本の程度もよく良かった!
本の内容的には、私にとっての偶像崩壊というのか、知的好奇心を満たす1冊でした。
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マックス・ヴェ-バ-の犯罪: 『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書 70) 単行本 – 2002/9/1
羽入 辰郎
(著)
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- 本の長さ310ページ
- 言語日本語
- 出版社ミネルヴァ書房
- 発売日2002/9/1
- ISBN-104623035654
- ISBN-13978-4623035656
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が出版されてから百年。その間、ヴェーバーの誤魔化しは見逃され続けてきた。果たしてヴェーバーは正しかったのか。厳密なテキスト・クリティークに基づき、その検証を試みる。
登録情報
- 出版社 : ミネルヴァ書房 (2002/9/1)
- 発売日 : 2002/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 310ページ
- ISBN-10 : 4623035654
- ISBN-13 : 978-4623035656
- Amazon 売れ筋ランキング: - 645,664位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 4,834位社会一般関連書籍
- - 11,722位社会学概論
- - 56,875位ビジネス・経済 (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2012年5月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の発達』は、一応、岩波文庫(1989年の改訳版)で通読したことがあります。当時は「重厚な大労作」という印象しか持ちませんでした。何せ、高等学校の教科書にも出てくる、超がつくほどの著名な本ですから。
さて、本書は、その「名著」とされていた、『倫理』に隠された、ほとんど詐欺ともいえる資料操作を、徹底的な読み込みと原資料の博捜および本文と原資料との突合せからあぶりだした、これまた大変な労作、画期的な研究書です。具体的には、『倫理』の核となる、「calling」「Beruf」「フランクリンの『自伝』」をめぐる、資料操作上の、甘く言って「誤り」、厳しくいえば「詐欺」を鋭く指摘しています。
また、注の形で、大塚久雄学派の内紛やヴェーバーが最初の女子学生の教え子を後に愛人にしていた話(247頁)などの情報もあります。
ただ、権威に媚びず、ヴェーバー自身が強調した「知的誠実性」を実践した著者羽入さんの精神力と努力には敬意を表しますが、繰り返しが多く、ややくどい感じもします。また、少々、きつい表現があり、折角の労作の品格を下げている気がします。
たとえば、
「世間では普通、こうした作業を指して「でっちあげ」と言い、そうした作業をした人物を「詐欺師」と呼ぶ。」(191頁)
「何が楽しくてこの悪魔(ヴェーバーのこと)このような人騒がせな罠を一世紀にもわたって残したのか。自分の死後も知的でありたいと願う人間達が自分の仕掛けた罠に引っかかるのを地獄から見て楽しみたいとでも思ったのか。」(196頁)
「今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである。」(197頁)
「首輪と引き綱の付いた主人持ちの研究者には、筆者は残念ながらとうとうなり得なかった。ただの野良犬である。」(216頁)
さて、本書は、その「名著」とされていた、『倫理』に隠された、ほとんど詐欺ともいえる資料操作を、徹底的な読み込みと原資料の博捜および本文と原資料との突合せからあぶりだした、これまた大変な労作、画期的な研究書です。具体的には、『倫理』の核となる、「calling」「Beruf」「フランクリンの『自伝』」をめぐる、資料操作上の、甘く言って「誤り」、厳しくいえば「詐欺」を鋭く指摘しています。
また、注の形で、大塚久雄学派の内紛やヴェーバーが最初の女子学生の教え子を後に愛人にしていた話(247頁)などの情報もあります。
ただ、権威に媚びず、ヴェーバー自身が強調した「知的誠実性」を実践した著者羽入さんの精神力と努力には敬意を表しますが、繰り返しが多く、ややくどい感じもします。また、少々、きつい表現があり、折角の労作の品格を下げている気がします。
たとえば、
「世間では普通、こうした作業を指して「でっちあげ」と言い、そうした作業をした人物を「詐欺師」と呼ぶ。」(191頁)
