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マクドナルド化する社会 単行本 – 1999/5/1
- 本の長さ398ページ
- 言語日本語
- 出版社早稲田大学出版部
- 発売日1999/5/1
- ISBN-104657994131
- ISBN-13978-4657994134
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商品の説明
メディア掲載レビューほか
世界が猛烈な勢いでマクドナルド化(McDonaldization)している。米国の著名な社会学者の手になり、世界12カ国で翻訳出版されるに至った本書の定義によれば、徹底したマニュアル運用で大成功し、今や米国のシンボルとして君臨するファストフード・レストラン・チェーンを支える諸原理が、世界中を席巻しているという意味だ。
教育、医療、ジャーナリズム。ビジネス界にとどまらず、あらゆる分野がマクドナルド化から免れ得ないのは、従来は1つだけでも困難だった効率性、計算可能性、予測可能性、そして制御という、合理化の諸要素を、この原理が同時に提供してのけたためである。
たとえば効率性は、次の3つの課題を解決できれば増大する。多様な過程を簡素化すること。製品を単純化すること。従業員よりも客に働かせること…。こうした作業に従事することは、しかし、まともな大人には耐えがたい。そこで、「ファストフード・レストランはふつう、軍隊と同じように十代後半の若者を雇う。なぜなら、彼らはおとなよりも、簡単に自律性を放棄して機械や手順や規定に従うからだ」。
もちろん企業内の経済合理性に関する限り、マクドナルドの原理は強烈な優位性を有している。だからこそ世界はこれに覆われつつあるのだが、その存在を許す社会の側が強いられる負担や危険はきわめて重大である点に、大衆はあまりに無自覚だ。
彼らによって、食卓を囲む時間を大幅に奪われた家族の絆は希薄化する一方だし、労働者は疎外されるのが常態になってしまった。合理化は下位の階層だけに押しつけられるのが通例だから、不平等はさらに拡大され、貧富の差はますます激しくなって、凶悪な犯罪が増える。それを取り締まるための膨大なコストが必要になる。
ポストモダンの代表として扱われがちなマクドナルドは、その実、モダニズム初期に原始的な経済人仮説から出発したテーラーシステムや、その延長線上にあるフォーディズムにどっぷりと浸かっているという。にもかかわらず、こんなものを「脅威ではなく涅槃の境地」と感じる人が多数派になりつつあり、世界標準になろうとしている現実の描写には、人間の愚かさを目の当たりにさせられる思いがする。
世界のマクドナルド化に対する著者の論考に、評者はほぼ全面的に賛成できる。それにしても人間性の果てしない喪失は一体何をもたらすのか。人間は現実を直視し恐怖して、せめて明日への処方箋を書き続けることしかできないのだろうか。
(ジャーナリスト 斎藤 貴男)
(日経ビジネス1999/7/26号 Copyright©日経BP社.All rights reserved.)
-- 日経ビジネス
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 早稲田大学出版部 (1999/5/1)
- 発売日 : 1999/5/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 398ページ
- ISBN-10 : 4657994131
- ISBN-13 : 978-4657994134
- Amazon 売れ筋ランキング: - 322,230位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,038位社会一般関連書籍
- - 5,917位社会学概論
- - 31,600位ビジネス・経済 (本)
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著者について

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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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マクドナルド化する世界とは、かつてマルクスが商品の物神的性格とよんだ人間の社会的諸関係が商品によって物象化されている様子を、現代風に呼ぶ名ではなかろうか。もちろん、マクドナルドは昔からあったし、マクドナルド化も昔から存在したということはできる。しかし、ここで問題となっているのは、商品そのものがあたかも価値を持っているように、マクドナルド的なるもの、システムそのものが無限にグローバル化において増殖することであろう。
