1巻からとにかく面白い。
ミステリー小説好きの方にも、100パーセントおすすめします。最後に歴史を学んでから時間が経ちましたスーと入ってきます。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥1,705¥1,705 税込
ポイント: 52pt
(3%)
無料お届け日:
4月1日 月曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥1,705¥1,705 税込
ポイント: 52pt
(3%)
無料お届け日:
4月1日 月曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥1
中古品:
¥1

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
逆説の日本史6 中世神風編: 鎌倉仏教と元寇の謎 単行本 – 1998/6/5
井沢 元彦
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,705","priceAmount":1705.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,705","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"h8K5Lv2kAoMmEG0lC9DXKAChmBkRrfW%2Fr75S31x7AYmR7Owz3V8ECKM%2BY4KZY19XXwat9VwRS%2Bhu7PrIXz8XmSLPN3roUAw97AKWaHc8hoNFeN4YlN5JNBPtJZo9waUH","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥1","priceAmount":1.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"h8K5Lv2kAoMmEG0lC9DXKAChmBkRrfW%2F9tUehaFvNEXA%2BV79EejnfHxqKFAbPnm2KziLFu%2FaF2fTJUW8MyQxF9Cj6zWsuVhwOqMW6LiWq80%2BT%2BHyMg6cptufBwF1DKOnEhmBKcoo40RYwmwkja30n%2BYXWXclFTI2zxVclWCXEMtZz7tuvsf%2BbA%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
“平和ボケ国家”の源流「風神」信仰の謎に迫る!
太平洋戦争はいうまでもなく現代に至るまで、日本と日本人を呪縛し続けている「神風信仰」。元寇勝利という“奇蹟”は「神国」ニッポンに何をもたらし、何をうしなわせたのか!? 「蒙古」という当時の世界最強軍団の力を前に、日本は「神風」によりその実力以上の勝利を収めてしまう……。それまでにも「神の国」という概念はあった。 しかし、元寇の勝利体験により「神によって守られた世界で唯一の国」という特殊意識が日本に、日本人に決定づけられたのだ。この思想風土を解く鍵は、日蓮、親鸞らが起こした特殊な日本仏教にある。 元寇と鎌倉新仏教、そして鎌倉幕府滅亡の系譜を辿りながら、責任の所在が曖昧で、危機管理能力が欠落した“平和ボケ国家”現代日本の「虚妄のシステム」を暴き出す!
太平洋戦争はいうまでもなく現代に至るまで、日本と日本人を呪縛し続けている「神風信仰」。元寇勝利という“奇蹟”は「神国」ニッポンに何をもたらし、何をうしなわせたのか!? 「蒙古」という当時の世界最強軍団の力を前に、日本は「神風」によりその実力以上の勝利を収めてしまう……。それまでにも「神の国」という概念はあった。 しかし、元寇の勝利体験により「神によって守られた世界で唯一の国」という特殊意識が日本に、日本人に決定づけられたのだ。この思想風土を解く鍵は、日蓮、親鸞らが起こした特殊な日本仏教にある。 元寇と鎌倉新仏教、そして鎌倉幕府滅亡の系譜を辿りながら、責任の所在が曖昧で、危機管理能力が欠落した“平和ボケ国家”現代日本の「虚妄のシステム」を暴き出す!
- 本の長さ437ページ
- 言語日本語
- 出版社小学館
- 発売日1998/6/5
- ISBN-104093794170
- ISBN-13978-4093794176
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 逆説の日本史6 中世神風編: 鎌倉仏教と元寇の謎
¥1,705¥1,705
最短で4月1日 月曜日のお届け予定です
残り3点(入荷予定あり)
¥1,705¥1,705
最短で4月5日 金曜日のお届け予定です
残り5点(入荷予定あり)
¥1,435¥1,435
最短で4月1日 月曜日のお届け予定です
残り1点 ご注文はお早めに
