「1950年代後期から60年代初期にかけて私は三人の女、その顔だけがみえる一枚の絵を描いた。どれも細い首をした人種的にはそれぞれに違う三人を描いていた。その絵がおそらく『三人の女』の起源なんだろう」 ― ロバート・アルトマン
開巻、奇怪な半獣人の絵を描いている女性画家の映像と、イタリック体の過剰な装飾書体を配したオープニングクレジットから、通常のアルトマン映画との違いをひしひしと感じる。多くの作品では強烈なブラックユーモアで現代人を冷笑的なまでに風刺し、どちらかというとリアリスティックな作風に思えるアルトマンだが、本人は「ベルイマンとフェリーニの作品に強く影響された」と言っている。
幻惑的な筆致を顕わした珍しいアルトマン作品に、女性作家を主人公に、現実と幻想の境が判らなくなってゆく『イメージズ』、また、雑貨店に飾られた巨大な鏡の中で、過去と現実が交錯するという未公開作『Come Back to the Five and Dime, Jimmy Dean, Jimmy Dean』(残念ながら未見!)があるが、本作『三人の女』も、その系譜に連なる作品である。
サナトリウムで働くミリー(シェリー・デュヴァル)。彼女は、テレビや雑誌の受け売りで知的洗練を気取っているが、実は誰にも相手にされていない。そんな彼女を、田舎から出てきたばかりのピンキー(シシー・スペイセク)は憧れの女性像と慕い、彼女のルームメイトになる。ピンキーは、ミリーの行きつけの酒場「ドッジ・シティ」で、プールの壁面に黙々と絵を描く女性画家・ウィリー(ジャニス・ルール)の手になる、半獣人たちの神秘的な絵に強く惹かれる。ウィリーは妊娠していた。
いつもぼーっとしているピンキーに、ミリーは苛立ちを覚えるようになる。しかし、ある事故をきかっけに、ピンキーの性格は豹変し、やがてミリーに取って代わろうとするかのような行動をとり始める・・・。
とにかく、主演の二人の女優、シェリー・デュヴァルとシシー・スペイセクが素晴らしい。『BIRD★SHIT』でデビューした時は、素人丸出しの天然ギャルだったデュヴァルが、本作では上っ面だけの空虚な女性を見事に演じ、またピンキーが豹変したあとの、本当の自分を取り戻し、憑き物が落ちたかのような、あの繊細な演技に感銘・・・。シシー・スペイセックも、ちょっとおつむが足りなさそうな女の子から一転して、攻撃的で自己中心的な性格に豹変する様にぞっとする。
前述の通り、アルトマンにとって本作の潜在的なルーツはかつて描いた「絵」との事だが、直接的なきっかけは彼が視た夢で、それは「人格を盗む」という内容のものだったらしい。夢から醒めたアルトマンのベッドには、子供が砂浜から持ち込んだ砂がこぼれていて、そこから「砂漠」という舞台設定が生まれた。二人の女性が働く老人養護施設も、偶然発見したものを取り入れたという。
アルトマンは、とにかく予定調和を嫌う監督で、脚本通りになど絶対に撮らない。現場で俳優やスタッフたちのアドリブやアイディアを次々と取り込みながら映画を撮る監督だ。だから映画の中の、一見暗示的に見えるような演出は、計算ではなく即興から生まれた偶然が多く、特に本作のような作品のテーマを言葉で言い切ることは困難だ。
「私はこの映画を、むしろ一枚の絵のように見てもらいたいんだな。ここが始まりで、真ん中、終わりというように指し示せるようなものでなく、ひとつの印象というか。循環する歴史を伝える伝説のようなものにしたかった」
『三人の女』には絶対唯一の解釈はないと思うし、解釈は観た人それぞれの自由意志に委ねられると思う。なので、以下に記すのはあくまで筆者の感じたことで、また映画の結末に触れる内容でもある事をお断りしたい。