「何が楽しくてこの悪魔(ヴェーバーのこと)このような人騒がせな罠を一世紀にもわたって残したのか。自分の死後も知的でありたいと願う人間達が自分の仕掛けた罠に引っかかるのを地獄から見て楽しみたいとでも思ったのか。」(196頁)
「今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである。」(197頁)
「首輪と引き綱の付いた主人持ちの研究者には、筆者は残念ながらとうとうなり得なかった。ただの野良犬である。」(216頁)
2004年9月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
食品の表示の詐称などで考えてみると理解しやすいのではないかと思うが、どんな言い訳をしたところで、その行為の信用性の回復は、やった行為の元が変わらない限り不可能であり、時間がかかるのである。内容的に安全でおいしいものであろうとも、それを手に取るひねくれ物はよっぽどの変人であるか、販売している当事者とその血のつながりのある人ぐらいでは無いか。つまり、当事者自身の反論は、当事者同士で無ければ聞き入れられないのではないかということである。それぐらいこの本の威力は凄まじいものがあるように思える。だからこそ、この本が面白いのである。
学術書なので、論証自体はかなりしつこくて煩わしいところもあるが、これぐらい慎重に論じていかなければ、定説として固まった評価を覆すのは難しいということだろう。しかしながら、決して難しいという内容ではない。論が長くなることと難しいということは別の問題である。挿入してある逸話であるとか、注脚の内容も面白い。書き手としての文章能力というか、そういう才能まで感じさせられるのである。
そして、この著者の奥さんという方にも、きっと興味がわくことになるだろう。これだけの本を著した著者よりも、直接に書かなかった奥さんの方が、実はすごい人なのではないかという疑いがわく。そういう興味まで刺激させられる大発見の記録なのである。
学術書なので、論証自体はかなりしつこくて煩わしいところもあるが、これぐらい慎重に論じていかなければ、定説として固まった評価を覆すのは難しいということだろう。しかしながら、決して難しいという内容ではない。論が長くなることと難しいということは別の問題である。挿入してある逸話であるとか、注脚の内容も面白い。書き手としての文章能力というか、そういう才能まで感じさせられるのである。
そして、この著者の奥さんという方にも、きっと興味がわくことになるだろう。これだけの本を著した著者よりも、直接に書かなかった奥さんの方が、実はすごい人なのではないかという疑いがわく。そういう興味まで刺激させられる大発見の記録なのである。
2021年6月22日に日本でレビュー済み
ただ一言。素晴らしい。眼から鱗が落ちた。以上、絶対に読むべし。
2019年4月11日に日本でレビュー済み
著名なドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)の論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるたくさんの矛盾や間違いを指摘し、かつヴェーバーを崇拝する学者がその間違いを認めないという姿勢も問題視する。事態は結構シリアスで、崇拝者の多い学者(この場合ヴェーバー)を若手学者が批判すると、干されたり虐められたりするという現実があるのだから酷いものである。個人崇拝をすることの愚かさや、学者とはどうあるべきか、学問にはどう望むべきかという誠実さを考えさせられる好著である。
もっとも、著者はマックス・ヴェーバーの業績を全否定しているわけではない。
もっとも、著者はマックス・ヴェーバーの業績を全否定しているわけではない。
2006年2月5日に日本でレビュー済み
最近はアラビア語が出来ないアラブ研究者がアラビア語が出来るアラブ研究者を批判したり、ラテン語が読めない人がラテン語が読める人を批判したり、ハングルが読めない人が、ハングルの読める韓国研究者を批判している事例が後を絶たない。悲しいことではあるがこれがこの国の学問の現実だ。例えば折原浩は全共闘学生にカリスマ的人気を集めた研究者だが、その人気はすべて学生運動関連の著書だというイデオロギー的結果がでている。本書はヴェーバーの問題点を逐一検討し、ドイツでの評価が高かったことも首肯できる。おすすめの1冊。
2004年2月5日に日本でレビュー済み
近年稀に見る快挙と言える研究業績を成し遂げた作品だと思います。学問の領域に生きる者のみならず、知的探求を楽しむ人間にとって、著者の成し遂げたことは尊敬に値します。中村UCサンタバーバラ校教授の青色LED開発の快挙に相当するものです。大学生、とくに大学院生や院を志す学生には是非とも読んで欲しい本のひとつです。万人向けに著者の偉業を讃える本が造られてもいいくらいです。