マクドナルドに偏っているという批判は意味がない。マクドナルド的なるものが人間関係だけでなく行為を規定していることが問題なのであり、そうした問題をよく論じていると思う。
リッツアは、この現象を身近なマクドナルドのようなファーストフード産業から説明していきます。マクドナルドでは、あらゆる側面が合理化されています。ハンバーガーのパンや肉の大きさはきっちりと規格があって、少しでも大きく見えるように設定されています。一人でも多くの人が少しでも短時間でお金を置いて出て行ってくれるように、椅子は居心地の悪いデザインになっています。様々な合理化への試みが、人々に時間の節約と快適さの幻想を与え、会社には巨万の富を与えますが、その反面で、食の豊かさが失われ、人々の会話の場が無くなり、動脈硬化が増え、文化が画一化し、環境が破壊されていきます。
リッツアは、合理性の追求によって引き起こされる脱人間化が、教育、医療、スポーツ、政治、その他社会の様々な領域でも引き起こされていると警告します。例えばフォード社は、自社の車の欠陥が死亡事故を起こすことを知っていましたが、死亡率を計算した上でそれにかかる補償額と欠陥の修理にかかる費用を比べ、欠陥を改善しない方が安上がりだと判断しました。また、自動車の大量生産は、ガソリンに対する膨大な需要を生み出し、国家は石油供給の確保のために戦争を引き起こしてきたのです。
リッツアによれば、合理性の追求によって行き着いた脱人間化の究極の終着点がホロコーストでした。人々は人生の質や死の質について注意を払われることなく、工場のベルトコンベアーを流れていく商品のように管理され、死が最終生産物になったのです。
本書のユニークな点は、「鉄の檻」についてただ警告するだけでなく、それに対抗する方法を提示している点です。それは、「ときには、本気でルールを破らなければならない」という事です。これを読みながら、わたしは最近見た映画『杉原千畝』を思い出しました。彼は、外交官でしたが、本国からの「ユダヤ人にビザを発給してはならない」という命令を無視して、6000人のユダヤ人を助けました。ルールを守るというとことは大切ですが、社会のルールが人間の命を軽視し始めたとき、私たちは命がけでそのルールを破らなければならないのです。
「警告!社会学者たちは、マクドナルド化したシステムの習慣的な利用が、あなたの身体や心の健康に、そして社会全体にとっても危険であることを発見しました。」
「あの快い夜のなかへおとなしく入っていってはいけない。光の滅んでいくのを激怒せよ。激怒せよ。」
出版されてから30年の時間が経ちましたが、本の内容は古びた印象はありません。まさしくこの30年間、アメリカだけでなく我が国日本もマクドナルド化を爆進し続けてきました。
ただ、現代における食に対する問題提起という面であれば、本書よりもジャック・アタリの「食の歴史」をお勧めします。「食の歴史」の方が、より包括的で深い洞察が得られます。それによると、食の効率化はなにもマクドナルドから始まったわけではなくて、19世紀終わりのアメリカでは資本主義による効率性信奉とグラハムが広めた禁欲主義が結びつき、食とはカロリーを摂取することだけに集中し、香辛料やアルコール、自慰行為などを禁じたことで、ナビスコのビスケットやケロッグのコーンフレークが生まれた。食事の会話はなくなった。ハインツがトマトケチャップを生み出し品質の悪い食品も味が良くなったように感じさせたと書かれています。
日本においてもマクドナルドが上陸するずっと前の1958年には回転寿司一号店が出来たし、自動販売機が実用化したのも日本が世界で最初なので、食の効率化への追求もアメリカに決して負けてはいません。
本書では「合理化による非合理化」という面白い言い方をしていますが、「マクドナルド化」の一番の功罪は一般的な「効率化」と同じで、「効率化」された瞬間はそれによって浮いた時間や労力を享受できて人々を豊かにしてくれますが、効率化が日常の当たり前になってしまうと、効率化ありきで物事が進むので余剰の時間と労力が消えてしまうことだと思います。
例えば、昭和の時代は東京ー大阪間の出張は一泊で、新幹線が開通した瞬間は一泊の出張を余った時間でゆっくり商談したり仕事の後でゆっくり居酒屋で歓談したり出来て皆が喜んだのですが、いつの間にか日帰りが当然になってしまい、以前よりも慌ただしくなってしまったことなどが好例です。
今やどこもお店にいっても「おもてなし」などという言葉があったのか?と疑いたくなるほど「セルフでお願いします」が溢れかえっています。これにより、一瞬従業員は負担が楽になりますが、すぐに従業員の数は減らされて楽になるどころか、セルフが出来ない高齢者の対応で走り回らなければならないし、客は今まで悠然としていれば良かったのに、一瞬のうちに店のタッチパネルの操作の仕組みを理解してやり遂げなければならなくなります。特をするのは経営者だけ。
