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三島由紀夫と司馬遼太郎 (新潮選書) 単行本(ソフトカバー) – 2010/10/25
松本 健一
(著)
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- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2010/10/25
- ISBN-104106036673
- ISBN-13978-4106036675
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2010/10/25)
- 発売日 : 2010/10/25
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 237ページ
- ISBN-10 : 4106036673
- ISBN-13 : 978-4106036675
- Amazon 売れ筋ランキング: - 400,755位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 60,204位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2015年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は司馬遼太郎ファンで、この40年間以上読み続け。多分、全集はもちろんあらゆる出版物を読んだだけでなく、街道をゆくで司馬さんが訪ねた場所や作品に関わる場所のほとんどを訪ねたことがあります。そして今もそれらが続いています。そんな私が、この作品を読んで私の心に残る色々な文章が参考にあげられ、松本さんの分析に納得する事が多々あり面白く読ませて頂きました。ただ、残念な事に、私は、受験時代の教室で、英語の教師から三島由紀夫の割腹自殺の知らせを聞いてから、三島由紀夫の作品を読んでいませんでした。最近、吉田松陰の日記などの関連を読んでいると、三島由紀夫の顔が松蔭とダブルように脳裏に現れるようになり気になっていたところでした。そんな理由で本作品に出会え嬉しく思います。三島由紀夫作品を、40年ぶりに読み始めたくなりました。
2013年7月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者は司馬遼太郎と三島由紀夫の両者について極めて客観的な分析を行っているが
実のところ、筆者は三島由紀夫の方に共感を寄せている。
しかし、三島が絶望や死を望んで望んで、乃木のように
ロマンチストとして自ら死を選んだことはやはり哀しい。
「罪と罰」のラスコーリニコフと三島がダブって見えてくる。
とても示唆に富んだ評論である。第一級の評論。
実のところ、筆者は三島由紀夫の方に共感を寄せている。
しかし、三島が絶望や死を望んで望んで、乃木のように
ロマンチストとして自ら死を選んだことはやはり哀しい。
「罪と罰」のラスコーリニコフと三島がダブって見えてくる。
とても示唆に富んだ評論である。第一級の評論。
2015年9月21日に日本でレビュー済み
旅の先々で「〜が美しい」とか「〜の街並は素晴らしく」などは無数にあっても、
この本の副題である「美しい日本」的な(あまり内容の無いときに使うフレーズ)ことばを、
司馬さんが口にするだろうかと疑問。
つまり、「美しい日本」というのは表層的すぎて、
この二人の文士には適さないように思われる。
また、司馬は小説家であるからには三島作品を読んだだろうし、
その逆もあるかもしれないけれど、どちらにしても激突はありえないし、
お互いに波長が合わない程度の感覚しかなかったのでは。
この本の副題である「美しい日本」的な(あまり内容の無いときに使うフレーズ)ことばを、
司馬さんが口にするだろうかと疑問。
つまり、「美しい日本」というのは表層的すぎて、
この二人の文士には適さないように思われる。
また、司馬は小説家であるからには三島作品を読んだだろうし、
その逆もあるかもしれないけれど、どちらにしても激突はありえないし、
お互いに波長が合わない程度の感覚しかなかったのでは。
2020年8月29日に日本でレビュー済み
