プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥572¥572 税込
ポイント: 6pt
(1%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥572¥572 税込
ポイント: 6pt
(1%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥76
中古品:
¥76

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
歴史をかえた誤訳 (新潮文庫) 文庫 – 2004/3/28
鳥飼 玖美子
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥572","priceAmount":572.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"572","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"vf4wVzkPMpG7pmRkgud7231Q1THg6rqkOzk%2BtEAdUNAsg5%2FBD41ClyU3CDhB%2BFRQDenLbOgULRoB4zkShZV874pXKbhLvVJfkd%2BIVq%2FB3mdM%2FM7huf3hwEC7exrHwzRY","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥76","priceAmount":76.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"76","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"vf4wVzkPMpG7pmRkgud7231Q1THg6rqkJSGLuRYP4XR5bu3DdrY4Y10ZxqhoD8WKv0xmeN%2FYX2K1%2B6bbX43bmBZ42z9yJAP5ZZ1aPQ%2BGdF6KH5JoYlgPJIujbJftQ4dYLXwmUnRrWzn1XxCzvej1%2Bx4FJBG1L%2FJo3J6JS3xYmbEAPD3rvk%2Beow%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
原爆投下は、たった一語の誤訳が原因だった──。突き付けられたポツダム宣言に対し、熟慮の末に鈴木貫太郎首相が会見で発した「黙殺」という言葉。この日本語は、はたして何と英訳されたのか。ignore(無視する)、それともreject(拒否する)だったのか? 佐藤・ニクソン会談での「善処します」や、中曽根「不沈空母」発言など。世界の歴史をかえてしまった誤訳の真相に迫る!
- 本の長さ299ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2004/3/28
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104101459215
- ISBN-13978-4101459219
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 歴史をかえた誤訳 (新潮文庫)
¥572¥572
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り9点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
出版社より
![]() |
![]() |
|
---|---|---|
歴史をかえた誤訳 | 通訳者たちの見た戦後史 月面着陸から大学入試まで | |
カスタマーレビュー |
5つ星のうち4.0
70
|
5つ星のうち4.1
43
|
価格 | ¥572¥572 | ¥53¥53 |
【新潮文庫】鳥飼玖美子 作品 | 原爆投下は、日本側のポツダム宣言をめぐるたった一語の誤訳が原因だった──。外交の舞台裏で、ねじ曲げられた数々の事実とは!? | 日本人はかつて「敵性語」だった英語とどう付き合っていくべきか。同時通訳と英語教育の第一人者である著者による自伝的英語論。 |
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2014年3月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中曽根首相や宮澤首相が英語で大きな失敗をしたとのこと。国際政治の場では単に英語が流暢に話せる(単語を繋いで会話にする)レベルでは通用せず、お互いの文化や宗教を理解することが大切であることがわかります。これらは、今後、国際政治だけでなく一般のビジネスでも重要になってくると思います。
2021年7月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
同じ母国語で話をしていても微妙に意思疎通が図れない事態に陥るのに況んや異言語間においてをや.....誤訳と指弾された際の無念の想いは如何ばかりか.....米原万里(ロシア語通訳者)の「不実な美女か貞淑な醜女か」とともに押さえておきたい一冊です
2022年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
※もちろん筆者は(職業としての)「通訳」の経験などないので、まずは満腔の敬意を表して「星3つ」ということにさせて頂きます(笑)。
著者の方のお勧めに従って、「英語的論理構成」にて結論から先に申し上げますと(笑)・・・
本書は、(かつて流行した誤訳摘発本のように)英語という言語の「誤訳」を解説する書ではありません。
著者の方が取り上げておられる事例の大半(文学的な話題以外は、ほぼ100%)は、
(1)原語を用いた者(話者や著者)や関係者が、主に「国際政治的」な事情に基づく配慮の結果、「訳語を選んだ」または「変更した」または「訳出しなかった」(以下「理由のある変更」と総称)ものであり、それらを本書では「誤訳」と称しているわけです。
(2)では、「語学的」には何が掲載されているかというと、種々の英和辞典の引用にて、「この言葉は本来、こういう意味」(~であるから、話者や関係者が「正しく」ない)と記載されています。
要するに、著者の方が何を述べられているかといえば、上記(1)の「理由のある変更」が、「正しくない」と主張されているわけであり、(2)は単に、英語を専門とする(或いは「そうしようと目指されている」)方なら、まず大半が所持されている英和辞典の訳語が羅列されているだけです(笑)。
つまり本書は「英語を研鑽するための語学参考書」ではなくて、『(著者の方が正しいと信じておられる事々でバイアスの掛かった)「ご主張」を綴られた、「意見書」集』と理解するのが正しいでしょう(笑)。
因みに、著者の方の、次のご発言に賛同される方々には、向いていると思われます(笑)。
『しかし外交関係の問題そのものよりもっと問題なのは、そういった重要な外交交渉の舞台裏が、なかなか国民には見えてこないこと』
筆者などは、「ものすごいご意見もあったものだ」と感心しますが(笑)、『「外交の舞台裏」が国民にガラス張りになっていさえすれば、外交交渉そのものの経緯や結果などは二の次である』と仰っているのと一緒ですよね(笑)。
世の中には、マスコミの皆さんを始めとして、こういうご意見の方も多数おられるようですが、つまりは、国民に全ての情報を開陳したうえで、どのような選択をするか、逐一国民投票をすべきである、と仰せのわけですか?(笑)。もし「そうではない」と仰せなら、何をどうしようと仰せなのでしょうか?
国民投票に際しては、法整備も含め、とても半年や1年で完了するとは思えませんが、その間、世界の日本以外の国々の政治や経済は、「そういうご事情なら、我々はお待ちしますよ」と、ご親切にも、完全停止していてくれるのでしょうか?(笑)
そして、いざ国民投票の結果、日・米交渉が決裂し、日米安保が無効になったり、「1ドル360円」の円安になったりと、安全保障なり経済に於いて致命的な打撃を被っても、「主権者である国民が決めたことだから、致し方ない」と仰る?(笑)
上記の「経済的打撃」の結果、倒産した企業の従業員や、失業した人には、「国民が決めたことだから、耐え忍びなさい」と仰る?(笑)彼等から『オレ・ワタシは「国民」じゃないのか?』と尋ねられたら、なんとお答えになるのでしょう(笑)。
話を戻しますと(笑)、書名に大々的に「誤訳」と謳っているわりには、一般の、『「誤訳」を指摘し、正答を示し、併せて誤訳の理由を示す』書物のように、純・語学的に「誤訳を解説する書物」の一種と考えられるのは誤りですし、同種の本に掲載の事例でご自身の英語力を研鑽したいと思っておられる方々には、不向きです(笑)。
大半の事例は、ご自身で英和辞典などを引かれれば「そりゃあ、そうでしょうね」と納得されるだけの事柄ですから(笑)。
その意味では、むしろ『英語で暴く政治家や官僚のウソ』などの題名にして頂ければ(笑)、誤解して購入される方(かた)も減るでしょうし、的を射ていると思われます。
また、『「歴史」の範疇』についても、少なくとも筆者の感覚とはギャップがあります。
個人的には、『こういう言葉(の伝達)が原因で、信長は本能寺で殺された』とか、『こういう言葉(の伝達)が原因で、シーザーは暗殺された』とか、そういうことを想像するのですが、著者の方にとっては、本書で例示されているように、「日米経済摩擦が起きた」、「オイル・ショックが起った」、「円高になった」、というのも「歴史」の範疇のようです。
世の中には「経済史」という言葉もありますが、普通は、「産業革命の結果、こうなった」とか、「こういう政策を採った結果、戦後日本は高度経済成長を成し遂げた」とか、そういった「大局」を意味するわけで、「円高」のような(いわば)「経過的な経済事象」は含まないと思われるのですが(笑)。
但し、本書名を著者ご自身がつけられたのかどうかは、筆者の知るところではありません。
☆以下は、更にご興味のある方だけどうぞ(笑)。
【1.まずは、著者の方のお考え(ご意見/正しいと思っておられる事柄)について】
◎著者の方のお考えは、概ね次の点に集約できます。
★政治家は、「(外国との会談などに於いて)自身の発言がどういう結果をもたらすか」すら想像できない、考えの浅い者どもである。
★「英語通」と言われる首相などであっても、失言や理解不足などによって重大な結果をもたらしたりするのだから、外交交渉に於いては通訳を介すべきである。英語に堪能であるとされた宮沢喜一氏は、日・米首脳会談の結果、円高を招来した。
『朝日新聞「声」欄には「円高の責任は首相の英語力」という五十一歳会社員からの投書が掲載されており、(中略)円高の責任が本当に宮沢首相にあったかどうかはともかく、英語力抜群で知米派とされる首相が、米国での首脳会談ではさほど実力を発揮しなかったどころか(中略)失望は大きかったようだ。首脳会談で通訳抜きとは考えられないが、投書氏のいうとおり、外交交渉ではきちんと通訳を介すべきである』(本書より:ご意見をバックアップされるためなら、一般の会社員の投書まで持ち出されるのですが、さすがにこれは、如何なものでしょうか[笑])
★(特に外務)官僚は、外交記録などに於いて「言葉(和訳語)」を加工する(例えば表現を柔らかくする)ことに躍起で、英語の原義(いわば「真実」)を知らしめようとしない。
★外交官を始めとして、「素人」通訳は、間違い(誤訳・意訳)を犯すことが多く、日・米の国家間会議(例えば首脳会談)を始めとして、民間の商談に於いても、「プロ」の通訳を採用すべきである。
『たとえ外交官であっても、通訳をしているときは一通訳者なのであるから、通訳の業務に徹するべきである』(本書)
『ある米国企業のビジネスマンが「日本の企業と交渉すると、いつもいらいらする。通訳者は英語は上手なんだけれど、どうもこちらの言うことをそのまま日本側に伝えているとは思えないことがあるし、日本側の言うことも全部英語に訳していないようなときが多い」とこぼしていたが、内部の人間が通訳をすれば、あれこれ余計な思いが通訳に反映することはありえる。公平無私の正確な通訳を期待するなら、外部の通訳者に依頼すべきなのだ』(同前)
★ジョーン・バエズ(Joan Chandos Baez。1941年生。米国の歌手・ソングライター・音楽家・活動家。ベトナム戦争の反戦歌などで著名)の来日公演の際、ニッポン放送のプロデューサーで、司会を務めていた人物が、CIAの圧力により(筆者注:定かではない)、彼女が公演中に挟んだ曲紹介(「長崎・広島の歌である」とか、「ベトナムの話である」とか)のコメントを一切通訳せず、「この公演はTV中継しています」などに置き換えてしまった。
『最初からきちんと通訳するつもりがないのだったら通訳はやめて司会者に徹すれば良かった』(本書)
『司会者と通訳という仕事は同時に両方を行えばどちらかがおろそかになる。通訳と司会という、まったく内容の異なる仕事をいとも気楽に一人の人間に依頼することが日常的に行われ、また、英語ができれば通訳くらいはできると大方の人が思い込んでいるので、プロの通訳者を使うことまで考えない』(同前:要約)
白眉は(笑)、次のご発言だと思っています。
『英語でよりよくコミュニケーションをはかろうと思ったら、話全体を英語の論理構成で進めないと効果的ではないが、しかし通常は、訳に携わる人間がそこまで立ち入ることはむずかしい。結局、発言者自身がそれをわきまえることしかないのだが、理屈では理解していても、なかなかそうはいかないのが現実である』
筆者は、『通訳「は」しっかりしてるんだから、話す方も勉強して、ちゃんとした発言ができるようにしてよ!』と仰せのように感じますが、見事に主客転倒されていることにお気づきなのでしょうか(笑)。
◎さて、以上のような「ご主張」に関し、本書を拝読して最初に頭に浮かんだのは、噺家であった故・立川談志師の、某落語の「マクラ」でした(笑)。話題にされていたのは、今となっては「昔々の出来事」ですが・・。
立川氏は国会議員の経験もある方ですが、「日曜討論(?=政治評論家と政治家が対談するTV番組)」に、「渡辺美智雄氏(当時大蔵大臣)」、「藤原弘達氏(大正生まれの政治学者・評論家)」、「細川隆元氏(明治生まれの政治評論家)」が出演されたときのことについて、次のように話されています(筆者の記憶に依る要約ですので、その点ご容赦を乞います)。
『渡辺大蔵大臣のことを「みっちゃん」なんて呼んで、親しげな様子でも見せたいのかね。国の要職にある人なんだから、せめて「大臣」と呼ぶべきなんじゃないの?細川なんか、「ホントのことを言え~!」なんて渡辺さんに迫ってたけど、「言えることと言えないことがある」立場のヤツに、「何を言ったって全く影響のない」ヤツがなにか言ったって、しょうがないよな』
外交官諸氏とは言わないまでも、民間企業でいわゆる「国際取引」を経験した方なら、同じ感想を抱かれるのではないでしょうか(笑)。
例えば某・外交官氏が、日米協議の場で「ボク(ワタシ)、通訳に徹しますから、国の都合や目的はすべて無視して直訳しますので、よろしく」と、日本国首相や同僚に言ったら、彼等は(ひいては、一国民であるあなたは)どう思うでしょうか(笑)。
例えば某企業の社員が、「ボク(ワタシ)、通訳に徹しますから、商売上の都合は全て無視して直訳しますので、よろしく」と会議に出席している上司や同僚に言ったら、彼等は(ひいては、一国民であるあなたは)どう思うでしょうか(笑)。
著者の方は、『両方やるのは無理なんだから、「プロ」の通訳を雇いなさい』と仰せなのでしょうが、その「プロの通訳」氏は、「国や企業の立場」や当該国・企業の「目標・目的」を「完全に」理解し、それらを念頭に置いたうえで、臨機応変に「通訳」できるのでしょうか。
結局は、「相手の言ったこと、こちらの言ったことを、すべて、そのまま通訳する」ことしかできないのではないですか?
