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母よ!殺すな 単行本 – 2007/9/1
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「この本は、前の世紀に出た最も重要な本の一冊であり、再刊が長く待たれていた」【解説=立岩真也】より。
日本における障害者解放運動、自立生活運動の内実と方向性を大きく転換した「青い芝の会」、その実践と理論の支柱だった脳性マヒ者、横塚晃一が残した不朽の名著。 1981年すずさわ書店版を底本とし、未収録だった横塚の書き物や発言、映画『さようならCP』シナリオ、追悼文、年表などを大幅に補遺、解説に立岩真也氏を迎え、決定版として、ここに待望の復刊!
「泣きながらでも、親の偏愛をけっ飛ばす」と言い切って自立生活へと向かい、「あってはならない存在」とされることの不合理を身をもって糾し続けて、人々に大きな影響を与えたその思想は、自立の意味が改竄され、市場経済優先主義の中に掠め取られようとする危機にある今こそ、読まれなければならない!
- 本の長さ428ページ
- 言語日本語
- 出版社生活書院
- 発売日2007/9/1
- ISBN-104903690148
- ISBN-13978-4903690148
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商品の説明
著者について
1935年12月7日埼玉県生まれ。脳性マヒ者。52年6月整肢療護園へ入園、小学6年に編入され、53年3月小学校卒業。同年4月中学校入学、54年12月児童福祉法適用切れにより退園、以後不就学。55年4月国立身体障害センター入所、56年3月同センター終了。64年4月マハラバ村に参加、 66年10月関口りゑと結婚、 69年2月マハラバ村を出て川崎市生田に移る。70年5月「青い芝」神奈川県連合会副会長及び会長代行。71年3月川崎市有馬に移転、同年9月長男信彦誕生。72年11月「青い芝」神奈川県連合会会長。73年10月〜日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会会長。76年8月〜全国障害者解放運動連絡会議代表幹事。77年8月都立駒込病院に入院。1978年7月20日、同病院にて胃ガンのため 死去、享年42歳。
登録情報
- 出版社 : 生活書院 (2007/9/1)
- 発売日 : 2007/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 428ページ
- ISBN-10 : 4903690148
- ISBN-13 : 978-4903690148
- Amazon 売れ筋ランキング: - 287,226位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年9月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
福祉、ことさら障がい福祉従事者は一度でも目を通さなければ恥ずかしいレベル。
2008年3月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
青い芝は、再評価されて然るべきだろう。
障害に関わる人の中には、当事者ですら、その過激な言動や強烈な主張の表層を捉えて、評価しない傾向があったが、改めて彼らの主張を聞いてみれば、その問いかけは痛烈である。
ただ、さよならCPのシナリオの中に、青い芝のメンバーの一人が未成年当時のレイプ経験を吐露する場面があり、非常に抵抗を覚える。
障害に関わる人の中には、当事者ですら、その過激な言動や強烈な主張の表層を捉えて、評価しない傾向があったが、改めて彼らの主張を聞いてみれば、その問いかけは痛烈である。
ただ、さよならCPのシナリオの中に、青い芝のメンバーの一人が未成年当時のレイプ経験を吐露する場面があり、非常に抵抗を覚える。
2015年5月13日に日本でレビュー済み
新聞の本書紹介を読んで、刺激的な題名と障がい者の立場から論じた本ということで興味を持ったのだが、これほどに重いテーマを正面から取り上げたものだとは知らなかった。
まずは、目次の概要から。
母親に殺ざれる側の論理 本多勝一
『母よ!殺すな』
I 脳性マヒとして生きる
II 差別以前の何かがある
