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ある明治人の記録: 会津人柴五郎の遺書 (中公新書 252) 新書 – 1971/5/25

4.4 5つ星のうち4.4 137個の評価

この商品には新版があります:

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (1971/5/25)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1971/5/25
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 176ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4121002520
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121002525
  • カスタマーレビュー:
    4.4 5つ星のうち4.4 137個の評価

著者について

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石光 真人
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2020年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 会津若松から遠くない新潟市に住む私は、子供の頃から会津藩に親しみを抱いていた。それは、小学校六年生の修学旅行が会津若松であり、そこでの白虎隊の話が原点になっているのかもしれない。
 
 この本に登場する柴五郎は、賊軍の汚名を着せられた会津藩の出身ながら、陸軍大将・軍事参議官の栄誉を得て、大東亜戦争終結の年の十二月に逝去した。大東亜戦争・太平洋戦争の勃発時には、柴氏は既に退役していたが、著者はこの戦争に突入した日本の無謀さを嘆く柴氏の言葉を直接聞いている。ここにも、武人ながらに世界の大局を読むことのできる人物がいたのである。

 柴氏は亡くなる三年前に著者である石光氏に少年期の記録を託し、それを編集したのがこの本である。読むだに、斗南藩に流された会津人の悲惨さ、無念さがうめき声のごとく伝わってくる。使命感に燃えて薩長と戦った会津藩のどこに落ち度があるのか、こうなると西郷隆盛の、「一度は日本国中を戦場にして官軍の立場を知らしめなければ日本という国の統一は難しい」、という方針に異を唱えたくなるどころか、義憤さえ覚えるのだった。国民に愛されている西郷隆盛であり、個人的にも少なからず尊敬している人物ではあるが、会津藩に対する仕打ちに対しては納得できない。
 
 著者はここでこう言っている、「討幕、佐幕ともに太平になれた藩主の統制力が弱く、下級武士の武断派によりリードされる結果となった。」革命とは常にそのようなものであるとは思うが、著者の記述からは、せめて坂本龍馬や佐久間象山、吉田松陰などが維新を経て健在なら、会津藩一藩が下級武士の恨み辛みを一身に受けるような理不尽さはなかったのではないか、という思いを汲み取ることができる。
 私はこの本を読んで、ますます会津藩への同情と親しみが湧いてきた。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2019年10月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
兎に角、読んで欲しい1冊です!
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2015年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
   
 会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高傑作のように思える―こう語ったのは、歴史作家の司馬遼太郎氏である(『
歴史を紀行する 』(文春文庫)所収「会津人の維新の傷あと」から)。会津藩は本来、「垂加神道学」で象徴されるごとく、「勤王思想」の持ち主であり、司馬氏が言うように、薩長ごときとは違って、「その点では会津藩こそその思想的先駆集団」であった。にもかかわらず、「その会津藩が勤王の敵にされてゆくところに革命の奇妙さ、政治の魔術、歴史の皮肉を感じずにはいられない」というのは、誰しも思うことである(同前)。

 他方、近年では、「禁門の変」以降の幕府政治、政局対応について、江戸本府と京都という幕府権力構造の“二重性”を指摘する研究もあり、幕府の朝廷等を巡る“京都政治”に関連して、一橋(徳川慶喜)・会津(松平容保)・桑名(松平定敬)の連合政権=「一会桑政権」と指称する見方もあるようだ。とにもかくにも、卑劣極まりない薩長は、奸計によって会津藩等を「朝敵=賊軍」に貶め、幕府を支える屋台骨を完全にへし折るといった佞悪な意図が明々白々であり、それとともに、会津藩が「慶喜の形代にされた」(司馬遼太郎『
この国のかたち五 』)ことは言うまでもないだろう。

 ところで、私の家系は、父方が滋賀県、母方が富山県で、幕末・維新の頃、前者は彦根藩、後者は富山藩となろうが、残念なことに、共に薩長土肥の西軍側に付いたらしい。私自身は、知る限り、会津とは縁もゆかりもない人間だけど、熱烈な“会津ファン”である。それを“判官贔屓”と言われれば、そうかも知れないが、全く不必要であった「戊辰戦争」における“正義”はいずれの側にあったのか、と問われれば、毒殺(暗殺)されたとも囁かれる孝明天皇から「御宸翰」を下賜された会津中将(容保)の側にこそ、もっと言えば、大政を奉還した幕府側 にこそ“正義”があったのだ。

 さて、本書は二部構成となっており、第1部は「柴五郎の遺書」、第2部は「柴五郎翁とその時代」となっている。まず、柴五郎という人物である。氏は、安政6(1859)年に会津若松で生誕、昭和20(1945)年に没した方であるけれども、最終的には陸軍大将、軍事参議官にまで上り詰めた生粋の会津人である。そして何と言っても、氏の名を高らしめたのが、氏が陸軍中佐として北京駐在武官の際に遭遇した、かの「
北京の55日 」で有名な「北清事変」の際の活躍であろうか。氏はしかし、積極的に功労話を吹聴する人間ではなかったが、「列国の称賛の的」となったのは確かだ。

 こうした中国での事変に逢着し、事件に巻き込まれた中国人民を厚く保護するなどした柴五郎氏であるけれども、ここで、氏の“中国(人)観”に、私は注目したい。氏は、当書を取り纏めた石光真人氏に「中国人は信用と面子を貴びます」「中国という国はけっして鉄砲だけで片づく国ではありません」「中国は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません」等々の発言を残している。このように「いわゆる中国通として重きをなしていた」、「真に中国を知り、真に中国の友たらんとした」氏のような人々が軍の主流から外されていったことは、洵に痛恨の極みと言うしかない。