三島由紀夫と司馬遼太郎、面白い対比だ。焦点を絞ったストーリー展開ではなく、あちこちに話題が飛ぶので読むのに疲れるが、二人の特徴を抉り出して対比させてくれて興味深い本だった。
1970年11月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで自決した。翌日の『毎日新聞』に司馬遼太郎は批判文を書いた。「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。」司馬は柔和な人だが、三島の異常な死に方が「精神異常者が異常を発した」ものであるかのように、また三島の死さえもが「薄よごれた」ものであるかのように読めるので、司馬の意図した効果ではないかと著者は言う。
三島はロマン主義者で作品も『金閣寺』のように芸術至上主義的な作品が多い。一方の司馬はリアリストでロマン主義に対して常に距離を置こうとした。正岡子規はその文芸の方法を「写生」つまりリアリズムに置いた。従って司馬は子規が好きだった。司馬が子規を扱った作品は、『坂の上の雲』を始めとして数多くある。三島の文学が基本的に「私をみてくれ」という近代文学だったのに対して、司馬の作品は「彼をみてくれ」であり、『坂の上の雲』に即していうと「彼等」の物語ということになる。
司馬の代表的な小説『坂の上の雲』では日露戦争観それ自体が司馬の「仮構」であると著者は言う。それに気付いたのは、一つは司馬の「軍神」乃木希典に対する徹底した批判であり、もう一つは日露戦争における明治天皇の影を司馬が徹底的に排除したことだった。乃木希典の戦争の下手な「愚将」像については評者もその本を読んだ時に不自然さを感じたし、福田恆存始め何人かが異論を唱えている。司馬は日露戦争を「天皇の戦争」と捉えたくなかったこと、『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとしたこと、これは司馬の「仮構」に他ならない。
陽明学に関して、三島は「革命哲学」と一言で表現しているが、司馬はこれが「いわば秩序の支配者にとっては恐るべき思想」であり、学問というより「宗教」という方が近いと表現した。二人が言っている内容はほぼ同じだが、三島は陽明学を全的に肯定し、司馬はこれを否定的に捉えたのである。この肯定と否定とが、1970年11月25日に際して激突したのであり、翌日の司馬の文章は行動主義の陽明学に対する批判であり、もっと言えば、陽明学を全的に肯定した三島への批判だった。
著者は2005年から2006年にかけて、全60回にわたってビジュアル版「司馬遼太郎『街道をゆく』」の解説を書いたことによって始めて気付いたことがあった。全43巻の『街道をゆく』には「天皇の物語」が無いことである。天皇との因縁の深い地がいろいろあったにも拘らずである。これは何を意味するかを著者は考え、そのシリーズの第一回が始まったのが三島由紀夫の自決直後である事実に気付いたのである。かくて「三島由紀夫と司馬遼太郎」という対立構図の中に、彼等二人の「戦後」、いや、二つの「日本」が激突しているのを見たのである。陽明学一つとっても二人の評価の仕方は180度異っていた。
1970年11月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、「天皇陛下万歳!」と叫んで自決した。翌日の『毎日新聞』に司馬遼太郎は批判文を書いた。「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く。」司馬は柔和な人だが、三島の異常な死に方が「精神異常者が異常を発した」ものであるかのように、また三島の死さえもが「薄よごれた」ものであるかのように読めるので、司馬の意図した効果ではないかと著者は言う。
三島はロマン主義者で作品も『金閣寺』のように芸術至上主義的な作品が多い。一方の司馬はリアリストでロマン主義に対して常に距離を置こうとした。正岡子規はその文芸の方法を「写生」つまりリアリズムに置いた。従って司馬は子規が好きだった。司馬が子規を扱った作品は、『坂の上の雲』を始めとして数多くある。三島の文学が基本的に「私をみてくれ」という近代文学だったのに対して、司馬の作品は「彼をみてくれ」であり、『坂の上の雲』に即していうと「彼等」の物語ということになる。