III ある障害者運動の目指すもの
IV 『さようならCP』上映討論集
あとがき
付録・亡き夫の介護ノートより(横塚りゑ))
補遺
1 横塚晃一・未収録の書き物と発言
2 横塚晃一への追悼文
3 シナリオ・さようならCP
4 青い芝の会・歴史
解説 立岩 真也
冒頭に、本多勝一の文章がすずさわ書店版からの転載ではあるが掲載されている。障がい児を抱えた親の苦悩だが、「I 脳性マヒとして生きる」以降に書かれていることは、重複は多いのだが、極めて重大な問題に当事者として果敢に、過激に語っていて、健全者として圧倒されてしまった。しかも、本文中にも触れているところがあったが、老いた親を抱えれば、そして将来的には、自分自身がそのような当事者になることが十分予想されるので、いい加減には読み飛ばせない。
立岩の解説の小見出しに沿いながら横塚という人物の概要をまとめると、1不思議に明るい本-そのとおり、重い題材を扱っているわりに風通しがいい。障害をもつ子を母親が殺した事件に際してなされた減刑嘆願の運動に対して、横塚らの「青い芝の会」が行った反対運動、それでは障がい者は親に殺される、障がい者は「人間」扱いされていないということへの反対運動、同時に、「施設」収容への反対運動。また、優生保護法の改訂への反対運動が述べられている。一貫してなされているのは、障がい者も同じ人間として扱えということだが、これは見かけほどやさしい話ではない。
2差別は遍くあり、特異にもある-ここで示されるのは横塚の原罪意識、浄土真宗の影響も示唆されているが、養鶏場での挿話が印象的だった。必ず、いじめられ役の鶏が居るという。
3何がよいのか、はあなたの思いと別にある-ここには、運動実践家としての横塚のタフな側面が伺える。優生保護法について、厚生省に横塚たちは次のように言った。
「物事にはやっていいことと悪いことがある。人の命に係わることはそれがたとえ多数の意見であっても行うべきではない。」(一三四頁)
さらに、「私達障害者の問でどうしたら理解して貰えるかとか、そんなこといったら理解して貰えなくなるとかいう言葉をよく聞くのですが、これ程主体性のない生き方があるでしょうか。大体この世において四六時中理解して貰おうと思いながら生きている人がいるでしょうか。」(六五頁)
4だが、示すならわかるはずであること-しかし、本質的には楽観的なのだ。
「たださらに横塚は、障害者が存在していることはどんなことなのかを人々に示すのだと言う。すると、これが二つめだが、人々はわかるべきことがわかる、あるいは、人々はあらかじめわかることができる、そのように横塚は考えている。」
5解決の怪しさを知りながら、得になることをする-優れた運動家の素質、原則を維持しながら、成果を確実にすること、一方では、目先の利益に囚われないこと。会に参加する人へのタクシー代について、会が支給すべきでないという原則論も紹介されている。
ここには、べてるの家に示されたような明るさもあるのだが、障がいの重さからも、又、活動の方向からも、より深刻な状況が描かれている。横塚個人の生き方を含めて過去の歴史に放り込むのは簡単だろうが、立岩が解説の最後に書いているように、「この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時はこないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。」ということでもある。
決定解がすぐそこにあるという幻想をもつ訳にはいかない、同時に、今現在、自分の抱えている無力さや、それが同時に招いている加害性をも自覚すれば、何をしていくのが正しいのだろうという終わりのない問いかけだ。
本書が万人向きとは思わないが、この本の洗礼を受ける人が増えれば増えるほど、この世の中への信頼感が増すという淡い期待を持った。正しいだろうか。
まずは、目次の概要から。
母親に殺ざれる側の論理 本多勝一
『母よ!殺すな』
I 脳性マヒとして生きる
II 差別以前の何かがある
III ある障害者運動の目指すもの
IV 『さようならCP』上映討論集
あとがき
付録・亡き夫の介護ノートより(横塚りゑ))
補遺
1 横塚晃一・未収録の書き物と発言
2 横塚晃一への追悼文
3 シナリオ・さようならCP
4 青い芝の会・歴史
解説 立岩 真也
