私の考え(捉え方)は、マハルシの教えとは少し違っていて、『心身の神癒』『神癒の原理』『光の書』『神の探求Ⅰ』『神の探求Ⅱ』『シルバー・バーチ 霊言集』『自己を癒す道』らが基本となています。共通点もあれば、相違点もあります。これも捉え方の違いだと思います。どこに視点を置いて見るかによって変わって来ると思います。私の場合は、現実世界から上を見る感じで、マハルシは上からこの世界を見ている感じがします。
真我について、第一部と第二部の前書きから一部抜粋・要約して書き出します。参考にして下さい。抜粋・要約なので理解しにくいと思いますが、マハルシの言わんとしている所を理解するようにしてください。
「第一章 真我の本質」より
真我(真の「私」)は、個人の体験ではなく、非個人的な、全てを包括する覚醒である。あるがままの姿に気付くようになるのは、心の自己限定の傾向がやんだ時だけである。不変の、絶え間ない自己覚醒こそが真我実現として知られる。
真我は純粋な存在で、「私はこれである」「私はあれである」といった感覚が完全にぬぐい去られた、「私は在る」という主体的な自覚である。この「私は在る」という自覚が継続的なものなので、それは意識として知られている。
宇宙が真我の力によって維持されている。神は個人的な神ではなく、
宇宙を維持する無形の存在であるが、宇宙の創造者ではなく、宇宙は単に、神の固有の力の現れに過ぎない。
全ての現象の源が真我にある。
真の知識は、体験の客体ではなく、主体である体験者を離れた状態でもない。それは主体と客体がもはや存在しない、ひとつの実在の直接的認識としての目覚めである。
目覚め、夢見、眠りの状態の現われを支える潜在的な実在が真我である。真我はときおり、第四の状態と呼ばれる。実際には、四つの状態があるのではなく、真に超越したひとつの状態だけが存在ことを示す為、「第四を超えた」という言葉も用いられた。
真我は人の存在の本当に自然な状態(真の本性、真の形態)である。「沈黙」とは、真我が妨げられることのない平和と完全な静寂という沈黙の無心状態である。
第二章 真我の自覚と無知
真我だけが存在し、それは誤った観念(非真我)に注意を払うのをやめると、意識的に体験される。誤った観念や認識が、真我の体験を巧妙に覆い隠してしまう。自分が特定の個人で、特定の身体の中に生きていると想像するのをやめると、誤った観念の構造全体は崩れ去り、意識的な、永遠なる真我の自覚に取って代わる。真我とは達成されるべきひとつの目的ではない。すべての誤った観念が捨て去られた時、ただ覚醒だけが存在する。
第三章 賢者
真我における真実は、賢者も真我を体験していない人々も存在せず、そこにはただ真理の知識を知る者、真理の知識だけが在る。
第四章 真我探求ーー理論
真我探求の目的は、直接体験によって心が実在しないものであると発見することになる。真我、真実の「私」は、決して何かをすることも、何かを考えることもない。それらすべてを想像している「私」は、全くの精神的虚構である。個人という感覚の消滅が心と「私」という想念の両方の消滅を暗示することになる。真我の実現の後、そこには考える人もなく、行為をする人もなく、個人的存在の自覚もない。「私」という想念は対象物と同一化することで存在するように見えるだけである。「私は身体だ」という観念の終焉こそが真我探求の根本的な目的である。客体である対象物なしに独立した「私」という想念は存在できない。「私」「私は在る」という主観的感覚に集中されたならば、「私はこれだ」「私はあれだ」といった想念は起こることなく、そうすれば「私」という想念は対象物と関係を持つことも出来ないだろう。もしこの「私」への自覚が維持されなければ、個としての「私」という想念は消え去り、そこには真我の直接体験があるだろう。「私」「私は在る」という内的自覚への継続的な留意が、真我探求と呼ばれている。「私」という想念は真我(ハート)から立ち現われる。「私」を対象物である想念と同一化する潜在的傾向がやんだ時、それは真我の中へと沈みゆく。「私」という想念は、身体的、精神的なすべての対象物の知覚が完全にやんだ時にみ、それは消え去る。
第五章 真我探求ーー実践
真我探求の方法と目的は、本来の自己ではないものから興味と注意を退けることで本体の自己に気付き、心の源に留まることである。注意を思考から思考者へと移すという努力が重要となる。ひとたび「私」という感覚への自覚が確立されたなら、それ以上の努力は逆効果となる。それ以降は、するというよりも在るという過程、在ろうとする努力よりも、むしろ努力なしに在ることとなる。より高度な真我探求の段階では、努力は存在への気づきを消し去ってしまい、一方、精神的努力を止めることがそれを顕わにする。究極的には、真我は、ただ在ることによってのみ見出される。
第六章 真我探求ーー間違った認識
