映画への強い愛情に満ちた、また卓見に満ちた鋭い映画批評日記。
60年代のニューヨークの実権映画動向が特によくわかるジャーナル。
著者自身、映画作家にして詩人たるゆえんを発揮していると言える、映画批評史上稀に見る濃密にして軽やかな記述。
これを熟読玩味せずして映画を語るのは莫迦野郎にすぎない。ホントそんな奴ばかりだから日本の映画批評界は駄目になったよなあ。
ま、蓮実重彦や加藤幹郎や四方田犬彦のような1,2の特筆すべき例外はあるが。

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
メカスの映画日記―ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959‐1971 単行本 – 1974/1/1
伝説の映画作家ジョナス・メカスの貴重なドキュメント! 神話的名著、待望の復刊!
★創業40周年記念復刊★
アメリカにおける個人映画・非商業映画への道を切り開いていったジョナス・メカスが、1959年~1971年の日記を通してその時代精神を刻み付ける。
これほど非妥協的に、熱烈に、映画と人生のあり方を指し示した本があっただろうか。
個人映画への熱望をみなぎらせて、既成のものに痛烈な弔辞を送る!
蓮實重彦氏による書評
「『メカスの映画日記』と呼ばれる一冊の書物(だが、それにしても、これは本当に“一冊の書物"でしかないのだろうか?)が
途方もなく美しく感動的なのは、 「非=商業映画」の熱烈な擁護というその戦略的姿勢にもかかわらず、
偽りの境界線 の設定にしか貢献しない「排除」と「選別」の身振りを、おのれにかたく禁じているメカスの晴れやかな表情が、あらゆるページに充満しているからにほかならぬ。
ジョナス・メカスが“前衛"でありうるとしたら、一般に“前衛的"と見做されるもろもろの作品を顕揚し、
みずからもまたそうした作品を撮っているからではなく、まさに、前衛と前衛ならざるものとの中間に凡庸な魂たちが捏造せずにはいられない。
あの虚構の境界線を、いたるところで曖昧にしてしまうからなのだ。
彼は、“確立された権威"への反抗を気取り、“根源的なるもの"への回帰を装うことで前衛たらんとする怠惰な精神の持ち主ではない。
ありもしない境界線を設定し、そのこちら側を既知の世界、その向こう側を未知の世界と思い込んで越境をくわだてるあの掃いて捨てるほどいる疑似冒険者のひとりではなく、
いま、この瞬間に立っているその地点で、時間意識と方向感覚への執着をも放棄しながら、積極的に曖昧さと戯れうる人間だという意味で、彼は前衛なのである。
真の冒険者とは、「排除」と「選別」の機能しえない場に自分を置こうとする反=冒険者以外のなんであろうか。(以下略)
」(『シネマの記憶装置』より抜粋、“ "は原文では強調傍点である)
「映画批評について/
その内容を説明するのは私の仕事ではない。私の仕事はそれに対する興味をそそり、それに対する あなたの注意を呼び起こすことである。
私は映画にとりつかれた夢遊病者だ」――ジョナス・メカス
アンディー・ウォーホールの聖なるテロリズムを論じても、変わりゆく映画言語、あるいは映画ジャーナリズムに無視された芸術を語っても、
ジョナス・メカス独特の“狂気"――映画芸術と芸術家に対する彼の盲愛――がこの本のいたるところに滲み出る。
過去10年以上にわたるメカスの、「ヴィレッジ・ヴォイス」のコラムをまとめたこの「映画日記」は、
彼がニュー・アメリカン・シネマと命名した新ジャンルの誕生と幼年期の日記である。
マーカプロス、スタン・ブラッケージ、ジャック・スミス、アントニオーニ、ケネス・アンガー、ロバート・ブリアに対する鋭い作家論。
ハリウッド映画についての痛烈なコメント。若い映画作家におくる忠告。平然と我を忘れた批評。
たえず虚実を排して美しさをとり、無意味さを排して意味をとるメカスの情熱的に正直で人間的な思考が、新しい芸術の感覚的な世界の全域に私たちを導くだろう。
★創業40周年記念復刊★
アメリカにおける個人映画・非商業映画への道を切り開いていったジョナス・メカスが、1959年~1971年の日記を通してその時代精神を刻み付ける。
これほど非妥協的に、熱烈に、映画と人生のあり方を指し示した本があっただろうか。
個人映画への熱望をみなぎらせて、既成のものに痛烈な弔辞を送る!
