前作が賞賛の嵐と非難の嵐が入り交じっていたが、非難した人はキリスト教が現代社会でどのような位置付けにあるかを考えずに些末なことに揚げ足を取っていたように感じる。勿論正確無比な記述は好ましいが、非常に正確であるが眠くなる講釈を聞かされてもキリスト教を何も知らない人が有り難くも何とも思わないし、キリスト教理解に役立たないどころか、キリスト教はなんと矛盾だらけのカビ臭い宗教で、あんないい加減な宗教は入れ込んでいる者だけが信じるものであろうという程度の印象しか与えないと思う。しかし、前作は当たらずとも遠からずかもしれないが、キリスト教はキリストが教祖であろう程度の知識を持っていた人に対して、かなり正確なキリスト教の知識を与えるのに非常に貢献したと思う。二十万部も売れたようで、場合によっては日本では聖書を買わなくてもこの本を買ったという人が多かったのではないか。
キリスト教そのものは西洋文明の源流になっている事は誰もが知っていることである。しかし、明らかに間違っていると思われる記述がある聖書を基に成り立っているのがキリスト教なのに西洋文明の源流になるのはなぜだろうと常々思っていたがこの本を読んでなるほどと納得した。
キリスト教文明が近代化に成功したのは聖書およびその解釈がイスラム教や仏教などのように十分合理的ではないから、キリスト教を信ずる人達が合理的に考えたり行動することが存分にできたからではないか(87頁)。すなわちキリスト教は合理的でないから試行錯誤の上、「神様が」という考えで物事が進むが、神が登場することで不合理性が目立ち、その不合理性を克服するために試行錯誤するうちに「神様が」の部分を消しゴムで削除すると合理的になり、自然とうまくマッチングするようになり合理的な近代科学が生まれてくる。しかし、イスラム教および仏教は合理的なのでここまで進めないから結局は西洋文明が近代科学を発達させたと言う要旨には納得できる。
これは非常に説得力がある説明だが、これは多少異論があり、西洋以外では世界で唯一日本に近代科学が芽生えていた。すなわち関孝和、ライプニッツ、ニュートンは相互関係が無く、それぞれ独自に微分の概念に達している(渡部昇一著、”日本、そして日本人の夢と矜持”78頁)が、残念ながら日本では鎖国政策のため実用領域まで発展しなかった。しかし、関孝和の場合は仏教思想を基に考えだしたものではなく極めて自然に考えだしたもののようであるから、キリスト教の不合理性故に西洋で近代科学が発達したという説明は若干問題があるかもしれない。
そのような些末な問題は別にして、さすが社会学者が書いた本で、キリスト教の説明に関してしては社会学的立場から考察されており、第一級品と思うし、このような本は聖書およびその関係論理しか興味を示さないキリスト教徒には書けないかもしれない。
しかし、折角これだけ纏まった本なのに最後の部分にある「冤罪死したイエス・キリストとは、この我々の中で、我々と共に苦しむ神の至高の例である。」というのは納得しかねる。それが正しいなら、何故冤罪死した時期にキリストがノコノコと出て来るのかという疑問が湧く。ユダヤ人のエジプト時代、バビロン捕囚時代に出てきて人々を助けても良さそうなものに、冤罪死した時期の人がキリストに何の助けも必要としないのにノコノコ出てくるのは理屈に合わず、神が間違えたか、血迷ったかと思うことになってしまう。要するにキリストは当時の指導者に嫌われることをしたから殺されたに過ぎず、それを後世のものが大仰に騒ぎ立てているだけであるように思う。
要するに一神教神は神が全知全能としているところが間違っているのに、一神教信者がそれに気がついていないから矛盾を含んだおかしな宗教になっているのに(それと、コンスタンティヌスが強権を発動してキリスト教を都合の良いように利用したことも加わって)、著者も一神教信者に配慮してか、無理にこじつけているように見えるからおかしな結論になっているところにあると思う。私は特定の宗教は信仰しないが「何か神のようなものだけが我々を救うことができる(146頁、ハイデガーの辞世)。」という程度の神なら、信じはしないがあって悪くはないと思う。要するに縁結びの神である出雲神社にお参りしたり、正月に神社にお参りするようなもので、気楽にお参りできるのが神であり、宗教であがめたてるような大仰な中身とは違う神を信ずるなら違和感はない。