「私は誰か」という問いは、単に思考と知覚の対象から、それらを考え知覚する主体へと向きを変え、注意を促す道具に過ぎない。「私は誰か」という問いの解答は、心の不在の体験の中にのみある。「ネティ・ネティ」の修練を実践している人達は、「私」が同一視している対象物を「私は心でない」「私は身体ではない」といった言葉で拒絶することで、真の「私」がその混じり気のない純粋な形で体験されることを望んでいる。それは知的活動であって、決して心自体を超えることは出来ない。身体や心を「私ではない」と消去して行く「私」がそれ自身を消去することは決してないから。「私」という想念が源である胸の右側にあるセンター(ハート・センター)から起こり、経路を通って脳へと立ち現れる。「私」という想念が真我の中へ沈みゆく時、それはハート・センターの中へ戻り、そこに消え去る。真我が意識的に体験される時、このセンターが心と世界の源であるという明確な自覚がある。心の源、「私」は身体の特定部分に精神集中することではなく、「私」という想念に注意を払うことでのみ発見される。ハートに瞑想することは真我に到達する効果的な方法である。「あるがままの」ハートに瞑想するべきである。それは内在する真我であり、それとして在ることによってのみ、その真の本性に気付くことが出来る。真我の体験はこのセンターへの覚醒を含むが、このセンターへの集中が真我の体験という結果をもたらすことはない。
第七章 明け渡し
主体ー客体の関係をまぬがれない神への崇拝を超越する本当の自己放棄を強調した。それは自分の神からの分離していると想像するその人が存在をやめる時にのみ成就される。
第一番目の方法では、「私」という想念に対する主観的自覚が、真我に達する唯一の手段である。神とのいかなる関係性も幻である。なぜなら、ただ神のみが存在する。真の献身とは、神との関係といった観念が全くなくなった、人の本来の存在状態に留まることである。
二番目の方法は、自分の人生の責任をすべて神に明け渡すというもの。行為したり欲望したりする「私」
という個人は存在しないこと、ただ真我のみが存在し、真我を離れて独自に行為するものは何もないということに、絶えず気づいていなければならない。
真我探求においては、最終的な実現は自動的に真我の力によってもたらされる。「私」という想念の痕跡は真我によって完全に破壊され、二度と再び立ち現れることはない。この「私」の最終的な破壊は、自己放棄が完全に動機をもたない場合にだけ起こり得る。
以上が各章の前書きの部分の概要です。かなり抽象的な部分もありますが、本文の対話の部分には、詳しい教えの内容が載っています。読むととても為になり、学ぶべき部分が沢山あると思います。
この本は、数年前に買って読んだのですが、今は内容をほとんど覚えていないことに気付きました。真我とは何かと問われると、言葉に出して説明することが出来ません。他の人は、この本を読んでどう思ったのか関心があり、他の人のレビューを読みながら、今の自分の感想を書いてみました。他の人は、どう思うか分かりませんが。良書の中の良書には間違いありませんが。感想を書くことは、自分で考えることになり、自分の考えがまとまる、はっきりしてくるので、学ぶ者にとっては、有効な方法だと思います。
意識には、二通りの意味があるようで、一つは肉体から生じて来る意識、もう一つは永遠・不変に存在する意識があるようです。
肉体から生まれた私は、真我ではないとしても、心の奥深くには真我を宿しているのでは。
私は誰かを自分に問い続けると、(心は沈黙し、本当の自己に気付き)、心の源に本当に辿り着けるのか、そのようなことが起きるのか、私にはよく分かりません。私は、未だに真我というものが理解できないでいます。これを実践して、この境地に到達した読者は何人いるのでしょうか。
私(自我)という想念は、その(私は誰か)源を探求するすることで終焉するのでしょうか。心の源に留まるのでしょうか。
真我に到達すると、どうなるのか。何が起こるのか。その後どうなるのか。想像も付きません。
思考を観察しているのは、自我(低我)ではなく、高我(自我の一部ですが)だと思います。また、その全体を静かに眺めている意識が存在するようです。
自我の崩壊はないと思います。自我が本当に崩壊するとこの世界で生きて行けなくなると思いますから。崩壊は言葉の表現ととして使われているものだと思います。ただし、自我の浄化はあると思います。
個人の魂は、非真我ではなく、魂の中心(深奥)に真我があるものと思います。
私は在るは、意識(自己認識できる意識)だけがあるだけで、それ以外は何もない、何の存在しない状態のことだと思います。
私はなくて、純粋意識だけで十分だと思います。純粋意識状態になった時に、高次のエネルギーが入って来ることがあります。この時、私という想いはありません。ただ、エネルギーの流れとその性質を感知するだけです。その状態が解ければ(エネルギーが通り過ぎると)、元の自分の状態に戻ります。特段、自分の性質・性格・考え方・価値観が変わる訳ではありません。
自我は必要な時に使い、不必要な時には、意識から消せば(遠ざけて)いいのではないでしょうか。
私という想念に意識を集中すれば、想念は消えるのでしょうか。想念が起きる度に拒絶するのでしょうか。眺めるのではなく。
自我が真我に触れると、その光で心の闇が破壊され、心が純化されるのでしょうか。更に、純化された心は、真我に溶け去るのでしょうか。心の闇とは何でしょうか。ネガティブな部分でしょうか。心が真我に溶け去ると、心はどうなるのでしょうか。
2度と心がさ迷い出さない状態が真我実現でしょうか。心がさ迷い出さないとは、心が外界の刺激に反応しない、常に静寂な状態を保つ、苦悩や苦しみや心配や欲望を生み出さない状態のことでしょうか。
自分は真我であり、常に私は在るの状態が続くのだろうか。
私が、2泊3日の瞑想の合宿に参加した後も、軽い変性意識状態が続き、短期間ですが、この世界に焦点が合わない状態となり、この世界に実感を感じられず、現実味がなく、興味が湧かず、生きずらい思いをしたことがあります。私が在るの状態が続くというのは、想像が付きません。怖いくらいです。私とい意識が薄れ消えそうになるのが、完全に消えてしまうと、どうなるのでしょうか。自分という意識は、肉体から生じたもので、この意識が消えると、誰が自分になるのでしょうか。