その結果、円高が進行したり、オイル・ショックが起きたり、商談が決裂したりしても、「だって、ボク(ワタシ)通訳なんだから、結果に責任なんかありませんよ」としか言えないのではないですか?(笑)
誰しもお分かりの通り、外交官諸氏や国際ビジネスに携わるビジネスマン諸氏は、いわゆる「multitask(米国では「マルタイタスク」と発音することが多い。ひとりの人間が複数のことを同時にすること)」を大前提としています。
別に、国や企業が『「プロの通訳」を雇う金銭的余裕がないから/節約のため』そうしているのではありません(笑)。
大元の前提(国・企業の立場・目的・意図)が分かっていない、翻訳機みたいな「プロの通訳」君を入れることにより、無駄に余計な時間が掛かったり、話者が「この発言で、こういうことを表現したい」と思って発言しているのに、(事前に話者と意思疎通していないために)「直訳」して、誤解を招く恐れがあったり、そういう懸念があるから、雇わないだけなんです(笑)。
一例を挙げれば、民間国際ビジネスに於いて、こちらが何か売ろうと思ったら、「商材(売りたいと思う商品の意)」を説明できるだけの知識や専門用語が操れないと、話になりませんよね(笑)。
「だったら、事前に、何時間掛けてでも、通訳と打ち合わせして臨めば良いでしょ?通訳側は、商品知識や専門用語を準備しますよ」と仰る「プロの通訳」氏もおられるかも知れませんが、国や企業側には、そんな時間を割く余裕も、理由も、ありませんし(笑)、十分に理解した上で通訳してくれるとしても、ちゃんと話者の立場や目的を斟酌したうえで、上手に「意訳」してくれるかといえば、それは著者の方が、「通訳」の「慎むべきこと/不可侵領域/非・担当領域」と考えられていることですよね(笑)。
※もちろん、通訳さんの側も、依頼を受けるたびに、いちいち何日も掛けて商品知識や専門用語を勉強していたら、商売になりませんよね(通訳をして金銭的利益を得るんですから、立派な「商売」です[笑])。加えて、理系の難しい理屈が必要な商品だったら、大抵の場合は、お手上げでしょう(笑)。
著者の方を含む「プロの通訳」諸氏を貶める意図は全くありませんが、以下の事実を確認しておきたいと思います。
首脳会談に随行するような、いわゆる「キャリア外交官」になるには、「国家公務員(総合職)試験」と外務省に於ける採用試験に合格し、しかも何れかの語学に精通している必要があります。概ねは、国立大学の法学部を出て、(例えば)米国の大学に留学して修士号を取得するとか、そういう研鑽を経る必要もあります。なんせ『「自国の代表として」相手国との様々な交渉や取り決めに関わる』人物になるんですから、公務員としては当たり前ですね。
※因みに、今はどうか知りませんが、かつて(外務省の事務方トップである)歴代「事務次官」や、事務次官を狙えるような立場の人たちは、大半が「東大中退」でした。ネット記事で「大学を中退なんかする人間は、学業すら全うできない中途半端な人間だ」と書いている変な記事がありましたが(笑)、本件の場合、話は全く逆で、「国家公務員試験も受かったし、外務省採用試験も通ったし、これ以上大学にいても無意味だ」という趣旨で、さっさと外交に従事するために、中退したわけです。いわば「高難度の飛び級」の一種ですね(笑)。
一方で、(例えば会議の)通訳をするには、国家試験を通る必要はありません。より正確に言えば、「国家試験=国家資格」自体が、無いんです(笑)。
※ご参考までですが、「観光案内」の通訳をする場合は、「通訳案内士」という国家試験があります。
著者の方は、本書の中で『素人(筆者注:もちろん「英語に堪能な総理大臣」や、外交官、企業の社員も含むのでしょう)通訳に任せてはいけない』など、たびたび「通訳の素人・玄人(著者の方の表現では「プロの通訳」)」を話題にされますが、法的に言えば、そもそも、「(観光案内以外の)通訳」に、素人と玄人の区別は存在しません(笑)。
仮に、英語が全く不得手のあなたが、パソコンで「英語通訳者」という肩書きの名刺を作れば、その瞬間から、「全く違法性なく」、「通訳」に転身できます(笑)。
もちろん、仕事を受注して現場に出れば、出来・不出来はすぐにバレますから(笑)、英語が全くできないまま仕事を受けた場合、詐欺罪に問われる可能性は大ですが(笑)、何が言いたいかといえば、著者の方の「素人・玄人(「プロ」)」の区分や定義が、全く不分明だということです(笑)。
『外国語があまりできないくせに通訳を名乗っている(通訳をする)者が素人、著者の方のように、英語や英語圏の文化に精通し、単に言語の通訳ではなく異文化間の文化の仲立ちができる者が玄人(プロ)』と仰せになりたいのだと拝察しますが、あまりに漠然としていませんか?(笑)
どんな外国語についても一緒ですが、話を簡単にするために「英語」ということにしますと、
「英語ができる/できない」とは、例えば「TOEICで990点(満点)を取っているか否か」とか、「英検1級に合格しているか否か」、とか、そういうことが「必要十分条件」なのでしょうか?それとも「必要条件ではあるが、十分条件ではない」のでしょうか?十分でないとすれば、何が不足しているのでしょう?「英語圏の文化に精通」していないからですか?
一方で、(例えば)日本に生まれ育った日本人が「他国の文化に精通」することは可能なのでしょうか?これまた、あまりに漠然としていませんか?(笑)
例えば、日本に延べ十年余も居住され、日本人より日本文学を知悉されている「和 ⇒ 英翻訳者」の「ドナルド・キーン(Donald Keene)」さんとか、「エドワード・サイデンスティッカー(Edward George Seidensticker)」さんを想像するのが正しいのでしょうが、一般に、「文化に精通」と言われると、かなり敷居の高い問題ですよね。
「精通」とは言わないまでも、「他国の文化を肌身で経験している人」を想像するなら、筆者がすぐに思い付くのは、いわゆる「帰国子女」の皆さんですが、著者の方に言わせると、「母国語(日本語)の能力が十分ではないので、通訳には適さない(大意)」のだそうです(笑)。あまり論拠の明確でないご発言ですが(笑)、では、「日本語検定1級」を取得した「帰国子女」なら、適しているのでしょうか(笑)。それでも「適して」おらず、著者の方の方が優れているとすれば、違いはどこにあるのでしょうか?これまた不分明です(笑)。
さて、本筋に戻しますと(笑)、『「外交」兼「通訳」ができる人』や、『「企業人」兼「通訳」ができる人』と、著者の方の言われる「プロの通訳」さんとでは、一般に、どちらが有用・有能な人と見做されるでしょうか(笑)
しかも、著者の方をはじめとする?一部の「プロの通訳」さん達は?「米国の使った用語は、その単語の意味通りに和訳すべき」とか「話者の言ったことは、変な斟酌をせずに、そのまま伝える」ことを旨とされているわけですから、国や企業にとっては、いわば「学習が期待水準に達していないAI翻訳機」みたいなもので(笑)、使う理由を思い付く方が難しいでしょう(笑)。
著者の方の名誉のために?付言すれば、ご本人も、『外国の折衝するにあたっては、政治にしろ経済にしろ、国の利益が直接にからむものであるから、当然、問題は起る』、『むろんどの国でも外交交渉となれば、ギリギリのところで押し合い、譲歩をしたり譲歩をせまったりとしのぎをけずるわけであるし、国内的な利害がからめば、交渉の経緯をガラス張りにしたらまとまるものもまとまらない、ということにもなる』と仰せです。
筆者は感想として、『なんだ、「左」の人達によくあるような、naïve(世間知らず)な人だと思ったら、あながちそうでもなくて、ちゃんと「大人」の世界の事情を理解されているんじゃないか』と思い「かけた」んですが(笑)、であれば、『じゃあ、本書の大半に記載された「ご意見」は、なんなんだ』ということにもなる(笑)。
結局、『従って』と続き、「非公表の多くのやりとりがあり、両国で異なった解釈が可能な文書が交わされたりし、意図的に敢えてぼかした訳をすることになるので、この章では、そういった確信犯的な誤訳を取り上げる」(大意)と仰せです(笑)。
【2.その他、様々のご記載内容について】
一方で、本書では、「文化的な面での誤訳、或いは訳語選択のあり方」にも触れられています。
以下、著者の方の挙げておられる事例(順不同)の「大意」(二重括弧部分。筆者が要約し、場合により言い換えたもの)と、少々の私見を付させて頂きます。
(A)動植物の呼称について
『むかし、英語の「oak」に「樫」という訳語を当てた人がおり、高価な「オーク」の家具を輸入していたが、実は「oak」は「楢(なら)」という木のことだった』
『「ホトトギス」や「ウグイス」という日本の鳥名については、どのような英訳語を当てるか、各(日⇒英)翻訳者が悩んできた。苦肉の策として、そのままローマ字書きで訳出したものもある。また、「古池や蛙飛びこむ水の音」について、英語圏では「蛙」が滑稽なニュアンスを含んでいるために、訳出に問題がある』
著者の方が挙げておられる例に留まらず、例えば「魚類の名前」だってそうですよね。
「sardin」は「イワシ」と表現されますが、じゃあ、『日本で、脂の乗ったヤツを塩焼きにしたり、丸干しにしたりする、「あの」魚』を「sardin」と言えば通じる(英米人が即座に魚の種類や姿を想像できる)かといえば、ちょっと危ういですね(笑)。
試みに英和辞典を引くと、次のように出ています。
『欧州産のイワシの類(の幼魚); 通例 かんづめにする』(リーダーズ英和辞典)
『【1】大西洋のイワシの一種 Sardina pilchardus:しばしば油に漬けて保存し,食用にする.【2】1と近縁のニシン科 Clupeidae の魚の総称.』(ランダムハウス英和事典)
一方で、「和英」を引けば、塩焼きも丸干しも「sardin」を使っています。「正確であるから」ではなくて、他にやりようがないからでしょう(笑)。