星5つにしましたが、4.5というところでしょうか。満点の5にならないのは、価格が高過ぎ、誰にでも気軽に買ってもらえる本でなくなってしまった点がマイナス要因です。
星5つにしましたが、4.5というところでしょうか。満点の5にならないのは、価格が高過ぎ、誰にでも気軽に買ってもらえる本でなくなってしまった点がマイナス要因です。
2016年1月19日に日本でレビュー済み
本書の「はじめに」はミステリー小説かと思った。小説風に書くなら、名探偵でも登場させて謎解きをさせれば、著者の意図は伝わると思うが、本文を読み始めると異様な雰囲気が漂い始める。ヴェーバーの論理展開の誤りを淡々と指摘するものと思って読み始めたが、ヴェーバー個人を異常に非難・罵倒しており、著者の人間性を疑ってしまう。「山本七平賞」の山本七平氏に失礼ではないかと感じた。
また、本書扉の献辞「東大山中湖で亡くなった五人の霊に」の由来を調べる内に、羽入氏と市野川氏と
の過去のやりとりをmixiに見つけ、ここでも羽入氏の異常さが浮き彫りになっていた。
本書の主眼はヴェーバーの主著の論拠となった資料に関する不当な扱い方の糾弾にある。しかしドイツの歴史では、ヴェーバー(1864~1920年)が活躍した時代はドイツ帝国(1871~1918年)の時代と重なり、ビスマルク(1815~1898年)がヨーロッパに大きな国際問題や大戦争を起こさせないためのパワーバランスを実現すべく、1860年からの30年間で軍国主義と富国強兵でドイツを統一した時代である。ところが1890年に、ドイツ中心の世界政策を掲げて帝国主義化を推進したいヴィルヘルム2世は、見解の異なる邪魔なビスマルクを引退させる。これがヒトラーとナチス・ドイツ勃興の遠因である。そんな時代であるから、図書館で一次資料をじっくり読むような環境ではなかったかも知れない。だから、ヴェーバーの資料操作を論じる前にヴェーバーのテーゼを問題にすべきと考える。
***
本書は、第1章で「calling」概念をめぐる資料操作、第2章で「Beruf」概念をめぐる資料操作、第3章で「フランクリンの自伝」をめぐる資料操作、第4章で「資本主義の精神」をめぐる資料操作、という視点でヴェーバーを断罪するものである。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のテーゼは、「カルヴィニズム以降のプロテスタント平信徒たちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という命題である。(橋本努氏のHP記載から引用)
しかし私はもっと簡単に、「キリスト教プロテスタント派信者の倫理で生活する工場労働者が、予想外に資本主義発展に貢献した」という命題だと理解している。私は、そのテーゼが妥当だとは思わないが。
私が本書に期待したことは、第1章の「calling」概念と第2章の「Beruf」概念の資料操作によって上記テーゼが否定されるかどうかであるが、残念ながらテーゼに関する論考は為されていない。
一方、第3章では、「フランクリンの自伝」の資料操作のゆえにヴェーバーのテーゼは正しくないと断じている。しかし、この断定は論理的に不十分な結論である。
著者は「(フランクリン」自伝の資料操作がない(A)ならば、ヴェーバーのテーゼ(B)は正しい」という命題を前提にしているらしい。すると、著者が証明すべきは「ヴェーバーのテーゼが正しくない(¬B)ならば、自伝の資料操作がある(¬A)」という対偶を証明しなければならない。つまり、自伝の資料操作を論じる前に「テーゼが正しくないこと」を論証する必要がある。その上で、その証拠となる自伝の資料操作を論証に対応付けなければならない。しかし、著者が証明しているのは「(自分が偶然見つけた)自伝の資料操作がある(¬A)から、ヴェーバーのテーゼが正しくない(¬B)」という命題の『裏』を証明しているに過ぎない。「命題の『裏』は必ずしも真ならず」なのだから、論証としては不十分なのである。
最後の第4章では「プロテスタンティズムの倫理精神がある(A)ならば、資本主義の精神文化の理念型が進む(B)」という命題が資料操作によって成立しないことを論じている。すなわち、「Aならば¬B」である。そうなると、ここでも論証すべきは「Bならば¬A」である。つまり、「資本主義の精神文化の理念型が進む(B)ならば、プロテスタンティズムの倫理精神がない(¬A)」という対偶を証明しなければならない。これは論証がとても難しいし、論証する価値があるのかどうかが疑わしい。
やはり、資料操作に注目するより、ヴェーバーが発見したテーゼを論じるべきであり、願わくば21世紀以降の経済体制を予想して修正・拡張すべきではないだろうか?