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
出版社からのコメント
「神国」ニッポンは元寇勝利の“奇蹟”により何を失ったのか!? 鎌倉幕府の滅亡の系譜を辿りながら責任の所在が曖昧で、危機管理能力が欠落した現代日本の「虚妄」のシステムを暴き出す。
内容(「MARC」データベースより)
世界帝国であった元を二度もはねのけた「元寇」体験が、日本人の防衛意識を決定づけてしまった。暴走する「カミカゼ信仰」にくさびを打ち込み、平和ボケをひきずる日本のあり方に警鐘を鳴らす。
登録情報
- 出版社 : 小学館 (1998/6/5)
- 発売日 : 1998/6/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 437ページ
- ISBN-10 : 4093794170
- ISBN-13 : 978-4093794176
- Amazon 売れ筋ランキング: - 589,865位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

昭和29年、名古屋市生まれ。早大法学部卒。TBS入社後、報道局放送記者時代『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞受賞。その後退社し執筆活動に専念。歴史推理・ノンフィクションに独自の世界を開拓。(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 井沢式「日本史入門」講座4 (ISBN-13: 978-4198931230)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年9月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
目から鱗が落ちて読むことが楽しい本です
残念なのは歴史学者批判の分量が多いことです。
残念なのは歴史学者批判の分量が多いことです。
2017年8月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
足利尊氏は行動に一貫性のない理解不能の人物である。 元弘の乱では後醍醐天皇を隠岐島に流したが2年後島を脱出した天皇は船上山で挙兵する。 再度尊氏は北条高時の命令で上洛するが奇想天外にも今度は後醍醐天皇の綸旨に応じて朝廷側に寝返るという離れ業を行う。 新田義貞も同時に綸旨に応えて鎌倉を攻め滅ぼす。 尊氏は中先代の乱で北条の残党を一掃すると鎌倉で武家政権を開こうとする。 京都に戻らない尊氏に追討の宣旨が義貞に下される。 一旦九州に逃れるも湊川で楠木正成、新田義貞軍を破り入京するや後醍醐天皇と和議を結び北朝を開く。 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開く。 16年後尊氏は直義追討に鎌倉に赴くとき北朝を廃して南朝を正当化して帰順するという離れ業を演じる。 この正平一統は4か月しかもたず北朝が再び再建される。 足利、新田ともに源氏でありなぜ幕府に対立して朝廷側に翻意したのか。 北条一族は京都でも鎌倉でも数百人が自害して打ち果てている。 朝廷も南北に分裂と統一を繰り返し翻弄させられている。 尊氏の気まぐれによるものである。 気を見るに敏な節操亡き策士なのか。 忠義を平然と踏みにじる冷酷な寝業師なのか。 夢窓疎石は尊氏を優れた人物と評価するが北畠親房や新田義貞は無学無知の輩とこき下ろす。 後世の歴史家は尊氏を躁うつ病またはパラノイアと診断して彼の一貫しない行動を擁護している。 尊氏は戦争には強いが政治能力がなく直義には戦争には弱いが行政能力があったことは正しく、この2頭政治が室町幕府を混乱に陥れた元凶と言えよう。
2023年3月27日に日本でレビュー済み
鎌倉仏教の概説を知るにはとてもわかりやすい巻。
翻って蒙古襲来については、著者がモンゴルに詳しくないことがよくわかります。
翻って蒙古襲来については、著者がモンゴルに詳しくないことがよくわかります。
2017年3月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
鎌倉仏教について丁寧に、しかも深く説明しています。
この部分だけで本書の半分の量が割かれていておそらく著者もかなり勉強をしたのだと推測します。
この点は確かに重要であり今後の歴史を知るうえで知っておくべき内容だとはおもうが、内容が少々濃すぎる感がある。
まずは概要を記して、その後必要な内容は適宜ちりばめてほしかったと希望するのは後追いで読んでいる読者のわがままだろうか。。。
この部分だけで本書の半分の量が割かれていておそらく著者もかなり勉強をしたのだと推測します。
この点は確かに重要であり今後の歴史を知るうえで知っておくべき内容だとはおもうが、内容が少々濃すぎる感がある。
