本著は、新約聖書の『ヨハネ黙示録』を論じたロレンスの晩年の著作『アポカリプス論』を、イギリス文学に精通する福田恆存が翻訳したもの。
本著ではまず、人間には純粋に個人的な側面と他人への讃仰や支配として現れる集団的側面の二面があるとされ、その上でイエスは純粋に「個人」に留まった存在であったと論じられる。
しかし本著は、新約聖書において『ヨハネ黙示録』だけは全く逆にねじけた集団的自我によって書かれており、結果人間本性の非個人的側面(集団的側面)に沿っていると指摘する。
「ねじけている」とは、『ヨハネ黙示録』には、集団的側面における負の側面としての、権力への怨恨や破壊欲求が内包されているということを指摘するがための表現だ。
『ヨハネ黙示録』が人間のねじけた集団的自我の側から書かれたものとするロレンスの解釈の前提には、人間は以下のような矛盾的性質を本来的に孕む存在であるという、彼の人間理解がある。
一方で人間は、個人性と集団性を共に切り離しがたく備えた存在であり、集団や社会なくしては人間は成立し得ないという側面がある。
他方人間はにも関わらず、同時に集団や社会が有する権力という圧倒的力に対しては怨恨を抱き破壊を欲求してしまう側面も備える。
つまり人間は、集団・社会に対し「依存」と「怨恨・破壊」という相反する態度・関係性を同時に孕む存在である、というのがロレンスの人間理解であり、この理解が『黙示録論』の前提にある。
人間がロレンスの理解の通りとするならば、そこからどのような問題が顕在化するのか。
それは、人間の集団は、個人性という一側面(これは集団性を欠いた断片的人間ということになる)同士が互いに全体性を主張し合い無限に摩擦を繰り返しながら結びつく存在だということになる。
即ち、個人性と集団性はセットとなる人間の側面でありながら、同時に常に衝突する関係にあるということだ。
そしてロレンスは、キリスト教的な愛も実は個人的側面にのみ立脚したもの、つまり本来欠くことのできない集団的側面を欠いた形で理想化されたものであり、結局は衝突に至るものだと結論付ける。
これが『ヨハネ黙示録』が炙り出す人間の悲劇である、というのがロレンスの『黙示録論』の主張だ。
本作に「現代人は愛しうるか」という副題を付したのは訳者の福田恆存だが、人間が如何に人間を愛しうるのか、それはキリスト教的愛で可能なのか、という論点を『黙示録論』の主題として捉えたが故だろう。
人間を多面的に捉え、それら相互の矛盾がもたらす悲劇性を見事に表現した名著である。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥1,430¥1,430 税込
ポイント: 43pt
(3%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥1,430¥1,430 税込
ポイント: 43pt
(3%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥990
中古品:
¥990

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
黙示録論 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2004/12/9
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,430","priceAmount":1430.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,430","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"AjBv6f7nAEI2oRQgS5AN7yBuUWcmKCQvNjfmKbzfLUnOiQvYiz2GUK%2BkoYVTOSolmZ%2B1d7qRyQtuWwvcqsaHkACsEUiqvliucaHdc9qVMd8fc8EnhUQdT6jea59De48t","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥990","priceAmount":990.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"990","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"AjBv6f7nAEI2oRQgS5AN7yBuUWcmKCQvZH8M6kC2R3DXKn4Z0Yzvf5tJSDJHkGo925NfO8Cfx%2BlVwTOqsOWmNfTr9OmhuelR%2FOgbLzGSSSlboz6aNOoBZpAL805%2BsCDweGvAiUGTfE2IS3izzRtX5KVTVW8XIzwQUykYo60iWj1yW9FnrEsz2e3pNEFmrWyg","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