どうすれば、自分の内側に深く潜って行くことが出来るのでしょうか、心が想念の源に辿り着けるのでしょうか。真我の光(高次の力)とは何でしょうか。それがどのように働き、どのような結果を生むのでしょうか。キリストの光を感じたことも、白光の世界にも垣間見ましたが、それだけのことでした。自己の意識には、何の変化も起こりませんでした。ただ、波動が高くなり、光が強くなったと言われるようになりましたが。
想念が浮かんでも、どうやって進んで行けばいいのか、想像が付きません。そんなことが出来るのでしょうか。訓練次第でしょうか。
「それ」は、性質や性格は持っていないようです。高次のエネルギーには、性質や性格があり、波動・波長も異なり、それぞれ個性がありますが、「それ」には、そのようなもの、属性がないのではないでしょうか。変性意識状態で自己認識が高次のエネルギーと共にいると、個はどんどん薄れて行き、ただ流されているだけの状態になります。その究極が「それ」かもしれませんね。
輪廻というものは、カルマの影響もあると思うのですが、魂が神と共に、計画的に決めて来て、生まれ変わるのではないでしょうか。ただし、その準備が出来た魂からのようです。地上に強い執着を持ったものは、残留思念として、地表近くに残るようです。
源の原因を見つけ出すことが至難の業であり、それにどのようにして放棄して良いのかも分かりません。源に溶け去るといわれても、これもどのようにすれば、そうなるのか見当も付きません。真我探求は、最終的には、心が真我に溶け去ることを意味していることは、よく分かりました。
至福そのものが、人に至福を授けるのであれば、それはもう人知を超えた、恩寵にによるしかないのですね。人の努力には及ばない、手の届かないもの(至福を授かるのは)なのですね。
人格神は、宇宙のいたる所に存在すると思いますが、すべての人の中に存在するのは、神の子、神性なるものだと思います。そして神の意識は、すべてのものの中に浸透していると思います。すべてのものに生命エネルギー、愛を与えていると思います。
神が創造主を生み出し、その創造主が宇宙を創造し、また神々もエネルギーの形態で生み出したのではないでしょうか。人格神も霊もエネルギーなので、実在ではないでしょうか。宇宙もエネルギーから成り立っているので、実在ではないでしょうか。形態は変化するかもしれませんが。
人格神は、創造主から生み出されたものであるから、いつかは創造主(源)の元に帰って行くかもしれませんね。
自我を鎮め、源に溶け入ることが重要なようです。神は、個を見ることはないと思います。人格神が、個を見るのだと思います。神は、すべて(鉱物、植物、動物)を生かしているだけで、個別に見ることはないと思います。すべてを知っていても。
神の恩寵で心が清らかになると、世界の本性は、ただ実在と知られるというのは、本当だと思います。
真我の光で、心の偏り、癖が破壊、修正され、心が清らかになると、真我に溶け入ることが出来るかもしれませんね。
魂の向上(霊的進化)を目指している者でも、この本から得るものは沢山あります。この本は、数少ない優れた本です。今の仏教徒の人にも、このような素晴らしい本を出版して欲しいものです。個人の魂が存在しないのではなく、個人(自我)が存在しなくなるのです。魂それ自体は別個に存在します。魂そのものは、神の子(神の一部)で、魂が努力・修練して神の子になる必要はありません。ただ言葉上、そう言っているだけです。正確には、自我の向上、心の浄化を意味しています。肉体が活動を停止すれば、この自我も心も消えてなくなります。その意味では、肉体から生じる自己認識は、短い命だと言えます。個我の想念は、魂の外側の層に記憶として残るようです。臨死体験者は、まだ自己意識が肉体に繋がっているので、この層の記憶を見るようです。
自我を消滅させなくても、肉体が滅びれば、自然と自我も消えて行きます。生きている内に、真我を実現することは、自我が消える前に、真我がどのようなものか知るようなものだと思います。自我が真我の中に消えて行くか、そうすることなく消えて行くかの違いに過ぎないと思います。どちらにしても、自我は生き残れませんから。
自我は非実在ですが、魂が非実在として消えることはないと思います。真我だけが残ると言いますが、魂の中心部分が真我だと思います。もっとも純粋で神に近いものと言えると思います。真我として在るは、神の子として在ると同じことだと思います。自己認識が知っているのは、自分のこと、自我のことであり、真我については何も知りません。知りようがありません。
自我が真我を実現することはないと思います。自我と真我は別物ですから。自我が真我を垣間見る(大雑把に知る)ことが出来ても、真我になることはあり得ないことだと思います。
身体と同化する限り、行為の結果に影響され、カルマを積むことはあると思いますが、これも経験を積む、色々と学ぶ為だと思います。生まれ変わる度に、自我は次々に入れ替わりますが、魂は同一です。魂が本体であり、自我は次々に脱ぎ捨てられます。この自我にしがみ付いても無駄だということが言えます。カルマを積まないようにすること自体が不可能であり、それを余り気にすることはないと思います。
