仏教の積極的な受容や官位十二階の制定などの政策はその延長線上に、乙巳の変を経て律令国家体制を用意したものだ。蘇我氏がいかに革新的で時代を先取りした政治を行ったかがわかる。
では、なぜ蘇我氏本宗家は滅んだのか。『書紀』では「天皇家を簒奪しようとした」と中大兄皇子の言葉として明記され、またその証となるようなふるまいが多数記録される。天皇家を損なう者はいかなる天罰を受けるかの教訓を示すため、『書紀』編纂者が大いに筆をふるった箇所だろう。
著者は、蘇我氏には官僚と豪族の二面性があり、豪族としての面が強くなりすぎたという説明をする。正直言ってこの説明はなおざりの感がある。有力豪族が連合して王権を支えていた体制の中で、王族、豪族入り乱れてつねに権力闘争が繰り広げられていただろう。断トツの威勢を誇った氏族も突然の没落を強いられる古代の権力闘争についてもう少し考察を加えて欲しかった。
蘇我氏が歴史の表舞台に登場するのは宣化元年(536)、稲目が大臣に就任してからだが、その現れ方があまりに突然なため出自をめぐっていろいろな憶測が生まれた。渡来人説、葛城氏末裔説などであるが、著者はこれらを退けて現奈良県橿原市曽我を本貫とする氏族であったとする。継体天皇の大和入りにおいて何らかの功績があったことで、出世のきっかけをつかんだと推測する。
大臣となった蘇我氏の活躍がめだつのは、屯倉の設置と管理を伝える記事においてである。政権の直轄領である屯倉では戸籍が作られ税が課せられた。その実務にあたっては渡来人の技術が利用されたが、渡来人をまとめ使いこなす上で蘇我氏が行政官僚的な能力を発揮したようだ。
6世紀はヤマト王権にとって画期となった時期である。天皇家の内紛・断絶・分裂によって弱体化した王権は、この時期に部民制や屯倉の創設拡充などの政策を実行して基盤を固めていく。その中心には宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の大臣を務めた稲目と馬子がいた。まさに「蘇我氏あっての天皇」という姿が浮かんでくるという。
仏教の積極的な受容や官位十二階の制定などの政策はその延長線上に、乙巳の変を経て律令国家体制を用意したものだ。蘇我氏がいかに革新的で時代を先取りした政治を行ったかがわかる。
では、なぜ蘇我氏本宗家は滅んだのか。『書紀』では「天皇家を簒奪しようとした」と中大兄皇子の言葉として明記され、またその証となるようなふるまいが多数記録される。天皇家を損なう者はいかなる天罰を受けるかの教訓を示すため、『書紀』編纂者が大いに筆をふるった箇所だろう。
著者は、蘇我氏には官僚と豪族の二面性があり、豪族としての面が強くなりすぎたという説明をする。正直言ってこの説明はなおざりの感がある。有力豪族が連合して王権を支えていた体制の中で、王族、豪族入り乱れてつねに権力闘争が繰り広げられていただろう。断トツの威勢を誇った氏族も突然の没落を強いられる古代の権力闘争についてもう少し考察を加えて欲しかった。
2007年4月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この新書を読んで驚かされたのは、日本古代の政治史において非常に大きな存在であったはずの蘇我氏について、真正面から取り組んだ研究は少ないということだった。確かに調べてみると、厩戸皇子や大化の改新と絡めて蘇我氏をそれらの添え物的に扱う著作は多いのだが、蘇我氏そのものを中心に据えたものは案外に少なく、研究レベルのものは数えるほどしか見つからない。そんな中で、できる限り中立に蘇我氏四代の事績を検証しようとした跡が、本書のそこかしこに窺われる。