まずは概要を記して、その後必要な内容は適宜ちりばめてほしかったと希望するのは後追いで読んでいる読者のわがままだろうか。。。
2014年7月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中世の宗教と、中国の歴史の変遷を踏まえた、考え方に深く共鳴できました。
2013年11月21日に日本でレビュー済み
鎌倉仏教、元寇、建武の新政のあたり。著者曰く「これでわかったつもりになるな」とのことだが平安・鎌倉仏教についての説明がコンパクトでとてもわかりやすい。
曰く・・・
仏教は啓示宗教でないゆえにかなり自由に解釈できる。本来は小乗仏教だったが、大乗仏教も鎌倉新仏教も仏教の自由解釈から生まれる。
仏教は霊も魂も認めない。ゆえに仏像や経文が怨霊封じの決め手になるというのはそもそもおかしい。
妻帯禁止の戒律を守っていないのは、仏教世界では日本の僧侶のみ。親鸞は史上初めておおっぴらに妻をめとり子をなした。しかもそれを正しいことと主張した。僧の妻帯を理論上正当化したのは浄土真宗のみ。すべての宗派の僧侶が結婚できるようになったのは明治以後で明治政府が許可したから。各宗派が理論的に追求して妻帯OKとなったわけではない。なしくずしである。
大乗仏教(ゴータマ・シッダールタは、とっくに悟りを開いていた釈迦が初歩の教えを説くために現れた仮の姿にすぎないという考え方で、釈迦は実在の人物というよりは絶対神に近いというとらえ方)の頂点にあるのが法華経で、法華経を日本に定着させたのが最澄。天台宗は、もともとは天台法華宗といった。中国の天台宗では法華経は根本聖典。最澄はこれに改良を施し、戒律、禅、密教をプラスした。比叡山を仏教総合大学とするなら、法華学部、戒律学部、禅学部、密教学部があり、日蓮、親鸞、道元はこの大学で基礎を学んだといえる。日蓮は法華、道元は禅、親鸞は戒律。密教学部は最澄が完全に密教を学べなかったため弱点。
鑑真が伝えたのは小乗戒。最澄は日本の実態にあわない小乗戒を捨てて大乗戒にすべきという考え方。細かなルールよりも実質や中身(心)が大切だというレールを敷いたが、それが「戒律は不要で信心が大切」という形(自由解釈の余地ありの形)に発展していく。その意味では親鸞は最澄の弟子といえる。鎌倉仏教の開祖たちはみんな最澄の思想の影響をなんらかのかたちで受けている。空海は本人が天才だったため、ほぼそこで終わっている(挙げ句の果てに、本人は死後、神になってしまった)。
密教は、大乗仏教が最高に完成された形と考えるため、小乗、大乗に対して自らを金剛乗とよぶ。そして金剛乗(密教)以前の仏教を空海は顕教とよぶ。
最澄は密教知識が充分でないことを自覚していた。弟子の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)は入唐し、天台宗の密教部門強化を図った。天台宗の中には従来からの4宗を均等に重んじる保守派(延暦寺:山門派)と密教重視の革新派(園城寺:寺門派)があり、仲が悪いが、もとはといえば最澄の密教に対する自信のなさに起因する。
阿弥陀如来は、48の誓願を立てたが、その18番目に「阿弥陀仏を信じる者は、その国(浄土)に生まれ変わるために10回「念仏」すればよい」とある。阿弥陀如来は、大乗仏教の究極発展形であり、その功徳を説く大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三経典を浄土三部経という。阿弥陀信仰は昔から伝えられていたが、末法思想が盛んになるにつれて盛んになった。先駆者は空也で「阿弥陀は悟りを開く前に、仏となった暁には10回念仏すれば救われるということにしたい、という誓いを立てた→阿弥陀如来はすでに悟りを開いた→この約束は必ず守られる」というロジック。空也は阿弥陀仏の名を唱えればよいとよびかけたが、口称念仏は古来の「言葉を口にだすとその言葉によって表されるものを支配できる」という呪術的発想(言霊信仰)と結びつくことで普及した。一方、貴族階級はもっと高度な内容を求める(ケガレた民衆と同じやり方は気に食わない?)。これに応えたのが源信(げんしん)で、称名念仏よりも観想念仏を優先する。観想念仏とは阿弥陀や極楽浄土をイメージするというイメトレ。これがいっそ極楽浄土を再現しようということになり、宇治の平等院鳳凰堂はこの思想の延長にある。藤原道長は、法成寺(こちらも浄土再現の寺)で本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。
浄土教は、法華経信仰や密教を否定せず、阿弥陀信仰に重点を置く。これに対して、法然の浄土宗は阿弥陀信仰以外を一切排除するという違いがある。法然は称名念仏こそ正しいとし、善行などは往生の条件ではないとする(専修念仏)。
親鸞が阿弥陀如来の広大無辺の慈悲を強調することにより浄土真宗はキリスト教に近くなったが、阿弥陀は造物主ではないという点でキリスト教とは決定的に違う。阿弥陀は仏教本来の考え方からすれば極めて異質な存在。