冒頭に、本多勝一の文章がすずさわ書店版からの転載ではあるが掲載されている。障がい児を抱えた親の苦悩だが、「I 脳性マヒとして生きる」以降に書かれていることは、重複は多いのだが、極めて重大な問題に当事者として果敢に、過激に語っていて、健全者として圧倒されてしまった。しかも、本文中にも触れているところがあったが、老いた親を抱えれば、そして将来的には、自分自身がそのような当事者になることが十分予想されるので、いい加減には読み飛ばせない。
立岩の解説の小見出しに沿いながら横塚という人物の概要をまとめると、1不思議に明るい本-そのとおり、重い題材を扱っているわりに風通しがいい。障害をもつ子を母親が殺した事件に際してなされた減刑嘆願の運動に対して、横塚らの「青い芝の会」が行った反対運動、それでは障がい者は親に殺される、障がい者は「人間」扱いされていないということへの反対運動、同時に、「施設」収容への反対運動。また、優生保護法の改訂への反対運動が述べられている。一貫してなされているのは、障がい者も同じ人間として扱えということだが、これは見かけほどやさしい話ではない。
2差別は遍くあり、特異にもある-ここで示されるのは横塚の原罪意識、浄土真宗の影響も示唆されているが、養鶏場での挿話が印象的だった。必ず、いじめられ役の鶏が居るという。
3何がよいのか、はあなたの思いと別にある-ここには、運動実践家としての横塚のタフな側面が伺える。優生保護法について、厚生省に横塚たちは次のように言った。
「物事にはやっていいことと悪いことがある。人の命に係わることはそれがたとえ多数の意見であっても行うべきではない。」(一三四頁)
さらに、「私達障害者の問でどうしたら理解して貰えるかとか、そんなこといったら理解して貰えなくなるとかいう言葉をよく聞くのですが、これ程主体性のない生き方があるでしょうか。大体この世において四六時中理解して貰おうと思いながら生きている人がいるでしょうか。」(六五頁)
4だが、示すならわかるはずであること-しかし、本質的には楽観的なのだ。
「たださらに横塚は、障害者が存在していることはどんなことなのかを人々に示すのだと言う。すると、これが二つめだが、人々はわかるべきことがわかる、あるいは、人々はあらかじめわかることができる、そのように横塚は考えている。」
5解決の怪しさを知りながら、得になることをする-優れた運動家の素質、原則を維持しながら、成果を確実にすること、一方では、目先の利益に囚われないこと。会に参加する人へのタクシー代について、会が支給すべきでないという原則論も紹介されている。
ここには、べてるの家に示されたような明るさもあるのだが、障がいの重さからも、又、活動の方向からも、より深刻な状況が描かれている。横塚個人の生き方を含めて過去の歴史に放り込むのは簡単だろうが、立岩が解説の最後に書いているように、「この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時はこないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。」ということでもある。
決定解がすぐそこにあるという幻想をもつ訳にはいかない、同時に、今現在、自分の抱えている無力さや、それが同時に招いている加害性をも自覚すれば、何をしていくのが正しいのだろうという終わりのない問いかけだ。
本書が万人向きとは思わないが、この本の洗礼を受ける人が増えれば増えるほど、この世の中への信頼感が増すという淡い期待を持った。正しいだろうか。
2009年4月14日に日本でレビュー済み
本書において筆者が訴えることのひとつ、それは例えば「障害者」――現代的には
この表記法はまずいのかもしれないが、ここではあくまで筆者に従う――である前に
ひとりの「人間」として「人間」であるがゆえにその尊厳を見出されねばならない、
ということ。
しかし同時に、人にはそれぞれの立ち位置においてしか見えない風景、
理解し難い風景が横たわる。
確かに、本書における氏の言説にはいくつかイラっとさせられるところも
あったし、こうも高飛車で喧嘩腰に出られては反発を誘うばかりで
対話どころではないではないか、とも思う。
ではあるが、あえてこれほどまでにエキセントリックな口調を用いるからこそ
伝わる部分、あるいはある種の戦術として、そうでもしなければ伝わらない部分と
いうものがあるのもまた事実には違いない。
そしてそれゆえにこそ、「健全者」の側に見えている当たり前の風景の虚を
突かれる。
「殺す側」は決まってこう言う。
障害を抱えたまま生きていくくらいなら、いっそ殺された方が幸せだ、と。