- 本の長さ363ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2004/12/9
- ISBN-104480088873
- ISBN-13978-4480088871
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 黙示録論 (ちくま学芸文庫)
¥1,430¥1,430
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り4点(入荷予定あり)
¥1,430¥1,430
最短で4月5日 金曜日のお届け予定です
残り12点(入荷予定あり)
¥1,353¥1,353
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り8点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年10月9日に日本でレビュー済み
ロレンスが黙示録を解説し、さらにそれを福田氏が解説した本です。
黙示録はなぜ書かれたのか、それは復讐のためです。ローマ帝国に弾圧され虐げられた
キリスト教徒の復讐であり、憎悪の書なのです。
しかし、なぜ復讐が必要なのか、キリスト教は愛の宗教ではなかったのか、
貧しく虐げられた人は幸いであり、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すのではなかったのか。
貧しく虐げられた人々とは何者なのか、それは挫折した権力者に過ぎないのではないか、
権力や官能を求め、挫折したが故に、権力や官能を否定し憎悪する人々ではないのか。
虐げられた人々の秘められた願望、それは「卑しい支配欲」なのです。卑しい支配欲、
それは自分を高めることもなく、正当な支配者(貴族や英雄)のように権力に伴う責任を認識せず、
ただひたすら他人に嫉妬し、権力や官能を否定し、あらゆる価値あるものを引きずり下ろし、
自分と同じような「貧しい」人生を強要するのです(平等、それは責任からの解放、引きずり下ろす快感)。
キリスト教がいくら愛や平和をうたっても、復讐や憎悪が黙示録として裏口から入り込むように、
人間は本能(支配欲)から逃れられない。
その本能を歪んだ形で救済しようとしたのがキリスト教ということになります。
その結果、あたかも責任ある強者よりも無責任な弱者の方が世界を支配する権利があるかのような
顛倒を生みだし、歪んだ優越感を植え付けてしまった、ということだと思います。
黙示録はなぜ書かれたのか、それは復讐のためです。ローマ帝国に弾圧され虐げられた
キリスト教徒の復讐であり、憎悪の書なのです。
しかし、なぜ復讐が必要なのか、キリスト教は愛の宗教ではなかったのか、
貧しく虐げられた人は幸いであり、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すのではなかったのか。
貧しく虐げられた人々とは何者なのか、それは挫折した権力者に過ぎないのではないか、
権力や官能を求め、挫折したが故に、権力や官能を否定し憎悪する人々ではないのか。
虐げられた人々の秘められた願望、それは「卑しい支配欲」なのです。卑しい支配欲、
それは自分を高めることもなく、正当な支配者(貴族や英雄)のように権力に伴う責任を認識せず、
ただひたすら他人に嫉妬し、権力や官能を否定し、あらゆる価値あるものを引きずり下ろし、
自分と同じような「貧しい」人生を強要するのです(平等、それは責任からの解放、引きずり下ろす快感)。
キリスト教がいくら愛や平和をうたっても、復讐や憎悪が黙示録として裏口から入り込むように、
人間は本能(支配欲)から逃れられない。
その本能を歪んだ形で救済しようとしたのがキリスト教ということになります。
その結果、あたかも責任ある強者よりも無責任な弱者の方が世界を支配する権利があるかのような
顛倒を生みだし、歪んだ優越感を植え付けてしまった、ということだと思います。
2011年8月27日に日本でレビュー済み
どうも、仕事と勉強に手が付かないので書き込むことにしますね。(笑
私がこの本を初めて手にしたのは、もう二十数年前、パリで放浪していた頃
の話です。日本語に飢えていて、パリジュンク堂に立ち寄ったときでした。
そのときの感動は今も忘れません。正直ロレンスのアポカリス論の部分は一度
しか読まなかった。しかし当時の私には、福田氏の前書きと後書きで充分でした。
涙が数日間止まらなかったのを覚えている。読書でああいう経験をしたのは、