特に目から鱗なのは、蘇我氏の持つ「官僚としての貌」。蘇我氏は、その圧倒的な権勢下においてもけっして経済的・軍事的に突出した存在ではなく、朝廷と不可分な存在となったのにも関わらず、大化の改新のクーデタの一閃であっけなく滅亡してしまうに至るという分析は、非常に明晰で説得力がある。この大化の改新のクーデタを正当化するために必要以上に「逆賊」扱いされたために、後世の歴史研究においても「逆賊」のレッテルが貼り続けられ、蘇我氏に対するいらぬ先入観を生んでしまっているとの指摘が随所になされ、新たな蘇我氏像を描き直す必要性を著者は訴える。
そして、天皇の外戚として成り上がったのではなく、継体天皇以後の朝廷において渡来人系豪族を巧みに使いこなす官僚として蘇我氏が興隆し、継体以後の天皇と外戚関係を結び、物部氏との抗争に勝利するに至って強大な(とは言っても根無し草のような)「豪族としての貌」を持つに至ったとする著者の主張はとても新鮮だ。他にも、蘇我氏の仏教に対する信仰の厚さ、崇仏を通じてアジア文明圏に日本を組み入れたとする彼らの進取性、驕慢とされる入鹿の豊かな才能、蘇我氏傍系との対立などにも触れられ、面白い議論の材料に事欠かない。
手軽さ、網羅性、ロジックの組み立てなど蘇我氏四代の「入門書」として良質である上、非常に論争的でもあるため、好感が持てる著作だ。
特に目から鱗なのは、蘇我氏の持つ「官僚としての貌」。蘇我氏は、その圧倒的な権勢下においてもけっして経済的・軍事的に突出した存在ではなく、朝廷と不可分な存在となったのにも関わらず、大化の改新のクーデタの一閃であっけなく滅亡してしまうに至るという分析は、非常に明晰で説得力がある。この大化の改新のクーデタを正当化するために必要以上に「逆賊」扱いされたために、後世の歴史研究においても「逆賊」のレッテルが貼り続けられ、蘇我氏に対するいらぬ先入観を生んでしまっているとの指摘が随所になされ、新たな蘇我氏像を描き直す必要性を著者は訴える。
そして、天皇の外戚として成り上がったのではなく、継体天皇以後の朝廷において渡来人系豪族を巧みに使いこなす官僚として蘇我氏が興隆し、継体以後の天皇と外戚関係を結び、物部氏との抗争に勝利するに至って強大な(とは言っても根無し草のような)「豪族としての貌」を持つに至ったとする著者の主張はとても新鮮だ。他にも、蘇我氏の仏教に対する信仰の厚さ、崇仏を通じてアジア文明圏に日本を組み入れたとする彼らの進取性、驕慢とされる入鹿の豊かな才能、蘇我氏傍系との対立などにも触れられ、面白い議論の材料に事欠かない。
手軽さ、網羅性、ロジックの組み立てなど蘇我氏四代の「入門書」として良質である上、非常に論争的でもあるため、好感が持てる著作だ。
2015年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
蘇我氏は百済系かな、だから朝鮮政策の違いで伽耶系を指示した鎌足たちに滅ぼされたのかな
2012年9月30日に日本でレビュー済み
読み終えても、タイトル通り蘇我氏は「謎」のままであった。
法隆寺と四天王寺が本書では充分に検証されていないのも大きな要因だが、
最大の問題は乙巳の変の解明がなされていないことであろうか。
天智天皇と藤原鎌足が蘇我入鹿の怨霊を恐れたのは何故なのか、
ここに蘇我氏が何者であったかを解き明かす“鍵”があると思う。
視点が限られているので、限られた視界しか見えないという結果になっている。
法隆寺と四天王寺が本書では充分に検証されていないのも大きな要因だが、
最大の問題は乙巳の変の解明がなされていないことであろうか。
天智天皇と藤原鎌足が蘇我入鹿の怨霊を恐れたのは何故なのか、
ここに蘇我氏が何者であったかを解き明かす“鍵”があると思う。
視点が限られているので、限られた視界しか見えないという結果になっている。
2018年11月27日に日本でレビュー済み
2006年の本。著者は龍谷大学非常勤講師(当時)。
曰く・・・
中臣鎌足は、最初は皇極天皇の弟の軽王子に接近したがやがて離れた。皇子の器量に幻滅したらしい。鎌足が次に近づいたのが中大兄皇子。中大兄皇子は、蘇我石川麻呂を味方に引き入れるため、石川麻呂の娘を娶る。