神が何でもかんでもでき、何でもかんでも聞いてくれるというのは少々眉唾ではないだろうか。神は心のよりどころにするもの程度の方が理論的なように思う。神が全知全能であると言うことを否定するのは学問で生計を立てている人達が行うには少々酷であるから、やはりこのような事は在家の学徒(そんな表現があるかどうか別として)が行う方が角が立たないかもしれない。
その意味でこの本の結末は前作があまりに攻撃されたからと言うことでもあるまいが、キリスト教原理主義者におもねりすぎているように思う(心底そのように思われるなら何も言わないが)。やはり正しいと思うことは誰がなんと言おうと正しいと主張する論理を貫く方が読んでいて気持ちがよいが、学者の世界ではそれもなかなか難しいかもしれない。その意味では前作は読後感が非常にすっきりしたものであったが、今回は最終章までは感動したのに、最後の最後でナメクジを踏んだような違和感を感じた。
なお、本文中でも述べられているが、キリスト教関係の専門家との対談が行えて満足であったと言うことだが、確かにキリスト教を信じない私が読んでもその道の権威と共通する概念もあるようなので、その意味でもこの本の権威付けがされるのではなかろうか。この本は前作ほど売れないかもしれないが、前作とこの本で今までキリスト教がどのような宗教であるかを詳しく知らない日本人のキリスト教理解に聖書は役立たないが、この本はそれこそ「バイブル」として役立つ本になりそうに思う。

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やっぱりふしぎなキリスト教 単行本(ソフトカバー) – 2012/11/21
キリスト教がわかって、初めて近代もグローバリズムもわかる。
『ふしぎなキリスト教』の続編とも言うべき、
橋爪大三郎氏、大澤真幸氏の対談のほか、
大貫隆氏と高橋源一郎氏をまじえた徹底討論を掲載。
[対談、シンポジウムより]
・社会契約論にあるキリスト教の論理
・資本主義の発生にキリスト教は欠かせないのか
・『ふしぎなキリスト教』への指摘
・「信じる」とはどういうことか
・贖罪論を整理する
・戦争責任についても参考になるキリスト教
・マルクス主義とキリスト教はそっくり
・一神教のメリットとデメリット
・「私は思う」の想像力
・なぜ、近代になってキリスト教の影響力が強まったか
・歴史学にもあるキリスト教の影響
・阿弥陀仏とGodの違い
・『精神現象学』はヨハネ福音書そのもの
・キリスト教徒は戦争がうまい
・なぜ、キリスト教はグローバル化したか
・中国はキリスト教文明にとって代わるか
[目次]
対談
近代社会のなかのふしぎなキリスト教
橋爪大三郎+大澤真幸
シンポジウム
大貫隆+高橋源一郎+橋爪大三郎+大澤真幸
[やっぱりふしぎなキリスト教1]
一神教とは何か
[やっぱりふしぎなキリスト教2]
グローバリゼーションのなかで
論文
「世界史」から〈世界史〉へ
大澤真幸
連載
〈論文の技法〉第3回
テーマの設定1
人生の主題と学問の課題
大澤真幸
『ふしぎなキリスト教』の続編とも言うべき、
橋爪大三郎氏、大澤真幸氏の対談のほか、
大貫隆氏と高橋源一郎氏をまじえた徹底討論を掲載。
[対談、シンポジウムより]
・社会契約論にあるキリスト教の論理
・資本主義の発生にキリスト教は欠かせないのか
・『ふしぎなキリスト教』への指摘
・「信じる」とはどういうことか
・贖罪論を整理する
・戦争責任についても参考になるキリスト教
・マルクス主義とキリスト教はそっくり
・一神教のメリットとデメリット
・「私は思う」の想像力
・なぜ、近代になってキリスト教の影響力が強まったか
・歴史学にもあるキリスト教の影響
・阿弥陀仏とGodの違い
・『精神現象学』はヨハネ福音書そのもの
・キリスト教徒は戦争がうまい
・なぜ、キリスト教はグローバル化したか
・中国はキリスト教文明にとって代わるか
[目次]
対談
近代社会のなかのふしぎなキリスト教
橋爪大三郎+大澤真幸
シンポジウム
大貫隆+高橋源一郎+橋爪大三郎+大澤真幸
[やっぱりふしぎなキリスト教1]
一神教とは何か
[やっぱりふしぎなキリスト教2]
グローバリゼーションのなかで
論文
「世界史」から〈世界史〉へ
大澤真幸
連載
〈論文の技法〉第3回
テーマの設定1
人生の主題と学問の課題
大澤真幸
- 本の長さ160ページ
- 言語日本語
- 出版社左右社
- 発売日2012/11/21
- ISBN-104903500527
- ISBN-13978-4903500522
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登録情報