後にも先にもあのときだけです。
普段自分が思っていて言葉にできなかったあれこれを、いとも簡単に解説されて
いて驚愕し、私だけでは無かったんだという安堵感で心が震えました。。
レトリックの巧みさにも舌を巻きましたね。
彼の発言から政治的保守派だとか、タカ派の扇動家だとか、そういう評価はちょっと
私には抵抗があります。
あくまで彼は文化人で評論家としての評価で留めておいたほうが適切ではないでしょうか。
彼自信身、最晩年には、自分の著作は国語論以外は読まなくて良いと言っていましたから。(笑
この本は、最近読書する暇と心の余裕のない私には、今も心のバイブルになってる記念の
一冊です。
私がこの本を初めて手にしたのは、もう二十数年前、パリで放浪していた頃
の話です。日本語に飢えていて、パリジュンク堂に立ち寄ったときでした。
そのときの感動は今も忘れません。正直ロレンスのアポカリス論の部分は一度
しか読まなかった。しかし当時の私には、福田氏の前書きと後書きで充分でした。
涙が数日間止まらなかったのを覚えている。読書でああいう経験をしたのは、
後にも先にもあのときだけです。
普段自分が思っていて言葉にできなかったあれこれを、いとも簡単に解説されて
いて驚愕し、私だけでは無かったんだという安堵感で心が震えました。。
レトリックの巧みさにも舌を巻きましたね。
彼の発言から政治的保守派だとか、タカ派の扇動家だとか、そういう評価はちょっと
私には抵抗があります。
あくまで彼は文化人で評論家としての評価で留めておいたほうが適切ではないでしょうか。
彼自信身、最晩年には、自分の著作は国語論以外は読まなくて良いと言っていましたから。(笑
この本は、最近読書する暇と心の余裕のない私には、今も心のバイブルになってる記念の
一冊です。
2005年1月24日に日本でレビュー済み
「この本を買った人は(…)」の欄に『19歳』が入っている所から推察するに、朝日新聞(04.12.26)の宮崎哲弥氏の“今年の3点”に惹かれて購入した方もいる様子。座右の書だと紹介されていて、ちょっと意外。でも、おかげで復刊しているのを知ったので、感謝。
僕がこの本に興味を持ったのは、現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの批評から。彼は本書を「聖戦を唱えるキリスト教と平和主義者のキリスト」を共に批判した書と評価。また「軍・警察・市民が一体となった一大保安体制(<聖エルサレム>)」の恐怖を描いている、とも(『批評と臨床』)。まるで米国の保守化と世界戦略の予言だけど、その一方で、大都市バビロンへの下層民衆の呪詛は、むしろN.Y.を襲ったテロリストに近い。
もう一つドゥルーズが言うのは、ロレンスとニーチェの親近性。ニーチェの『反キリスト』が無ければ、ロレンスも本書を書かなかったのではと思えるほどだ、と。実際、訳者もニーチェに言及しているし、二人の共通項は多い。賎民の嫉妬、‘大衆の反逆’(オルテガ)であるキリスト教と民主主義への、同時攻撃。イエス個人とキリスト教の区別。イエスへの屈折した賞賛と反撥。聖書の内容への、曝露心理学的な批判。キリスト教の教条主義と対比した、仏陀への賛美。健康的な権力と、真の貴族主義の称揚。近代科学の抽象性の批判と、古代ギリシアの哲学者への郷愁。男性的なるものと女性的なるものの差異の主張。肉体性の肯定。
本書が最も鋭く批判するのは、近代的自我という枠を防衛する為に、自然や他人との生きた結合を失った現代人。人類、国民、家族との真の結合を説く本書を、単純、短絡的な伝統主義に回収させずに生かすことが、読者の責務だろう。
僕がこの本に興味を持ったのは、現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの批評から。彼は本書を「聖戦を唱えるキリスト教と平和主義者のキリスト」を共に批判した書と評価。また「軍・警察・市民が一体となった一大保安体制(<聖エルサレム>)」の恐怖を描いている、とも(『批評と臨床』)。まるで米国の保守化と世界戦略の予言だけど、その一方で、大都市バビロンへの下層民衆の呪詛は、むしろN.Y.を襲ったテロリストに近い。
もう一つドゥルーズが言うのは、ロレンスとニーチェの親近性。ニーチェの『反キリスト』が無ければ、ロレンスも本書を書かなかったのではと思えるほどだ、と。実際、訳者もニーチェに言及しているし、二人の共通項は多い。賎民の嫉妬、‘大衆の反逆’(オルテガ)であるキリスト教と民主主義への、同時攻撃。イエス個人とキリスト教の区別。イエスへの屈折した賞賛と反撥。聖書の内容への、曝露心理学的な批判。キリスト教の教条主義と対比した、仏陀への賛美。健康的な権力と、真の貴族主義の称揚。近代科学の抽象性の批判と、古代ギリシアの哲学者への郷愁。男性的なるものと女性的なるものの差異の主張。肉体性の肯定。