蘇我石川麻呂は、大化の改新の4年後に謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれる。おそらく中大兄皇子の謀略だろう。天武朝のころは蘇我氏は石川氏に姓を改めるが、その後、次第に衰退し、藤原氏が台頭していく。
継体天皇は傍系だったため、大和定着に際しては彼の即位に反発する勢力が大和盆地に存在したのだろう。その勢力は葛城氏ではないか。蘇我氏は、葛城氏の傘下。
葛城氏は次第に衰え、6世紀初頭に葛城氏に代わって同族内の主導権を握ったのが蘇我氏。蘇我氏は継体天皇支持派らしい。もしかしたら、葛城氏と蘇我氏は、継体支持・不支持をめぐって対立し、蘇我氏が勝利したのかもしれない。葛城氏の衰退と蘇我氏の台頭によって、中央豪族が一本化され、継体天皇の大和定着が実現したのだろう。これが契機となって蘇我氏は急速に頭角を現し、葛城氏の権益と地位を受け継いだ。
天皇家と蘇我氏の血縁関係の強化は、蘇我氏の勢力向上を意味するだけでなく、むしろ天皇家にとって強大な豪族である蘇我氏との連携が王権基盤強化に有効だった。王権あっての蘇我氏だが、蘇我氏あっての王権ともいえる。
高句麗・百済・新羅と相次いでクーデターが起きたころに大化の改新が断行される。これらのクーデターや唐の高句麗遠征といった緊迫した国際情勢が倭国にも影響し、この政変を起こさせたとみる見解が現在の主流といってもいい。
蘇我氏の基盤は案外脆弱。真の意味で私兵といえる軍事力はほとんどない。蘇我氏の豪族としての独自の経済的、軍事的基盤は必ずしも抜きん出たものではなかった。むしろ、彼らは官僚的。彼らは自分自身が官僚であるに留まらず、中央諸豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。それが冠位十二階。
蘇我馬子には冠位が授けられていない。馬子は授ける側。冠位十二階の実質的な主体は厩戸皇子というよりむしろ馬子。
山背大兄王の襲撃には、中大兄皇子や中臣鎌足も加担したのではないか。入鹿の独断専行ではない。山背大兄王を排除することは、蘇我氏と非蘇我勢力(のちの改新勢力)のどちらにもメリットがある。
大化の改新はすでに蘇我氏が用意していたものではないか。それを中大兄皇子らが入鹿を殺して横取りしたのではないか。中央集権的宮司制度は、蘇我氏が実質的に進めていた(松本清張)。
入鹿暗殺は、皇極天皇の同意を得ていなかっただろう。だから、まったくの私刑。当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、彼らを謀反の罪で討伐するのは実質的に不可能であったかもしれない。そのため、この凶行が成功しても、諸豪族の支持を得られるかどうかは計算がつかなかっただろう。中大兄皇子らが入鹿暗殺のあとに飛鳥寺を城として籠もったのは、このあとに起こるであろう蘇我蝦夷との戦いに備えるため。
蘇我氏を滅ぼしたとき、中大兄皇子は蘇我氏を罵倒し、暴徒蘇我氏を成敗したと述べている。天命思想の影響が見える。以後、天命思想は新政権の重要なイデオロギーとなる。
壬申の乱によって王位を得た天武天皇もこの戦いを革命にたとえた。しかし、天武朝の後半・持統朝のころから、神話的な万世一系の皇統観に基づくイデオロギーが力を増す。天命思想は、天帝の意思による易姓革命を肯定する点が、日本の律令国家によって警戒されたのかもしれない。
改新政府は、入鹿暗殺を天命思想によって覆い隠し、蘇我氏専横を強調することでその誅滅を正当化した。政敵を滅ぼした喜びよりも前途への不安や重圧の方が感じられる。それくらい蘇我氏は巨大な存在だった。
などなど。
曰く・・・