親鸞は、忘れられた思想家で、蓮如によって知らしめられた。それでも明治時代になっても親鸞は蓮如らがでっち上げた架空の存在ではないかとすら疑われていた。一方、一遍(親鸞より後)の時宗は逆で、室町時代ごろまでは大流行したがそのあとは廃れた。親鸞の考えは信心為本(信心>念仏)だが、それまでは「念仏為本(念仏>信心)」だった。一遍は、信心すら不要とまでいう。一遍は信心が極楽浄土への条件となるのはおかしい(信じてやってるんだから往生させろ、的な発想になってしまう)と考え、とてつもなく偉大な阿弥陀如来はわれわれが何もしなくても極楽往生させてくれると考える。こうなるともはや阿弥陀は絶対神。時宗では、踊念仏により煩悩を燃え尽くすほど発散させてしまう方法(踊躍歓喜)を考え、これが爆発的に流行。信者の「何かしたい」という欲望のエネルギーを踊り念仏という儀式で昇華させることで信者をひきつけた(一遍は教団を残すつもりはまったくなかったらしいが)。
親鸞の考えでは、教団も教祖も儀式も不要。自分の遺体は鴨川に捨てて魚のエサにせよといっているくらい。しかし、それでは一般信者はついていけない。この点を改良したのが覚如や蓮如であり、信者の「行動」を奨励することで教団が成立するようになった。
貴人は、自分のことも召使にやらせる、というのが古代社会の常識。ちなみに、徳川将軍家も江戸中期以降となるとトイレで尻を拭く役の女性がついていた。アジアではいまだに肉体労働に対する蔑視がある。インド人は禅を生み出したが、それを思想体系として完成させたのは中国人。しかし、それを完全に民族の思想としたのは日本人。肉体労働蔑視は科学技術(これも肉体を動かす)の蔑視につながる。道元は「日常生活こそ修行」という考え方を日本に伝え、それが日本に定着したため日本は自力近代化ができた。道元が生まれた年に死んだのが朱子(朱熹)で、朱子は一時禅に魅力を感じたものの、儒教深化の道を選んだ。これが中国や朝鮮にとっては不幸だった。
達磨は釈迦より28代目の祖師であり、そこから慧可・・・天童如浄とつづき、道元はその法統を継いだという。ゆえに道元は「正法(正しい教え)」を主張する。禅は不立文字(真理は文字では完全に伝えられない)という思想があり、優れた師による直接の教え(面授)が必須科目。道元は、この連綿と受け継がれてきた面授プロセスにつらなっているとする。文字や言葉で伝えられない真理をどう伝えるかといえば、それは「以心伝心」でありこれはもともと禅の言葉。
すべての人間には仏になる素質があるという思想が「如来蔵」で、最澄の天台宗では本覚論(人間はあるがままの姿で悟りを開いている。草も木も成仏している)という思想に発展している。この思想の源流は中国にある。インド人は如来蔵を認めない。中国人は草木にも如来蔵をみとめ、仏性と表現する。中国では始覚(悟っていない状態から悟りへ至る中間状態)を前提として本覚に至るとし、始覚とは本覚へ向かうための行動であるとする。しかし、日本では始覚の価値は低い。この比叡山天台宗の本覚思想が、法然、親鸞、栄西、道元の思想の母体となっている。念仏も禅も本覚思想を前提としつつ、その現状に飽きたらずに改良を目指したものである。本覚思想は、日本古来の「山や岩には神が宿る」という思想とマッチしたから歓迎されたのではないか。
道元は、在家信者との交流も、女性住職の登用も考えない純一性があるため、寺は2つで主な弟子も三人しか育てられなかった。曹洞宗が大発展したのは、瑩山禅師が在家への働きかけや女性の参加を推進するという改良をしたから。親鸞も道元も純粋で妥協しない人だが、それを広めたのは蓮如や瑩山による「現実との妥協」路線のおかげ。
日蓮宗では法華経の題目を唱えるがこれは信仰告白+宣伝(売り込み)。浄土真宗の念仏は救われたことに感謝。題目と念仏はかなりイメージが違う。法華経は経典というよりも宣伝パンフレット、予告編みたいなもので本編ではない。何も語っていない。どうすればいいかといえば法華経を絶対真実として信じ、さらに、南無妙法蓮華経と題目を唱える。本尊は釈迦よりもむしろ題目。天台法華宗は法華経を最高とするが、日蓮は法華経以外は間違っているとして排斥。
日蓮は竜の口で斬られるところだったが処刑は中止されている。一説によれば北条時宗夫人が懐妊中だったので祟りを避けるために坊主殺しを中止したのではないかといわれる。
日蓮は法華経のすべての功徳が妙法蓮華経の5字にあるとする。理由は「日蓮がそういった」から。日蓮は自分を上行菩薩であると確信している。日蓮宗とは日蓮が上行菩薩であると認め、その法華経解釈をすべて正しいと信じる宗派のこと。法華経は絶対正しい→他宗を非難する→迫害を受ける→法華経にはこの経を広める者は法難を受けるとある→実際に法難を受けることになったゆえに法華経は正しい、というループ型のロジックになっている。
日蓮は邪教を棄て、法華経を信じないと外国の侵略により日本は滅びる、と主張。ところが日本は元を2度とも撃退。日蓮の予言は外れている。かなりショックだったらしく、その後まもなく日蓮は身体をこわして死んでいる。