恐ろしいのは、この現象は悪循環になっており、セルフ型に店員も客も慣れてしまうと、会話をすることが面倒くさくなり、場合によっては、すぐにキレたりする客も出てくるので、店員も客と会話しなければいけないような職場で働くのを嫌がるし、客の方もロボットのような店員を相手にするならばタッチパネルを好むといった流れがどんどん優位になってくることです。
本書にもありますが、そういったセルフ型はお店だけでなく学校や医療の現場まで果てしなく広がり、最近だと葬式のお坊さんまで「てらくる」でネット注文、なんてことになってしまいました。人間同士の触れ合いの減少は晩婚化や未婚化にも大きく繋がっていますし、それは密接に少子化の原因になっています。
AIが予想もしなかったほど急速に進化している現在の状況と合わせて考えると、数十年後の人々の生活はどうなってるんだろうかと不安になってしまいました。
著者はこの現象に効率性、計算可能性、予測可能性、制御という要素を見て取り、これらが消費者だけでなく従業員や(チェーン店の)店長にも提供されているところに成功と普及の理由があるとしている。このような要素が、ファストフードだけに限らずあらゆる局面で支配的になっている状況を社会のマクドナルド化と呼び、このような傾向は脱人間的、非人格的なものだとして嘆いている。
カタログの部分では、ハルバースタムの『フィフティーズ』で取り上げられていた現象とオーバーラップすることが多いことに改めて驚いた。フォーディズムはすでに生まれていたとしても、現代のアメリカに通じる大量生産・消費はやはり1950年代あたりで一気に加速したのだろう。
本書で言う「社会のマクドナルド化」の重要な点は、大量生産に欠かせない効率化が、生産現場にとどまらず、消費者とのインターフェイスであるサービスの場にも波及したというところにある。著者はこれによって消費者の期待や行動が変化したという。つまり、大量生産の効率性、計算可能性、予測可能性、制御というような思考様式を、消費者の側も身につけるようになった。そのため、大量生産の現場の労働者が画一化するのと同じように、消費者も画一化した、というわけだ。しかし、著者が挙げる例を見ていくと、この議論はアメリカ文化に固有の特徴に根差している部分が強いのではないかという印象を受ける。たとえば、日本での「グルメ・ブーム」とか、日本では安いだけのコンピュータは売れず、むしろ高価でも付加価値の強いものに人気が集まるというような現象を考えると、本書の議論は果たして普遍的なものなのかどうかという疑問が生じる。もちろん、この「マクドナルド化」という言葉の定義そのものがあいまいなので、日本におけるそのような現象も広義の「マクドナルド化」に繰り入れられることになるのかもしれない(たとえば、「グルメ本」の格付けによるレストラン情報の効率化、とか)。まあそういう曖昧な言葉だからこそ、流行語となるポテンシャルも持っているんだろう。
著者はマクドナルド化の弊害をいくつも挙げているが、その中にはマクドナルド化の本質とは関係のないものが少なくない。たとえば、マクドナルドがあまり健康に良くないとされる食べ物を売っていることは、必ずしもマクドナルド化の本質ではない。結局、これはアメリカ人が脂っこい食事を好んでいるということであり、ハンバーガー・チェーンはそのように好まれる食品を低コストで提供できているということなのだ。回転寿司はそれほど美味しくはないかもしれないが、ハンバーガーのような圧倒的に「ヘルシーでない」食品ではないということを想起すればよい。
もちろん回転寿司はマクドナルド化の1例である。という結論に飛びつく前に、寿司そのものがファストフードであったということを思い出した方がよい。いやそれよりも前に、伝統的なレストランであっても、「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」の諸要素は非常に重要であるということを思い起こすべきだ。効率が悪く、計算不可能で、予測不可能な、よくコントロールされていない料理を出す店はあまり人気を博さないだろう。ファストフードであるかどうか、チェーンであるかどうかを問わず、上記の諸要素はレストランの満たすべき条件である。それを言ったら家庭料理だってそうだ。毎回予測不可能な味になる家庭料理はあまり望ましくなく、そこから「おふくろの味」みたいな概念は出てこない。ん~、どうやってオチをつければよいんだろう?
まあ答えは簡単で、「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」などの諸条件は、人間にとって生得的に好ましいものであるということだ。こういうのを極限まで押し進めると「脱人間的」な環境になり、クリエイティビティが損なわれると著者は言うけれども、著者本人が脱人間的でない職の例として出している大学教授がこういう本を書いているわけだからあんまり説得力はない。
2000/1/6