この映画を撮る上で、アルトマンに強い影響を与えた作品に、ベルイマンの『仮面 ペルソナ』がある。精神疾患を患った女優(リヴ・ウルマン)と、看護婦(ビビ・アンデルセン)が療養地で共に暮らすうちに、二人の人格の境目があいまいになってゆく、という内容の映画だ。『仮面 ペルソナ』は、静的なモンタジューを重ねながら非常に暗示的に描いていき、多くを観客の想像に委ねる作品である。
一方、本作は暗示的に見える映像表現はもちろん多いが、ちゃんとストーリーものの映画になっている(笑)。後半で奇妙な方向へ物語が向ってはゆくが・・・、という映画である。
「人格を盗む」とアルトマンは言っているが、しかし、この映画はもっと神話的な混沌としたものを内包しているように思える。
ひとつには、サナトリウムに務める双子の姉妹。彼女たちは、ピンキーいわく「入れ替わってもどっちがどっちか判らない」 ― 後半でピンキーがミリーの人格を剽窃してゆくことを暗示しているように思えるが、それ以上に二人の境界線があいまいになっていってしまう、牽いて言えば画家のウィリーも含めて、ラスト、「三人の女」の境界線が消失し、一つの存在になってゆくということを暗示しているのではないだろうか、と筆者は感じた。本ソフトのライナーノーツで、映画評論家の高崎俊夫氏は「聖家族の誕生」と表現されていたが、何かもっと原初的なドロドロとした生命の本能に帰化していくような、そんな印象を憶えずにはいられない。
それはなぜかというと、『三人の女』と、ベルイマンの『仮面 ペルソナ』に共通する感覚として、もはや母性というものすら超越してしまった怖さがあるのである。『ペルソナ』のラストで、リヴ・ウルマンが演じる女優は、妊娠した時、自分のお腹の子供(息子)が流産してしまえばいいと思った、という衝撃的な告白をするシーンがある。『三人の女』のクライマックスで、女性画家のウィリーは、『ペルソナ』のリヴ・ウルマンの願望が現実になったかのように、死産してしまう。しかも赤ん坊は「男の子」だった・・・。
実はこの映画の、三人の女の名前をよく見てみると、「Millie」と「Willie」は、頭文字「M」→「W」と逆さにひっくり返したものなのだ。さらにピンキーは劇中で、自分の本名は「Mildred」(愛称で呼べば Millie になる)だと告白するシーンがある。
この三人は、実は「一人の女」 ― 3つに分裂した女の性が、再びひとつになる物語、と解釈することもできる。
ミリーは、いかに自分が男にもてるかを吹聴する(実際はもてていない)。いわばセックス願望を象徴するキャラクターだ。
ウィリーの夫の、元スタントマンのエドガーは、アメリカ銃社会の権化のような男だ。この映画で、銃が暗示するものが何かは明白だが、ピンキーは当初、銃を恐れている。そして事故の後では、人が変わったように射撃場で銃をぶっ放す。
ウィリーは「すでに身篭っている」女性だ。しかし、エドガーという夫がいるにも限らず、お腹の子供には父親の存在感が希薄な印象を受ける。アルトマンも「壁に描いた様々な怪物と共にプールに入って、そこで彼女は受胎したんじないかな」と言っている。
水が抜かれたプールの壁に、奇怪な半獣人たちの画を描くウィリー・・・このプールを巡るイメージは、映画の至るところに出てくる。サナトリウムの温水プール(生命の再生・癒しを暗示?)。ミリーとピンキーのアパートの、ゴミが浮かぶプール(女の性の欺瞞を暗示?)。そして、ウィリーが絵を描く、水のないプールの底。これは羊水を抜かれた子宮のメタファーだろうか。そしてそこに、三人の女が集うことで、生命のスープがどろどろと渦巻く原初的な世界へ戻ってゆく。
アルトマンは、「夢」をきっかけに、ジャズミュージシャンのアドリブ演奏のようにこの映画を撮っただけ、と言うに違いない。しかし、彼がちりばめた映像は不思議なイメージを暗示しながら、観た者の想像力を掻き立てる。
『三人の女』。本能の奥底をかき乱す、禍々しいばかりに美しい映画だ。