想念が起こったその場で、それを完全に消滅させることが、無執着というのであれば、考えることも、判断することも、選択することも出来なくなり、前に進めなくなるのではないでしょうか。その世界で生きて行くのが難しくなる、楽しみや喜びがなくなるのではないでしょうか。感情がなく、生きているのかしんでいるのか分からないような状態になるのではないでしょうか。人間らしさが消えるのではないでしょうか。起こることすべてに、無となるのでは。
真我に焦点をあわせようにも、真我が何か分からないので、合わせようがありません。真我に焦点を合わせたつもりになることは出来るかもしれませんが、それは空想に過ぎないと思います。
真我としての在り方とは、どのように生きて行けばいいのでしょうか。自我の代わりに、真我がこの肉体をコントロールして生きて行くのでしょうか。もはや別人が生きて行くのと同じことになりますが。
先ずは、自己(自我)の波長を真我に合わせることが不可能であり、それが出来てから、新しい考えや言葉や行動が生まれるとしても、それでどのように変わって行くのか想像できないというのが本音です。誰がそれらをするのか。自我か真我か。真我は、まさに未知の生物といった感じがします。言い換えれば、真我であること、それは私にとっては、雲を掴むようなものに思えます。
真我であると、すべてが自然に起こり、上手く行くというのは、本当でしょうか。それは、捉え方解釈の仕方にとって変わるのではないでしょうか。ちょっと理解できません。
無為にして為されるは、私には一生無理でしょう。そうして生きて行ければ、とても素晴らしいことですが。
真我であれば、欲望は湧いて来なくなり、疑いも生まれて来なくなるのでしょうか。また、自己(自我)の判断や選択はあるのでしょうか。すべては、真我が取り仕切るのでしょうか。自己はどこに行くのでしょうか。
真我であることが、至福を実現する唯一の道でしょうか。至福には色々な種類があって良いと思います。人それぞれでいいと思います。外から見ると、とてもそれが本当の至福とは思えなくても、本人が満足していればいいのではないでしょうか。それがその人に出来る最善のことかもしれません。それはそれで、学ぶことはあると思います。
苦悩から解放される唯一の道は、真我を知り、真我として在る事でしょうか。これにも様々な道があっても良いと思います。そこまで達することが出来ない人たちに合った道があっていいと思います。みんながみんな出来る訳はないのですから。早く出来る人もいれば、なかなか出来ない人もいると思います。苦悩からの解放、これを求めて古今東西、多くの求道者達が悟りを求めて人生をかけて来たと思います。ほとんどの人は、それを成し遂げることなく人生を終えたと思います。それはそれで尊いことだと思います。
心の本質について、絶えず探求することが真我探求で、それによって私(自我)がそれに変容するでしょうか。真我探求を続けても、真我に到達しなければ、それにも到達できず、それに変容することはいでしょう。真我、それ、2つとも不思議な存在と言ってもいいのではないでしょうか。
マハルシのレベルの覚醒を求めなくてもいいのではないでしょうか。何か息が詰まりそうで付いていけません。もっと人間らしく生きてもいいのではないでしょうか。そうしないと、人間の価値が下がるのでしょうか。喜怒哀楽を感じ、成功や失敗を重ねながら(人間関係に悩み)、人生を生きて行くのも一つの道だと思います。
『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』の内容についての続きの感想をここに載せます。
「7 ジニャーニは世界をどう見てるか」
「幸福になりたいという願望に依存」し、「私は在る」という感覚」に基づいている、と言う時の「私は在る」の意味は狭義の意味の様で、自己認識がある、感じられるということでしょう。
ジニャーニが認識する時、「見る主体も」「見られる対象物も」なく、ただ「見る」ことだけがある、というのは、どういうことでしょうか。「「見る」ことだけがある」とすると、誰が何が見る、誰が何が認識するのでしょうか。「感覚の能力」の「解釈よりも以前」にあるとは、どういうことでしょうか。人が、感覚を通して対象物を認識するよりも前に、ジニャーニは対象物を認識しているということでしょうか。「偽者」を「偽物」と見るとは、どういうことでしょうか。
「分割されていないヴィジョンの中」で、物理的には「見る者」と「見られる者」は「共に対象物」であり、「意識の機能それ自身」が「意識の中」に単に「結果を生み出して」いるだけを「認識」している。ということは、この物理的な世界を別な視点から見ているということになる。つまり、この世界全体を見渡している意識、自己意識があるということになるのでは。俯瞰して見ているのでは。
「結果を生み出すこと」と「認識の両方」が「意識」によって、「意識の中」で為される、という表現は分かりにくいです。
「対象的どんな質も持たず」に見ること、それが「束縛からの自由」で、「私は見るが、私は見ない」ということらしい。対象を見ても、それに反応しないといこと、心を対象物に残さない、留めないといことでしょうか。それならば、対象物を見ても、それに捉われることはないでしょう。
8 真理の証明
「真理」は、「時間と空間」を「越えて」いなければならない、というのは本当だと思います。時間や空間によって、変わっていれば、それはもはや真理とは呼べませんから。
『私は在る』の「存在の感覚」が「唯一の真理」であるというのはデカルトの言葉によく似ています。「実存」は「永遠で無限ではない」というのは、本当だと思います。「私は在る」は、肉体と共に消え去るからです。「私は在る」は、この世界においてだけです。