石原完爾、北一輝などのファシズム指導者には日蓮主義者が多い。宮沢賢治も日蓮宗信者。日蓮宗ではこの世のすべての人々が法華経に帰依したときこの世は仏国土になる、とする。満州国建国会議は日蓮の誕生日である2月16日に設定されている。満州国建国は軍事力による「折伏」の第一歩だった?天皇絶対主義と日蓮の法華思想を結びつけた思想家が田中智学で、智学は日本は法華に基いて世界を統一すべき特別な国であり、日蓮は世界統一軍の大元帥であり、日本人は天兵であるという理論を構築。北一輝も石原完爾もこの思想の影響下にある。
モンゴル族はバラバラだったが、唐(漢民族)に征服されることで皮肉にもひとつの民族という自覚が芽生えた。それを政治的に完成させたのがチンギス・ハーン。
宋の皇帝が金(異民族)に排斥された、ちょうど中国がダメダメだったころに朱子学は成立している。朱子学は大義名分論、尊王攘夷論を含むが、当時の状況から言えば「負け犬の遠吠え」ともいえる。朱子学は空論である。
朝鮮の国号は、李王家が半島を統一したときに中国(明)に使者を送って選んでもらったもの。朝鮮の名付け親は中国。
得宗とは、北条氏の「氏の長者」みたいなもの。得宗は治天の君、執権はヒラの天皇みたいな感じ。得宗専制体制確立後、得宗は4人、執権は12人。
高麗はモンゴルに滅ぼされたが、一部の反乱軍(三別抄)が抵抗していた。三別抄は鎌倉幕府に援軍を求めたが、外交センスのない鎌倉幕府はこれを支援せず、三別抄は滅ぼされている。
北条時宗は朝廷からなんの褒賞ももらっていない。京都の貴族たち(言霊主義者)は、亀山上皇が博多の神社に「敵国降伏」の額を奉納したことが重要な勝因とみた。これは強烈な体験となった。昭和軍部はいざとなれば神国日本には天佑神助があると考え、ルーズベルト急死を天佑と受け取った人も多かった。命がけで奮戦すれば必ず天佑神助があるという発想も出てきて、この行き着く先が神風特攻隊。
日本は戦後の農地改革のおかげで自作農が増え、これが民主化に貢献した。その一方、地主没落により日本から大規模農業が消えて農家が零細化し、農業は国際競争力を失った。
武装農民(武士)の領地は自給自足経済圏だが、荘園領主は都に住んでいるから荘園の農作物は都に運ばれる。民間貿易もある。この荘園制は日本の商業の発達(都での商取引の発達)を促した面がある。当時はヨーロッパよりも日本の方が商業が盛んだった。物資の蓄積、運搬などの必要性から運送業、その輸送を守る非御家人の武士、金融業や製造業なども発達。
後嵯峨天皇のあと持明院統と大覚寺統に分裂。天皇家が最高権力なら戦争を起こしてでも一つにまとまるが、この時代は幕府が上位にあるので一つになることができず分裂状態が固定してしまった。
朱子学は、王者が天下を治めるべきという考え方でこれは後醍醐天皇に影響を与えている。覇者である幕府を(正統なる)王者であるべき自分が倒すことが正義。
鎌倉幕府の創業は源氏で、北条氏はそのマネージャ。しかし武士の権益を守るという使命が果たせなくなると、源氏の名門である尊氏は自分が征夷大将軍になって幕府を立て直す、という意識をもったのではないか。
鎌倉幕府を倒した武功第一は新田義貞だが、武士たちは源氏嫡流の尊氏を盟主として仰ぐ。また、義貞による鎌倉攻めのときに大軍があつまったのは(特に反朝廷意識のつよい東国武士が味方についたのは)尊氏が激を飛ばしたからではないか(証拠はないが尊氏と義貞は連絡がとれていた?)。義貞単独では無理なのではないか。
天皇の正式命令は「詔勅」。太政官を経由するため手続きが面倒。略式なのが「宣旨」。天皇から女官、蔵人(秘書官)、担当長官へと伝わる方式。「綸旨」は、天皇の意思が蔵人に直接伝えられ、蔵人が蔵人の署名で出す命令。後醍醐は綸旨を愛用した。綸旨万能主義(天皇の言葉がそのまま法律)。土地所有権も後醍醐が認めなければひっくり返されかねないため、都は大混乱。ダメモトで土地訴訟を起こし、成功報酬を要求する悪徳弁護士みたいなのまで出現。朱子学を信奉する後醍醐は幕府政治を悪と捉えていたためこれを正さねばならないという意識が強かった。
後醍醐が権力を確保するためには徴兵制をひくなりして自分の軍事力を作る必要があったがそういうケガレ仕事をする人間は好きではない。
建武の元号は、劉秀が王莽を倒して後漢を立てた時の元号。
日本は中国型の実力主義社会(易姓革命すらアリ)ではなく根本的には血統主義。家康も自分が新田義貞の子孫であるというかたちで血統の神聖化をしている。血統主義に終止符が打たれ、高等文官試験という一種の科挙ができるようになったのは明治になってから。
日本で権威と権力が分離しているのはケガレ思想があるから。国家に必要な軍事・警察・裁判がケガレとして嫌われ、上級階級が貴族化しこれらの仕事が下層階級に委任された。裁判もケガレ。和が破れ争いが生じるところは怨念が発生しかねないから。