司馬の代表的な小説『坂の上の雲』では日露戦争観それ自体が司馬の「仮構」であると著者は言う。それに気付いたのは、一つは司馬の「軍神」乃木希典に対する徹底した批判であり、もう一つは日露戦争における明治天皇の影を司馬が徹底的に排除したことだった。乃木希典の戦争の下手な「愚将」像については評者もその本を読んだ時に不自然さを感じたし、福田恆存始め何人かが異論を唱えている。司馬は日露戦争を「天皇の戦争」と捉えたくなかったこと、『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとしたこと、これは司馬の「仮構」に他ならない。
陽明学に関して、三島は「革命哲学」と一言で表現しているが、司馬はこれが「いわば秩序の支配者にとっては恐るべき思想」であり、学問というより「宗教」という方が近いと表現した。二人が言っている内容はほぼ同じだが、三島は陽明学を全的に肯定し、司馬はこれを否定的に捉えたのである。この肯定と否定とが、1970年11月25日に際して激突したのであり、翌日の司馬の文章は行動主義の陽明学に対する批判であり、もっと言えば、陽明学を全的に肯定した三島への批判だった。
著者は2005年から2006年にかけて、全60回にわたってビジュアル版「司馬遼太郎『街道をゆく』」の解説を書いたことによって始めて気付いたことがあった。全43巻の『街道をゆく』には「天皇の物語」が無いことである。天皇との因縁の深い地がいろいろあったにも拘らずである。これは何を意味するかを著者は考え、そのシリーズの第一回が始まったのが三島由紀夫の自決直後である事実に気付いたのである。かくて「三島由紀夫と司馬遼太郎」という対立構図の中に、彼等二人の「戦後」、いや、二つの「日本」が激突しているのを見たのである。陽明学一つとっても二人の評価の仕方は180度異っていた。
2021年10月21日に日本でレビュー済み
戦後日本の二大巨頭といってもよい司馬遼太郎と三島由紀夫の思想や性向の違いを分析し、戦後日本に対する二人の姿勢の違いと共通点を浮き彫りにさせる、興味深くも面白い本。
司馬がリアリストであったのに対し、三島はロマン主義者であったとする。それはイメージ通りではあるのだけれども、「司馬=リアリスト」「三島=ロマン主義者」と完全に括れない点があることも記されており、面白いし、目配りが利いていると思う。
すなわち、戦後日本に対する憤慨であったり、違和感であったという点で両者には共通している点がある。
例えば、司馬は基本的には戦後日本を認める姿勢であるとは本書にも書かれているが、土地投機等については極めて批判的であったことはご承知おきのとおりであろう。
とはいえ、ざっくりいえば、両者は対称的ではあった。
そういう二人であるからこそ、陽明学に対する姿勢という面にも展開しうるのであり、戦後日本における両者の位置づけも知ることができる。
ごくごく気軽な気分で両御所のファンは読めばいいと思うし、松本健一氏の著作全体にいえることだが、比較的簡易な文体で書かれているので、読み進めやすい。
重々しく戦後日本を考察する一資料ともなり得ると思うし(司馬と三島との対比って、彼らの功績に比べれば少ないと思う)、どんな読み方でもよいが、私は充分に楽しめた。
司馬がリアリストであったのに対し、三島はロマン主義者であったとする。それはイメージ通りではあるのだけれども、「司馬=リアリスト」「三島=ロマン主義者」と完全に括れない点があることも記されており、面白いし、目配りが利いていると思う。
すなわち、戦後日本に対する憤慨であったり、違和感であったという点で両者には共通している点がある。
例えば、司馬は基本的には戦後日本を認める姿勢であるとは本書にも書かれているが、土地投機等については極めて批判的であったことはご承知おきのとおりであろう。
とはいえ、ざっくりいえば、両者は対称的ではあった。
そういう二人であるからこそ、陽明学に対する姿勢という面にも展開しうるのであり、戦後日本における両者の位置づけも知ることができる。
ごくごく気軽な気分で両御所のファンは読めばいいと思うし、松本健一氏の著作全体にいえることだが、比較的簡易な文体で書かれているので、読み進めやすい。
重々しく戦後日本を考察する一資料ともなり得ると思うし(司馬と三島との対比って、彼らの功績に比べれば少ないと思う)、どんな読み方でもよいが、私は充分に楽しめた。