あるいはそうなのかもしれない。
しかし、彼ら「殺される側」にそうした生きづらさを強いているのは誰か。
誰が彼らの生を黙殺するのか。
その理由は一概に「障害」へと帰されるべきなのか。
古色蒼然たるいかにも左翼的な主張の傍ら、なぜそう思うのか、それを
どうやって実現するのか、という緻密な論理立ての前に、まず自分はこう思う、
こう感じる、こうしたい、という「殺される側」の感情を生々しく閉じ込めた一冊。
この表記法はまずいのかもしれないが、ここではあくまで筆者に従う――である前に
ひとりの「人間」として「人間」であるがゆえにその尊厳を見出されねばならない、
ということ。
しかし同時に、人にはそれぞれの立ち位置においてしか見えない風景、
理解し難い風景が横たわる。
確かに、本書における氏の言説にはいくつかイラっとさせられるところも
あったし、こうも高飛車で喧嘩腰に出られては反発を誘うばかりで
対話どころではないではないか、とも思う。
ではあるが、あえてこれほどまでにエキセントリックな口調を用いるからこそ
伝わる部分、あるいはある種の戦術として、そうでもしなければ伝わらない部分と
いうものがあるのもまた事実には違いない。
そしてそれゆえにこそ、「健全者」の側に見えている当たり前の風景の虚を
突かれる。
「殺す側」は決まってこう言う。
障害を抱えたまま生きていくくらいなら、いっそ殺された方が幸せだ、と。
あるいはそうなのかもしれない。
しかし、彼ら「殺される側」にそうした生きづらさを強いているのは誰か。
誰が彼らの生を黙殺するのか。
その理由は一概に「障害」へと帰されるべきなのか。
古色蒼然たるいかにも左翼的な主張の傍ら、なぜそう思うのか、それを
どうやって実現するのか、という緻密な論理立ての前に、まず自分はこう思う、
こう感じる、こうしたい、という「殺される側」の感情を生々しく閉じ込めた一冊。
2014年4月29日に日本でレビュー済み
本書を発見してビックリした。1984年、知り合ったばかりのCP(脳性まひ者)に読んでみろといわれて、無知であったその世界に引き込まれて、その場で全ページめくったそのときの本が復刊されていたのだ。当時すでに著者の横塚さんは亡くなっていたが、後に本書に登場する小山さんの対峙する主張も読み、過激な障がい者解放組織の存在に驚愕したのだった。翌年には「さよならCP」「極私的エロス」ハリウッドクラシック「フリークス」の上映会を、そのCPにリードされながら開催した。やがてマハラバ村の修道士たちとも出会わせてもらえた。そしてわたしは今日まで生き続ける力を頂いた。
わがCPは見事なまでに青芝の精神、マハラバ村主義を真っすぐに継承している者だった。それは本書を再び手にして読んでみて確信した。自分が悪人であることの自覚を、自分が障がい者であることの自覚へとスライドさせ、自分は健全者であると思い込んでいる人々こそ憐れむべく無自覚な障害者であると思い至ったものだ。
「リハビリテーション」という言葉はまるで忌み語のようで、上映会後の討論会で激しい論議が交わされているが、CPと中途(臨時)障害者では捉えている幻想の位相がまるで違ってかみ合っていないように見えた。もともと社会から疎外されて来たCPにとっては「社会(への)復帰」という言葉はありえない。復帰する義理などないのである。
「わたし達脳性マヒ者には、他の人にない独特のものがあることに気づかなければなりません。そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり・・・」「障害者運動とは障害者問題を通して『人間とは何か』に迫ること、つまり人類の歴史に参加することに他ならないと思う」
わたしはこの二つの言葉を「発達障害」という言葉に置き換えて読もう。
「古代社会においては、障害者の労働はその特色ある形そのままの姿で社会的に位置づけられていたといえましょう」
発達障害者は、けっして社会の足手まといの珍獣などではなく、そのままの姿で社会にそのままあるべきものなのだ。
わがCPは見事なまでに青芝の精神、マハラバ村主義を真っすぐに継承している者だった。それは本書を再び手にして読んでみて確信した。自分が悪人であることの自覚を、自分が障がい者であることの自覚へとスライドさせ、自分は健全者であると思い込んでいる人々こそ憐れむべく無自覚な障害者であると思い至ったものだ。