動植物や魚類の呼称というのは、「伝達の正確さ」を旨とするなら、(いみじくも「ランダムハウス英和」が記載しているように)「学名」という万国共通語で表記するしかないのではないでしょうか(笑)。
因みに「ウグイス」の英訳語として「Japanese bush-warbler」というのもあるようで、学名は「Horornis diphone」なんだそうです(笑)。
「ホトトギス」(「カッコー(郭公)科」に分類されるそうです)は「Cuculus poliocephalus」とのこと。
かといって、「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」を英訳しようとする際に、学名を使っては、いかにも雅趣が損なわれますよね(笑)。
ここで一旦、次の項目に移します。
(B)日本の風習について
『太宰治の「斜陽」に、「仙台平(せんだいびら)の袴を着け、白足袋をはいた」医者が出てくる。某英訳書では「正装ではあるが、やや古めかしい、旧式の和服」とまとめて乗り切っており、良いと思う。ところが、同じ医者が再度登場する際には、「白足袋」しか書かれていない。「white socks」はむしろ「軽装」であり、正装であることが伝わらないが、同訳書の翻訳者は「白手袋」と意訳して、正装であるというニュアンスを英米の読者に伝えた。名訳と言われるが、一方で、某・翻訳論の書に従えば、「文化的操作をする翻訳」と批判される可能性もある』
(A)(B)をまとめて考えますが、結局、唯一・最善の解決策は、巻頭とか巻末に、相当数のページ数を費やして、(例えば)『日本では「ウグイスは」は「春告鳥」とも呼ばれ、日本人は古来、その啼き声を耳にすると、次のような感慨を覚えるのである・・云々』とか、『日本の正装:羽織とは、袴とは、足袋とは』などの解説を付し、今どきですから、写真・動画や音声を収録した電子媒体を付属することだと思います。そして解説を付した事物はすべて、ローマ字で表記すればよいのではないですか。
仮に日本の和歌集を英語版にするなら、当該の和歌に出てくる動植物などについて、全てを解説し、そして明治大正の文学であるなら、登場する風俗・風習・事物について、全てを。
あなたが、日本のことを全く知らないアメリカ人の友人に「三和土(たたき)」や「上り框(あがりかまち)」を説明するところを想像してみて下さい(笑)。どうしたって、「日本人は古来、個人の居宅などに上がる際に、履き物を脱ぐものであり・・」から始めないと、説明のしようがないですよね(笑)。
解説や電子媒体付属の英訳書を見て、「そんな解説を参照するのは面倒だ」、「そんなオマケが付いているせいで、70ドルもするのか。たかが日本の本の翻訳書に、そんな金額を払う気はない」などと思う英米人は、そもそも「他国の文化を理解する気のない者」であり、従って当該書物を購入もしないでしょうから(笑)、放っておけばよろしい(笑)。
そもそも、こういうのは、「翻訳論」で解決を試みるべき問題ではないと思います(笑)。解決できないからこそ、昔から、山ほどの「翻訳論者」が、山ほどの「翻訳論」で山ほどの「分析」をし、山ほどの「意見や方針」が出て来たのでしょうし(笑)、筆者もかつて、片手に余る数の「翻訳論」書を拝読しましたが、筆者の感覚では、すべて無駄です(笑)。無駄であるばかりでなく、翻訳家を目指す人を混乱させます(笑)。
「翻訳とはかくあるべき」とか、「こういう翻訳をすると、こういう問題が云々」という本を血眼になって読んでいる暇があったら(笑)、古今の英語の小説、加えて日本の古今の書物でも何十冊か読んで、両原語の研鑽を積み、「ことばの感覚」を研ぎ澄まし、「相手国の人間の感性や、思考・行動の仕方」を脳裏に刻んでいく方が、よほど有益だと思います。
あとは、いざ事に当たって、自身の積み上げてきた能力を極限まで使い、知恵と工夫を最大限発揮した訳をすればよろしいのでは。
(C)色彩の訳について
『色彩を訳すのも通常考えられているほど簡単ではなさそうだ。アガサ・クリスティーの小説などに登場する「オレンジ色の猫(orange cat)」は、いったいどういう色の猫なのだろうと思うが、実は「明るい茶色」の猫のことであった。また、兎の目の色も、「赤」と表現されたり「ピンク」と表現されたりする。同じ地球人として太陽を眺めても、ある言語では「赤」と認識し、ある言語では「黄色」と認識する。個々の文化で認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現することになる』
昔々、「赤毛のアン」という言葉を聞いたり、かつて外人さんを「紅毛人」と呼んだことを知り、『外国には、「赤い」(もしくは「紅色」の)髪の人がいるのか』と感心していました(笑)。ところが、そのわりには、映画やテレビなどで「赤い」髪をした人が、一向に出てこない(笑)。そこで不思議に思い、個人的に興味を持ったわけですが・・・
「目の色による色の見え方の違い」について、かつて、167か国(2022年現在)の国内標準化団体が参加する非政府組織「国際標準化機構(International Organization of Standardization:略称「ISO」)」(※)が調査を行ったようです。
実際の調査内容や結果(原語版)が見つけられず、ご提示できなくて恐縮なのですが、『黒い目よりも青い目の方が、赤い色については、4倍の色素視感力があるらしい』とのこと。
平たく言えば、『青い目の方が、黒い目よりも、同じ色を「赤っぽく」視る』ということです。
(※)国際的な標準を定め、製造物の安全性・信頼性などを保証する国際規格を定めている組織です。フイルム・カメラを愛用されていた方はピンと来られると思いますが、どんなカメラにも、フイルムの感度を表すために、「ASA」と共に、「ISO」と書いてありましたよね。
それを知って、初めて合点がいったのです(笑)。青い目の人が「赤毛(red hair)」というのは、「赤茶色/赤みがかった茶色の髪」のことなのだと。従って、青い目の人が赤茶色を「オレンジ色」と視て、そう言葉で表現しても、ごく自然の話です。
『だったら、昔の日本人が「紅毛人」と呼ぶのはおかしいじゃないか』とお思いになるかも知れませんが(笑)、「紅色」と「赤」とは別の色であり、「紅色」の方が「暗い」というか「紫っぽい」というか、そういう色ですので、黒い目の日本人にとって「赤茶色」が「紅色」に見えても、不思議ではないと思います(笑)。
つまり、『個々の文化で認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現する』(☆)と仰せですが、以上のように、これは「認知の方法」とか「記号化する」といった抽象的な問題でも、文化論的な問題でも、言語学的な問題でもなく、理科系の問題です(笑)。
☆優秀な頭脳をお持ちのせいで、難しい言葉がお好きのようですが(笑)、要は「どういう色に見えて、どういう言葉で表わすか」と仰っているわけですから、そう書いて下さる方が、遙かに分かりやすいです(笑)。
青い目の人物と黒い目の人物が同じ色のものを視て、「赤だ、茶色だ」と喧嘩しても始まりませんよね(笑)。「太陽の色をどのように認知し記号化するか」なんて論議を始めても、無意味です。「そういう色に視えるんだから、仕方ないじゃないか。どうしろと言うんだ」って話ですから(笑)。
尚、念のためですが、「太陽の色」は、観察する季節、観察時刻、観察時の大気の状態、などによって、時に大きく異なりますので、「絶対色」と言えるものはありません。対象の色が定まっていないのに、「個々の文化により、赤に見えたり黄色に見える」と指摘されても、拝読している方(ほう)は戸惑うだけです(笑)。
「だったら翻訳するときはどうするんだ」と言われるかも知れませんが、それは訳者それぞれ、決められれば良いと思いますよ。「赤、オレンジ」と書いてあったら、一律に「赤茶色にするとか、或いはそのまま「赤、オレンジ色」にするとか、決めてしまえば良いことです。まあ、律儀な人であれば、逐一「訳注」で対応されるかも知れませんし、その方が「親切」だとは思いますが。
平均身長100㎝の人種があるとして、その国の文筆家が170㎝の日本人を「巨人」と書いた場合、そのまま訳すか、訳注を付けるかしかないわけですよね。「事実」を「翻訳論」で議論しても始まりませんので(笑)。
著者の方の名誉のために?付言させて頂くとすれば、むしろこの部分で話題にされるべきだったのは、昔々の日本人の、色の表し方だと思います。一説に依れば、かつて日本人は、あらゆる色を「赤・青・黒・白」の4種でしか表現しなかった由。その結果、緑の野菜は「青菜」になり、初夏の樹木は「青々」しくなったわけです(笑)。
この話題であれば、『認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現する』というご説明も、ぴったり合致すると思いますが。
【以下、付録です(笑)】
「そもそも」から始めさせて頂きますが、「誤訳」とは、例えば次のようなものを指します(意訳・直訳を取り混ぜてます)。尚、各例文は、実際に英米で使用された文章・セリフです。
(例1)
“Everyone has his price.”
誤)『誰にでも、その人それぞれの「価値」がある』
正)『誰にでも、その人それぞれの「価格」がある』 ⇒ 「買収できないヤツなんていない」
(例2)
“One more sip of this and collapse.”
誤)『これを、あとひと口「と」、倒壊』
正)『こいつを、あとひと口すす「れば」、ぶっ倒れる』
(自身のことを言っているのか、相手のことなのか、場合に依る)
(例3)
“Show some respect to others.