2010年10月25日に日本でレビュー済み
三島由紀夫と司馬遼太郎と言えば、根強い人気を没後も誇る作家として知られている。本書はこの二人を比較・対照させて論じたものであるが、成功しているかと言えばそうとは言い切れない。
三島は司馬について、司馬は三島について、言及することがあまりなかった。著者はこのことに過剰な意味づけを与えているように思われる。つまり、それは、互いが互いに対して批判的であったことの証拠として。しかし、司馬は三島に、三島は司馬に、単に無関心だったのかもしれないという、有りうべき可能性を著者は顧慮しないのである。問題設定に強引さを感じざるを得ない。
ここの記述は、非常に興味ふかく面白いが、三島と司馬とを比較して、さあ何が見えてくるのか、この点については明確なものがなかった。文章は読みやすく、引用されるテクスト、紹介されるエピソードは面白かった。息抜きの読書にはぴったりである。
三島は司馬について、司馬は三島について、言及することがあまりなかった。著者はこのことに過剰な意味づけを与えているように思われる。つまり、それは、互いが互いに対して批判的であったことの証拠として。しかし、司馬は三島に、三島は司馬に、単に無関心だったのかもしれないという、有りうべき可能性を著者は顧慮しないのである。問題設定に強引さを感じざるを得ない。
ここの記述は、非常に興味ふかく面白いが、三島と司馬とを比較して、さあ何が見えてくるのか、この点については明確なものがなかった。文章は読みやすく、引用されるテクスト、紹介されるエピソードは面白かった。息抜きの読書にはぴったりである。
2011年6月1日に日本でレビュー済み
魅力ある書名である。水と油ほど異なる二大国民作家を並べてどう論じられるのか、興味津々に読み始めた。三島が自決した時、司馬はこの事件が社会に影響を及ぼすことを憂慮する一文を発表した。この中で、司馬は思想と現実を峻別することを説いた。かたや思想に殉じた三島。リアリストとロマンチストとの二人の相違を際立たせる書き出しをもって本書は始まる。この書き出しに期待感はふくらんだ。
二人の話題を交互に取り上げて、そこに著者の個人史を絡ませる。しかし、相互の話題は並行したまま進行し、絡みあうことも論として発展することもない。そして、やたら著者は自らの業績の自慢を繰り返す。これには辟易した。結局残るのはエピソードの断片だけで、著者がこのテーマで何か著わしたいことがあったとはとても思えない。
だが、ひとつだけ印象に残った指摘があった。司馬が書き継いだ紀行の『街道をゆく』の中で、天皇に言及されることは一度もないという。私も『街道をゆく』は愛読しているが、この指摘にはハッとさせられた。日本の歴史と文化を論じて膨大な量のエッセイに天皇が出てこないというのは、ある意味で非常にユニークなことだ。しかもそのことにまったく違和感がないのである。そう言えば、小説の中で明治天皇や昭和天皇が登場する時も天皇としてではなく、あくまで一人の人間として描写されているように思う。
著者のこの指摘は指摘だけに終わってこれをもって論は発展していかないが、司馬文学を解くひとつの重要なカギであるように思った。
二人の話題を交互に取り上げて、そこに著者の個人史を絡ませる。しかし、相互の話題は並行したまま進行し、絡みあうことも論として発展することもない。そして、やたら著者は自らの業績の自慢を繰り返す。これには辟易した。結局残るのはエピソードの断片だけで、著者がこのテーマで何か著わしたいことがあったとはとても思えない。
だが、ひとつだけ印象に残った指摘があった。司馬が書き継いだ紀行の『街道をゆく』の中で、天皇に言及されることは一度もないという。私も『街道をゆく』は愛読しているが、この指摘にはハッとさせられた。日本の歴史と文化を論じて膨大な量のエッセイに天皇が出てこないというのは、ある意味で非常にユニークなことだ。しかもそのことにまったく違和感がないのである。そう言えば、小説の中で明治天皇や昭和天皇が登場する時も天皇としてではなく、あくまで一人の人間として描写されているように思う。
著者のこの指摘は指摘だけに終わってこれをもって論は発展していかないが、司馬文学を解くひとつの重要なカギであるように思った。
2010年11月16日に日本でレビュー済み