護良は後醍醐の命により尊氏排除のために密かに兵を集めようとしたが、この動きを尊氏に察知されてしまい、トカゲのしっぽ切りのように尊氏に身柄を渡された、のではないか。
などなど。
曰く・・・
仏教は啓示宗教でないゆえにかなり自由に解釈できる。本来は小乗仏教だったが、大乗仏教も鎌倉新仏教も仏教の自由解釈から生まれる。
仏教は霊も魂も認めない。ゆえに仏像や経文が怨霊封じの決め手になるというのはそもそもおかしい。
妻帯禁止の戒律を守っていないのは、仏教世界では日本の僧侶のみ。親鸞は史上初めておおっぴらに妻をめとり子をなした。しかもそれを正しいことと主張した。僧の妻帯を理論上正当化したのは浄土真宗のみ。すべての宗派の僧侶が結婚できるようになったのは明治以後で明治政府が許可したから。各宗派が理論的に追求して妻帯OKとなったわけではない。なしくずしである。
大乗仏教(ゴータマ・シッダールタは、とっくに悟りを開いていた釈迦が初歩の教えを説くために現れた仮の姿にすぎないという考え方で、釈迦は実在の人物というよりは絶対神に近いというとらえ方)の頂点にあるのが法華経で、法華経を日本に定着させたのが最澄。天台宗は、もともとは天台法華宗といった。中国の天台宗では法華経は根本聖典。最澄はこれに改良を施し、戒律、禅、密教をプラスした。比叡山を仏教総合大学とするなら、法華学部、戒律学部、禅学部、密教学部があり、日蓮、親鸞、道元はこの大学で基礎を学んだといえる。日蓮は法華、道元は禅、親鸞は戒律。密教学部は最澄が完全に密教を学べなかったため弱点。
鑑真が伝えたのは小乗戒。最澄は日本の実態にあわない小乗戒を捨てて大乗戒にすべきという考え方。細かなルールよりも実質や中身(心)が大切だというレールを敷いたが、それが「戒律は不要で信心が大切」という形(自由解釈の余地ありの形)に発展していく。その意味では親鸞は最澄の弟子といえる。鎌倉仏教の開祖たちはみんな最澄の思想の影響をなんらかのかたちで受けている。空海は本人が天才だったため、ほぼそこで終わっている(挙げ句の果てに、本人は死後、神になってしまった)。
密教は、大乗仏教が最高に完成された形と考えるため、小乗、大乗に対して自らを金剛乗とよぶ。そして金剛乗(密教)以前の仏教を空海は顕教とよぶ。
最澄は密教知識が充分でないことを自覚していた。弟子の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)は入唐し、天台宗の密教部門強化を図った。天台宗の中には従来からの4宗を均等に重んじる保守派(延暦寺:山門派)と密教重視の革新派(園城寺:寺門派)があり、仲が悪いが、もとはといえば最澄の密教に対する自信のなさに起因する。
阿弥陀如来は、48の誓願を立てたが、その18番目に「阿弥陀仏を信じる者は、その国(浄土)に生まれ変わるために10回「念仏」すればよい」とある。阿弥陀如来は、大乗仏教の究極発展形であり、その功徳を説く大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三経典を浄土三部経という。阿弥陀信仰は昔から伝えられていたが、末法思想が盛んになるにつれて盛んになった。先駆者は空也で「阿弥陀は悟りを開く前に、仏となった暁には10回念仏すれば救われるということにしたい、という誓いを立てた→阿弥陀如来はすでに悟りを開いた→この約束は必ず守られる」というロジック。空也は阿弥陀仏の名を唱えればよいとよびかけたが、口称念仏は古来の「言葉を口にだすとその言葉によって表されるものを支配できる」という呪術的発想(言霊信仰)と結びつくことで普及した。一方、貴族階級はもっと高度な内容を求める(ケガレた民衆と同じやり方は気に食わない?)。これに応えたのが源信(げんしん)で、称名念仏よりも観想念仏を優先する。観想念仏とは阿弥陀や極楽浄土をイメージするというイメトレ。これがいっそ極楽浄土を再現しようということになり、宇治の平等院鳳凰堂はこの思想の延長にある。藤原道長は、法成寺(こちらも浄土再現の寺)で本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。
浄土教は、法華経信仰や密教を否定せず、阿弥陀信仰に重点を置く。これに対して、法然の浄土宗は阿弥陀信仰以外を一切排除するという違いがある。法然は称名念仏こそ正しいとし、善行などは往生の条件ではないとする(専修念仏)。
親鸞が阿弥陀如来の広大無辺の慈悲を強調することにより浄土真宗はキリスト教に近くなったが、阿弥陀は造物主ではないという点でキリスト教とは決定的に違う。阿弥陀は仏教本来の考え方からすれば極めて異質な存在。