 話を第1部に戻そう。柴五郎氏は会津藩御物頭の子として生まれ、「会津防衛戦」の際は幼少ゆえ参戦せざるも、祖母、母、兄嫁、姉、妹の5名が自刃した。彼らへの思慕の念は、この記録から痛いほど伝わってくる。氏は俘虜となったり、下男や馬丁など辛酸を舐めつつ、陸軍幼年生徒隊(後の陸軍幼年学校)そして士官学校へと進んでいった訳であるが、やはり胸が詰まるのは、下北半島の火山灰地に移封された「斗南藩」での生活であろう。まさに餓死線を彷徨う生活であり、薩長藩閥政府による“会津殲滅”を表徴するものであった…。これは「全く抹殺された暗黒の一節である」。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年7月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は2部構成です。

・第1部 柴五郎の遺書
 戊辰戦争時に城を攻囲され自害した祖母、母、姉妹の供養のために書かれた回顧録です。
 会津藩士の子として生まれ、幼少期に戊辰戦争を経験した柴五郎の経験を西南戦争終了時まで綴ったものです。
 祖母、母、姉妹が自害したこと、薩長の軍勢が会津藩領で非道の限りを尽くしたことから薩長に何とかして
 一矢報いることがテーマの一つになっています。
 大雑把に言うと斗南藩移住後は乞食のような生活を強いられたものの、一家の武家としてのプライドや五郎の執念から東京留学に成功し、
 さらに西南戦争で兄を始め会津人が活躍して憎き薩軍に敵討ちができたというところで終わっています。
 斗南藩時代に間借りしていた家の写真が載っていますが、本当にボロボロの家で驚きました。
 敗者の立場の貴重な証言です。

 他にも、司馬遼太郎の小説ではあまり取り上げていなかったと思いますが、倒幕の勅命や、戊辰戦争に対する会津側の見方を
 知ることができました。

・第2部 柴五郎翁とその時代
 編著者の石光真人氏による柴五郎や当時の中国についての解説です。
 北清事変にうまく対応できた理由として柴五郎は中国人と信頼関係を築いたことを挙げています。
 そしてその後の日中戦争では日本側が中国人を裏切り続けたことから、この戦争は負けると考えていたようです。
 興亜挺身隊の話は初めて知りましたが、本当に酷いものです。

現在日本の戦争犯罪が外交問題となっています。
戦争はとうの昔に終わっているのに敗者の言い分が一方的に無視され勝者の言い分を押し付けられている屈辱的な扱いは少し会津藩と重なる部分があるように感じました。
しかし、その一方で興亜挺身隊のような酷い裏切りをしていたことも良く知るべきだとも思います。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2017年10月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
維新から明治なる時、会津人の芝五郎の戦いに感動しました。現代が違いますが
2017年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今まで「明治維新・戊辰戦争・西南戦争」は、教科書三行程度の知識でしか、理解出来ておりませんでした。欧米列強の圧力から日本の独立国家を守る意味で明治維新は、その役割は果たされていたものと思っていました。反面、なぜ?薩長派閥が優遇され、徳川側会津及び東北側が蔑まされるのか?立役者の1人のはずの上野に銅像見られます西郷さんが死に場所を西南戦争に求めたのかの関係が、とても解りやすく理解出来ました。ありがとうございました。柴五郎翁の、武士身分から乞食のような生活しむけられる中で、こころ挫ける事なく、ご先祖様家族・知人らに応援されながら成長され、ご先祖様に報われられた姿を読みながら、熱く、応援しておりました。江戸時代に生まれ、終戦・敗戦の年にお亡くなりになられた実在の日本人に、応援し、感謝しておりました自分がおりました。感動いたしました。ありがとうございました。
11人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2011年9月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、義和団事件で活躍した陸軍大将・柴五郎の自伝である。

柴は会津藩の出身で、戊辰戦争では「賊軍」側にいた人物である。
こういう立場の人物が書いた記録は誠に興味深い。
というのは、教科書で知る歴史とはまさに「勝者の歴史」ということを思い知るからだ。
通読して、そう思った。

つまり、明治維新とは、欧米列強に脅威を感じた薩長を中心とした雄藩があって、
彼らが急速な国民国家形成のため、抵抗する幕府軍を破り、立憲君主制の中央集権国家を樹立した。
極めて雑に言うと、以上のような説明となろう。
そこでは、勝者が英雄となり、敗者の正義は切り捨てられる。

我々が教えられてきたのは、薩長土肥が書いた歴史である。
履き違えてはならないのは、勝ったから正しいわけではないということ。
先の戦争について、日本とアメリカ、中国・韓国との歴史認識の違いをめぐって、
しばしば外交問題に発展することがある。
それに似て、この事例は日本国内においても置き換えられるのだ。

会津は戊辰戦争時、最後まで抵抗した藩としてよく知られているが、
負けたからといって彼らが悪いわけではなく、こちらにも「正義」があった。
しかし、敗者には「賊軍」のレッテルが貼られ、
勝者となった薩長軍の狼藉は歴史には残らない。

こう考えると、本書の貴重さがよく分かる。
自害を余儀なくされた家族のこと、戦後の困窮生活あたりを読むと心が痛む。
また、そんな最中に息子五郎を叱咤する父親の言葉にとても感動した。
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来るものぞ。
 堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」(75ページ)。

本書に感銘を受けた方には、
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房)をお薦めしたい。
26人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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