「真理」には「対象的なことは何もなく」、「純粋に主体性」だからとあるが、「純粋に主体性」とはどういうことでしょうか。真理とは概念であり、真理そのものが存在する訳ではないと思います。それ故、真理を具体的に言い表すことが出来ないのだと思います。
「感覚的に認識されない永遠で無限のもの」が「私達の本質」とは、どういうことだろうか。私(心)
は、肉体から生じるもので、感覚的で認識できる有限のものである。それがそうではないとは。私の本質とは、一体何なんだろうか。真我、または魂のことを言っているのだろうか。ほとんどの人が、真我に触れることなく、肉体と共に消え去っている。人の本質を知ることなく、たとえ知り得てとしても、肉体と共に消え去る運命にある。心は消え去り、真我のみが残ることになる。
9 あなたはラーマ、私はラーマ
「自己の知識、自己の本質の知識」を得たとしても、それは一時的で、肉体が滅びれば、当然脳もなくなり、私(心)を消えるので、すべてそれらの知識は消え去ってしまうことになる。
「存在の感覚を与えている意識」は、肉体の発生により生じたものであるが、「プラーナ(生命力)」については、初めて出て来た言葉である。このプラーナは、創造主からやって来ているエネルギーのことをいっているのか、気のようなものをいっているのか不明です。「肉体が存在する前」の「私」は、まだ肉体を持っていないので、「私」という意識は存在していない。それ故、「私」は何者でもなかったことになる。「肉体が解体」すると、「私」という意識は、消えてなくなる。肉体と共に「私(自我)」が生まれ、肉体の死と共に「私(自我)」が死ぬことになる。
10 想像の中のイメージ
「二元論的区別の機能」が「原罪」でしょうか。「二元論」が「束縛」を生じさせるのは分かります。「自分」と「他人」という区別。これによって、観点が異なり、異なる意見が生まれて来る。それぞれが思う観念が出来上がって来ると。「束縛からの解放」は、「自分」と「他人」という「観念」の「解放」ということになるらしい。この観念の解放は、なかなか難しいものがある。自分と他人との区別は、幼いころから始まり、大人になってもずっと続いている思考の癖になっている。解決の方法は、「注意を主体的根源に向けること」となっているが、「主体的根源」とは何でしょうか。特に「根源」とは。主体とは自己のことであり、その根源となると、私(心)の発生元は、肉体であり、そこから生まれたのが自我である。ここでは、これとは合っていないようなので、別な意味を指していると思われる。
肉体と心が「生まれる以前」の「自分達の姿」に注意を「戻す」ように言っているが。「生まれる以前」には、私という意識、自己認識はなく、それ故、「自分達の姿」も存在しないことになります。時々、矛盾が生じて来て困惑します。肉体から私(心)という意識が生まれると説明しながら、その前のことを問われても、何もない、存在しないとしか答えようがありません。それとも、真我があるというのでしょうか。真我があっても、自我が真我に到達できなければ、意味がありません。
「全体的に見る」のは、何が見るのですか。私(自我)が見るのですか。「内側から見る」「源泉」から見ることと言っていますが、それが出来るでしょうか。そうしようと思っても、普通の人には出来ないのではないでしょうか。言葉としては素晴らしいのですが、現実には非常に難しいことです。それが出来れば、真我にも到達できると思います。
「すべての源泉から見る」と、「完全な認識」「正しく見ること」「直観的な理解」があるというが、「すべての源泉から見る」ことが、至難の業になるのです。それはもはや、悟りの境地から見ているのと同じではないでしょうか。理性や知性を使って、物事を冷静に客観的に見て、その上で合理的な判断を下すのが、普通の人が出来る精一杯のことではないでしょうか。「熟考と瞑想」は重要なことですが、それによって、「源泉から見る」ことが、出来るようには思いません。
12 顕現は夢である
「絶対的非現象」が何をさしているのか、よく分かりませんが、それがあるとして、それは肉体から生じる「意識」が起こり、『私は在る』が起こるまで、「その気づき」に「気づかず」というのは、どういうことでしょうか。「その気づき」の主語は、「絶対的非現象」であり、それに続く内容に気づかず、となります。その後、「全体」が「二元性」へと「分裂」とありますが、この「全体」とは、何を指しているのでしょうか。前文の内容全部のことでしょうか。そして「宇宙の現象」が起こるということでしょうか。かなり難しい内容になっているので、一回聞いただけでは理解するのは無理でしょう。
「意識」はどんな「客観的質もない観念」に過ぎないと言うのは。「意識」は「観念」であるというのは分かるが、「客観的質もない」とは、どういうことだろうか。「意識」は「現象的実存」も持っていない。ということは、現象面でも存在していないことを言いたいのだろうか。
「分離した偽実体も存在しない」とは、人間のことを指しているのだろうか。「意識は観念にすぎない」というのは、意識そのもは存在しない。

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あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え 単行本(ソフトカバー) – 2005/12/1
デーヴィッド・ゴッドマン
(編集),
福間 巖
(翻訳)
ユング、ガンジーが敬愛した20世紀最大の覚者!