「リハビリテーション」という言葉はまるで忌み語のようで、上映会後の討論会で激しい論議が交わされているが、CPと中途(臨時)障害者では捉えている幻想の位相がまるで違ってかみ合っていないように見えた。もともと社会から疎外されて来たCPにとっては「社会(への)復帰」という言葉はありえない。復帰する義理などないのである。
「わたし達脳性マヒ者には、他の人にない独特のものがあることに気づかなければなりません。そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり・・・」「障害者運動とは障害者問題を通して『人間とは何か』に迫ること、つまり人類の歴史に参加することに他ならないと思う」
わたしはこの二つの言葉を「発達障害」という言葉に置き換えて読もう。
「古代社会においては、障害者の労働はその特色ある形そのままの姿で社会的に位置づけられていたといえましょう」
発達障害者は、けっして社会の足手まといの珍獣などではなく、そのままの姿で社会にそのままあるべきものなのだ。
2007年9月23日に日本でレビュー済み
介護に疲れて老親と心中。障害のある子どもの行く末を悲観して殺害。
このような事件があるたびに、「母よ!殺すな」を読みたくて仕方なかった。
障害者の権利獲得運動の歴史を扱う本や論文にはたいてい書名が紹介されているが、長らく絶版となっており、タイトルと、書かれた時代背景しかわからなかったのだ。ちなみに、本書の表題は、1970年5月横浜で発生した「障害児殺害事件」と、それに伴う「市井の善意の人」の減刑嘆願署名運動に対し、「殺される側」から異議申し立てをした運動に依っている。
本書は、脳性マヒの横塚晃一氏(故人)が、障害者運動の勃興期である1970年代に、「日本脳性マヒ者協会 青い芝」の機関誌などに寄稿したものを集めたものである。
意外なほど読みやすい、というのが偽らざる感想で、もっとアジテーション的な内容を予期していたのが心地よく裏切られた感がある。
ここに描かれた内容は、30年以上前のことだが、「子殺し」や「就労」「差別」など、現在もなお同様の問題がある。そして障害者が社会から隔離されることが当たり前だった時代だからこそなされた思索が、むしろ現在ではなされていないのではないかと思えることが気掛かりである。障害者に対して皆がフレンドリーで、それでいながらその異議申し立ての力を狡猾に削いでいる「バリアフリー社会」が広がり始めていないだろうか。もう一度、原点に返る必要性を感じる。
「この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時はこないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している」。
立命館大学の立岩真也氏は本書の解説をこう締めくくっている。
このような事件があるたびに、「母よ!殺すな」を読みたくて仕方なかった。
障害者の権利獲得運動の歴史を扱う本や論文にはたいてい書名が紹介されているが、長らく絶版となっており、タイトルと、書かれた時代背景しかわからなかったのだ。ちなみに、本書の表題は、1970年5月横浜で発生した「障害児殺害事件」と、それに伴う「市井の善意の人」の減刑嘆願署名運動に対し、「殺される側」から異議申し立てをした運動に依っている。
本書は、脳性マヒの横塚晃一氏(故人)が、障害者運動の勃興期である1970年代に、「日本脳性マヒ者協会 青い芝」の機関誌などに寄稿したものを集めたものである。
意外なほど読みやすい、というのが偽らざる感想で、もっとアジテーション的な内容を予期していたのが心地よく裏切られた感がある。
ここに描かれた内容は、30年以上前のことだが、「子殺し」や「就労」「差別」など、現在もなお同様の問題がある。そして障害者が社会から隔離されることが当たり前だった時代だからこそなされた思索が、むしろ現在ではなされていないのではないかと思えることが気掛かりである。障害者に対して皆がフレンドリーで、それでいながらその異議申し立ての力を狡猾に削いでいる「バリアフリー社会」が広がり始めていないだろうか。もう一度、原点に返る必要性を感じる。
「この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時はこないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している」。
立命館大学の立岩真也氏は本書の解説をこう締めくくっている。