以下チラシの裏で失礼。
確か大学5年か6年の時だったと思います。
文学の冒険の第一回配本にこれがあるのを発見し、当時リョサにハマっていた私は喜び勇んで注文したのですが、その後、延期延期で待てど暮らせど出版されない!
結局2004年に発刊され、ご多分にもれず私も発売直後に入手したのですが、今度はこっちが多忙でなかなか読み進められない!
読んでは止まりで足掛け7年、昨年ついに読了できました。
楽しく読めたのですが、後半は内容的にも訳文のキレもパワーダウン気味に感じられました。カマーチョの失調に伴い、劇中劇の文章が原文でも「荒れて」いるのかもしれませんが、前半の訳文が良いだけに訳の問題であればちょっと残念です。
とはいえ「面白い小説」として自信を持っておすすめできます。
母校生協書籍部の注文、20年過ぎちゃったけど今度キャンセルに行こうか思案中です(笑)

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フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ) 単行本 – 2004/5/1
- 本の長さ475ページ
- 言語日本語
- 出版社国書刊行会
- 発売日2004/5/1
- ISBN-104336035989
- ISBN-13978-4336035981
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
美しきフリア叔母さんと天才シナリオ作家を相手に、小説家志望の大学生である「ぼく」は、恋と芸術に熱中する日々。やがてシナリオ作家の様子がおかしくなり、放送中のドラマが錯綜し始めて…。コミカルな長編小説。
登録情報
- 出版社 : 国書刊行会 (2004/5/1)
- 発売日 : 2004/5/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 475ページ
- ISBN-10 : 4336035989
- ISBN-13 : 978-4336035981
- Amazon 売れ筋ランキング: - 726,760位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 170位スペイン・ポルトガル文学研究
- - 250位スペイン文学
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上位レビュー、対象国: 日本
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2011年10月1日に日本でレビュー済み
主筋である主人公の恋愛物語と脚本家の書いたと思しい短編が交互に進行して長編と短編集を一遍に読んで得した気分になりました。他の方が色々書かれている通りとても面白く、読み応えたっぷりの最高の小説でした。特に傍筋に当たる短編がそれぞれ独立しているのに係わらず、途中から前に登場した人物等が出てきたり、混乱していくところが笑えました。そしてその一編一編が図らずもペルーの路傍の歴史になってるかのようで、さらに一歩ひいて全体を俯瞰すると20世紀ペルーの総体を小説化したようにも見え、一筋縄では行かないところに作者の力量を感じました。主筋の方の話も著者の自伝的な体験になってるそうで、相当の情報量の作品に思えました。
リョサの作品としてはコミカルで異色な作品らしいけど、もっとこういうコメディ小説を書いてもらいたいという読者は決して少数派ではないと思います。もう1度書くけど最高の小説でした。
リョサの作品としてはコミカルで異色な作品らしいけど、もっとこういうコメディ小説を書いてもらいたいという読者は決して少数派ではないと思います。もう1度書くけど最高の小説でした。
2010年5月2日に日本でレビュー済み
一言で言えば、リョサの長編小説「緑の家」「ラ・カテドラルでの対話」「世界終末戦争」と比べると物足りない。
語り手とフリオ叔母さんとの恋愛遊戯もママゴトのようだし、物書き先生が作るラジオ劇場も、どこか作り物じみている。
ポストモダン小説というほどに工夫やひねりはありません。
ラジオ劇場と現実世界が交錯することがほとんどない以上(物書き先生の発狂以外)、
普通の喜劇としてしか読めない。
ユーモアあふれるコメディ小説といったところだろうか。
語り手とフリオ叔母さんとの恋愛遊戯もママゴトのようだし、物書き先生が作るラジオ劇場も、どこか作り物じみている。
ポストモダン小説というほどに工夫やひねりはありません。
ラジオ劇場と現実世界が交錯することがほとんどない以上(物書き先生の発狂以外)、
普通の喜劇としてしか読めない。
ユーモアあふれるコメディ小説といったところだろうか。
2013年6月28日に日本でレビュー済み
ラジオ劇場は、面白く読めた半分、
似たような趣に食傷気味になることも。
フリア伯母さんとの恋もいい香りで、いつまでも包まれるような
引力さは感じず、少し残念。
------------------------------------------------
リョサの使う比喩というのは、