「悟り」「意識の覚醒」「真我探究」における必読書!
「私とは誰か?」という普遍的な問いを真正面から捉え、
“意識だけが唯一実在する真理である"という教えを、
さまざまな問題における彼の観点を要約した質疑応答の形式で紹介しています。
「心が静まれば、世界全体が静まる。心がすべての原因である。
それが静まれば、本来の自然な状態はひとりでに現れるだろう。」
第一部 真我 The Self
第1章 真我の本性
第2章 真我の自覚と無知
第3章 ジニャーニ(賢者)
第二部 探究と明け渡し Enquiry and Surrender
第4章 真我探究―理論
第5章 真我探究―実践
第6章 真我探究―間違った認識
第7章 明け渡し
第三部 グル The Guru
第8章 グル
第9章 沈黙とサットサン
第四部 瞑想とヨーガ Meditation and Yoga
第10章 瞑想と集中
第11章 マントラとジャパ
第12章 世界の中で生きる
第13章 ヨーガ
第五部 体験 Experience
第14章 サマーディ
第15章 幻影と超能力
第16章 困難と体験
第六部 理論 Theory
第17章 創造の理論と世界の実在性
第18章 輪廻転生
第19章 神の本質
第20章 苦しみと道徳
第21章 カルマ、運命、自由意志
〈特別収録〉
私は誰か? Who am I?
「悟り」「意識の覚醒」「真我探究」における必読書!
「私とは誰か?」という普遍的な問いを真正面から捉え、
“意識だけが唯一実在する真理である"という教えを、
さまざまな問題における彼の観点を要約した質疑応答の形式で紹介しています。
「心が静まれば、世界全体が静まる。心がすべての原因である。
それが静まれば、本来の自然な状態はひとりでに現れるだろう。」
第一部 真我 The Self
第1章 真我の本性
第2章 真我の自覚と無知
第3章 ジニャーニ(賢者)
第二部 探究と明け渡し Enquiry and Surrender
第4章 真我探究―理論
第5章 真我探究―実践
第6章 真我探究―間違った認識
第7章 明け渡し
第三部 グル The Guru
第8章 グル
第9章 沈黙とサットサン
第四部 瞑想とヨーガ Meditation and Yoga
第10章 瞑想と集中
第11章 マントラとジャパ
第12章 世界の中で生きる
第13章 ヨーガ
第五部 体験 Experience
第14章 サマーディ
第15章 幻影と超能力
第16章 困難と体験
第六部 理論 Theory
第17章 創造の理論と世界の実在性
第18章 輪廻転生
第19章 神の本質
第20章 苦しみと道徳
第21章 カルマ、運命、自由意志
〈特別収録〉
私は誰か? Who am I?
- ISBN-104931449778
- ISBN-13978-4931449770
- 出版社ナチュラルスピリット
- 発売日2005/12/1
- 言語日本語
- 本の長さ429ページ
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商品の説明
著者について
デーヴィッド・ゴッドマン(編集)
1953年、英国生まれ。
76年以来シュリー・ラマナアシュラマム周辺に暮らす。
アーシュラム発行の季刊誌“The Mountain Path"の編集、執筆、そしてアーシュラム図書館の設立、運営に従事した。
その後『あるがままに』を筆頭に、シュリー・ラマナ、彼の教え、彼の直弟子たちに関する13冊の本を著作、編集する。
また、プンジャジ、ラクシュマナ・スワミ、ニサルガダッタ・マハラジといった
現代において最も傑出したアドヴァイタの師のもとで長い年月をともにした
1953年、英国生まれ。
76年以来シュリー・ラマナアシュラマム周辺に暮らす。
アーシュラム発行の季刊誌“The Mountain Path"の編集、執筆、そしてアーシュラム図書館の設立、運営に従事した。
その後『あるがままに』を筆頭に、シュリー・ラマナ、彼の教え、彼の直弟子たちに関する13冊の本を著作、編集する。
また、プンジャジ、ラクシュマナ・スワミ、ニサルガダッタ・マハラジといった
現代において最も傑出したアドヴァイタの師のもとで長い年月をともにした
登録情報
- ASIN : 4931449778
- 出版社 : ナチュラルスピリット (2005/12/1)
- 発売日 : 2005/12/1
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 429ページ
- ISBN-10 : 4931449778
- ISBN-13 : 978-4931449770
- Amazon 売れ筋ランキング: - 218,273位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 15位チベット・インド密教
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マハルシの教えは、素晴らしいので、是非Kindleでも出版していただきたい。
本当に良い本はKindleとしてずっと残るようにしたい。
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2020年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても考えさせられる素晴らしい本です。
表紙を見ているだけで癒されるパワーがあります。
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2019年4月22日に日本でレビュー済み
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ラマナマハルシとの対話集や不滅の意識にない、デヴィッドゴッドマン氏の説明が非常に役立った。感謝です。