***
日常の至る所で私たちが遭遇するテーマは、賛成と反対という対立意見で色分けされている。通常は、両者の意見を理解した上でそのテーマに関する自分の判断を決めようとするが、それは極めて難しい。なぜならば、現実のテーマはもっと複雑でもっと陰影に富んでいるアナログ情報なので、価値観をデジタル的に二極化した途端、誤差が無限に発生して両者の争いは終息から離れてしまうからである。
この事に関して、アンソニー・ウェストンは『ここからはじまる倫理』(野矢茂樹訳)で次のように述べている。「重要な問題のほぼ全ての立場に一理ある。どの立場にも耳を傾けるべきことが含まれているし、どの立場にもどこか正しいところがある。従って、我々は複数の正しいものの中から選ばなくてはならない。『善か悪か』ではなく、『善か、あるいは、もう一つの善か』なのだ。どの理論が正しいのかと問うのではなくて、それぞれの理論はどこが正しいのかと問わなければならない。」と。
同様のことを、ヴェーバーと同世代のフランスの物理数学者ポアンカレ(1854~1912年)も述べている。「科学が進むに従ってその全部を包括することが段々困難になる。そこで人は科学を片手に切り離して、その一片を以って満足する。即ち専門的になる。若しこのような傾向が増長するならば、それは科学の発達にとって憂うべき障害であろう。異なる部分の思わぬ接触からこそ科学の進歩が起こるのである。」と述べている。これは、ヘーゲルの弁証法的論理学を科学に展開したものでもある。
これらの助言に従えば、ヴェーバー批判でヴェーバーのテーゼを覆すことが出来ない場合は、潔くヴェーバーのテーゼは一つの『善』だと認める度量の大きさを持つべきであり、むしろ未来に適用できる科学として新たな進歩に貢献することが必要である。
また、本書扉の献辞「東大山中湖で亡くなった五人の霊に」の由来を調べる内に、羽入氏と市野川氏と
の過去のやりとりをmixiに見つけ、ここでも羽入氏の異常さが浮き彫りになっていた。
本書の主眼はヴェーバーの主著の論拠となった資料に関する不当な扱い方の糾弾にある。しかしドイツの歴史では、ヴェーバー(1864~1920年)が活躍した時代はドイツ帝国(1871~1918年)の時代と重なり、ビスマルク(1815~1898年)がヨーロッパに大きな国際問題や大戦争を起こさせないためのパワーバランスを実現すべく、1860年からの30年間で軍国主義と富国強兵でドイツを統一した時代である。ところが1890年に、ドイツ中心の世界政策を掲げて帝国主義化を推進したいヴィルヘルム2世は、見解の異なる邪魔なビスマルクを引退させる。これがヒトラーとナチス・ドイツ勃興の遠因である。そんな時代であるから、図書館で一次資料をじっくり読むような環境ではなかったかも知れない。だから、ヴェーバーの資料操作を論じる前にヴェーバーのテーゼを問題にすべきと考える。
***
本書は、第1章で「calling」概念をめぐる資料操作、第2章で「Beruf」概念をめぐる資料操作、第3章で「フランクリンの自伝」をめぐる資料操作、第4章で「資本主義の精神」をめぐる資料操作、という視点でヴェーバーを断罪するものである。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のテーゼは、「カルヴィニズム以降のプロテスタント平信徒たちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という命題である。(橋本努氏のHP記載から引用)
しかし私はもっと簡単に、「キリスト教プロテスタント派信者の倫理で生活する工場労働者が、予想外に資本主義発展に貢献した」という命題だと理解している。私は、そのテーゼが妥当だとは思わないが。