蓮實重彦氏による書評
「『メカスの映画日記』と呼ばれる一冊の書物(だが、それにしても、これは本当に“一冊の書物"でしかないのだろうか?)が
途方もなく美しく感動的なのは、 「非=商業映画」の熱烈な擁護というその戦略的姿勢にもかかわらず、
偽りの境界線 の設定にしか貢献しない「排除」と「選別」の身振りを、おのれにかたく禁じているメカスの晴れやかな表情が、あらゆるページに充満しているからにほかならぬ。
ジョナス・メカスが“前衛"でありうるとしたら、一般に“前衛的"と見做されるもろもろの作品を顕揚し、
みずからもまたそうした作品を撮っているからではなく、まさに、前衛と前衛ならざるものとの中間に凡庸な魂たちが捏造せずにはいられない。
あの虚構の境界線を、いたるところで曖昧にしてしまうからなのだ。
彼は、“確立された権威"への反抗を気取り、“根源的なるもの"への回帰を装うことで前衛たらんとする怠惰な精神の持ち主ではない。
ありもしない境界線を設定し、そのこちら側を既知の世界、その向こう側を未知の世界と思い込んで越境をくわだてるあの掃いて捨てるほどいる疑似冒険者のひとりではなく、
いま、この瞬間に立っているその地点で、時間意識と方向感覚への執着をも放棄しながら、積極的に曖昧さと戯れうる人間だという意味で、彼は前衛なのである。
真の冒険者とは、「排除」と「選別」の機能しえない場に自分を置こうとする反=冒険者以外のなんであろうか。(以下略)
」(『シネマの記憶装置』より抜粋、“ "は原文では強調傍点である)
「映画批評について/
その内容を説明するのは私の仕事ではない。私の仕事はそれに対する興味をそそり、それに対する あなたの注意を呼び起こすことである。
私は映画にとりつかれた夢遊病者だ」――ジョナス・メカス
アンディー・ウォーホールの聖なるテロリズムを論じても、変わりゆく映画言語、あるいは映画ジャーナリズムに無視された芸術を語っても、
ジョナス・メカス独特の“狂気"――映画芸術と芸術家に対する彼の盲愛――がこの本のいたるところに滲み出る。
過去10年以上にわたるメカスの、「ヴィレッジ・ヴォイス」のコラムをまとめたこの「映画日記」は、
彼がニュー・アメリカン・シネマと命名した新ジャンルの誕生と幼年期の日記である。
マーカプロス、スタン・ブラッケージ、ジャック・スミス、アントニオーニ、ケネス・アンガー、ロバート・ブリアに対する鋭い作家論。
ハリウッド映画についての痛烈なコメント。若い映画作家におくる忠告。平然と我を忘れた批評。
たえず虚実を排して美しさをとり、無意味さを排して意味をとるメカスの情熱的に正直で人間的な思考が、新しい芸術の感覚的な世界の全域に私たちを導くだろう。
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社フィルムアート社
- 発売日1974/1/1
- ISBN-104845974061
- ISBN-13978-4845974061
この商品を見た後に買っているのは?
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
マーカプロス、ジャック・スミスなどに対する鋭い作家論。ハリウッド映画についての痛烈なコメント。若い映画作家におくる忠告。平然と我を忘れた批評。映画作家、批評家であるメカスの「ヴィレッジ・ヴォイス」のコラムをまとめたもの。
著者について
1922年リトアニア生まれ。ナチス・ドイツ占領下で抵抗運動を行なうも、49年までドイツの収容所に収監。アメリカへ亡命後、54年『フィルム・カルチャー』誌を発行。58年に『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に「ムービー・ジャーナル」を連載。「ニュー・アメリカン・シネマ・グループ」の設立に協力。89年にアンソロジー・フィルム・アーカイブス開館。主な作品に『リトアニアへの旅の記憶』『営倉』など。
登録情報
- 出版社 : フィルムアート社; 改訂版 (1974/1/1)
- 発売日 : 1974/1/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 400ページ
- ISBN-10 : 4845974061
- ISBN-13 : 978-4845974061
- Amazon 売れ筋ランキング: - 247,168位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中5つ
5つのうち5つ
1グローバルレーティング
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。