2015年5月17日に日本でレビュー済み
江戸幕府が慶長18年(1613年)に制定した修験道法度によれば、修験道は真言宗系の当山派か天台宗系の本山派に所属しなければならない。つまり、修験道は大乗仏教の密教修行の一つである。本書のマハルシ師の説明には山岳密教で学ぶ内容と一致するものが多く、密教教義の源流がバラモン教(これを欧米人がヒンドゥー教と命名)であったことが分かる。そのバラモン教の教義や実践方法における課題を解決したのがブッダ釈尊である。
マハルシ師の在世当時に、<釈尊の教法の真義>は失われていたが、釈尊の教法と同じ事を述べている箇所が多い。従って、マハルシ師の教えを理解する上で、釈尊に学ぶことは参考になる。
***
最初に、釈尊が指導された以下の各Stepを知ることが参考になる。
【第1 Step】因果業報(善因楽果・悪因苦果)の道理を説く。凡夫が「邪見(=因果の道理を否定すること)」の除去に気づく段階(次の三項目に合点がいく段階)である。
(A) 施与慈善の話(施論)、(B) 戒律道徳の話(戒論)、(C) 幸福な天国に生まれる話(生天論)
【第2 Step】因果の道理を正しく信ずる段階(随信行)で始まる「欲の禍患と離欲の功徳」を説く。凡夫が自己中心的な「我見」を離れることに気づく段階である。
【第3 Step】この段階で初めて<釈尊の教法の真義(釈尊の転法輪)>を説く。
(D) 「三結」を断じて第一段階の聖者「預流」に進化する。ただし、飛び級あり。
(E) 「五下分結」を断じて第三段階の聖者「不還」に進化する。ただし、飛び級有り。
上記第3 Stepで学ぶ<釈尊の教法の真義>とは、「凡夫が聖者になり、聖者は釈尊と同等のブッダ(阿羅漢)になる」ことである。その聖者とは「凡夫の心」に「ブッダの心」が共存する者である。「凡夫の心」である「欲界の痴」が、「ブッダの心」である「欲界の智」に置き換われば、第一段階の聖者「預流(シュダオン)」に進化する。この「預流」にならなければ<釈尊の教法の真義>は絶対に理解出来ないのである。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。「ブッダの心」が「凡夫の心」に染み込む心の量子トンネル現象は、「欲界の痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」に気づいた瞬間に始まる。「身見」は『私』および『私のもの』という自尊心(自己中心の思い込み)のこと、「身見」に迷うことで生じる「疑惑」は「懐疑心・偽善心に基づく失敗への怖れや不安(焦燥感)」のこと、「身見」に頼ることで生じる「戒取」は「古い固定観念(迷信や過った先入観)」を絶対視することである。一旦、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、やがて「戒取」がもたらした「欲界の貪ぼり(欲貪)」と「疑惑」がもたらした「欲界の怒り(瞋恚)」が減少して第二段階の聖者「一来(シダゴン)」となる。さらに、「欲界の貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者「不還(アナゴン)」になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
***
以上を理解すれば、マハルシ師の言葉と釈尊の教義の一致点が見えて来る。本書における、マハルシ師のとても重要な対話に、私のコメント(⇒)を述べる。
【引用1】「私」という想念が起こった後に、身体、感覚、心といった鞘との偽りの同一化が起こる。(p.132)
⇒これは釈尊の「四念処法」である。「私」という想念と「身体」の同一化を断つのが「身念処」、「私」という想念と「感覚」の同一化を断つのが「受念処」、「私」という想念と「心」の同一化を断つのが「心念処」、「私」という想念を断つのが「法念処」に対応する。現代の仏教教義は<釈尊の教法の真義>を理解していないので、「四念処法」の意味、特に「法念処」の意味を誤解している。
【引用2】もし「私がジャパしている」という感覚が無ければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。もし「私がジャパしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼に付きまとうだろう。「私がこれをしている」という感覚が無くなった時、何もその人に影響を与えるものはない。(p.384)
⇒「身見」を断ずることで悪業は消える。これこそが殺人鬼アングリマーラ(指の首飾り)が、釈尊の指導により阿羅漢の聖者となった理由である。
【引用3】もしあなたが身体ではないなら、そして「私が行為者である」という観念を持たないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることは無いだろう。身体と同一化する限り、あなたは行為の結果に影響されるだろう。つまり、身体と同一化している限り、あまたは善と悪のカルマを積んでいるのである。(p.383)
⇒この部分を読んで、『沙門果経』が言及する「六師外道」に対する記述を鵜呑みにしてはいけないことに気づいた。
道徳否定論者とされたプーラナ・カッサパは「悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もない。」と教えた。しかし、カッサパの主張の根拠が「真我探究」だとすれば、上記引用したマハルシ師の教えと同じであり、間違ったことを述べている訳では無い。
サーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)の師匠であり、懐疑論者とされたサンジャヤ・ベーラッティプッタは、「来世があるのか」という問いに対し、「来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない」と論じたという。これは「四句分別」という全てを網羅する当時の論理的思考の一般的表現である。つまり、「来世を考える事は無意味だ」と述べているのだから、釈尊と趣旨は一緒である。