本の表紙に「美しい日本」をめぐる激突とあり、二人の間にどんな激突や対立があったのか、と期待して読んだが実際には生存中には接点がなかったようだ。
司馬遼太郎が三島事件に関して書いた、昭和45年11月26日の毎日新聞朝刊に掲載された批評文「異常な三島事件に接して」を取り上げ、著者が推論を展開していく。
司馬が、三島の自決を「さんたんたる死」と呼び「〜(中略)〜かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と書いた部分を大きく取り上げて、三島を好きではなかった、嫌っていたのでは?と推察している。
三島が自決の際に「天皇陛下万歳」と叫んだ件も、三島よりも2歳年上の司馬は戦車隊小隊長として敗戦を迎え、兵士体験者であったのに対し、三島は病弱で入隊検査をはねられた身で敗戦を迎えた、その違いが肝要であることを暗示。また、三島は革命(西郷隆盛)には興味を抱いたが、政治(大久保利通)には興味がなかった、という点は興味深かった。
二人の兵士としての体験の有無が、彼らの作品や人生観に及ぼした影響を示唆し、司馬は「街道をゆく」シリーズでは、「天皇の物語」を書いていない点を指摘している。
著者は上記の仮説に基づき、二人の作品を通して、相違点を書いているのだが、三島は三島、司馬は司馬で独立して平行線のまま並んでいる。
二人の作家各々の作品に出てくる人物像(西郷隆盛、大久保利通etc)の描き方、取り上げ方から、陽明学、革命・政治に関する思想、文学スタイルの比較も書かれているが、何か無理に二人の作家を結びつけているような感もあった。
二人の作家の各作品の文学論としては面白いかもしれない。
三島事件が司馬作品に与えた影響を、著者が推察して論じている、こういう見方ができるかもしれない、という一方向を示しているともいえる本。
二人とも戦後の日本を憂えていたのは同じ。
三島は特攻隊員になって観念・思想のもと「死にたかった男」であり、自決した。
司馬は大本営参謀からの命令「ひき殺していけ」によって「思想、狂気というものを尊敬しなくなった男」であり、自然な死を迎えた。
この点が二人の男の違いでもあると、著者は述べている。
★の数は、すごく迷った。何をこの本に期待するかによって、評価は分かれると思う。
司馬遼太郎が三島事件に関して書いた、昭和45年11月26日の毎日新聞朝刊に掲載された批評文「異常な三島事件に接して」を取り上げ、著者が推論を展開していく。
司馬が、三島の自決を「さんたんたる死」と呼び「〜(中略)〜かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と書いた部分を大きく取り上げて、三島を好きではなかった、嫌っていたのでは?と推察している。
三島が自決の際に「天皇陛下万歳」と叫んだ件も、三島よりも2歳年上の司馬は戦車隊小隊長として敗戦を迎え、兵士体験者であったのに対し、三島は病弱で入隊検査をはねられた身で敗戦を迎えた、その違いが肝要であることを暗示。また、三島は革命(西郷隆盛)には興味を抱いたが、政治(大久保利通)には興味がなかった、という点は興味深かった。
二人の兵士としての体験の有無が、彼らの作品や人生観に及ぼした影響を示唆し、司馬は「街道をゆく」シリーズでは、「天皇の物語」を書いていない点を指摘している。
著者は上記の仮説に基づき、二人の作品を通して、相違点を書いているのだが、三島は三島、司馬は司馬で独立して平行線のまま並んでいる。
二人の作家各々の作品に出てくる人物像(西郷隆盛、大久保利通etc)の描き方、取り上げ方から、陽明学、革命・政治に関する思想、文学スタイルの比較も書かれているが、何か無理に二人の作家を結びつけているような感もあった。
二人の作家の各作品の文学論としては面白いかもしれない。
三島事件が司馬作品に与えた影響を、著者が推察して論じている、こういう見方ができるかもしれない、という一方向を示しているともいえる本。
二人とも戦後の日本を憂えていたのは同じ。
三島は特攻隊員になって観念・思想のもと「死にたかった男」であり、自決した。
司馬は大本営参謀からの命令「ひき殺していけ」によって「思想、狂気というものを尊敬しなくなった男」であり、自然な死を迎えた。
この点が二人の男の違いでもあると、著者は述べている。
★の数は、すごく迷った。何をこの本に期待するかによって、評価は分かれると思う。