本書が最も鋭く批判するのは、近代的自我という枠を防衛する為に、自然や他人との生きた結合を失った現代人。人類、国民、家族との真の結合を説く本書を、単純、短絡的な伝統主義に回収させずに生かすことが、読者の責務だろう。
2017年2月16日に日本でレビュー済み
著者が結論部分で問う命題や訳者が付した副題がおそらく重要なテーマなのだと思いますが、その考察で黙示録を題材にするということが意外な感じがしました。
社会の中でそれぞれ自律的に存在する個人がお互いに認め合い、愛し合うということは近代社会の根本にある理念に据えられている感じがします。しかし、いざ考えてみると殆ど存在するのか疑わしく、人を愛するという単純な営為も真の意味でそれを可能にするには途方もない辛苦を乗り越える必要性があるのだと思います。
そのテーマを既存の社会制度や歴史的な事件を通じて掘り下げるのではなく、黙示録に流れる精神や使われる象徴の解釈からその問題の克服の途を探求するというのは一見観念的にも思えました。
しかし人として純粋であった、かつての偉人達も結局は社会的な枠組みを排してのみでしかその存在を護ることができなかったという視点からすれば、社会のなかでは個人が自律的に存在し愛し合うということを可能にする原理は存在しないといえると思います。
それ故に異色の宗教書である黙示録に流れる強烈な感情を分析するこということが、何よりもその問題にアプローチするには最も有効な手法なのかな~と個人的に感じました。
逆にそのような感情なりを各々が直接に扱えば社会が成立しないために、様々な慣習や制度が無意識的にせよ成立するのかも、と勝手に想像してしまいましたね。
ロレンスが導いた結論も、そのようなジレンマを前提とした枠組みにそもそも立脚していない視座なり理念の獲得と捉えるといいのかな、と滅茶苦茶な読み方かもしれませんが思えました。
社会の中でそれぞれ自律的に存在する個人がお互いに認め合い、愛し合うということは近代社会の根本にある理念に据えられている感じがします。しかし、いざ考えてみると殆ど存在するのか疑わしく、人を愛するという単純な営為も真の意味でそれを可能にするには途方もない辛苦を乗り越える必要性があるのだと思います。
そのテーマを既存の社会制度や歴史的な事件を通じて掘り下げるのではなく、黙示録に流れる精神や使われる象徴の解釈からその問題の克服の途を探求するというのは一見観念的にも思えました。
しかし人として純粋であった、かつての偉人達も結局は社会的な枠組みを排してのみでしかその存在を護ることができなかったという視点からすれば、社会のなかでは個人が自律的に存在し愛し合うということを可能にする原理は存在しないといえると思います。
それ故に異色の宗教書である黙示録に流れる強烈な感情を分析するこということが、何よりもその問題にアプローチするには最も有効な手法なのかな~と個人的に感じました。
逆にそのような感情なりを各々が直接に扱えば社会が成立しないために、様々な慣習や制度が無意識的にせよ成立するのかも、と勝手に想像してしまいましたね。
ロレンスが導いた結論も、そのようなジレンマを前提とした枠組みにそもそも立脚していない視座なり理念の獲得と捉えるといいのかな、と滅茶苦茶な読み方かもしれませんが思えました。
2017年9月9日に日本でレビュー済み
ロレンスも訳者の福田恆存も故人なので仕方がないのですが、そもそも黙示録の理解が誤っており、田川建三訳著『新約聖書 訳と註 第7巻 ヨハネの黙示録』(作品社、2017年8月)を読んでもらいたいところです。「自分らのみが正統であるので、それに従わずに見解や行動を異にする者は殲滅すべきである」などという「独善性・排他性」から脱しない限り、キリスト教に未来はありません。しかし、この「独善性・排他性」を正当化する根拠になってきた最たるものの一つが黙示録であり、ロレンスの父を含む炭鉱の人々が富裕層を呪詛したのも、黙示録の憎しみに満ちた殲滅礼賛の思想に立脚するものです。しかるに、田川建三氏の訳註書では、自分らと異なる者を殲滅させる残虐な「独善性・排他性」の表現は、実は黙示録の「原著者」のものではなくて、すべて「編集者S」(と田川建三氏が呼ぶ独善的・排他的でSadisticなユダヤ至上主義者〔だから編集者S〕)が後に加筆したものであるということが、詳細に学術的に論証されています。そして「原著者」のほうは、「神によって最後に天上の極楽的世界に招かれるのは世界中のすべて民族(すべての言語の者)である」としており、「独善性・排他性」を完全に脱却しています。これは田川建三氏の新学説であり、世界に誇りうる水準です(13年かけて新約聖書全訳註を完成させた偉業に脱帽!)。新約聖書をキリスト教の絶対的権威として担いで、自分らと異なる者を殲滅する憎しみを正当化してきた言動が、この田川建三氏の新学説を機に改められることを願うのみです。