誤)『少しは他人を「尊敬」する態度を示せ』
正)『少しは他人を「尊重」する態度を示せ(~他人に「敬意」を表せ)』
(例1)は英単語の意味を取り違えた場合(注1)、(例2)は、文法を理解できていない場合(注2)、(例3)は日本語化する際に、選択を誤った場合です(注3)。
(注1)”price”には「人間の価値(例えば人格とか能力とか)」という意味はありません。
(注2)”(Take)One more~and (You / I)collapse”の、主語が省略されたものです。
(注3)日本語の「尊敬」は、そもそも『他人の人格・行為などを尊び敬うこと』であり、その意味では(例3)の「誤」も適切な訳なのですが、いつの頃からか、「尊敬」という言葉が「自分より上位の存在として、崇める」のようなニュアンスを含むようになったので、少なくとも筆者は、こういう場合に用いません。
さて、回り道をしましたが、「誤訳」とは、いわば「A言語を使う相手が(文章や発言で)表現したことを、A・B両言語を使う人が誤って理解し、その結果、B言語に移し替えた姿が誤っていることが明白である場合」を指すと思います。
もちろん、こういうことの起る原因は、語学的知識・経験が乏しいこと、そして、前後の文脈から「こういうことを言っているのだろう」と勝手に推測してしまうこと、辞書を引かずに、自分の記憶している意味だけで判断してしまうこと、など、様々です。筆者など、(もちろん、商売ではなく、私的理由による「訳」ですが)嫌になるほど「誤訳」をしています(笑)。
さて、それでは、本書の著者の方が挙げておられる「歴史を変えた誤訳」の幾つかを見てみましょう。但し、全てを列挙するわけにはいかないので(笑)、幾つかを省いて、大意をご紹介した上で、コメントを付させて頂きます。
<1>
『ポツダム宣言に対して、当時の首相は「黙殺する」と言った。それを同盟通信社が”ignore”と英訳したため、拒否したものと受け取られ、原爆投下に至った』(大意)
★「黙殺」:「無言のままで取り合わないこと。問題にせず無視すること」(広辞苑第六版)
★「ignore」:「To refuse to take notice of; not to recognize; to disregard intentionally, leave out of account or consideration, shut ‘one's eyes to」(Oxford English Dictionary(以下「OED」)」
後から色々の方が、「こう言えば(訳せば)良かったのに」とご意見を述べられているようですが、筆者の意見では、これは「誤訳」ではありません(笑)。なぜなら、当時の鈴木首相の発言(立場)は、「ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまで邁進するのみである」(=「あんた方が何と言おうと取り合いません。我々はあくまで戦争を続けます」)であり、その立場の伝達に関して「ignore」で本質的な支障は全くなく、(本書に例示されている色々の方の訳例のように)「give it a silent treatment」と訳そうが、「No comment」と訳そうが、結果は同じだったでしょう。従って、「この誤訳がなければ原爆投下には至らなかったかもしれない」(著者の方が紹介されている「ベルリッツの世界言葉百科」より大意)ということも有り得ないでしょう。
著者の方は、あくまでも「黙殺」が誤訳であるとお考えのため、「日本政府は、黙殺という肝心な言葉がどういう結果をもたらすかまで考えいたらなかったのだろうか」と批判されていますが、もし当時の政府が「あなた方のご提案は十分に尊重致しますが、我々は戦争完遂にあくまで邁進致します」と返答していたら、結果は変わっていたのでしょうか?(笑)
時間を稼いだり、煙幕を張ったりする効果はあった「かも」知れませんが、「前振り」はどうあれ、「本文」が「我々は戦争完遂にあくまで邁進するのみである」なんですから、結果は変わらなかったでしょう。本件はそもそも「翻訳」の範疇の問題ではなくて、「当時の日本国が戦争についてどう考えていたか」または「米国がどうしたかったのか」という問題だと思います。
鈴木氏の発言のうち「黙殺(ignore)」という言葉だけを取り出して、ああでもない、こうでもないと議論するのは、実に不毛だと思いますが(笑)。
<2>
『1970年の佐藤・ニクソン会談において、繊維業界に関する日米貿易摩擦につき、佐藤氏が「善処します」と言ったのを、外交官が「I’ll do my best」または「I’ll take care of it」(著者の方も、いずれであるかは明確にご存じではない)と通訳し、結局、何もしなかった(できなかった)ので、「ニクソン・ショック」を招いた』(大意)
「善処」:「① (-する) 事に応じて、適切に処置すること。うまく処理すること」(日本国語大辞典)
「I’ll do my best」:「the best one can (do); esp. in to do one's best, formerly, the best of one's power.」(OED)
本書にもあるとおり、佐藤首相は「善処」しようとしたのですが、「日本の繊維業界自体が不振だったため繊維業界は、佐藤栄作首相に協力して対米輸出規制を行うことを拒否したのであった」(引用された文献)とのこと。
著者の方は、『その場の通訳者が少なくとも”I’ll do what I can” ”Let me see what I can do”程度の英語にしておけば、ニクソンはあれほど怒らないで済んだ、と考える事もできる』と仰せです。
外人さんと何か交渉したりなどされた方はご存じとは思いますが、相手に何か依頼をしたときに、「I’ll do my best」と返答されるのは日常茶飯事ですよね。本当に生真面目な人がそう答えたなら、きっと、その人の出来うる限り、能う限りの努力をしてくれるでしょうが(笑)、極論すれば、「何もしない」場合も含まれますよね(笑)。即ち、「逃げ口上」のひとつとしても使われるわけです。
例えばスポーツ選手が、「ファンは新記録を期待してますよ」と記者に言われ、「I’ll do my best」と答えますが、では、「いまのままでは決して新記録は出せない。よし、特別な練習を考えついて、実行しよう!」などと思っているかといえば、そうではなくて(笑)、実際は、「日頃の練習の成果が本番で出せるよう、体調・精神状態を整えて、事に臨む」ということですよね(別に彼等は「逃げ口上」として使っているのではありません[笑])。
元々、人によって「可能なこと/能う限りの最上(best)」の範囲や限度は異なるわけで、従ってこちら側の「期待値」も、相手によって様々です。
つまり、「I’ll do my best」という発言には、当初から「靄(もや)」が掛かっているということですが、では、”I’ll do what I can” や”Let me see what I can do”と言い換えれば、その「靄」は濃くなるのでしょうか(笑)。
特に後者は日常よく聞く表現(”I’ll see what I can do”とも)ですが、「I’ll do my best」より幾分は、『「検討」するよ、俎(まないた)に載せることは載せるよ』という含みはありますね。
従って、著者の方は、『もっと「靄」の掛かった表現にすれば良かった』と仰せになりたいのでしょうが、(佐藤氏が)「やるつもりだったが、結果的にはできなかった」という事実に照らせば、「靄」の度合いが薄かろうが濃かろうが、もはや「誤訳・不適切訳」の範疇ではないわけです。
著者ご本人も、「こうなると、原因は言葉の問題以前のことがらになってくる」と仰せですが、仰せの通りです(笑)。
『だったらなぜ、「歴史を変えた誤訳」の範疇に含めて、殊更に取り上げるんですか?単に、先見の明を欠く(と著者の方が信じておられる)政治家の「腹芸」が通じなかったと、批判なさるためだけに、ページ数を割かれたんですか?』とお尋ねするのは野暮ですかね(笑)。
その他、大きく分けて5つほどの事例が挙げられていますが、内容に照らせば、『誤訳「のみ」が原因で「歴史が変わった』ものは、ありません(笑)。むしろ、「経済的な事象が発生した」と言うべきであって、あえて言えば『不適切な訳をした、或いは不適切な訳語を当てた』と両国のマスコミが問題視したとか、そういう話題が中心です。
以上で、本書のおよそ3分の1のページ数が費やされ、続く3分の2は、「歴史を変えた」とは全く別の話になります(笑)。
【第二章】では、日・米が様々の問題について議論する際に、「どういう用語を使いたいと主張したか」、或いは当該用語の日・米での解釈の相違、という点について触れられており、著者の方は『確信犯的な(注4)誤訳』と表現されています。
(注4)もう世間では誤用が当たり前になってしまっていますが「確信犯」とは、「自己の信念に基づき正当な行為と信じて行なう犯罪。〔特に、宗教的・政治的な義務感・使命感に基づくものを指す〕」(新明解国語事典第七版)であり、「或ることを目論み、どういう結果になるか分かっていて、犯行に及ぶ」ことではありません。その意味では、(国の代表としての話者の、義務感や使命感が反映されているのですから)著者の方の用法は正当なのかも知れません。
交渉などに際し、日本国政府(担当省庁)が、「こういう解釈をされるおそれがあるから、この言葉は使いたくない。代わりにこれを用いたい」というのまで「誤訳」にされては困りますが(笑)、(もちろん)英単語の語義について適切なご説明も多々ある中で、次のようなご発言があります(要約)。
『日米安保に関する共同宣言の英文中、「vital」という表現があるが、それを外務省は「極めて重要」と公文書に記載した。「死活的」という訳は情緒的なニュアンスがあり、日本語の公文書に適さないと判断したからである。死活的という日本語が情緒的で公文書に適さないとは思えないが、死活的に重要という日本語が最適であるか、こなれた日本語であるかは議論が分かれるだろう。』
「vital」:「6. Affecting life; fatal to or destructive of life.」(OED第6義)
まず、「死活的という日本語が情緒的で公文書に適さないとは思えない」というのは、単なる著者の方の「ご意見」であって(笑)、筆者は外務省の言うとおりだと思います(笑)。
因みに「死活的(に)」という副詞は、日本語にはありません(笑)。その意味では、「公文書に適するかどうか」以前の問題だと思います(笑)。少なくとも筆者は、「ワタシ的には」と同種の違和感を覚えます(笑)。「死活」という言葉は普通、「死活にかかわる」とか「死活(の)問題」など、(いわば)名詞として使うのが正しいと思います。
以下、総じて、「日本政府(省庁)は、日・米で取り交わした文書などに於いて、本当は厳しい言葉であるのに、柔らかい言葉に直してしまっている」という主旨のご批判が続きます。
著者の方は「真実・事実」をこよなく愛され、なんらかの「力」(例えば、「外交」や「商売」に於ける、配慮や忖度)によって「真実・事実」が歪められることを、嫌悪される方です。
しかしながら、歴史上、人間が、「酸いも甘いも噛み分けた苦労人」とか、「take the bitter with the sweet(※1)」、「海千山千(※2)」、「苦い真実より甘美な嘘」などの言葉を生み出し、言い伝えてきたように、人間関係、ひいては「社会」は、(個々人・国・組織によって異なり、相対的である)「真実」という不明確なものばかりを尊重していては成り立たないのではないでしょうか(笑)。
実際に国政や経済を動かす人に最も必要な資質は、「したたか(※3)」であることだと思います。特に自分の生まれ育った国とは全く異質の人間達と交渉したりする際には。
かつて、現・岸田総理が外務大臣であった時、ロシアのラブロフ外相との会談が行われ、会談後に共同プレス発表がありました。恐縮ながらよく憶えていないのですが、岸田氏が「北方領土問題について協議した」と発言したのに対して、ロシアの外相が「北方領土については協議していない」と発言し、ニヤッと笑って、岸田氏の肩をポンと叩きました。岸田氏は呆気に取られたような顔をしておりました。
岸田氏は後から、「会談時間の半分は、領土問題を話し合っていた」と「国内の」記者団に反論しましたが、興味のある国の外交筋がすべて視聴していたと思われる、会談直後の共同記者会見のインパクトを打ち消すことはできなかったでしょう。つまり、「したたかさ」の勝負で敗北を喫したわけですね(笑)。
一方、「甘利 明」氏がTPO担当大臣をされていた頃、外国の代表からは「tough negotiator」(訳例:したたかな交渉者)と評されていました。国内評ではなく、外人さんからそう評価されるのですから、日本国民にとっては頼りになることこの上ない人物のわけですが、与党議員を潰すことに躍起になるのが常のマスコミや弁護士さんのグループに、2つの罪状で告発され、辞任されました。因みに結末は、「嫌疑不十分で不起訴」でしたけれど。
もちろん、どうお考えになるかは皆さんの自由ですが、例えば朝日・毎日・東京の記者さんたちや、TBSなどTV局の社員さんたち、実業(簡単に喩えれば会社員や自営業)経験皆無の大学教授さんたちや、「社会派弁護士」さんたちが内閣を形成し(笑)、アメリカを始めとする他国との折衝に当たった場合、どういう日本になるか、想像できますか?(笑)。或いは、この国はもっと、経済的・精神的に豊かな国になるのでしょうか?
少なくとも筆者には、とんでもない事態しか想像できませんけれど(笑)。
(※1)To accept both the negative and positive aspects of something. The phrase is typically used in an acknowledgement that nothing is perfect.(某ネット辞書)
(※2)(海に千年山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えから) あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて、したたかなこと(広辞苑第六版及び新明解国語事典第七版)
(※3)逆境に立たされてもくじけることなく、いかなる手段や奇計とも思える策を弄(ろう)してでも危機や困難を乗り越えよう(非難や世間の思惑などを気にせず、自己の利益や立場を守ろう)とする強い生命力・精神力をそなえている(こと)(新明解国語事典第七版)
著者の方のお勧めに従って、「英語的論理構成」にて結論から先に申し上げますと(笑)・・・
本書は、(かつて流行した誤訳摘発本のように)英語という言語の「誤訳」を解説する書ではありません。
著者の方が取り上げておられる事例の大半(文学的な話題以外は、ほぼ100%)は、
(1)原語を用いた者(話者や著者)や関係者が、主に「国際政治的」な事情に基づく配慮の結果、「訳語を選んだ」または「変更した」または「訳出しなかった」(以下「理由のある変更」と総称)ものであり、それらを本書では「誤訳」と称しているわけです。
(2)では、「語学的」には何が掲載されているかというと、種々の英和辞典の引用にて、「この言葉は本来、こういう意味」(~であるから、話者や関係者が「正しく」ない)と記載されています。
要するに、著者の方が何を述べられているかといえば、上記(1)の「理由のある変更」が、「正しくない」と主張されているわけであり、(2)は単に、英語を専門とする(或いは「そうしようと目指されている」)方なら、まず大半が所持されている英和辞典の訳語が羅列されているだけです(笑)。
つまり本書は「英語を研鑽するための語学参考書」ではなくて、『(著者の方が正しいと信じておられる事々でバイアスの掛かった)「ご主張」を綴られた、「意見書」集』と理解するのが正しいでしょう(笑)。
因みに、著者の方の、次のご発言に賛同される方々には、向いていると思われます(笑)。
『しかし外交関係の問題そのものよりもっと問題なのは、そういった重要な外交交渉の舞台裏が、なかなか国民には見えてこないこと』
筆者などは、「ものすごいご意見もあったものだ」と感心しますが(笑)、『「外交の舞台裏」が国民にガラス張りになっていさえすれば、外交交渉そのものの経緯や結果などは二の次である』と仰っているのと一緒ですよね(笑)。
世の中には、マスコミの皆さんを始めとして、こういうご意見の方も多数おられるようですが、つまりは、国民に全ての情報を開陳したうえで、どのような選択をするか、逐一国民投票をすべきである、と仰せのわけですか?(笑)。もし「そうではない」と仰せなら、何をどうしようと仰せなのでしょうか?