親鸞は、忘れられた思想家で、蓮如によって知らしめられた。それでも明治時代になっても親鸞は蓮如らがでっち上げた架空の存在ではないかとすら疑われていた。一方、一遍(親鸞より後)の時宗は逆で、室町時代ごろまでは大流行したがそのあとは廃れた。親鸞の考えは信心為本(信心>念仏)だが、それまでは「念仏為本(念仏>信心)」だった。一遍は、信心すら不要とまでいう。一遍は信心が極楽浄土への条件となるのはおかしい(信じてやってるんだから往生させろ、的な発想になってしまう)と考え、とてつもなく偉大な阿弥陀如来はわれわれが何もしなくても極楽往生させてくれると考える。こうなるともはや阿弥陀は絶対神。時宗では、踊念仏により煩悩を燃え尽くすほど発散させてしまう方法(踊躍歓喜)を考え、これが爆発的に流行。信者の「何かしたい」という欲望のエネルギーを踊り念仏という儀式で昇華させることで信者をひきつけた(一遍は教団を残すつもりはまったくなかったらしいが)。
親鸞の考えでは、教団も教祖も儀式も不要。自分の遺体は鴨川に捨てて魚のエサにせよといっているくらい。しかし、それでは一般信者はついていけない。この点を改良したのが覚如や蓮如であり、信者の「行動」を奨励することで教団が成立するようになった。
貴人は、自分のことも召使にやらせる、というのが古代社会の常識。ちなみに、徳川将軍家も江戸中期以降となるとトイレで尻を拭く役の女性がついていた。アジアではいまだに肉体労働に対する蔑視がある。インド人は禅を生み出したが、それを思想体系として完成させたのは中国人。しかし、それを完全に民族の思想としたのは日本人。肉体労働蔑視は科学技術(これも肉体を動かす)の蔑視につながる。道元は「日常生活こそ修行」という考え方を日本に伝え、それが日本に定着したため日本は自力近代化ができた。道元が生まれた年に死んだのが朱子(朱熹)で、朱子は一時禅に魅力を感じたものの、儒教深化の道を選んだ。これが中国や朝鮮にとっては不幸だった。
達磨は釈迦より28代目の祖師であり、そこから慧可・・・天童如浄とつづき、道元はその法統を継いだという。ゆえに道元は「正法(正しい教え)」を主張する。禅は不立文字(真理は文字では完全に伝えられない)という思想があり、優れた師による直接の教え(面授)が必須科目。道元は、この連綿と受け継がれてきた面授プロセスにつらなっているとする。文字や言葉で伝えられない真理をどう伝えるかといえば、それは「以心伝心」でありこれはもともと禅の言葉。
すべての人間には仏になる素質があるという思想が「如来蔵」で、最澄の天台宗では本覚論(人間はあるがままの姿で悟りを開いている。草も木も成仏している)という思想に発展している。この思想の源流は中国にある。インド人は如来蔵を認めない。中国人は草木にも如来蔵をみとめ、仏性と表現する。中国では始覚(悟っていない状態から悟りへ至る中間状態)を前提として本覚に至るとし、始覚とは本覚へ向かうための行動であるとする。しかし、日本では始覚の価値は低い。この比叡山天台宗の本覚思想が、法然、親鸞、栄西、道元の思想の母体となっている。念仏も禅も本覚思想を前提としつつ、その現状に飽きたらずに改良を目指したものである。本覚思想は、日本古来の「山や岩には神が宿る」という思想とマッチしたから歓迎されたのではないか。
道元は、在家信者との交流も、女性住職の登用も考えない純一性があるため、寺は2つで主な弟子も三人しか育てられなかった。曹洞宗が大発展したのは、瑩山禅師が在家への働きかけや女性の参加を推進するという改良をしたから。親鸞も道元も純粋で妥協しない人だが、それを広めたのは蓮如や瑩山による「現実との妥協」路線のおかげ。
日蓮宗では法華経の題目を唱えるがこれは信仰告白+宣伝(売り込み)。浄土真宗の念仏は救われたことに感謝。題目と念仏はかなりイメージが違う。法華経は経典というよりも宣伝パンフレット、予告編みたいなもので本編ではない。何も語っていない。どうすればいいかといえば法華経を絶対真実として信じ、さらに、南無妙法蓮華経と題目を唱える。本尊は釈迦よりもむしろ題目。天台法華宗は法華経を最高とするが、日蓮は法華経以外は間違っているとして排斥。
日蓮は竜の口で斬られるところだったが処刑は中止されている。一説によれば北条時宗夫人が懐妊中だったので祟りを避けるために坊主殺しを中止したのではないかといわれる。
日蓮は法華経のすべての功徳が妙法蓮華経の5字にあるとする。理由は「日蓮がそういった」から。日蓮は自分を上行菩薩であると確信している。日蓮宗とは日蓮が上行菩薩であると認め、その法華経解釈をすべて正しいと信じる宗派のこと。法華経は絶対正しい→他宗を非難する→迫害を受ける→法華経にはこの経を広める者は法難を受けるとある→実際に法難を受けることになったゆえに法華経は正しい、というループ型のロジックになっている。
日蓮は邪教を棄て、法華経を信じないと外国の侵略により日本は滅びる、と主張。ところが日本は元を2度とも撃退。日蓮の予言は外れている。かなりショックだったらしく、その後まもなく日蓮は身体をこわして死んでいる。
石原完爾、北一輝などのファシズム指導者には日蓮主義者が多い。宮沢賢治も日蓮宗信者。日蓮宗ではこの世のすべての人々が法華経に帰依したときこの世は仏国土になる、とする。満州国建国会議は日蓮の誕生日である2月16日に設定されている。満州国建国は軍事力による「折伏」の第一歩だった?天皇絶対主義と日蓮の法華思想を結びつけた思想家が田中智学で、智学は日本は法華に基いて世界を統一すべき特別な国であり、日蓮は世界統一軍の大元帥であり、日本人は天兵であるという理論を構築。北一輝も石原完爾もこの思想の影響下にある。