中臣鎌足は、最初は皇極天皇の弟の軽王子に接近したがやがて離れた。皇子の器量に幻滅したらしい。鎌足が次に近づいたのが中大兄皇子。中大兄皇子は、蘇我石川麻呂を味方に引き入れるため、石川麻呂の娘を娶る。
蘇我石川麻呂は、大化の改新の4年後に謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれる。おそらく中大兄皇子の謀略だろう。天武朝のころは蘇我氏は石川氏に姓を改めるが、その後、次第に衰退し、藤原氏が台頭していく。
継体天皇は傍系だったため、大和定着に際しては彼の即位に反発する勢力が大和盆地に存在したのだろう。その勢力は葛城氏ではないか。蘇我氏は、葛城氏の傘下。
葛城氏は次第に衰え、6世紀初頭に葛城氏に代わって同族内の主導権を握ったのが蘇我氏。蘇我氏は継体天皇支持派らしい。もしかしたら、葛城氏と蘇我氏は、継体支持・不支持をめぐって対立し、蘇我氏が勝利したのかもしれない。葛城氏の衰退と蘇我氏の台頭によって、中央豪族が一本化され、継体天皇の大和定着が実現したのだろう。これが契機となって蘇我氏は急速に頭角を現し、葛城氏の権益と地位を受け継いだ。
天皇家と蘇我氏の血縁関係の強化は、蘇我氏の勢力向上を意味するだけでなく、むしろ天皇家にとって強大な豪族である蘇我氏との連携が王権基盤強化に有効だった。王権あっての蘇我氏だが、蘇我氏あっての王権ともいえる。
高句麗・百済・新羅と相次いでクーデターが起きたころに大化の改新が断行される。これらのクーデターや唐の高句麗遠征といった緊迫した国際情勢が倭国にも影響し、この政変を起こさせたとみる見解が現在の主流といってもいい。
蘇我氏の基盤は案外脆弱。真の意味で私兵といえる軍事力はほとんどない。蘇我氏の豪族としての独自の経済的、軍事的基盤は必ずしも抜きん出たものではなかった。むしろ、彼らは官僚的。彼らは自分自身が官僚であるに留まらず、中央諸豪族すべてを国家のために働く官僚に再編していこうとしていた。それが冠位十二階。
蘇我馬子には冠位が授けられていない。馬子は授ける側。冠位十二階の実質的な主体は厩戸皇子というよりむしろ馬子。
山背大兄王の襲撃には、中大兄皇子や中臣鎌足も加担したのではないか。入鹿の独断専行ではない。山背大兄王を排除することは、蘇我氏と非蘇我勢力(のちの改新勢力)のどちらにもメリットがある。
大化の改新はすでに蘇我氏が用意していたものではないか。それを中大兄皇子らが入鹿を殺して横取りしたのではないか。中央集権的宮司制度は、蘇我氏が実質的に進めていた(松本清張)。
入鹿暗殺は、皇極天皇の同意を得ていなかっただろう。だから、まったくの私刑。当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、彼らを謀反の罪で討伐するのは実質的に不可能であったかもしれない。そのため、この凶行が成功しても、諸豪族の支持を得られるかどうかは計算がつかなかっただろう。中大兄皇子らが入鹿暗殺のあとに飛鳥寺を城として籠もったのは、このあとに起こるであろう蘇我蝦夷との戦いに備えるため。
蘇我氏を滅ぼしたとき、中大兄皇子は蘇我氏を罵倒し、暴徒蘇我氏を成敗したと述べている。天命思想の影響が見える。以後、天命思想は新政権の重要なイデオロギーとなる。
壬申の乱によって王位を得た天武天皇もこの戦いを革命にたとえた。しかし、天武朝の後半・持統朝のころから、神話的な万世一系の皇統観に基づくイデオロギーが力を増す。天命思想は、天帝の意思による易姓革命を肯定する点が、日本の律令国家によって警戒されたのかもしれない。
改新政府は、入鹿暗殺を天命思想によって覆い隠し、蘇我氏専横を強調することでその誅滅を正当化した。政敵を滅ぼした喜びよりも前途への不安や重圧の方が感じられる。それくらい蘇我氏は巨大な存在だった。
などなど。
2010年5月12日に日本でレビュー済み
欽明朝における仏教伝来は、日本に深刻な政争を巻き起こした。蘇我稲目は