国民投票に際しては、法整備も含め、とても半年や1年で完了するとは思えませんが、その間、世界の日本以外の国々の政治や経済は、「そういうご事情なら、我々はお待ちしますよ」と、ご親切にも、完全停止していてくれるのでしょうか?(笑)
そして、いざ国民投票の結果、日・米交渉が決裂し、日米安保が無効になったり、「1ドル360円」の円安になったりと、安全保障なり経済に於いて致命的な打撃を被っても、「主権者である国民が決めたことだから、致し方ない」と仰る?(笑)
上記の「経済的打撃」の結果、倒産した企業の従業員や、失業した人には、「国民が決めたことだから、耐え忍びなさい」と仰る?(笑)彼等から『オレ・ワタシは「国民」じゃないのか?』と尋ねられたら、なんとお答えになるのでしょう(笑)。
話を戻しますと(笑)、書名に大々的に「誤訳」と謳っているわりには、一般の、『「誤訳」を指摘し、正答を示し、併せて誤訳の理由を示す』書物のように、純・語学的に「誤訳を解説する書物」の一種と考えられるのは誤りですし、同種の本に掲載の事例でご自身の英語力を研鑽したいと思っておられる方々には、不向きです(笑)。
大半の事例は、ご自身で英和辞典などを引かれれば「そりゃあ、そうでしょうね」と納得されるだけの事柄ですから(笑)。
その意味では、むしろ『英語で暴く政治家や官僚のウソ』などの題名にして頂ければ(笑)、誤解して購入される方(かた)も減るでしょうし、的を射ていると思われます。
また、『「歴史」の範疇』についても、少なくとも筆者の感覚とはギャップがあります。
個人的には、『こういう言葉(の伝達)が原因で、信長は本能寺で殺された』とか、『こういう言葉(の伝達)が原因で、シーザーは暗殺された』とか、そういうことを想像するのですが、著者の方にとっては、本書で例示されているように、「日米経済摩擦が起きた」、「オイル・ショックが起った」、「円高になった」、というのも「歴史」の範疇のようです。
世の中には「経済史」という言葉もありますが、普通は、「産業革命の結果、こうなった」とか、「こういう政策を採った結果、戦後日本は高度経済成長を成し遂げた」とか、そういった「大局」を意味するわけで、「円高」のような(いわば)「経過的な経済事象」は含まないと思われるのですが(笑)。
但し、本書名を著者ご自身がつけられたのかどうかは、筆者の知るところではありません。
☆以下は、更にご興味のある方だけどうぞ(笑)。
【1.まずは、著者の方のお考え(ご意見/正しいと思っておられる事柄)について】
◎著者の方のお考えは、概ね次の点に集約できます。
★政治家は、「(外国との会談などに於いて)自身の発言がどういう結果をもたらすか」すら想像できない、考えの浅い者どもである。
★「英語通」と言われる首相などであっても、失言や理解不足などによって重大な結果をもたらしたりするのだから、外交交渉に於いては通訳を介すべきである。英語に堪能であるとされた宮沢喜一氏は、日・米首脳会談の結果、円高を招来した。
『朝日新聞「声」欄には「円高の責任は首相の英語力」という五十一歳会社員からの投書が掲載されており、(中略)円高の責任が本当に宮沢首相にあったかどうかはともかく、英語力抜群で知米派とされる首相が、米国での首脳会談ではさほど実力を発揮しなかったどころか(中略)失望は大きかったようだ。首脳会談で通訳抜きとは考えられないが、投書氏のいうとおり、外交交渉ではきちんと通訳を介すべきである』(本書より:ご意見をバックアップされるためなら、一般の会社員の投書まで持ち出されるのですが、さすがにこれは、如何なものでしょうか[笑])
★(特に外務)官僚は、外交記録などに於いて「言葉(和訳語)」を加工する(例えば表現を柔らかくする)ことに躍起で、英語の原義(いわば「真実」)を知らしめようとしない。
★外交官を始めとして、「素人」通訳は、間違い(誤訳・意訳)を犯すことが多く、日・米の国家間会議(例えば首脳会談)を始めとして、民間の商談に於いても、「プロ」の通訳を採用すべきである。
『たとえ外交官であっても、通訳をしているときは一通訳者なのであるから、通訳の業務に徹するべきである』(本書)
『ある米国企業のビジネスマンが「日本の企業と交渉すると、いつもいらいらする。通訳者は英語は上手なんだけれど、どうもこちらの言うことをそのまま日本側に伝えているとは思えないことがあるし、日本側の言うことも全部英語に訳していないようなときが多い」とこぼしていたが、内部の人間が通訳をすれば、あれこれ余計な思いが通訳に反映することはありえる。公平無私の正確な通訳を期待するなら、外部の通訳者に依頼すべきなのだ』(同前)
★ジョーン・バエズ(Joan Chandos Baez。1941年生。米国の歌手・ソングライター・音楽家・活動家。ベトナム戦争の反戦歌などで著名)の来日公演の際、ニッポン放送のプロデューサーで、司会を務めていた人物が、CIAの圧力により(筆者注:定かではない)、彼女が公演中に挟んだ曲紹介(「長崎・広島の歌である」とか、「ベトナムの話である」とか)のコメントを一切通訳せず、「この公演はTV中継しています」などに置き換えてしまった。
『最初からきちんと通訳するつもりがないのだったら通訳はやめて司会者に徹すれば良かった』(本書)
『司会者と通訳という仕事は同時に両方を行えばどちらかがおろそかになる。通訳と司会という、まったく内容の異なる仕事をいとも気楽に一人の人間に依頼することが日常的に行われ、また、英語ができれば通訳くらいはできると大方の人が思い込んでいるので、プロの通訳者を使うことまで考えない』(同前:要約)
白眉は(笑)、次のご発言だと思っています。
『英語でよりよくコミュニケーションをはかろうと思ったら、話全体を英語の論理構成で進めないと効果的ではないが、しかし通常は、訳に携わる人間がそこまで立ち入ることはむずかしい。結局、発言者自身がそれをわきまえることしかないのだが、理屈では理解していても、なかなかそうはいかないのが現実である』
筆者は、『通訳「は」しっかりしてるんだから、話す方も勉強して、ちゃんとした発言ができるようにしてよ!』と仰せのように感じますが、見事に主客転倒されていることにお気づきなのでしょうか(笑)。
◎さて、以上のような「ご主張」に関し、本書を拝読して最初に頭に浮かんだのは、噺家であった故・立川談志師の、某落語の「マクラ」でした(笑)。話題にされていたのは、今となっては「昔々の出来事」ですが・・。
立川氏は国会議員の経験もある方ですが、「日曜討論(?=政治評論家と政治家が対談するTV番組)」に、「渡辺美智雄氏(当時大蔵大臣)」、「藤原弘達氏(大正生まれの政治学者・評論家)」、「細川隆元氏(明治生まれの政治評論家)」が出演されたときのことについて、次のように話されています(筆者の記憶に依る要約ですので、その点ご容赦を乞います)。
『渡辺大蔵大臣のことを「みっちゃん」なんて呼んで、親しげな様子でも見せたいのかね。国の要職にある人なんだから、せめて「大臣」と呼ぶべきなんじゃないの?細川なんか、「ホントのことを言え~!」なんて渡辺さんに迫ってたけど、「言えることと言えないことがある」立場のヤツに、「何を言ったって全く影響のない」ヤツがなにか言ったって、しょうがないよな』
外交官諸氏とは言わないまでも、民間企業でいわゆる「国際取引」を経験した方なら、同じ感想を抱かれるのではないでしょうか(笑)。
例えば某・外交官氏が、日米協議の場で「ボク(ワタシ)、通訳に徹しますから、国の都合や目的はすべて無視して直訳しますので、よろしく」と、日本国首相や同僚に言ったら、彼等は(ひいては、一国民であるあなたは)どう思うでしょうか(笑)。
例えば某企業の社員が、「ボク(ワタシ)、通訳に徹しますから、商売上の都合は全て無視して直訳しますので、よろしく」と会議に出席している上司や同僚に言ったら、彼等は(ひいては、一国民であるあなたは)どう思うでしょうか(笑)。
著者の方は、『両方やるのは無理なんだから、「プロ」の通訳を雇いなさい』と仰せなのでしょうが、その「プロの通訳」氏は、「国や企業の立場」や当該国・企業の「目標・目的」を「完全に」理解し、それらを念頭に置いたうえで、臨機応変に「通訳」できるのでしょうか。
結局は、「相手の言ったこと、こちらの言ったことを、すべて、そのまま通訳する」ことしかできないのではないですか?
その結果、円高が進行したり、オイル・ショックが起きたり、商談が決裂したりしても、「だって、ボク(ワタシ)通訳なんだから、結果に責任なんかありませんよ」としか言えないのではないですか?(笑)
誰しもお分かりの通り、外交官諸氏や国際ビジネスに携わるビジネスマン諸氏は、いわゆる「multitask(米国では「マルタイタスク」と発音することが多い。ひとりの人間が複数のことを同時にすること)」を大前提としています。
別に、国や企業が『「プロの通訳」を雇う金銭的余裕がないから/節約のため』そうしているのではありません(笑)。
大元の前提(国・企業の立場・目的・意図)が分かっていない、翻訳機みたいな「プロの通訳」君を入れることにより、無駄に余計な時間が掛かったり、話者が「この発言で、こういうことを表現したい」と思って発言しているのに、(事前に話者と意思疎通していないために)「直訳」して、誤解を招く恐れがあったり、そういう懸念があるから、雇わないだけなんです(笑)。
一例を挙げれば、民間国際ビジネスに於いて、こちらが何か売ろうと思ったら、「商材(売りたいと思う商品の意)」を説明できるだけの知識や専門用語が操れないと、話になりませんよね(笑)。
「だったら、事前に、何時間掛けてでも、通訳と打ち合わせして臨めば良いでしょ?通訳側は、商品知識や専門用語を準備しますよ」と仰る「プロの通訳」氏もおられるかも知れませんが、国や企業側には、そんな時間を割く余裕も、理由も、ありませんし(笑)、十分に理解した上で通訳してくれるとしても、ちゃんと話者の立場や目的を斟酌したうえで、上手に「意訳」してくれるかといえば、それは著者の方が、「通訳」の「慎むべきこと/不可侵領域/非・担当領域」と考えられていることですよね(笑)。
※もちろん、通訳さんの側も、依頼を受けるたびに、いちいち何日も掛けて商品知識や専門用語を勉強していたら、商売になりませんよね(通訳をして金銭的利益を得るんですから、立派な「商売」です[笑])。加えて、理系の難しい理屈が必要な商品だったら、大抵の場合は、お手上げでしょう(笑)。
著者の方を含む「プロの通訳」諸氏を貶める意図は全くありませんが、以下の事実を確認しておきたいと思います。
首脳会談に随行するような、いわゆる「キャリア外交官」になるには、「国家公務員(総合職)試験」と外務省に於ける採用試験に合格し、しかも何れかの語学に精通している必要があります。概ねは、国立大学の法学部を出て、(例えば)米国の大学に留学して修士号を取得するとか、そういう研鑽を経る必要もあります。なんせ『「自国の代表として」相手国との様々な交渉や取り決めに関わる』人物になるんですから、公務員としては当たり前ですね。
※因みに、今はどうか知りませんが、かつて(外務省の事務方トップである)歴代「事務次官」や、事務次官を狙えるような立場の人たちは、大半が「東大中退」でした。ネット記事で「大学を中退なんかする人間は、学業すら全うできない中途半端な人間だ」と書いている変な記事がありましたが(笑)、本件の場合、話は全く逆で、「国家公務員試験も受かったし、外務省採用試験も通ったし、これ以上大学にいても無意味だ」という趣旨で、さっさと外交に従事するために、中退したわけです。いわば「高難度の飛び級」の一種ですね(笑)。
一方で、(例えば会議の)通訳をするには、国家試験を通る必要はありません。より正確に言えば、「国家試験=国家資格」自体が、無いんです(笑)。
※ご参考までですが、「観光案内」の通訳をする場合は、「通訳案内士」という国家試験があります。
著者の方は、本書の中で『素人(筆者注:もちろん「英語に堪能な総理大臣」や、外交官、企業の社員も含むのでしょう)通訳に任せてはいけない』など、たびたび「通訳の素人・玄人(著者の方の表現では「プロの通訳」)」を話題にされますが、法的に言えば、そもそも、「(観光案内以外の)通訳」に、素人と玄人の区別は存在しません(笑)。
仮に、英語が全く不得手のあなたが、パソコンで「英語通訳者」という肩書きの名刺を作れば、その瞬間から、「全く違法性なく」、「通訳」に転身できます(笑)。
もちろん、仕事を受注して現場に出れば、出来・不出来はすぐにバレますから(笑)、英語が全くできないまま仕事を受けた場合、詐欺罪に問われる可能性は大ですが(笑)、何が言いたいかといえば、著者の方の「素人・玄人(「プロ」)」の区分や定義が、全く不分明だということです(笑)。
『外国語があまりできないくせに通訳を名乗っている(通訳をする)者が素人、著者の方のように、英語や英語圏の文化に精通し、単に言語の通訳ではなく異文化間の文化の仲立ちができる者が玄人(プロ)』と仰せになりたいのだと拝察しますが、あまりに漠然としていませんか?(笑)
どんな外国語についても一緒ですが、話を簡単にするために「英語」ということにしますと、
「英語ができる/できない」とは、例えば「TOEICで990点(満点)を取っているか否か」とか、「英検1級に合格しているか否か」、とか、そういうことが「必要十分条件」なのでしょうか?それとも「必要条件ではあるが、十分条件ではない」のでしょうか?十分でないとすれば、何が不足しているのでしょう?「英語圏の文化に精通」していないからですか?