- 出版社 : 左右社 (2012/11/21)
- 発売日 : 2012/11/21
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 160ページ
- ISBN-10 : 4903500527
- ISBN-13 : 978-4903500522
- Amazon 売れ筋ランキング: - 304,467位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年12月31日に日本でレビュー済み
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2013年1月28日に日本でレビュー済み
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何がフシギなのでしょうか。キリスト教など重要視していないように見える近代社会にこそ、じつは、非常にキリスト教的なものがある。だからキリスト教はフシギだ、と大澤さんは言います。
これについてもう少し展開しますと、共著者の橋爪大三郎さんによれば、ホッブズは、人権など人間が生まれながらに持つと言われる自然権は、神が人間に与えたのだから、他の人間が奪ってはいけないと考えていました。つまり、人間が生まれながらに持っている権利という近代的な言い方は、じつは、神が人間に与えた権利というキリスト教的考えを根に持っているということでしょう。
つづいて、大澤さんによれば、ジョン・ロックは、自然権は神が与えてくれたのだから、奪われれば抵抗する権利があると考えていたそうです。
本書では、おもに大澤さんが、このような観点から、キリスト教と近代の関係がフシギだと言うのですが、橋爪さんも、やや違う角度からこの関係のフシギさを述べています。キリスト教文明が近代化に成功したのは、聖書やキリスト教の考えがあまり合理的でなかったから、かえって、キリスト教徒は合理的に考えることができたのではないか、という逆説です。
それを側面支持するかのように、キリスト教徒であり一流の新約学者である大貫隆さんは、神が自然現象をそのようにあらしめているという考えのうち、「神が」だけを近代によって消されることで、現象についての研究が発展した、と言います。神がそうさせているからこそ、自然は不規則ではなく整った動きをし、合理的な法則が働いている、ということになるのですが、自然科学は、法則の前提である神だけを横において、法則を研究することで進歩したということでしょうか。
作家の高橋源一郎さんは、神の子イエスが地上に来たら人間にあわせて人間になったように(受肉)、どこに行ってもそこにあわせてそこに宿ることができるキリスト教的遺伝子が資本主義のなかに受け継がれていると言います。
これは大澤さんと橋爪さんによる「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)の続編ですが、何がフシギなのかがより鮮明になったかも知れません。大貫さんの加入で、聖書についての話が少し引き締まったように思いました。
これについてもう少し展開しますと、共著者の橋爪大三郎さんによれば、ホッブズは、人権など人間が生まれながらに持つと言われる自然権は、神が人間に与えたのだから、他の人間が奪ってはいけないと考えていました。つまり、人間が生まれながらに持っている権利という近代的な言い方は、じつは、神が人間に与えた権利というキリスト教的考えを根に持っているということでしょう。
つづいて、大澤さんによれば、ジョン・ロックは、自然権は神が与えてくれたのだから、奪われれば抵抗する権利があると考えていたそうです。
本書では、おもに大澤さんが、このような観点から、キリスト教と近代の関係がフシギだと言うのですが、橋爪さんも、やや違う角度からこの関係のフシギさを述べています。キリスト教文明が近代化に成功したのは、聖書やキリスト教の考えがあまり合理的でなかったから、かえって、キリスト教徒は合理的に考えることができたのではないか、という逆説です。
それを側面支持するかのように、キリスト教徒であり一流の新約学者である大貫隆さんは、神が自然現象をそのようにあらしめているという考えのうち、「神が」だけを近代によって消されることで、現象についての研究が発展した、と言います。神がそうさせているからこそ、自然は不規則ではなく整った動きをし、合理的な法則が働いている、ということになるのですが、自然科学は、法則の前提である神だけを横において、法則を研究することで進歩したということでしょうか。