読者のアタマに、何倍にも薄めた劇薬と持続性のあるユーモアが含まれている。
精神を煩ったものが、社会規範の中で、その異常性を抹殺されることなく、
徐々にであるが、確実に周縁にまでそれを広めていき、モラルを蝕んでいく。
そうした、展開を導きだす、短いセンテンスが実に上手く、
占い師からパラノイア、ギリシア悲劇にまで言葉の有用性を探っていき、
それを自由に当てはめていく。
その、ちょっとした緊張感と、非日常的で悪魔的な言葉が、
読者の隠された欲を刺激し、スピード感ある読書体験をもたらす。
これは、南米文学の特徴でもあると思う。
それが、軍人の狂気や性の騒乱に対しても、
私たちは、ただ単に写実的でグロテスクなものを押し付けられているという感じではなく、
そこは、ものの見た目の絶対的な描写に一応、静かに俯瞰しつつも、
おそらく、「そういうものはあるはずだ」という、
未知の想像を掻き立て、理解しようとする。
そして絶妙な比喩で塗られた、短くも効果的なセンテンスによる区切りは、
説得力のある、現実性、小説としての完成度を体感することができ、
難なく物語の世界に入っていけるのである。
グロテスクなものはこうした絶妙な比喩に塗られることで、
人物に対してもおかし味が出て、哀れな生き物として、
認知されていく。
人物たちの払った代償はあまりにも大きいのであるが、
失ったものが大きければ大きいほど、読者は、「グレイトピティ」を
人物に与えることができ、それによって印象を深めていくのである。
こうした奇妙な効果を与える比喩とユーモアはグロテスクな「写実性」も相まって、
魅惑的なサスペンスの世界を提供していると思う。
私の中で、南米文学にハマっていく理由はこの辺にあると思っている。
似たような趣に食傷気味になることも。
フリア伯母さんとの恋もいい香りで、いつまでも包まれるような
引力さは感じず、少し残念。
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リョサの使う比喩というのは、
読者のアタマに、何倍にも薄めた劇薬と持続性のあるユーモアが含まれている。
精神を煩ったものが、社会規範の中で、その異常性を抹殺されることなく、
徐々にであるが、確実に周縁にまでそれを広めていき、モラルを蝕んでいく。
そうした、展開を導きだす、短いセンテンスが実に上手く、
占い師からパラノイア、ギリシア悲劇にまで言葉の有用性を探っていき、
それを自由に当てはめていく。
その、ちょっとした緊張感と、非日常的で悪魔的な言葉が、
読者の隠された欲を刺激し、スピード感ある読書体験をもたらす。
これは、南米文学の特徴でもあると思う。
それが、軍人の狂気や性の騒乱に対しても、
私たちは、ただ単に写実的でグロテスクなものを押し付けられているという感じではなく、
そこは、ものの見た目の絶対的な描写に一応、静かに俯瞰しつつも、
おそらく、「そういうものはあるはずだ」という、
未知の想像を掻き立て、理解しようとする。
そして絶妙な比喩で塗られた、短くも効果的なセンテンスによる区切りは、
説得力のある、現実性、小説としての完成度を体感することができ、
難なく物語の世界に入っていけるのである。
グロテスクなものはこうした絶妙な比喩に塗られることで、
人物に対してもおかし味が出て、哀れな生き物として、
認知されていく。
人物たちの払った代償はあまりにも大きいのであるが、
失ったものが大きければ大きいほど、読者は、「グレイトピティ」を
人物に与えることができ、それによって印象を深めていくのである。
こうした奇妙な効果を与える比喩とユーモアはグロテスクな「写実性」も相まって、
魅惑的なサスペンスの世界を提供していると思う。
私の中で、南米文学にハマっていく理由はこの辺にあると思っている。
2005年8月10日に日本でレビュー済み
ひさしぶりに長篇小説の醍醐味を味わわせてもらいました。内容は、著者リョサによる一種の青春小説です。作中人物が書いたラジオドラマのシナリオを一章ごとに話の本文と交互に挿入するという手法が物語世界に奥行きを与えており、さながらホフマンの「牡猫ムル」やスターンの「トリストラム・シャンディ」を髣髴とさせるものがあります。狂的な笑いのセンスも冴えており、ほとんど全盛期の筒井康隆と通じるものを感じました。語り手の「ぼく」(リョサ)が終始尊敬の対象として描いていたシナリオライター(ペドロ・カマーチョ)が、最終章に至って急に卑小な存在として浮かび上がる描写の鮮やかさも見事という他ありません。惜しいことに訳文が今ひとつこなれていないので、星一つ減点することにしました。
2009年4月27日に日本でレビュー済み
長編小説ですが、ラテン文学ならではの魔術的牽引力でぐいぐいと引っ張ってくれるので難なく読み進めることが出来ました。
特に、著者の自伝的物語の部分は、南米特有の鷹揚さ、空気の濃さなど、現代の日本では決して体験できないような魅力に詰っていて、非常に引き込まれます。
面白く読みやすいラテン文学を探している人にはぜひお勧めします。
特に、著者の自伝的物語の部分は、南米特有の鷹揚さ、空気の濃さなど、現代の日本では決して体験できないような魅力に詰っていて、非常に引き込まれます。
面白く読みやすいラテン文学を探している人にはぜひお勧めします。