受入れに賛同したのに対し、物部氏と中臣氏は消極的な立場をとる。
これが発端となり、豪族間の争いはより神経質で深刻な状況に陥ったという。
その後、敏達天皇は廃仏を唱えるものの、蘇我馬子は用明・推古天皇とともに
仏教受容という考えを示しているのである。
仏教伝来が古代の日本に与えた影響は、計り知れぬほど大きいことが、見通し
よく理解できるのだ。
著者の水谷千秋氏は、簡潔かつ明確に説明を加えている。百済王から倭国の欽明朝に
贈った仏像は、敵対する新羅を牽制するという外交上の理由が大きかったと指摘している。
仏教受容の方針は、そもそも親仏派によると宗教的なものより、むしろ外交政策によるもの
であると・・・。
一方で、稲目−馬子−蝦夷−入鹿の蘇我四代は、「逆賊」としての汚名を着せられたまま、
中大兄皇子と中臣鎌足に滅ぼされると日本書記に記されたことに対して、疑問を投げかけ
ている。
表現はたいへんもの静かであるが、この時代の蘇我四代によって、日本にもたらされた
仏教や先端技術は多大であり、「大和政権の発展」はありえないと結論づけられている。
本書のおわりに、著者がひとり甘樫岡に立ち、蘇我氏の大きな功績と終焉を静かに見守り、
思い巡らすのであるシーンが印象に残る。
ひとつクーデタによって、飛鳥の歴史が大きく塗り替えられてしまったのではあるまいかと・・・。
ゆっくりと時間の流れ肌で感じながら、非常に好感が持てる、充実の一冊なのである。
受入れに賛同したのに対し、物部氏と中臣氏は消極的な立場をとる。
これが発端となり、豪族間の争いはより神経質で深刻な状況に陥ったという。
その後、敏達天皇は廃仏を唱えるものの、蘇我馬子は用明・推古天皇とともに
仏教受容という考えを示しているのである。
仏教伝来が古代の日本に与えた影響は、計り知れぬほど大きいことが、見通し
よく理解できるのだ。
著者の水谷千秋氏は、簡潔かつ明確に説明を加えている。百済王から倭国の欽明朝に
贈った仏像は、敵対する新羅を牽制するという外交上の理由が大きかったと指摘している。
仏教受容の方針は、そもそも親仏派によると宗教的なものより、むしろ外交政策によるもの
であると・・・。
一方で、稲目−馬子−蝦夷−入鹿の蘇我四代は、「逆賊」としての汚名を着せられたまま、
中大兄皇子と中臣鎌足に滅ぼされると日本書記に記されたことに対して、疑問を投げかけ
ている。
表現はたいへんもの静かであるが、この時代の蘇我四代によって、日本にもたらされた
仏教や先端技術は多大であり、「大和政権の発展」はありえないと結論づけられている。
本書のおわりに、著者がひとり甘樫岡に立ち、蘇我氏の大きな功績と終焉を静かに見守り、
思い巡らすのであるシーンが印象に残る。
ひとつクーデタによって、飛鳥の歴史が大きく塗り替えられてしまったのではあるまいかと・・・。
ゆっくりと時間の流れ肌で感じながら、非常に好感が持てる、充実の一冊なのである。
2007年6月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
高校までの歴史の授業における古代史が、いかに日本書紀史観に貫かれていたか、と今ごろになって強く感じはじめ、本書も手にした次第である。
日本書紀は何らかの意図をもって編纂されていた訳だから、その意図を読み取り、当時なりの国際情勢や、現在とは違っていたであろう天皇制も考慮に入れて日本古代史をひも解いていかなければならないと思うが、本書はそのことに成功していると思う。ただし、どこまで成功したのかは判断しかねる。
日本書紀は何らかの意図をもって編纂されていた訳だから、その意図を読み取り、当時なりの国際情勢や、現在とは違っていたであろう天皇制も考慮に入れて日本古代史をひも解いていかなければならないと思うが、本書はそのことに成功していると思う。ただし、どこまで成功したのかは判断しかねる。