私が本書に期待したことは、第1章の「calling」概念と第2章の「Beruf」概念の資料操作によって上記テーゼが否定されるかどうかであるが、残念ながらテーゼに関する論考は為されていない。
一方、第3章では、「フランクリンの自伝」の資料操作のゆえにヴェーバーのテーゼは正しくないと断じている。しかし、この断定は論理的に不十分な結論である。
著者は「(フランクリン」自伝の資料操作がない(A)ならば、ヴェーバーのテーゼ(B)は正しい」という命題を前提にしているらしい。すると、著者が証明すべきは「ヴェーバーのテーゼが正しくない(¬B)ならば、自伝の資料操作がある(¬A)」という対偶を証明しなければならない。つまり、自伝の資料操作を論じる前に「テーゼが正しくないこと」を論証する必要がある。その上で、その証拠となる自伝の資料操作を論証に対応付けなければならない。しかし、著者が証明しているのは「(自分が偶然見つけた)自伝の資料操作がある(¬A)から、ヴェーバーのテーゼが正しくない(¬B)」という命題の『裏』を証明しているに過ぎない。「命題の『裏』は必ずしも真ならず」なのだから、論証としては不十分なのである。
最後の第4章では「プロテスタンティズムの倫理精神がある(A)ならば、資本主義の精神文化の理念型が進む(B)」という命題が資料操作によって成立しないことを論じている。すなわち、「Aならば¬B」である。そうなると、ここでも論証すべきは「Bならば¬A」である。つまり、「資本主義の精神文化の理念型が進む(B)ならば、プロテスタンティズムの倫理精神がない(¬A)」という対偶を証明しなければならない。これは論証がとても難しいし、論証する価値があるのかどうかが疑わしい。
やはり、資料操作に注目するより、ヴェーバーが発見したテーゼを論じるべきであり、願わくば21世紀以降の経済体制を予想して修正・拡張すべきではないだろうか?
***
日常の至る所で私たちが遭遇するテーマは、賛成と反対という対立意見で色分けされている。通常は、両者の意見を理解した上でそのテーマに関する自分の判断を決めようとするが、それは極めて難しい。なぜならば、現実のテーマはもっと複雑でもっと陰影に富んでいるアナログ情報なので、価値観をデジタル的に二極化した途端、誤差が無限に発生して両者の争いは終息から離れてしまうからである。
この事に関して、アンソニー・ウェストンは『ここからはじまる倫理』(野矢茂樹訳)で次のように述べている。「重要な問題のほぼ全ての立場に一理ある。どの立場にも耳を傾けるべきことが含まれているし、どの立場にもどこか正しいところがある。従って、我々は複数の正しいものの中から選ばなくてはならない。『善か悪か』ではなく、『善か、あるいは、もう一つの善か』なのだ。どの理論が正しいのかと問うのではなくて、それぞれの理論はどこが正しいのかと問わなければならない。」と。
同様のことを、ヴェーバーと同世代のフランスの物理数学者ポアンカレ(1854~1912年)も述べている。「科学が進むに従ってその全部を包括することが段々困難になる。そこで人は科学を片手に切り離して、その一片を以って満足する。即ち専門的になる。若しこのような傾向が増長するならば、それは科学の発達にとって憂うべき障害であろう。異なる部分の思わぬ接触からこそ科学の進歩が起こるのである。」と述べている。これは、ヘーゲルの弁証法的論理学を科学に展開したものでもある。
これらの助言に従えば、ヴェーバー批判でヴェーバーのテーゼを覆すことが出来ない場合は、潔くヴェーバーのテーゼは一つの『善』だと認める度量の大きさを持つべきであり、むしろ未来に適用できる科学として新たな進歩に貢献することが必要である。