作家の高橋源一郎さんは、神の子イエスが地上に来たら人間にあわせて人間になったように(受肉)、どこに行ってもそこにあわせてそこに宿ることができるキリスト教的遺伝子が資本主義のなかに受け継がれていると言います。
これは大澤さんと橋爪さんによる「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)の続編ですが、何がフシギなのかがより鮮明になったかも知れません。大貫さんの加入で、聖書についての話が少し引き締まったように思いました。
2013年11月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
橋爪・大澤の『ふしぎなキリスト教』には自称・他称さまざまな識者から批判・反論続出だったわけだが、私はキリスト教のことなんてロクに知らないので、事実誤認がドーノコーノという類のことは言えない。でも読んでいて違和感、異論のあるところは随処にあって、とにかく橋爪・大澤の2人は口が上手いというか、逆説を多用して何でもかんでも意味ありげに抽象化し、読者を丸め込もうとしているとしか思えない。
例えばp25、大澤が「ときどき、契約が維持される究極の根拠として、暴力、つまり脅迫を挙げる人がいますが、脅迫でさえも、実は一種の契約です。脅迫者は、『もしお前が〇〇をしなければ、お前を殺す』等のことを約束しているのです」と論じているのだが、これ論理トリックでしょ? 大体、「暴力、つまり脅迫」って簡単に言い換えるところで疑問符。で、脅迫は契約だって言うんだけど、百歩譲ってそういう等式が成り立つ水準があると認めたとしよう。しかしその場合、「契約」の意味が変質しているわけで、言葉の同一性を介して等置できないものが等置されていると思う。
ま、脅迫は契約じゃないと私は思うけどね。映画でも小説でも、そして現実でも、脅迫者はかなりの確率で相手を殺しちゃうもん。
あるいはp87、キリスト教徒が合理的に考え、行動することによって近代化に成功した理由を問うて、橋爪は「それは聖書とかキリスト教の考え方が十分合理的ではないからだと思います」と答える。こういう逆説に痺れる人は痺れるんだろうけど、言ったもん勝ちっていうのはこういうことじゃないか? イスラム教や仏教は「言っていること自体が非常に合理的」だったんで人は教典に書かれた通りにしか考えたり行動したりできなかった。でもキリスト教は「そうではなかった」から、人々は「合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験することができた」らしい。
まずキリスト教が「そうではなかった」って、どういうこと? 不合理だってこと? それとも「非常に合理的」の否定で「それほど合理的ではない」ってこと? いや、そもそもイスラム教や仏教の「合理性」ってのを定義してほしいんですけど。で、その「合理性」は「合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験すること」をどのように、そしてどの程度制約したんでしょうか?
ウェーバーの『プロ倫』の話だってそう。「今日では資本主義はグローバルなものになっており、必ずしもプロテスタントの伝統がない国でも資本主義は定着し蔓延するのだから、ウェーバーの言うことは違うのではないか」(p42)という批判に対し、橋爪「ウェーバーが言ったのは『条件1、条件2、条件3が揃った場合、資本主義というメカニズムが起動する』ということです。ウェーバーは『条件4、条件5、条件6が揃った場合、資本主義というメカニズムが起動するかどうか』については、何も言っていません。『4、5、6』で起動してもいいでしょう」、大澤「そうですね」、橋爪「だから、『4、5、6』で資本主義が起動する場合があったとしても、これでウェーバーが否定されたことにはなりません」って……普通、科学的な実証においては、そういう場合は「ウェーバーは否定された」って考えるんじゃないでしょうか? 少なくとも「1、2、3、4、5、6」の背後にある「X」を探そうって話になるんじゃないんですか?
この後、橋爪はグローバル化の問題についてもひとくさり話して、最後は(私の想像では)ドヤ顔で「以上」と締めくくるのだが、それに対して「ありがとうございます。一番明快なお答えでした」と大澤(p44)。こいつら漫才やってんのか?