一方で、(例えば)日本に生まれ育った日本人が「他国の文化に精通」することは可能なのでしょうか?これまた、あまりに漠然としていませんか?(笑)
例えば、日本に延べ十年余も居住され、日本人より日本文学を知悉されている「和 ⇒ 英翻訳者」の「ドナルド・キーン(Donald Keene)」さんとか、「エドワード・サイデンスティッカー(Edward George Seidensticker)」さんを想像するのが正しいのでしょうが、一般に、「文化に精通」と言われると、かなり敷居の高い問題ですよね。
「精通」とは言わないまでも、「他国の文化を肌身で経験している人」を想像するなら、筆者がすぐに思い付くのは、いわゆる「帰国子女」の皆さんですが、著者の方に言わせると、「母国語(日本語)の能力が十分ではないので、通訳には適さない(大意)」のだそうです(笑)。あまり論拠の明確でないご発言ですが(笑)、では、「日本語検定1級」を取得した「帰国子女」なら、適しているのでしょうか(笑)。それでも「適して」おらず、著者の方の方が優れているとすれば、違いはどこにあるのでしょうか?これまた不分明です(笑)。
さて、本筋に戻しますと(笑)、『「外交」兼「通訳」ができる人』や、『「企業人」兼「通訳」ができる人』と、著者の方の言われる「プロの通訳」さんとでは、一般に、どちらが有用・有能な人と見做されるでしょうか(笑)
しかも、著者の方をはじめとする?一部の「プロの通訳」さん達は?「米国の使った用語は、その単語の意味通りに和訳すべき」とか「話者の言ったことは、変な斟酌をせずに、そのまま伝える」ことを旨とされているわけですから、国や企業にとっては、いわば「学習が期待水準に達していないAI翻訳機」みたいなもので(笑)、使う理由を思い付く方が難しいでしょう(笑)。
著者の方の名誉のために?付言すれば、ご本人も、『外国の折衝するにあたっては、政治にしろ経済にしろ、国の利益が直接にからむものであるから、当然、問題は起る』、『むろんどの国でも外交交渉となれば、ギリギリのところで押し合い、譲歩をしたり譲歩をせまったりとしのぎをけずるわけであるし、国内的な利害がからめば、交渉の経緯をガラス張りにしたらまとまるものもまとまらない、ということにもなる』と仰せです。
筆者は感想として、『なんだ、「左」の人達によくあるような、naïve(世間知らず)な人だと思ったら、あながちそうでもなくて、ちゃんと「大人」の世界の事情を理解されているんじゃないか』と思い「かけた」んですが(笑)、であれば、『じゃあ、本書の大半に記載された「ご意見」は、なんなんだ』ということにもなる(笑)。
結局、『従って』と続き、「非公表の多くのやりとりがあり、両国で異なった解釈が可能な文書が交わされたりし、意図的に敢えてぼかした訳をすることになるので、この章では、そういった確信犯的な誤訳を取り上げる」(大意)と仰せです(笑)。
【2.その他、様々のご記載内容について】
一方で、本書では、「文化的な面での誤訳、或いは訳語選択のあり方」にも触れられています。
以下、著者の方の挙げておられる事例(順不同)の「大意」(二重括弧部分。筆者が要約し、場合により言い換えたもの)と、少々の私見を付させて頂きます。
(A)動植物の呼称について
『むかし、英語の「oak」に「樫」という訳語を当てた人がおり、高価な「オーク」の家具を輸入していたが、実は「oak」は「楢(なら)」という木のことだった』
『「ホトトギス」や「ウグイス」という日本の鳥名については、どのような英訳語を当てるか、各(日⇒英)翻訳者が悩んできた。苦肉の策として、そのままローマ字書きで訳出したものもある。また、「古池や蛙飛びこむ水の音」について、英語圏では「蛙」が滑稽なニュアンスを含んでいるために、訳出に問題がある』
著者の方が挙げておられる例に留まらず、例えば「魚類の名前」だってそうですよね。
「sardin」は「イワシ」と表現されますが、じゃあ、『日本で、脂の乗ったヤツを塩焼きにしたり、丸干しにしたりする、「あの」魚』を「sardin」と言えば通じる(英米人が即座に魚の種類や姿を想像できる)かといえば、ちょっと危ういですね(笑)。
試みに英和辞典を引くと、次のように出ています。
『欧州産のイワシの類(の幼魚); 通例 かんづめにする』(リーダーズ英和辞典)
『【1】大西洋のイワシの一種 Sardina pilchardus:しばしば油に漬けて保存し,食用にする.【2】1と近縁のニシン科 Clupeidae の魚の総称.』(ランダムハウス英和事典)
一方で、「和英」を引けば、塩焼きも丸干しも「sardin」を使っています。「正確であるから」ではなくて、他にやりようがないからでしょう(笑)。
動植物や魚類の呼称というのは、「伝達の正確さ」を旨とするなら、(いみじくも「ランダムハウス英和」が記載しているように)「学名」という万国共通語で表記するしかないのではないでしょうか(笑)。
因みに「ウグイス」の英訳語として「Japanese bush-warbler」というのもあるようで、学名は「Horornis diphone」なんだそうです(笑)。
「ホトトギス」(「カッコー(郭公)科」に分類されるそうです)は「Cuculus poliocephalus」とのこと。
かといって、「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」を英訳しようとする際に、学名を使っては、いかにも雅趣が損なわれますよね(笑)。
ここで一旦、次の項目に移します。
(B)日本の風習について
『太宰治の「斜陽」に、「仙台平(せんだいびら)の袴を着け、白足袋をはいた」医者が出てくる。某英訳書では「正装ではあるが、やや古めかしい、旧式の和服」とまとめて乗り切っており、良いと思う。ところが、同じ医者が再度登場する際には、「白足袋」しか書かれていない。「white socks」はむしろ「軽装」であり、正装であることが伝わらないが、同訳書の翻訳者は「白手袋」と意訳して、正装であるというニュアンスを英米の読者に伝えた。名訳と言われるが、一方で、某・翻訳論の書に従えば、「文化的操作をする翻訳」と批判される可能性もある』
(A)(B)をまとめて考えますが、結局、唯一・最善の解決策は、巻頭とか巻末に、相当数のページ数を費やして、(例えば)『日本では「ウグイスは」は「春告鳥」とも呼ばれ、日本人は古来、その啼き声を耳にすると、次のような感慨を覚えるのである・・云々』とか、『日本の正装:羽織とは、袴とは、足袋とは』などの解説を付し、今どきですから、写真・動画や音声を収録した電子媒体を付属することだと思います。そして解説を付した事物はすべて、ローマ字で表記すればよいのではないですか。
仮に日本の和歌集を英語版にするなら、当該の和歌に出てくる動植物などについて、全てを解説し、そして明治大正の文学であるなら、登場する風俗・風習・事物について、全てを。
あなたが、日本のことを全く知らないアメリカ人の友人に「三和土(たたき)」や「上り框(あがりかまち)」を説明するところを想像してみて下さい(笑)。どうしたって、「日本人は古来、個人の居宅などに上がる際に、履き物を脱ぐものであり・・」から始めないと、説明のしようがないですよね(笑)。
解説や電子媒体付属の英訳書を見て、「そんな解説を参照するのは面倒だ」、「そんなオマケが付いているせいで、70ドルもするのか。たかが日本の本の翻訳書に、そんな金額を払う気はない」などと思う英米人は、そもそも「他国の文化を理解する気のない者」であり、従って当該書物を購入もしないでしょうから(笑)、放っておけばよろしい(笑)。
そもそも、こういうのは、「翻訳論」で解決を試みるべき問題ではないと思います(笑)。解決できないからこそ、昔から、山ほどの「翻訳論者」が、山ほどの「翻訳論」で山ほどの「分析」をし、山ほどの「意見や方針」が出て来たのでしょうし(笑)、筆者もかつて、片手に余る数の「翻訳論」書を拝読しましたが、筆者の感覚では、すべて無駄です(笑)。無駄であるばかりでなく、翻訳家を目指す人を混乱させます(笑)。
「翻訳とはかくあるべき」とか、「こういう翻訳をすると、こういう問題が云々」という本を血眼になって読んでいる暇があったら(笑)、古今の英語の小説、加えて日本の古今の書物でも何十冊か読んで、両原語の研鑽を積み、「ことばの感覚」を研ぎ澄まし、「相手国の人間の感性や、思考・行動の仕方」を脳裏に刻んでいく方が、よほど有益だと思います。
あとは、いざ事に当たって、自身の積み上げてきた能力を極限まで使い、知恵と工夫を最大限発揮した訳をすればよろしいのでは。
(C)色彩の訳について
『色彩を訳すのも通常考えられているほど簡単ではなさそうだ。アガサ・クリスティーの小説などに登場する「オレンジ色の猫(orange cat)」は、いったいどういう色の猫なのだろうと思うが、実は「明るい茶色」の猫のことであった。また、兎の目の色も、「赤」と表現されたり「ピンク」と表現されたりする。同じ地球人として太陽を眺めても、ある言語では「赤」と認識し、ある言語では「黄色」と認識する。個々の文化で認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現することになる』
昔々、「赤毛のアン」という言葉を聞いたり、かつて外人さんを「紅毛人」と呼んだことを知り、『外国には、「赤い」(もしくは「紅色」の)髪の人がいるのか』と感心していました(笑)。ところが、そのわりには、映画やテレビなどで「赤い」髪をした人が、一向に出てこない(笑)。そこで不思議に思い、個人的に興味を持ったわけですが・・・
「目の色による色の見え方の違い」について、かつて、167か国(2022年現在)の国内標準化団体が参加する非政府組織「国際標準化機構(International Organization of Standardization:略称「ISO」)」(※)が調査を行ったようです。
実際の調査内容や結果(原語版)が見つけられず、ご提示できなくて恐縮なのですが、『黒い目よりも青い目の方が、赤い色については、4倍の色素視感力があるらしい』とのこと。
平たく言えば、『青い目の方が、黒い目よりも、同じ色を「赤っぽく」視る』ということです。
(※)国際的な標準を定め、製造物の安全性・信頼性などを保証する国際規格を定めている組織です。フイルム・カメラを愛用されていた方はピンと来られると思いますが、どんなカメラにも、フイルムの感度を表すために、「ASA」と共に、「ISO」と書いてありましたよね。
それを知って、初めて合点がいったのです(笑)。青い目の人が「赤毛(red hair)」というのは、「赤茶色/赤みがかった茶色の髪」のことなのだと。従って、青い目の人が赤茶色を「オレンジ色」と視て、そう言葉で表現しても、ごく自然の話です。
『だったら、昔の日本人が「紅毛人」と呼ぶのはおかしいじゃないか』とお思いになるかも知れませんが(笑)、「紅色」と「赤」とは別の色であり、「紅色」の方が「暗い」というか「紫っぽい」というか、そういう色ですので、黒い目の日本人にとって「赤茶色」が「紅色」に見えても、不思議ではないと思います(笑)。
つまり、『個々の文化で認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現する』(☆)と仰せですが、以上のように、これは「認知の方法」とか「記号化する」といった抽象的な問題でも、文化論的な問題でも、言語学的な問題でもなく、理科系の問題です(笑)。
☆優秀な頭脳をお持ちのせいで、難しい言葉がお好きのようですが(笑)、要は「どういう色に見えて、どういう言葉で表わすか」と仰っているわけですから、そう書いて下さる方が、遙かに分かりやすいです(笑)。
青い目の人物と黒い目の人物が同じ色のものを視て、「赤だ、茶色だ」と喧嘩しても始まりませんよね(笑)。「太陽の色をどのように認知し記号化するか」なんて論議を始めても、無意味です。「そういう色に視えるんだから、仕方ないじゃないか。どうしろと言うんだ」って話ですから(笑)。