マハルシ師の在世当時に、<釈尊の教法の真義>は失われていたが、釈尊の教法と同じ事を述べている箇所が多い。従って、マハルシ師の教えを理解する上で、釈尊に学ぶことは参考になる。
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最初に、釈尊が指導された以下の各Stepを知ることが参考になる。
【第1 Step】因果業報(善因楽果・悪因苦果)の道理を説く。凡夫が「邪見(=因果の道理を否定すること)」の除去に気づく段階(次の三項目に合点がいく段階)である。
(A) 施与慈善の話(施論)、(B) 戒律道徳の話(戒論)、(C) 幸福な天国に生まれる話(生天論)
【第2 Step】因果の道理を正しく信ずる段階(随信行)で始まる「欲の禍患と離欲の功徳」を説く。凡夫が自己中心的な「我見」を離れることに気づく段階である。
【第3 Step】この段階で初めて<釈尊の教法の真義(釈尊の転法輪)>を説く。
(D) 「三結」を断じて第一段階の聖者「預流」に進化する。ただし、飛び級あり。
(E) 「五下分結」を断じて第三段階の聖者「不還」に進化する。ただし、飛び級有り。
上記第3 Stepで学ぶ<釈尊の教法の真義>とは、「凡夫が聖者になり、聖者は釈尊と同等のブッダ(阿羅漢)になる」ことである。その聖者とは「凡夫の心」に「ブッダの心」が共存する者である。「凡夫の心」である「欲界の痴」が、「ブッダの心」である「欲界の智」に置き換われば、第一段階の聖者「預流(シュダオン)」に進化する。この「預流」にならなければ<釈尊の教法の真義>は絶対に理解出来ないのである。
凡夫を聖者にするのは、『心の量子トンネル現象』である。「ブッダの心」が「凡夫の心」に染み込む心の量子トンネル現象は、「欲界の痴」=「身見+疑惑+戒取」=「三結(三煩悩)」に気づいた瞬間に始まる。「身見」は『私』および『私のもの』という自尊心(自己中心の思い込み)のこと、「身見」に迷うことで生じる「疑惑」は「懐疑心・偽善心に基づく失敗への怖れや不安(焦燥感)」のこと、「身見」に頼ることで生じる「戒取」は「古い固定観念(迷信や過った先入観)」を絶対視することである。一旦、『心の量子トンネル現象』が開始すれば、その影響が継続し、やがて「戒取」がもたらした「欲界の貪ぼり(欲貪)」と「疑惑」がもたらした「欲界の怒り(瞋恚)」が減少して第二段階の聖者「一来(シダゴン)」となる。さらに、「欲界の貪・瞋・痴」=「身見+疑惑+戒取+欲貪+瞋恚」=「五下分結」が消滅すれば第三段階の聖者「不還(アナゴン)」になる。「不還」になれば、欲界との縁が切れるので、人間界(欲界)への輪廻転生はない。欲界との縁が切れた「不還」は、間もなく、第四段階の聖者「阿羅漢」(=第一段階のブッダ)になる。
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以上を理解すれば、マハルシ師の言葉と釈尊の教義の一致点が見えて来る。本書における、マハルシ師のとても重要な対話に、私のコメント(⇒)を述べる。
【引用1】「私」という想念が起こった後に、身体、感覚、心といった鞘との偽りの同一化が起こる。(p.132)
⇒これは釈尊の「四念処法」である。「私」という想念と「身体」の同一化を断つのが「身念処」、「私」という想念と「感覚」の同一化を断つのが「受念処」、「私」という想念と「心」の同一化を断つのが「心念処」、「私」という想念を断つのが「法念処」に対応する。現代の仏教教義は<釈尊の教法の真義>を理解していないので、「四念処法」の意味、特に「法念処」の意味を誤解している。
【引用2】もし「私がジャパしている」という感覚が無ければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。もし「私がジャパしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼に付きまとうだろう。「私がこれをしている」という感覚が無くなった時、何もその人に影響を与えるものはない。(p.384)
⇒「身見」を断ずることで悪業は消える。これこそが殺人鬼アングリマーラ(指の首飾り)が、釈尊の指導により阿羅漢の聖者となった理由である。
【引用3】もしあなたが身体ではないなら、そして「私が行為者である」という観念を持たないなら、善業と悪業の結果があなたに影響を与えることは無いだろう。身体と同一化する限り、あなたは行為の結果に影響されるだろう。つまり、身体と同一化している限り、あまたは善と悪のカルマを積んでいるのである。(p.383)
⇒この部分を読んで、『沙門果経』が言及する「六師外道」に対する記述を鵜呑みにしてはいけないことに気づいた。
道徳否定論者とされたプーラナ・カッサパは「悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もない。」と教えた。しかし、カッサパの主張の根拠が「真我探究」だとすれば、上記引用したマハルシ師の教えと同じであり、間違ったことを述べている訳では無い。
サーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)の師匠であり、懐疑論者とされたサンジャヤ・ベーラッティプッタは、「来世があるのか」という問いに対し、「来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない」と論じたという。これは「四句分別」という全てを網羅する当時の論理的思考の一般的表現である。つまり、「来世を考える事は無意味だ」と述べているのだから、釈尊と趣旨は一緒である。