そもそも上の件りで大澤がウェーバー批判について橋爪に質問する前段で、大澤は「いまでも議論は続いているわけですが、しかし、ここでは、ウェーバーの論をとりあえずは前提としてお聞きします」(p42)と言ってるし、高橋源一郎が「ウェーバーの説明自体がよく考えるとおかしな説明です」(p92)とやんわり批判している部分でも、大澤が「ウェーバーの議論はアクロバティックなもので、批判する人もいますが、それでも消えない魅力的な要素を持っています」(p94)と答えていて、それ以上の説明なく、ウェーバーを前提とし続ける。P107でも大澤は「資本主義についてよく調べてみると、―少なくともウェーバー等の説によれば― その中核には、キリスト教に由来の部分があった」と、一応は「少なくとも」なんて遠慮してる風を装いつつ、平然と話を進めている。要するに、どんな反論があってもウェーバーの説が正しいという前提から動くつもりはないワケなんだよね。小室直樹に義理立てしてるのかな。
対談部分の後に、大澤論文が置かれている。その中に、中国の歴史概念とギリシアの歴史概念の違いに触れた、「中国の歴史が『同一なるものの継続』」であるのに対して、「『ヒストリアイ』の中心的な主題は、対立=差異である。『ギリシア』の同一性ではなく、『ギリシア(西)/ペルシア(東)』の対立が、『研究』の対象である」(p124)という一節がある。ただし西洋の歴史が成立するには、さらに旧・新約聖書が必要だったというのが大澤の主張だが、そこでは旧約の歴史書に含まれる、中国の歴史書とは決定的に違う契機を「対立・抗争」だと述べている(p125)。そして新約はこれをさらに「善と悪との二つの原理の抗争、そして善の勝利による統一という形式」(p127)にまで仕上げたのだそうだ。
その直後、「地中海型の歴史を一口で特徴づけるとすれば、『対立(差異)の反復』である」(p127)という記述が登場し、次のp128、「4 『世界史』の成立」という新しい節は、冒頭の「このように、二つの歴史は、まったく異なった形式をもっている。一方は、『同一性の継続』を主題とし、他方は、『差異の反復』を主題とする」という主張から始められる。
そもそも「対立=差異」という設定から私には違和感があるのだが、それが「対立・抗争」となり、さらに「抗争→善と悪」へと展開し、これが「対立(差異)」と特徴づけられ、最後に「差異の反復」とまとめられるに到っては、冗談はヨシコさんだよ。言葉遊びで論を進めることはハイデガーやデリダには許されても、社会学には許されないのだよ、マサチくん。
それにしても、こんな連中が日本の代表的社会学者と目されている(らしい)なんて、東北大地震と福島原発事故を経験した私たちは断じて許すべきではない。インチキ社会学者どもの葬送の時は来たれり!
PS. 大澤論文中、東北大震災に触れて、「なぜ、善良な何十万もの人が、津波に呑み込まれなければならなかったのか」(p135)という件りがあります。誰もチェックしなかったのか?
例えばp25、大澤が「ときどき、契約が維持される究極の根拠として、暴力、つまり脅迫を挙げる人がいますが、脅迫でさえも、実は一種の契約です。脅迫者は、『もしお前が〇〇をしなければ、お前を殺す』等のことを約束しているのです」と論じているのだが、これ論理トリックでしょ? 大体、「暴力、つまり脅迫」って簡単に言い換えるところで疑問符。で、脅迫は契約だって言うんだけど、百歩譲ってそういう等式が成り立つ水準があると認めたとしよう。しかしその場合、「契約」の意味が変質しているわけで、言葉の同一性を介して等置できないものが等置されていると思う。
ま、脅迫は契約じゃないと私は思うけどね。映画でも小説でも、そして現実でも、脅迫者はかなりの確率で相手を殺しちゃうもん。
あるいはp87、キリスト教徒が合理的に考え、行動することによって近代化に成功した理由を問うて、橋爪は「それは聖書とかキリスト教の考え方が十分合理的ではないからだと思います」と答える。こういう逆説に痺れる人は痺れるんだろうけど、言ったもん勝ちっていうのはこういうことじゃないか? イスラム教や仏教は「言っていること自体が非常に合理的」だったんで人は教典に書かれた通りにしか考えたり行動したりできなかった。でもキリスト教は「そうではなかった」から、人々は「合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験することができた」らしい。
まずキリスト教が「そうではなかった」って、どういうこと? 不合理だってこと? それとも「非常に合理的」の否定で「それほど合理的ではない」ってこと? いや、そもそもイスラム教や仏教の「合理性」ってのを定義してほしいんですけど。で、その「合理性」は「合理的であるとはどういう考え方なのか、どういう行動なのか、試行錯誤しながら実験すること」をどのように、そしてどの程度制約したんでしょうか?