尚、念のためですが、「太陽の色」は、観察する季節、観察時刻、観察時の大気の状態、などによって、時に大きく異なりますので、「絶対色」と言えるものはありません。対象の色が定まっていないのに、「個々の文化により、赤に見えたり黄色に見える」と指摘されても、拝読している方(ほう)は戸惑うだけです(笑)。
「だったら翻訳するときはどうするんだ」と言われるかも知れませんが、それは訳者それぞれ、決められれば良いと思いますよ。「赤、オレンジ」と書いてあったら、一律に「赤茶色にするとか、或いはそのまま「赤、オレンジ色」にするとか、決めてしまえば良いことです。まあ、律儀な人であれば、逐一「訳注」で対応されるかも知れませんし、その方が「親切」だとは思いますが。
平均身長100㎝の人種があるとして、その国の文筆家が170㎝の日本人を「巨人」と書いた場合、そのまま訳すか、訳注を付けるかしかないわけですよね。「事実」を「翻訳論」で議論しても始まりませんので(笑)。
著者の方の名誉のために?付言させて頂くとすれば、むしろこの部分で話題にされるべきだったのは、昔々の日本人の、色の表し方だと思います。一説に依れば、かつて日本人は、あらゆる色を「赤・青・黒・白」の4種でしか表現しなかった由。その結果、緑の野菜は「青菜」になり、初夏の樹木は「青々」しくなったわけです(笑)。
この話題であれば、『認知の方法が異なるがゆえに、記号化する際に違う言葉で表現する』というご説明も、ぴったり合致すると思いますが。
【以下、付録です(笑)】
「そもそも」から始めさせて頂きますが、「誤訳」とは、例えば次のようなものを指します(意訳・直訳を取り混ぜてます)。尚、各例文は、実際に英米で使用された文章・セリフです。
(例1)
“Everyone has his price.”
誤)『誰にでも、その人それぞれの「価値」がある』
正)『誰にでも、その人それぞれの「価格」がある』 ⇒ 「買収できないヤツなんていない」
(例2)
“One more sip of this and collapse.”
誤)『これを、あとひと口「と」、倒壊』
正)『こいつを、あとひと口すす「れば」、ぶっ倒れる』
(自身のことを言っているのか、相手のことなのか、場合に依る)
(例3)
“Show some respect to others.
誤)『少しは他人を「尊敬」する態度を示せ』
正)『少しは他人を「尊重」する態度を示せ(~他人に「敬意」を表せ)』
(例1)は英単語の意味を取り違えた場合(注1)、(例2)は、文法を理解できていない場合(注2)、(例3)は日本語化する際に、選択を誤った場合です(注3)。
(注1)”price”には「人間の価値(例えば人格とか能力とか)」という意味はありません。
(注2)”(Take)One more~and (You / I)collapse”の、主語が省略されたものです。
(注3)日本語の「尊敬」は、そもそも『他人の人格・行為などを尊び敬うこと』であり、その意味では(例3)の「誤」も適切な訳なのですが、いつの頃からか、「尊敬」という言葉が「自分より上位の存在として、崇める」のようなニュアンスを含むようになったので、少なくとも筆者は、こういう場合に用いません。
さて、回り道をしましたが、「誤訳」とは、いわば「A言語を使う相手が(文章や発言で)表現したことを、A・B両言語を使う人が誤って理解し、その結果、B言語に移し替えた姿が誤っていることが明白である場合」を指すと思います。
もちろん、こういうことの起る原因は、語学的知識・経験が乏しいこと、そして、前後の文脈から「こういうことを言っているのだろう」と勝手に推測してしまうこと、辞書を引かずに、自分の記憶している意味だけで判断してしまうこと、など、様々です。筆者など、(もちろん、商売ではなく、私的理由による「訳」ですが)嫌になるほど「誤訳」をしています(笑)。
さて、それでは、本書の著者の方が挙げておられる「歴史を変えた誤訳」の幾つかを見てみましょう。但し、全てを列挙するわけにはいかないので(笑)、幾つかを省いて、大意をご紹介した上で、コメントを付させて頂きます。
<1>
『ポツダム宣言に対して、当時の首相は「黙殺する」と言った。それを同盟通信社が”ignore”と英訳したため、拒否したものと受け取られ、原爆投下に至った』(大意)
★「黙殺」:「無言のままで取り合わないこと。問題にせず無視すること」(広辞苑第六版)
★「ignore」:「To refuse to take notice of; not to recognize; to disregard intentionally, leave out of account or consideration, shut ‘one's eyes to」(Oxford English Dictionary(以下「OED」)」
後から色々の方が、「こう言えば(訳せば)良かったのに」とご意見を述べられているようですが、筆者の意見では、これは「誤訳」ではありません(笑)。なぜなら、当時の鈴木首相の発言(立場)は、「ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまで邁進するのみである」(=「あんた方が何と言おうと取り合いません。我々はあくまで戦争を続けます」)であり、その立場の伝達に関して「ignore」で本質的な支障は全くなく、(本書に例示されている色々の方の訳例のように)「give it a silent treatment」と訳そうが、「No comment」と訳そうが、結果は同じだったでしょう。従って、「この誤訳がなければ原爆投下には至らなかったかもしれない」(著者の方が紹介されている「ベルリッツの世界言葉百科」より大意)ということも有り得ないでしょう。
著者の方は、あくまでも「黙殺」が誤訳であるとお考えのため、「日本政府は、黙殺という肝心な言葉がどういう結果をもたらすかまで考えいたらなかったのだろうか」と批判されていますが、もし当時の政府が「あなた方のご提案は十分に尊重致しますが、我々は戦争完遂にあくまで邁進致します」と返答していたら、結果は変わっていたのでしょうか?(笑)
時間を稼いだり、煙幕を張ったりする効果はあった「かも」知れませんが、「前振り」はどうあれ、「本文」が「我々は戦争完遂にあくまで邁進するのみである」なんですから、結果は変わらなかったでしょう。本件はそもそも「翻訳」の範疇の問題ではなくて、「当時の日本国が戦争についてどう考えていたか」または「米国がどうしたかったのか」という問題だと思います。
鈴木氏の発言のうち「黙殺(ignore)」という言葉だけを取り出して、ああでもない、こうでもないと議論するのは、実に不毛だと思いますが(笑)。
<2>
『1970年の佐藤・ニクソン会談において、繊維業界に関する日米貿易摩擦につき、佐藤氏が「善処します」と言ったのを、外交官が「I’ll do my best」または「I’ll take care of it」(著者の方も、いずれであるかは明確にご存じではない)と通訳し、結局、何もしなかった(できなかった)ので、「ニクソン・ショック」を招いた』(大意)
「善処」:「① (-する) 事に応じて、適切に処置すること。うまく処理すること」(日本国語大辞典)
「I’ll do my best」:「the best one can (do); esp. in to do one's best, formerly, the best of one's power.」(OED)
本書にもあるとおり、佐藤首相は「善処」しようとしたのですが、「日本の繊維業界自体が不振だったため繊維業界は、佐藤栄作首相に協力して対米輸出規制を行うことを拒否したのであった」(引用された文献)とのこと。
著者の方は、『その場の通訳者が少なくとも”I’ll do what I can” ”Let me see what I can do”程度の英語にしておけば、ニクソンはあれほど怒らないで済んだ、と考える事もできる』と仰せです。
外人さんと何か交渉したりなどされた方はご存じとは思いますが、相手に何か依頼をしたときに、「I’ll do my best」と返答されるのは日常茶飯事ですよね。本当に生真面目な人がそう答えたなら、きっと、その人の出来うる限り、能う限りの努力をしてくれるでしょうが(笑)、極論すれば、「何もしない」場合も含まれますよね(笑)。即ち、「逃げ口上」のひとつとしても使われるわけです。
例えばスポーツ選手が、「ファンは新記録を期待してますよ」と記者に言われ、「I’ll do my best」と答えますが、では、「いまのままでは決して新記録は出せない。よし、特別な練習を考えついて、実行しよう!」などと思っているかといえば、そうではなくて(笑)、実際は、「日頃の練習の成果が本番で出せるよう、体調・精神状態を整えて、事に臨む」ということですよね(別に彼等は「逃げ口上」として使っているのではありません[笑])。
元々、人によって「可能なこと/能う限りの最上(best)」の範囲や限度は異なるわけで、従ってこちら側の「期待値」も、相手によって様々です。
つまり、「I’ll do my best」という発言には、当初から「靄(もや)」が掛かっているということですが、では、”I’ll do what I can” や”Let me see what I can do”と言い換えれば、その「靄」は濃くなるのでしょうか(笑)。
特に後者は日常よく聞く表現(”I’ll see what I can do”とも)ですが、「I’ll do my best」より幾分は、『「検討」するよ、俎(まないた)に載せることは載せるよ』という含みはありますね。
従って、著者の方は、『もっと「靄」の掛かった表現にすれば良かった』と仰せになりたいのでしょうが、(佐藤氏が)「やるつもりだったが、結果的にはできなかった」という事実に照らせば、「靄」の度合いが薄かろうが濃かろうが、もはや「誤訳・不適切訳」の範疇ではないわけです。
著者ご本人も、「こうなると、原因は言葉の問題以前のことがらになってくる」と仰せですが、仰せの通りです(笑)。
『だったらなぜ、「歴史を変えた誤訳」の範疇に含めて、殊更に取り上げるんですか?単に、先見の明を欠く(と著者の方が信じておられる)政治家の「腹芸」が通じなかったと、批判なさるためだけに、ページ数を割かれたんですか?』とお尋ねするのは野暮ですかね(笑)。
その他、大きく分けて5つほどの事例が挙げられていますが、内容に照らせば、『誤訳「のみ」が原因で「歴史が変わった』ものは、ありません(笑)。むしろ、「経済的な事象が発生した」と言うべきであって、あえて言えば『不適切な訳をした、或いは不適切な訳語を当てた』と両国のマスコミが問題視したとか、そういう話題が中心です。
以上で、本書のおよそ3分の1のページ数が費やされ、続く3分の2は、「歴史を変えた」とは全く別の話になります(笑)。
【第二章】では、日・米が様々の問題について議論する際に、「どういう用語を使いたいと主張したか」、或いは当該用語の日・米での解釈の相違、という点について触れられており、著者の方は『確信犯的な(注4)誤訳』と表現されています。
(注4)もう世間では誤用が当たり前になってしまっていますが「確信犯」とは、「自己の信念に基づき正当な行為と信じて行なう犯罪。〔特に、宗教的・政治的な義務感・使命感に基づくものを指す〕」(新明解国語事典第七版)であり、「或ることを目論み、どういう結果になるか分かっていて、犯行に及ぶ」ことではありません。その意味では、(国の代表としての話者の、義務感や使命感が反映されているのですから)著者の方の用法は正当なのかも知れません。
交渉などに際し、日本国政府(担当省庁)が、「こういう解釈をされるおそれがあるから、この言葉は使いたくない。代わりにこれを用いたい」というのまで「誤訳」にされては困りますが(笑)、(もちろん)英単語の語義について適切なご説明も多々ある中で、次のようなご発言があります(要約)。