モンゴル族はバラバラだったが、唐(漢民族)に征服されることで皮肉にもひとつの民族という自覚が芽生えた。それを政治的に完成させたのがチンギス・ハーン。
宋の皇帝が金(異民族)に排斥された、ちょうど中国がダメダメだったころに朱子学は成立している。朱子学は大義名分論、尊王攘夷論を含むが、当時の状況から言えば「負け犬の遠吠え」ともいえる。朱子学は空論である。
朝鮮の国号は、李王家が半島を統一したときに中国(明)に使者を送って選んでもらったもの。朝鮮の名付け親は中国。
得宗とは、北条氏の「氏の長者」みたいなもの。得宗は治天の君、執権はヒラの天皇みたいな感じ。得宗専制体制確立後、得宗は4人、執権は12人。
高麗はモンゴルに滅ぼされたが、一部の反乱軍(三別抄)が抵抗していた。三別抄は鎌倉幕府に援軍を求めたが、外交センスのない鎌倉幕府はこれを支援せず、三別抄は滅ぼされている。
北条時宗は朝廷からなんの褒賞ももらっていない。京都の貴族たち(言霊主義者)は、亀山上皇が博多の神社に「敵国降伏」の額を奉納したことが重要な勝因とみた。これは強烈な体験となった。昭和軍部はいざとなれば神国日本には天佑神助があると考え、ルーズベルト急死を天佑と受け取った人も多かった。命がけで奮戦すれば必ず天佑神助があるという発想も出てきて、この行き着く先が神風特攻隊。
日本は戦後の農地改革のおかげで自作農が増え、これが民主化に貢献した。その一方、地主没落により日本から大規模農業が消えて農家が零細化し、農業は国際競争力を失った。
武装農民(武士)の領地は自給自足経済圏だが、荘園領主は都に住んでいるから荘園の農作物は都に運ばれる。民間貿易もある。この荘園制は日本の商業の発達(都での商取引の発達)を促した面がある。当時はヨーロッパよりも日本の方が商業が盛んだった。物資の蓄積、運搬などの必要性から運送業、その輸送を守る非御家人の武士、金融業や製造業なども発達。
後嵯峨天皇のあと持明院統と大覚寺統に分裂。天皇家が最高権力なら戦争を起こしてでも一つにまとまるが、この時代は幕府が上位にあるので一つになることができず分裂状態が固定してしまった。
朱子学は、王者が天下を治めるべきという考え方でこれは後醍醐天皇に影響を与えている。覇者である幕府を(正統なる)王者であるべき自分が倒すことが正義。
鎌倉幕府の創業は源氏で、北条氏はそのマネージャ。しかし武士の権益を守るという使命が果たせなくなると、源氏の名門である尊氏は自分が征夷大将軍になって幕府を立て直す、という意識をもったのではないか。
鎌倉幕府を倒した武功第一は新田義貞だが、武士たちは源氏嫡流の尊氏を盟主として仰ぐ。また、義貞による鎌倉攻めのときに大軍があつまったのは(特に反朝廷意識のつよい東国武士が味方についたのは)尊氏が激を飛ばしたからではないか(証拠はないが尊氏と義貞は連絡がとれていた?)。義貞単独では無理なのではないか。
天皇の正式命令は「詔勅」。太政官を経由するため手続きが面倒。略式なのが「宣旨」。天皇から女官、蔵人(秘書官)、担当長官へと伝わる方式。「綸旨」は、天皇の意思が蔵人に直接伝えられ、蔵人が蔵人の署名で出す命令。後醍醐は綸旨を愛用した。綸旨万能主義(天皇の言葉がそのまま法律)。土地所有権も後醍醐が認めなければひっくり返されかねないため、都は大混乱。ダメモトで土地訴訟を起こし、成功報酬を要求する悪徳弁護士みたいなのまで出現。朱子学を信奉する後醍醐は幕府政治を悪と捉えていたためこれを正さねばならないという意識が強かった。
後醍醐が権力を確保するためには徴兵制をひくなりして自分の軍事力を作る必要があったがそういうケガレ仕事をする人間は好きではない。
建武の元号は、劉秀が王莽を倒して後漢を立てた時の元号。
日本は中国型の実力主義社会(易姓革命すらアリ)ではなく根本的には血統主義。家康も自分が新田義貞の子孫であるというかたちで血統の神聖化をしている。血統主義に終止符が打たれ、高等文官試験という一種の科挙ができるようになったのは明治になってから。
日本で権威と権力が分離しているのはケガレ思想があるから。国家に必要な軍事・警察・裁判がケガレとして嫌われ、上級階級が貴族化しこれらの仕事が下層階級に委任された。裁判もケガレ。和が破れ争いが生じるところは怨念が発生しかねないから。
護良は後醍醐の命により尊氏排除のために密かに兵を集めようとしたが、この動きを尊氏に察知されてしまい、トカゲのしっぽ切りのように尊氏に身柄を渡された、のではないか。
などなど。
2018年1月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者の独特のperspectiveに基づき、鎌倉仏教について網羅的、通史的によく記述されています。