ウェーバーの『プロ倫』の話だってそう。「今日では資本主義はグローバルなものになっており、必ずしもプロテスタントの伝統がない国でも資本主義は定着し蔓延するのだから、ウェーバーの言うことは違うのではないか」(p42)という批判に対し、橋爪「ウェーバーが言ったのは『条件1、条件2、条件3が揃った場合、資本主義というメカニズムが起動する』ということです。ウェーバーは『条件4、条件5、条件6が揃った場合、資本主義というメカニズムが起動するかどうか』については、何も言っていません。『4、5、6』で起動してもいいでしょう」、大澤「そうですね」、橋爪「だから、『4、5、6』で資本主義が起動する場合があったとしても、これでウェーバーが否定されたことにはなりません」って……普通、科学的な実証においては、そういう場合は「ウェーバーは否定された」って考えるんじゃないでしょうか? 少なくとも「1、2、3、4、5、6」の背後にある「X」を探そうって話になるんじゃないんですか?
この後、橋爪はグローバル化の問題についてもひとくさり話して、最後は(私の想像では)ドヤ顔で「以上」と締めくくるのだが、それに対して「ありがとうございます。一番明快なお答えでした」と大澤(p44)。こいつら漫才やってんのか?
そもそも上の件りで大澤がウェーバー批判について橋爪に質問する前段で、大澤は「いまでも議論は続いているわけですが、しかし、ここでは、ウェーバーの論をとりあえずは前提としてお聞きします」(p42)と言ってるし、高橋源一郎が「ウェーバーの説明自体がよく考えるとおかしな説明です」(p92)とやんわり批判している部分でも、大澤が「ウェーバーの議論はアクロバティックなもので、批判する人もいますが、それでも消えない魅力的な要素を持っています」(p94)と答えていて、それ以上の説明なく、ウェーバーを前提とし続ける。P107でも大澤は「資本主義についてよく調べてみると、―少なくともウェーバー等の説によれば― その中核には、キリスト教に由来の部分があった」と、一応は「少なくとも」なんて遠慮してる風を装いつつ、平然と話を進めている。要するに、どんな反論があってもウェーバーの説が正しいという前提から動くつもりはないワケなんだよね。小室直樹に義理立てしてるのかな。
対談部分の後に、大澤論文が置かれている。その中に、中国の歴史概念とギリシアの歴史概念の違いに触れた、「中国の歴史が『同一なるものの継続』」であるのに対して、「『ヒストリアイ』の中心的な主題は、対立=差異である。『ギリシア』の同一性ではなく、『ギリシア(西)/ペルシア(東)』の対立が、『研究』の対象である」(p124)という一節がある。ただし西洋の歴史が成立するには、さらに旧・新約聖書が必要だったというのが大澤の主張だが、そこでは旧約の歴史書に含まれる、中国の歴史書とは決定的に違う契機を「対立・抗争」だと述べている(p125)。そして新約はこれをさらに「善と悪との二つの原理の抗争、そして善の勝利による統一という形式」(p127)にまで仕上げたのだそうだ。
その直後、「地中海型の歴史を一口で特徴づけるとすれば、『対立(差異)の反復』である」(p127)という記述が登場し、次のp128、「4 『世界史』の成立」という新しい節は、冒頭の「このように、二つの歴史は、まったく異なった形式をもっている。一方は、『同一性の継続』を主題とし、他方は、『差異の反復』を主題とする」という主張から始められる。
そもそも「対立=差異」という設定から私には違和感があるのだが、それが「対立・抗争」となり、さらに「抗争→善と悪」へと展開し、これが「対立(差異)」と特徴づけられ、最後に「差異の反復」とまとめられるに到っては、冗談はヨシコさんだよ。言葉遊びで論を進めることはハイデガーやデリダには許されても、社会学には許されないのだよ、マサチくん。
それにしても、こんな連中が日本の代表的社会学者と目されている(らしい)なんて、東北大地震と福島原発事故を経験した私たちは断じて許すべきではない。インチキ社会学者どもの葬送の時は来たれり!
PS. 大澤論文中、東北大震災に触れて、「なぜ、善良な何十万もの人が、津波に呑み込まれなければならなかったのか」(p135)という件りがあります。誰もチェックしなかったのか?