『日米安保に関する共同宣言の英文中、「vital」という表現があるが、それを外務省は「極めて重要」と公文書に記載した。「死活的」という訳は情緒的なニュアンスがあり、日本語の公文書に適さないと判断したからである。死活的という日本語が情緒的で公文書に適さないとは思えないが、死活的に重要という日本語が最適であるか、こなれた日本語であるかは議論が分かれるだろう。』
「vital」:「6. Affecting life; fatal to or destructive of life.」(OED第6義)
まず、「死活的という日本語が情緒的で公文書に適さないとは思えない」というのは、単なる著者の方の「ご意見」であって(笑)、筆者は外務省の言うとおりだと思います(笑)。
因みに「死活的(に)」という副詞は、日本語にはありません(笑)。その意味では、「公文書に適するかどうか」以前の問題だと思います(笑)。少なくとも筆者は、「ワタシ的には」と同種の違和感を覚えます(笑)。「死活」という言葉は普通、「死活にかかわる」とか「死活(の)問題」など、(いわば)名詞として使うのが正しいと思います。
以下、総じて、「日本政府(省庁)は、日・米で取り交わした文書などに於いて、本当は厳しい言葉であるのに、柔らかい言葉に直してしまっている」という主旨のご批判が続きます。
著者の方は「真実・事実」をこよなく愛され、なんらかの「力」(例えば、「外交」や「商売」に於ける、配慮や忖度)によって「真実・事実」が歪められることを、嫌悪される方です。
しかしながら、歴史上、人間が、「酸いも甘いも噛み分けた苦労人」とか、「take the bitter with the sweet(※1)」、「海千山千(※2)」、「苦い真実より甘美な嘘」などの言葉を生み出し、言い伝えてきたように、人間関係、ひいては「社会」は、(個々人・国・組織によって異なり、相対的である)「真実」という不明確なものばかりを尊重していては成り立たないのではないでしょうか(笑)。
実際に国政や経済を動かす人に最も必要な資質は、「したたか(※3)」であることだと思います。特に自分の生まれ育った国とは全く異質の人間達と交渉したりする際には。
かつて、現・岸田総理が外務大臣であった時、ロシアのラブロフ外相との会談が行われ、会談後に共同プレス発表がありました。恐縮ながらよく憶えていないのですが、岸田氏が「北方領土問題について協議した」と発言したのに対して、ロシアの外相が「北方領土については協議していない」と発言し、ニヤッと笑って、岸田氏の肩をポンと叩きました。岸田氏は呆気に取られたような顔をしておりました。
岸田氏は後から、「会談時間の半分は、領土問題を話し合っていた」と「国内の」記者団に反論しましたが、興味のある国の外交筋がすべて視聴していたと思われる、会談直後の共同記者会見のインパクトを打ち消すことはできなかったでしょう。つまり、「したたかさ」の勝負で敗北を喫したわけですね(笑)。
一方、「甘利 明」氏がTPO担当大臣をされていた頃、外国の代表からは「tough negotiator」(訳例:したたかな交渉者)と評されていました。国内評ではなく、外人さんからそう評価されるのですから、日本国民にとっては頼りになることこの上ない人物のわけですが、与党議員を潰すことに躍起になるのが常のマスコミや弁護士さんのグループに、2つの罪状で告発され、辞任されました。因みに結末は、「嫌疑不十分で不起訴」でしたけれど。
もちろん、どうお考えになるかは皆さんの自由ですが、例えば朝日・毎日・東京の記者さんたちや、TBSなどTV局の社員さんたち、実業(簡単に喩えれば会社員や自営業)経験皆無の大学教授さんたちや、「社会派弁護士」さんたちが内閣を形成し(笑)、アメリカを始めとする他国との折衝に当たった場合、どういう日本になるか、想像できますか?(笑)。或いは、この国はもっと、経済的・精神的に豊かな国になるのでしょうか?
少なくとも筆者には、とんでもない事態しか想像できませんけれど(笑)。
(※1)To accept both the negative and positive aspects of something. The phrase is typically used in an acknowledgement that nothing is perfect.(某ネット辞書)
(※2)(海に千年山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えから) あらゆる経験を積み、社会の表裏に通じていて、したたかなこと(広辞苑第六版及び新明解国語事典第七版)
(※3)逆境に立たされてもくじけることなく、いかなる手段や奇計とも思える策を弄(ろう)してでも危機や困難を乗り越えよう(非難や世間の思惑などを気にせず、自己の利益や立場を守ろう)とする強い生命力・精神力をそなえている(こと)(新明解国語事典第七版)
2014年2月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
戦後期の通訳者たちの生きざまを伝えてくれる書である.外交交渉における誤解,指導者同士の誤解が通訳者たちを介して生じることもあるとの生々しい報告.戦後の歴史書としても読める本である.
2017年6月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
国際関係論(日米関係)の教授の勧めで購入しましたが、とても含蓄のある本でした。知識が深まった感じがしていい感じです。
2017年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
誤訳と物議を醸した事例を取り上げているが、通訳者そのものの能力以外に、なぜそういう訳にならざるを得なかったのかという歴史的、政治的、その他の要素を総合的に分析して考察するというより、単なる筆者による批判(=私の方がスゴいのよ)というメッセージに聞こえてきて、あまり楽しく読めなかった。
2011年8月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本を読み始めると、本の宣伝文句として紹介されているポツダム宣言に関する話が一番最初に出てきて、〈翻訳の難しさ〉というこれまであまり論じられてこなかった分野に読者をぐっと引き込みます。その後も、ありとあらゆる事例を紹介しながら、一つの言語を他の言語に翻訳/通訳するということの本質を論じていきます。翻訳/通訳の本質とは、二つの異なる文化をどのように橋渡しするか、ということです。このテーマはこの本の命題であり、英語でコミュニケーションをとる際に直面する課題です。
また読み進めていくと日米構造協議やそれに続くガイドラインが英語だとどのような表現で、それを日本語に翻訳するときにどのような操作がなされているのか、といった私たちの国益に関する問題も挙げられています。普段直接英語でコミュニケーションをとる事がなくとも、このような外交交渉における結果の文書の英語でのニュアンスが正確に日本語になっており交渉相手がどのように思っているかを知る事は重要な事です。そのチェックをマスコミに任せてはおけない昨今、またインターネットで原文に直接当たることが出来る現在、私たち一人一人が言葉を翻訳するとはどういう事かを理解しておく必要があると思います。この本はそのような視野に立ち相手側を理解するとはどういう事かを論じています。
外国語での会話や文法を学んでいる人は、少し余裕ができたら異文化の相手とコミュニケーションを行う事について考えを巡らしてみるとよいかと思います。また、英英辞典のからの引用等もあり語学学習についてのヒントも多数含まれています。特に外国語を学んでいないという方にも、通訳/翻訳という仕事について知る事や、言葉の向こう側に居る相手が何を思っているのかを知る事は重要だと思います。広く一般の方にお勧めできる良著です。
また読み進めていくと日米構造協議やそれに続くガイドラインが英語だとどのような表現で、それを日本語に翻訳するときにどのような操作がなされているのか、といった私たちの国益に関する問題も挙げられています。普段直接英語でコミュニケーションをとる事がなくとも、このような外交交渉における結果の文書の英語でのニュアンスが正確に日本語になっており交渉相手がどのように思っているかを知る事は重要な事です。そのチェックをマスコミに任せてはおけない昨今、またインターネットで原文に直接当たることが出来る現在、私たち一人一人が言葉を翻訳するとはどういう事かを理解しておく必要があると思います。この本はそのような視野に立ち相手側を理解するとはどういう事かを論じています。
外国語での会話や文法を学んでいる人は、少し余裕ができたら異文化の相手とコミュニケーションを行う事について考えを巡らしてみるとよいかと思います。また、英英辞典のからの引用等もあり語学学習についてのヒントも多数含まれています。特に外国語を学んでいないという方にも、通訳/翻訳という仕事について知る事や、言葉の向こう側に居る相手が何を思っているのかを知る事は重要だと思います。広く一般の方にお勧めできる良著です。
2015年6月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中学生の頃に知った鳥飼久美子氏は、当時は珍しい同時通訳の花形として大活躍しており、私にとってはもはやアイドルを通り越して憧れの存在だった。真剣に英語を学ぶきっかけを与えてくれた人である。
国際政治の舞台ではこんなにも通訳が重要なウエイトを占めているのかと再認識させられた。通訳は内容に立ち入ってはならず、万一それによって国と国との交渉や関係が損なわれたら大変なこと。政治家や官僚の努力も無駄になるというものだ。そんな具体的事例を示しながらの解説は臨場感に溢れ、まるでその場に鳥飼さんと一緒に居るような気分になった。
歴史を変える程ではないが、私も誤訳にはとても苦い思い出がある。アメリカ某港との貿易協定を締結する際の締結書の草案を誤訳してしまったのだ。本来プロに依頼すべき翻訳だが、たまたまその日は休日だったので、上司は急遽私にやらせた。早く概略を掴みたかったのだろう。翌日プロに発注すれば良いものを、彼はそのまましばらく利用した。そして後にプロから、ニュアンスの違いなどではなく、間違いがあると指摘された。当然その後に正しく修正されたが、今でも穴があったら入りたい程恥ずかしい思い出だ。
本書の中で一つ残念に思うことは、引用された一連の新聞報道がほとんど朝日新聞からで、他紙の情報がないことだ。本書の性格上政治の舞台裏の話が多いが、ほとんど朝日新聞を介しているためかなり偏っているように見える。全国紙の中でも○大紙とかいって、朝日が日本の言論を代表しているかのように考えるのは、もはや終わりにしてもらいたい。
国際政治の舞台ではこんなにも通訳が重要なウエイトを占めているのかと再認識させられた。通訳は内容に立ち入ってはならず、万一それによって国と国との交渉や関係が損なわれたら大変なこと。政治家や官僚の努力も無駄になるというものだ。そんな具体的事例を示しながらの解説は臨場感に溢れ、まるでその場に鳥飼さんと一緒に居るような気分になった。
歴史を変える程ではないが、私も誤訳にはとても苦い思い出がある。アメリカ某港との貿易協定を締結する際の締結書の草案を誤訳してしまったのだ。本来プロに依頼すべき翻訳だが、たまたまその日は休日だったので、上司は急遽私にやらせた。早く概略を掴みたかったのだろう。翌日プロに発注すれば良いものを、彼はそのまましばらく利用した。そして後にプロから、ニュアンスの違いなどではなく、間違いがあると指摘された。当然その後に正しく修正されたが、今でも穴があったら入りたい程恥ずかしい思い出だ。
本書の中で一つ残念に思うことは、引用された一連の新聞報道がほとんど朝日新聞からで、他紙の情報がないことだ。本書の性格上政治の舞台裏の話が多いが、ほとんど朝日新聞を介しているためかなり偏っているように見える。全国紙の中でも○大紙とかいって、朝日が日本の言論を代表しているかのように考えるのは、もはや終わりにしてもらいたい。